Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第二十章 生死不二の大功徳 戦う人生に大いなる歓喜あり

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
1  御文
 日蓮は日本国の諸人にしうし主師父母なり一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親」等云云、無道心の者生死をはなるる事はなきなり、教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をつと伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり、日蓮が御勘気を・かほれば天台・真言の法師等・悦ばしくや・をもうらんかつはむざん無慚なり・かつはきくわいなり、夫れ釈尊は娑婆に入り羅什は秦に入り伝教は尸那に入り提婆師子は身をすつ薬王は臂をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉をうる楽法ぎょうぼうは骨を筆とす、天台の云く「適時而已」等云云、仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし
2  通解
 ――日蓮は日本国のあらゆる人にとって、主であり、師であり、父母である。
 天台宗の者はすべて、人々の最大の敵である。「人のために悪を取り除くのは、まさにその人の親である」(『涅槃経疏』)とある。
 仏道を求める心のない者は、生死の苦悩から離れることはできないのである。教主釈尊は、あらゆる外道に大悪人と罵られた。天台大師は中国の南三北七の諸宗に非難され、また後の世に日本の徳一から「三寸の舌で釈尊を謗り、五尺の仏身を断つ」と非難された。そして伝教大師は奈良の諸宗の人々に「最澄は、まだ唐の都を見ていない」と言われた。これらはすべて法華経のゆえであるから恥ではない。愚人にほめられることは第一の恥である。日蓮が幕府の処罰を受けたことで、天台宗や真言宗の僧らはさぞかし悦んでいるであろう。恥しらずでもあり、常軌を逸したことでもある。
 釈尊は裟婆世界に入り、鳩摩羅什は中国に入り、伝教は中国へ渡った。提婆菩薩や師子尊者は法のために命を捧げた。薬王菩薩は自身の腕を燃やして供養した。聖徳太子は身の皮をはいで経を写した。釈尊は過去世の菩薩行で自身の肉を売って供養した。楽法林凡志は仏の教えを書きとめるために自身の骨を筆とした。天台は「時に適った実践を示している」(『法華文句』)と言っている。
 仏法の修行は時によるのである。
 日蓮の流罪は、今生の小苦であるから、嘆くことはない。未来には大楽を受けるのだから、大いに悦ばしい。
3  講義
 真の「功徳」とは何か。
 それは、三世永遠に崩れることのない「幸福の軌道」を歩むことです。生死を貫く正しき「生命の大道」を今世において築くことです。
 その大道は、内外の悪と戦い、勝ちぬく「勝利の王道」でもあります。
 戦わなければ、永遠の幸福を築くことはできません。
 逃げるだけでは、永久に無明の闇をさまようだけです。
 恐れていては、障魔はますます増長する。
 臆すれば、生命は悪に蝕まれてしまう。
 無明を超え、障魔を打ち破っていく「戦う心」としての信心を燃え上がらせていくことです。それこそが、今世における変毒為薬だけでなく、三世にわたって”無明による流転”から法性に基づく流転”へと、生命を大転換していく原動力になるのです。
 ゆえに、「戦う心」が定まったときに、「大難」は「大楽」へと転換していきます。
 本章では「開目抄」の最後の一段を拝します。特に、その末尾の、次の御文は、大難の渦中にある門下たちに向かって、大聖人の大歓喜の御境涯を明かされています。
 「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし
 大聖人が法華経の行者として「大難」と戦うなかで成就された大境涯は、生死を超えた「大楽」であることが示されています。
 鎌倉で現実に大難に遭っている門下たちに対して、「生死不二の大功徳」をどうしても教えておきたい、との大聖人の御心が拝されてならない御文です。
 私たちは、幸福になるために、そして人間としてより良く生きていくために信心をしました。そして、「広宣流布」という自他ともの幸福と平和を実現していく道を学びました。この信心の目的の究極として、大聖人は御自身が身をもって大難を超えられ、証明なされた、生死不二の「大楽」を示してくださっているのです。
4  無道心の者は生死の苦に沈む
 謗法という仏法上の大悪を呵責する折伏は、大難ばかりがあって、何の利益もないのではないか。
 この疑問と非難に答えるために、「開目抄」において大聖人は、「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」との章安大師の言葉に即し、悪を破折する法華経の行者の根本精神が慈悲にあることを明かされます。そして、その慈悲のうえから、大聖人こそが末法下種の主師親であられることを宣言されます。このことについては、すでに詳しく拝察してきました。
 この大聖人の御境地とは対照的に、法華経を宗旨としながら法華誹謗の悪を放置する当時の天台宗の人々に対して、痛烈な破折をされています。すなわち、「無道心の者生死をはなるる事はなきなり」――仏道を求める心のない者は、生死の苦悩から離れることはできないのである――と断言されている。
 要するに、当時の天台宗の僧たちは「悪との戦い」を忘れてしまった。戦うべき時に戦えなかった。その天台宗の人々の本質を、大聖人は「無道心」と喝破されているのです。
 「無道心」とは、仏道を求める心がないことであり、似非宗教者、似非信仰者ということです。
 当時、天台宗は大聖人御自身も修学された、日本仏教の中心といってよい伝統的な仏教宗派です。
 しかし、いかに大伽藍があっても、また、いかに学問や儀式・祈祷が盛んであったとしても、民衆に成仏への信を促す力を持たないようでは、真実の仏法とは言えない。
 しかも、天台宗は、全民衆の成仏を願う経典である法華経を信奉するにもかかわらず、民衆の成仏を阻む悪法と戦わないだけでなく、法華経を弘める大聖人を嘲笑し、迫害する側にまわる者たちもいた。
 ゆえに大聖人は、当時の一切の天台宗の人々こそ、日本国の一切衆生にとって「大怨敵」であるとまで呵責されています。
 このような「無道心」の者たちが、生死の苦を離れることなどできるはずがないと仰せなのです。
 それに対して、大聖人は大難を受けているが、それは今生の小苦にすぎず、生死不二の大楽を感得されているので大歓喜であると宣言なされました。
 この大楽を感得するとき、「生老病死の四苦」は「常楽我浄の四徳」と薫るのです。
 大聖人は次のようにも仰せです。
 「法華経の行者として・かかる大難にあひ候は・くやしくおもひ候はず、いかほど生をうけ死にあひ候とも是ほどの果報の生死は候はじ、又三悪・四趣にこそ候いつらめ、今は生死切断し仏果をうべき身となれば・よろこばしく候
 ――法華経の行者として、このような大難に遭ったことを悔しいとは思いません。どれほど多くこの世に生を受け、また、死に遭遇してきたかは分かりませんが、これほどの幸せな生と死はないでしょう。また三悪道、四悪趣にあったかもしれないこの身が、今は生死の苦しみを断ち切り、仏の果報を得られる身となったのですから喜ばしいことです――。
5  闘争即歓喜の成仏の境涯
 真の闘争には歓喜があります。戦いぬいた人は生命を鍛え、大境涯を得ることができる。仏法のために戦い続けた人は「金剛身」を成就できると涅槃経にあります。
 第一章でも取り上げましたが、佐渡期における日蓮大聖人の御本仏としての御境涯を、かつて戸田先生は次のように表現されたことがあります。
 「成仏の境涯とは絶対の幸福境である。なにものにも侵されず、なにものにもおそれず、瞬間瞬間の生命が澄みきった大海のごとく、雲一片なき虚空のごときものである。大聖人の佐渡御流罪中のご境涯はこのようなご境涯であったと拝される」(『戸田城聖全集』3)
 この絶対の幸福境涯にあれば、「衆生所遊楽」のままに、あらゆる闘争が歓喜のなかにあります。事実、佐渡で認められた諸御抄を拝しても、「万が一も脱がれ難き身命なり」という大難のなかで、大聖人は経文を身で読まれた悦び、仏の果報を得られた悦びを繰り返しつづられています。
 「只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん
 「幸なるかな」「悦ばしいかな
 「悦ばしいかな悦ばしいかな
 「身心共にうれしく候なり」「悦び身に余りたる者
 「喜悦はかりなし
 まさに「無作の三身の仏果を成就」すること。それが真の成仏の功徳です。
 仏法は、三世の生命観を説いています。一応の福徳があれば、それなりに今世を飾ることはできるかもしれません。しかし、生死の苦から解放されることはできない。三世永遠の安穏を実現することは真の力ある宗教にしかできません。
 私たちの生命には、無始以来、「無明」と「法性」が具わっています。そして、無明に支配されれば冥きから冥きへと流転し、ついには三悪道に堕してしまう。この輪廻の呪縛を破るのが、今世にあって仏法に巡り合った最大の意味です。
 南無妙法蓮華経の唱題は、信心によって心を法性の妙法蓮華経に合わせていく生命の作業であり、いわば無明を転換して法性を現していく「戦い」です。そして、日々、唱題を重ね、広宣流布に邁進していくことは「生命の根本的な戦いしを定着させ、妙法を生命に染めぬく作業であり、「生命の鍛錬」にほかなりません。
 それは、「一生成仏抄」における次の有名な御文に明らかです。
 「只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性ほっしょう真如しんにょの明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
 ――今の私たちの一念が、無明におおわれて迷いの心である時は磨いていない鏡であり、これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。強く信心を起こして、日夜朝暮に怠ることなく磨いていきなさい。では、どのようにして磨くのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということである――。
6  地位や名誉、財産は今生限りのものです。しかし、妙法によって鍛えぬいた鋼のような生命は最高の「心の財」であり、妙法蓮華経の永遠性を現します。いつ、いかなる時も、また何があっても、悠然と戦い続けていける生命境涯を確立することができます。
 「戦い続ける」境地を確立した者は、本有の生死に生ききることができます。三世を知るといっても、私たち凡夫の次元では、望遠鏡でのぞくように過去世・未来世の具体的な場面を一つ一つ見ることはできません。
 しかし、戦い続ける人は、自分自身の本有の生命は不滅であることを、生命の奥底ですでに覚知しているのです。今世で勇気を出して慈悲の闘争をした人は、来世も慈悲の闘争に連なることができることを自得しているのです。
 同志の幸福のために、社会の安穏のために長年にわたって尊き闘争を続けてこられた学会員の一人一人の胸中には、すでに、そうした本有の生命が確立していることは、絶対に間違いありません。永遠の生命を、たとえ言葉で語ることはできなくとも、実感としてつかんでおられるからです。
 すなわち、何があっても南無妙法蓮華経と唱えて「一人立つ」ことができる。また、事が起きたときには御本尊を根本のよりどころとして不安がなく、しかも勇気と智慧を奮い起こして挑戦していける。そして、縁する人々への感謝の念が深く、皆を安心させる力に秀でている。
 病苦・老苦・死苦をも悠然と乗り越え、次の生もまた、学会の庭に生まれ、広ずに生きぬくことを誓願しつつ、わが使命ある生涯を「大いに喜ばしい」と総括できるこのような同志の総仕上げの姿に、三世に戦いぬく仏の生命境涯を見る思いがするのは、私だけではないでしょう。
 その広宣の地涌の勇者は、妙法の大生命に基づいて、「法性の大地を生死生死とぐり行く」という三世永遠に自由自在の境地を確立しているのです。
 それが真の永遠の仏の寿命であり、文字通り、寿量すなわち「仏の無量の功徳を量る」ことにほかなりません。
 結論として、「戦いぬく心」なくして、この生死不二の「大楽」の大功徳を得ることはできません。
 そしてまた、そうした無数の庶民の仏を誕生させたのが、わが創価学会七十五年の黄金の歴史であります。これこそ、仏教史に燦然と輝きわたる不滅の勝利の歴史であることを確信していただきたいのであります。
7  愚人に誉められたるは第一の恥
 「開目抄」の結びでは、そうした大境涯に照らして、諸宗の輩からの誹謗など何の意味もないことを仰せられています。
 法華経を実践すれば必ず「悪口罵詈」されます。しかし、法華経ゆえの悪口罵詈こそ無上の栄誉です。
 「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」と仰せのように、世間の毀誉褒貶に左右される愚人に賞讃されることは最大の恥です。その大確信で、初代牧口先生、二代戸田先生も歩んできました。三代の私も、同じ道を貫いてきました。
 仏法者にとっていちばん大事なことは、世法の評判などではありません。常に自分が、その時代にあって、最も時に適った正法流布の闘争を繰り広げられるかどうかです。
 大聖人は、娑婆世界で法を説き始めた釈尊、西域から中国に入って経典を訳した鳩摩羅什、中国へ法を求めた伝教大師、命を懸けて仏法を守った提婆菩薩や師子尊者、臂を焼いて灯明を供養した薬玉菩薩、手の皮をはいで教えを書きとどめた聖徳太子、経を供養するためにわが身の肉を売った釈迦菩薩、骨を筆として教えを残した楽法梵志の名を挙げられています。
 これらは実践の形は違いますが、すべて正法を惜しむための「時に適った行動」です。こうした行動を起こした根底には、正法を護りぬいていとうという心の戦いがあるのです。そして、心の戦いに勝って、時に適った行動を成し遂げたとき、これらの仏法者たちの生命には大いなる歓喜が広がっていたのです。
 ゆえに大聖人は、魔性との戦いのうえで生じた大難は「今生の小苦」にすぎず、末法の時に適った実践を成し遂げた永遠の「大楽」こそが、法華経の行者としての戦いから得られた大功徳であると仰せなのです。
8  「開目」の大波を幾重にも
 この広大なる大境涯を、大聖人は、今、現実に鎌倉で難に遭っている門下たちに教えようとされたと拝されます。御自身の悠然たる境涯を教えることで、「心配することなど、何一つない」「私たちは永遠の勝利者になれるのだ」「門下よ、この日蓮に続け」と、生命の根底から励まされているのです。そこに、全門下の無明を晴らし、迷いの目を開く「開目」の真義があります。
 戦う精神は、共鳴して「一人立つ」心を生み、次から次へと伝播していきます一人また一人と「戦う勇者」が広がれば、日本の人々が「開目」していきます。そして今、日蓮仏法は、世界で「開目」の大波を起こしています。この「戦う心」を伝える以上の慈悲はありません。
 「しばらくの苦こそ候とも・ついには・たのしかるべし
 闘争即大歓喜の「戦う心」を今、門下に教えずして、いつ教えるのか。現実に大弾圧を受けている今こそ、仏になる「時」であると叫ばれて、大聖人は本抄を結ぼれていると拝察できます。
 私もその御心を深く拝し、広宣流布の大いなる峰を登攀しつつある全会員、全世界のメンバーに呼びかけたい。
 世界広宣流布の草創期ともいうべき今、深き縁によって、世界中に戦う地涌の勇者の陣列がそろいました。「戦う心」に目覚めたこの陣列こそが「開目抄」の真髄を表現しているとの大確信で、一人一人が三世不滅の大功徳をわが胸中に確立しながら、それぞれの使命の舞台で、自らが太陽となって輝いていっていただきたい。
 まさに「戦う」時は、「今」です。

1
1