Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 一生成仏 人生の根本目的、人類の希望の根源

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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1  講義
 本当に深い人生とは、何でしょうか。
 真実の幸福とは、何でしょうか。
 日蓮大聖人の仏法は、永遠に崩れない最高の幸福境涯を築き、自他ともに無上の人生を送りゆく希望の宗教です。
 誰人も、皆、仏になれる。しかも、この身そのままで、仏になれる。そして、何よりも、この一生のうちに、必ず仏になれる。
 このすばらしき成仏への道を明確に示されたのが、日蓮大聖人の仏法です。
 大聖人が明かされた「一生成仏」の深義は、それまでの仏教を大転換する偉大な宗教革命でありました。そればかりではありません。
 二十一世紀の現代世界にあっても、未来を開く大いなる変革のエネルギーに満ちた法理として光を放っているのです。
 ゆえに、広宣流布の新たな前進の朝に、新出発の満々たる息吹をたたえて、「一生成仏抄」を学び合いたい。
2  「唱題」の深義を明示
 「一生成仏抄」は、日蓮大聖人の仏法における根幹の法理と実践が明かされた重書です。そして、全世界の同志が、この書を行学の指針として真剣に拝読し、仏法の本質を研鎖してきました。
 本抄は、御真筆が現存せず、御執筆の年次も宛先も記されていません。これまで建長七年(一二五五年)ごろの御執筆で、富木常忍へ与えられたと伝えられてきました。
 「唱題行」の意義を法理的に、そして実践的に明かされた本抄の内容から、立宗間もないころの御執筆と考えられるのも、道理と言ってよいでしょう。
 唱題行の実践は、大聖人御一代の弘教における骨格をなしています。
 日蓮大聖人の仏法は、既存の宗派のように神仏を礼拝する宗教ではありません。万人の己心に内在する仏性を触発し、仏界の生命として涌現させる唱題の実践をもって、法華経の理想である万人の成仏を実現する道を確立されたのです。
 唱題には「信の題目」と「行の題目」があります。
 「信の題目」は心の次元の実践です。その本質はわが己心の無明との戦いであり、魔性との闘争です。
 信の力で仏性を覆う無明を打ち破り、仏界の生命を涌現させるのです。
 「行の題目」は南無妙法蓮華経と唱える唱題であり、また、題目を他の人に弘めていく化他の実践です。心における無明との戦いの証として、口と身の次元で自行化他の実践を起こすのです。
 南無妙法蓮華経と唱える唱題は、自他の生命の仏性の名を唱え、仏性を呼び起こします。無明と戦い、信が勝てば、本来具わる仏性の力が題目の声に呼ばれて、自ずからわが生命にわき起こってくるのです。(「法華初心成仏抄」557㌻)
 このように成仏の方途を確立したことにこそ、日蓮仏法が他の諸宗と一線を画す肝要の点があります。ゆえに大聖人は、この成仏の大道を、立宗以来、御入滅に至るまで一貫して強調されていくのです。
 この人類宗教としての救済の骨格は、「一生成仏抄」の冒頭に余すところなく明瞭に記されています。
3  「夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり
 ――無限の過去から繰り返されてきた生死の苦悩を留めて、今この人生で間違いなく最高の悟りを得ようと思うならば、必ず衆生に本来具わる妙理を、自身の生命の中に見ていくべきである。衆生に本来具わる妙理とは妙法蓮華経のことである。ゆえに、妙法蓮華経と唱えれば衆生に本来具わる妙理を自身の生命の中に見ていることになるのである――。
4  この一節の深義については次章で詳しく拝察したいと思いますが、簡潔に言えば、衆生に本来具わる妙理を生命に現すことによって、果てしなく繰り返される生死の苦悩を止めることができること、そして、妙法蓮華経はこの妙理の名であり、これを唱える唱題行によって妙理を現すことができることが示されています。
5  人間として生まれてきた意味
 「一生成仏」とは、文字通り、凡夫が、この一生のうちに成仏することです。
 これは見方を変えれば、凡夫がその身のままで成仏すること、すなわち「即身成仏」と同じです。
 法華経提婆達多品第十二に竜女の即身成仏が説かれているように、即身成仏は法華経の成仏観です。
 これに対して爾前経では、何回も生まれ変わっては修行を続け、長遠の時間をかけた修行の末にやっと成仏できるという「歴劫修行」が説かれることは、よく知られている通りです。
 仏の生命は永遠の妙法と一体の、無限の智慧と無限の慈悲に満ちた生命です。それゆえに、無明に覆われた凡夫の生命とは隔絶したものととらえられがちです。そのような仏の生命のとらえ方から、成仏は仏と凡夫の間の底知れない深淵を乗り越えることであると考えられ、歴劫修行の考え方が生まれました。
 日蓮大聖人の仏法では、特に人間として生を得た「今世の人生」において、法華経の即身成仏を実現できることが明かされています。それによって「一生成仏」の深義が説かれたと拝することができます。
 大聖人は、稲に早稲わせ晩稲おくてがあっても一年のうちに必ず実るのと同じように、法華経の行者は一生のうちに必ず成仏すると説かれています。(「一念三千法門」416㌻)
 大聖人は万人における「今世の人生」を重んじられているのです。もちろん、人間に限らず、あらゆる生命に仏性があって、即身成仏の可能性があります。しかし、大聖人が「一生成仏」を強調されたのは、やはり人間の一生に焦点を当てられているからであると拝することができます。
 人間の心は敏感であり、多様であり、豊かであり、驚くべき飛躍を遂げる力を秘めています。しかし、それだけに心が感ずる苦悩も大きい。また、悪から悪へと果てしなく堕していくのも人間の心です。
 生死流転に、おいて、さらに深く悪に堕していくか。逆に、流転の方向を悪から善へと大きく転換していくことができるか。
 諸御抄で「心こそ大切」と訴えられているように、大聖人は繰り返し、心の重要性を鋭く指摘されています(御書1192㌻、1316㌻など)。悪から善へ、善から悪へと大きく転換しうる人間生命の領域こそ「心」なのです。
 ゆえに、大聖人の説かれる成仏は「一念の変革」から始まる成仏であるととらえられます。すなわち誰人の胸中にもある無明に支配された心の働きを信によって打ち破り、法性と一体の生命の働き、すなわち仏界の生命を顕現することです。
 人間として生を得た今世の人生は、悪の流転から善の流転へと転換を遂げる大いなるチャンスなのです。
6  徹底的な「心」の強調
 大聖人は本抄で、わが一念の変革なくして成仏はないことを徹底的に教えられています。
 まず、衆生に本来具わる妙理とは「一心法界の旨」であると仰せです。これは、私たちの一念の心に万法が具わり、また、一念の心が万法に遍満しているという、いわば「我即宇宙」の境涯を言います。
 また、「己心の外」に法を求めるならば、どんなに題目を唱えていても成仏は叶わない、むしろ無量の苦行になってしまうと戒められています。
 「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法そほうなり
 ――ただし妙法蓮華経と唱へ持っているといっても、もし、自身の生命の外に法があると思ったならば、それはまったく妙法ではなく、麤法(不完全な法)である――。
 そして、”深く信心を起こす”ことが唱題の要諦であり、そのときこそ生命が鍛えられ、成仏を遂げていくことができることを断言されている。
 「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり
 ――ゆえに、妙法と唱え蓮華と読む時は、自身の一念を指して妙法蓮華経と名づけているのだ、と深く信心を起こすべきである――。
 「深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
 ――強く信心を起こして、日夜朝暮に怠ることなく磨いていきなさい。では、どのようにして磨くのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということである――。
7  さらに、「中道一実の妙体」、つまり仏の生命として現れる心の妙(不可思議)を述べられ、妙法蓮華経とは妙なる心の法であることを示されている。そのうえで、妙法への深き「信」をもって題目を唱えてこそ、一生成仏を遂げることができると結論されています。
 「善悪に付いて起り起る処の念心の当体を指して是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば成仏の直道とは云うなり、此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば一生成仏更に疑あるべからず
 ――法華経は、善であれ悪であれ、一瞬一瞬に起こる一念の心の当体を指して、これが妙法の体であると説き宣べている経王なので、成仏の直道と言うのである。との趣旨(妙法蓮華経が己心の法であるとの趣旨)を深く信じて妙法蓮華経と唱えれば、一生成仏はまったく疑いないのである。
8  「人間主義の宗教」の成立
 次に、大聖人が「一生成仏」を説かれた意義を、いくつかの観点から示しておきたい。
 第一に、大聖人において唱題による「一生成仏」の道が確立したことによって、初めて「人間主義の宗教」が成立したという点を挙げたい。言い換えれば、一生成仏の道の確立は「人間主義の宗教の条件」であると言えます。
 これは、「一生成仏」の宗教的あるいは思想的意義であると言えるでしょう。
 人間は一念の変革によって、生死の流転を悪から善へと転換できる――このように人間の可能性を深く洞察し、しかもその実現の道を説き顕した大聖人の仏法ほど「人間主義」の名にふさわしい宗教はないと言えます。
 大聖人は「諸法実相抄」で「仏が衆生に対して主師親の三徳を具えているのではない。かえって、衆生が仏に三徳を与えているのである」(御書1358㌻、趣意)と仰せです。
 ここでは「権威的宗教」から「人間主義の宗教」への転換が語られています。一生成仏の道を確立された大聖人の仏法においてこそ、このような転換が可能なのです。
 初代会長牧口常三郎先生は『価値論』において、従来、宗教的価値として言われてきた「聖」の価値を価値論の体系から除外しました。
 そして、「大善」こそが宗教によって実現されるべき最高の価値であるとされました。「大善」とは、人間・社会に実現できる最高の価値です。この牧口先生の価値論には、「宗教は人間に奉仕してこそ真の宗教である」という宗教観がうかがえます。
 大聖人が一生成仏の道を開かれたことは、最高に人間に奉仕する宗教を立てられたことを意味するのです。
9  一生成仏の人生的意義
 第二に、大聖人が一生成仏の道を開かれたことは、妙法という無限の力に立脚した人生、つまり「一人立つ」ことができる確かな人生を可能にしました。これは一生成仏の人生的意義と言えるものです。
 成仏とは、見果てぬ聖なる仏への遠き旅などでなく、一人の胸中における生命の変革である。この成仏観の革命は、仏道修行の意味を根本的に変えました。
 すなわち、いつか本果の頂上に登る修行ではなく、常に、そして瞬間瞬間、自身の胸中に法性を開くか、無明に支配されるかの戦い――絶えざる自身の生命錬磨が、仏道修行の本質になります。無明の克服によってしか人生の勝利と完成はありません。この無明の克服を知らずに個人の人生の充実はあり得ません。
 その意味で、日蓮仏法の一生成仏の修行こそが、人間の根源悪である無明を打ち破り、真の「自立」を促し、確固たる自身を築き上げて衆生所遊楽の人生を実現する唯一の方途であると申し上げたい。
 そして、この「一生成仏」こそ、個人における「人生の根本目的」となるのであります。
10  一生成仏の人類的意義
 第三に、一生成仏の意義として、「人類の希望の根源」となり、「人類の宿命転換の道を開く」ということを申し上げたい。これは人類的いぎと言えるものです。
 現代文明は、人間を置き去りにしてしまい、さまざまな面で行き詰まっているという指摘は多くの識者に共通した認識です。現代文明は、まさに、人間の内面の心を忘れて、「己心の外」に安楽、安逸を求めている文明と言わざるをえません。
 貪瞋癡という人間のもつ根源的迷いが解決できない限り、経済至上主義、人間性喪失の政治、国家間の対立、戦争、貧富の差の拡大、差別主義の横行など、現代の諸問題を打開することはできない。
 私がお会いした世界の知性との対話の一つの結論は、「人間自身が変わるしかない」「人間革命しかない」という一点に集約されています。
 さらに言えば、真の生死観を確立しなければ、無明の根本的な克服は不可能です。断見、常見を排した中道の生死観なくして、真の永遠の幸福は実現しません。
 人間の変革のためには、無明の克服、すなわち、人間自身の己心に永遠の尊厳性を再発見するしかありません。
 人間に本来具わっている尊貴な魂を開発することが、人類の宿命転換に直結する。その確信で、私たちは世界の善の連帯を築く闘争を開始しています。私たちのこの未聞の挑戦に、世界の期待と賞讃が一段と高まっています。
11  大聖人は本抄の結びに「努努不審をなすべからず」と仰せられています。「一生成仏を確信せよ」との御本仏の呼びかけです。
 強い「信」を貫いていかなければ、凡夫はたちまちのうちに一生成仏という根本目的を忘れて、無明の淵に沈みやすい面があることを戒められているのです。
 成仏は万人の願いです。しかし、それを今のわが人生で実現できるという一生成仏の教えほど、難信難解の法門はないのです。
 この難信難解の法を実践し、日本、そして世界に弘めてきたのが、創価学会・SGI(創価学会インタナショナル)メンバーにほかなりません。
 現代世界に、人類の宿命を転ずる一大実証を示しているのが私たち地涌の勇者である。
 この誉れも高く、これからも、万人の幸福を実現しゆく一生成仏の仏法を晴れやかに弘め、最高に価値ある人生の歴史を悔いなく残していきましょう。

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