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日蓮大聖人・池田大作

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第十八章 末法下種の主師視 濁世に慈悲の薫風を

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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1  御文
 夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住・故来至此」等云云、三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんと・おぼしめす御心の中をすいするに父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛にこそ・みへたるを法然ほうねんいたはしとも・おもはで末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじとせき狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ無慚に見へ候へ、我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くしていつわり親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云。
 日蓮は日本国の諸人にしうし主師父母なり一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親」等云云
2  通解
 法華経の宝塔品を拝見すると、釈迦・多宝・十方分身の諸仏が集まってきている。それは、いかなる心によるのかといえば、「法を永遠に存続させるためにここに来たのだ」と説かれている。この三仏が未来に法華経を弘めて、未来の仏子たる一切衆生に与えようとする心の中を推しはかると、わが子が大きな苦しみにあっているのを見た父母の心よりもはるかに強いことがうかがえる。ところが法然は、仏の思いをくみもせず、末法に法華経の門をかたく閉じて人を入れさせまいとした。正気を失った子どもをたぶらかして宝を捨てさせるように、法華経を投げ捨てさせた心こそ、あまりにも恥知らずに思われる。自分の父母を人が殺そうとしているのに、父母に知らせないでいられょうか。悪逆な息子が酔い狂って父母を殺そうとするのを止めないでいられようか。悪人が寺院に火を放とうとしているのを、止めないでいられようか。わが子が重病の時に治療しないでいられようか。日本の禅宗と念仏者とを見て止めない者は、これらと同じである。「慈悲もなく、偽って近づくものは、その人にとって敵である」(『涅槃経疏』)とはこのことである。
 日蓮は日本国のあらゆる人にとって、主であり、師であり、父母である。
 天台宗の者はすべて、人々の最大の敵である。「人のために悪を取り除くことは、まさにその人の親である」(『涅槃経疏』)とある。
3  講義
 いよいよ、「開目抄」全編の結論ともいうべき「末法下種の三徳」について語っていきます。
 大聖人は仰せです。
 「日蓮は日本国の諸人にしうし主師父母なり
 日蓮大聖人こそが末法の主師親の三徳を具備されていると宣言されている一節であり、本抄が「人本尊開顕の書」と言われる根拠もここにあります。
 この一節からは、幾重にも深い意義を拝していくことができますが、本章では、主師親三徳の本質とは「慈悲」の行動にほかならない、という点に焦点を当てて講義することにします。
4  慈悲は真の悟りの証
 慈悲は仏法の根幹であり、法華経の真髄です。
 反対に、無慈悲は仏法の精神の全否定であると言っても過言ではない。
 仏法の源流である釈尊は、慈悲は悟りの証であると説かれました。
 すなわち、「究極の理想」に通じ、「平安の境地」に達した人は次のような心を起こすという。
 「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」
 「目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」
 「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」
 「また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし」(『ブッダのことば――スッタニバータ』中村元訳、岩波文庫)
 真の悟りを得た者は「一切の生きとし生けるもの」(一切衆生)に対して、また「全世界」に対して「無量の慈しみ」を起こすと述べています。「慈悲の心」を起こさなければ、真の悟りとは言えない。真の悟りは慈悲の心を無量に起こす源泉であり、慈悲は真の悟りの証なのです。
 この「慈悲の心」を、末法という濁悪の時代に広げるために戦われたのが日蓮大聖人です。
 末法は、他者の苦しみを顧みることができず、眼前に修羅道に堕ち、互いに争い、上慢の心が強くなる時代です。その濁劫悪世にあって、逆風にも怯まず、慈悲の薫風を広げゆく精神開拓の勇者が「法華経の行者」という尊き存在なのです。
5  限りない励ましと厳しい呵責
 仏の本領は慈悲にあります。
 自身の生命の内に、全宇宙を貫く究極の法を覚知した仏は、同時に、その法が万人の生命の中にあることをも覚知します。
 あらゆる人々が、本来は、この根源の法の当体である。したがって、万人が仏界の生命を現す可能性を持っている。しかし、人々は、無明に迷い、そのことに気づかない。ゆえに、さまざまな現象に翻弄され、苦しんでいる。
 万人が妙法の当体であり、仏に成る可能性を持った仏子であると覚知した仏は、ありとあらゆる衆生に対して、母がわが子に対するような「慈しみの心」を起こします。そして、自身の生命の尊厳に気づかず、苦しんでいる衆生を見れば、「悲しみの心」が芽生える。そして、わが子の苦悩を自身の苦悩と感じるような「同苦」の思いに満ちあふれるのです。
 嘆きの涙も、笑顔も、哀しみも、悦びも、すべて分かちあえる。人間そのものに絶対の信頼を置き、可能性を信ずる。どこまでも人間が好きで、人間を愛する。そうした仏の慈しみは一切に差別なく、万人におぶものです。したがって、仏の慈しみの心は宇宙大に広がります。目の前に触れるすべての人はもとより、想像できるかぎりの未知の人たち、さらには人類全体、そして、ありとあらゆる有情、非情にまで慈悲の念が広がることが、仏の一念三千なのです。
 要するに、自身の根源の力に目覚めただけでなく、すべての衆生の可能性を知って、その実現のために戦い続ける人が仏です。
 ”人間よ、真の人間たれ!”
 ”汝自身の可能性を知れ!”
 限りない人間の讃歌、生命の礼讃こそ、仏の慈悲の励ましの行動です。
 また、だからこそ仏は、人間を蔑視し、生命の可能性を信じようとしない増上慢の驕りの生命に対しては、どこまでもその無明を打ち破ろうと厳しい呵責を重ねていく。
 慈しみと同苦、与楽と抜苦、励ましと呵責――この慈悲と勇気の行動が、仏の振る舞いのすべてです。
6  法華経に説かれる三徳
 釈尊の仏法の真髄である法華経は、万人を成仏させようとした仏の究極の慈悲が説かれている経典です。大聖人は法華経を「慈悲の極理」であると仰せです。
 そして法華経では、この仏の究極の慈悲を「主師親の三徳」として説きます。
 法華経迹門の譬喩品第三には、有名な「三界は安きこと無し 猶お火宅の如し」(法華経191㌻)との一節があります。
 私たちの住むこの現実世界は、火宅のようであり、苦悩が充満している。この世界に住む民衆を、どこまでも救っていこうとするのが仏であると説かれています。この言葉が「三徳」にあたることは明らかです。
 すなわち、まず「今此の三界は 皆な是れ我が有なり」(今、この現実世界はすべて私の所有するところである)と述べている。――これは「主の徳」にあたります。
 そして「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」(その中にいる衆生は、ことごとく私の子である)と続く。――「親の徳」です。
 最後に「唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」(私一人のみが、彼らを救い護ることができる)とある。――「師の徳」です。
 また、本門の如来寿量品第十六では、久遠以来、慈悲の働きを起こして衆生救済の戦いを続けている久遠実成の釈尊が明かされている。「御義口伝」では、久遠実成の釈尊の三徳を示す寿量品自我偈の文が挙げられています。(御書757㌻)
 すなわち、「我が此の土は安穏なり(我此土安穏)」は「主の徳」、「常に法を説いて教化す(常説法教化)」は「師の徳」、「我れも亦た為れ世の父(我亦為世父)」が「親の徳」です。
 本門・迹門ともに「三徳」の意義はほぼ共通していますが、その要点を述べておきます。
 すなわち「主の徳」の文において、仏は、苦悩に満ちた現実世界は「わが国土」であり、本来は「安穏な仏国土」であると言っています。これは、国土とそこに住む衆生の安穏について、仏が自ら責任をもち、守っていく一念を示していると拝察できます。
 また、「親の徳」の文において、「衆生はわが子」であると言われています。これは、すでに述べた通り、全衆生への慈しみの心、そして衆生の苦しみへの同苦の心を表しています。
 そして、「師の徳」の文では、具体的に「説法教化」して、衆生を「救護」する実践が示されています。法を説いて民衆を成仏に導いてこそ、真の救済があるのです
7  「法華経の行者」に具わる三徳
 「日蓮は日本国の諸人にしうし主師父母なり」の御文は、「法華経の行者しとしての大聖人の実践に、法華経で説かれた仏の慈悲の表れとしての三徳が具わっていることを明かされております。
 日蓮大聖人の実践においては、国土の安穏を実現するための立正安国の実践が「主の徳」にあたると拝することができます。
 また、大聖人が一閻浮提広宣流布と仏法西還の展望を示されたことは、全世界を守り救う「主の徳」を具えられていることを表していると拝することができます。
 次に、末法の苦悩は謗法の根源悪に由来します。ゆえに、謗法を呵責する折伏行は民衆に同苦し、その苦を抜いていく抜苦の戦いであり、「親の徳」にあたります。
 折伏は「争う心」ではなく、悪に対して「戦う心」であり、したがって、修羅道ではなく民衆を救う菩薩道にほかならないことは、前章で確認した通りです。
 そして、「師の徳」は、凡夫の成仏の大法たる南無妙法蓮華経を末法万年の民衆のために顕し、残されたことであると拝することができます。
 折伏が抜苦の戦いであるとすれば、南無妙法蓮華経の弘通は与楽の戦いにあたると言えます。
 このように、法華経の行者としての大聖人の御振る舞いそのものが、三徳の慈悲の行動にほかなりません。
8  万人が慈悲の実践を
 また、きわめて重要なことは、大聖人自らが慈悲の三徳を顕して悪世末法の衆生を救済されただけでなく、万人が慈悲に生きる具体的な実践として、折伏行と唱題行という道を開かれたことです。
 自ら慈悲に生きぬかれただけでなく、万人も慈悲に生きぬく道を示された。それが、末法の御本仏たる真のゆえんであると拝することができるのです。
 戸田先生は、大聖人が出現された意義を次のように語られています。
 「われわれは、自覚した慈悲の生活には、なかなかはいれないのが普通である。ここに、大聖人御出現の意義があるのである。すなわち、末法という時代は悪人が多く、絶対に慈悲の行業が必要な時代であるが、現実は無慈悲きわまりないのである。(中略)本然の実相は慈悲でありながら、人間としては仏の智慧の発展がなければ幸福がないのである。
 すなわち人間は、仏の智慧を啓発して真の慈悲に生きるのが、いっさいの幸福を獲得する根本であり、その智慧は信心によってのみえられることを深く銘記すべきである」(『戸田城聖全集』3)
 悪世末法の凡夫が慈悲に生きる。これは簡単なものではありません。しかし、そのことが実現しなければ、仏法の本来の目的は永久に成就しません。そうでなければ、末法の救済といっても、時折、慈悲に優れた仏が出現し、疲弊し病んだ衆生に手を差し伸べる形でしか実現しません。
 しかし、そうした救済の方途では、やがてまた、その仏の恩恵を忘れた次の時代の衆生が病み始めます。そこに、再び仏が出現して救済の手を差し伸べる。あるいは、衆生は、どこか別の国土に住む仏の存在を渇仰し、遠い別世界の浄土に生まれることだけを願う。そのようなことを繰り返しているのでは、末法の国土を変革することはできません。
 その根本的な誤りは、仏一人だけが慈悲の救済主であるとする考え方にある。それでは、釈尊が末法の広宣流布を地涌の菩薩に付嘱した真意を理解することはできません。すなわち、絶対の救済者と、救われる信徒たち――この固定した関係を作り上げてしまえば、仏法の目的である慈しみ合う世界を広げていくことはできません。
 無慈悲の末法万年を真の意味で救いきるためには、仏の三徳を継承した法華経の行者が出現し、その法華経の行者を軸として無数の慈悲の体現者である法華経の行者、慈悲の実践者が誕生していくしかないのです。
 「開目抄」では、大聖人が末法の「主師親の三徳」を宣言される直前に、邪智謗法の国の修行のあり方として折伏行を明示し、大聖人に連なる者が皆、折伏の実践を行いゆくように示されています。
 その本意は、折伏行に生きゆくことで一人一人が慈悲の体現者となり、慈悲を世界に弘めていくことを教えられていると拝されます。
 凡夫が慈悲の働きを通して、他者と善の関係を結んでいくことが示されているのです。
 確かに、凡夫にとって慈悲は直ちに出るものではありません。しかし、凡夫は慈悲の代わりに勇気を出すことはできます。そして、慈悲の法を実践し弘通すれば、その行為は、まさに慈悲の振る舞いを行じたことと等しいのです。そして、凡夫から凡夫へ、慈悲の善のかかわりが無数に広がっていきます。
 慈悲の縁起の世界を勇敢に広げることこそ、釈尊を源とする真の仏教の系譜を継ぎ、発展させることになるのです。
9  「慈悲の世界」の破壊者との闘争
 この法華経の「慈悲の世界」を断絶しようとする悪人が出現するのが末法です。直接の破壊者が出現するだけでなく、末法の病根は、本来であれば法華経を継承すべき者たちが、その破壊に対して放置して傍観の態度をとることです。
 無責任の傍観者が破壊者を生み出す温床となる。その意味で、本来の役割のうえから、傍観者のほうが罪は大きいと言えます。
 したがって、大聖人は「開目抄」の結びにあたって、先に挙げた主師親三徳の御文の次下に、大聖人御自身と対比される表現で「一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり」と仰せられ、日本の天台宗を痛烈に破折されています。
 民衆のために法華経を宣揚し、法然らの邪義を打ち破って立ち上がらなければならなかったのに、既成権力に媚びるいき方を選んだ。大聖人は、そうした天台宗の輩こそ、日本国の諸人にとって「大怨敵」であると呵責されているのです。この破折こそ、大聖人の宗教革命です。
 現代で言えば、まさに、本来立ち上がるべき時に立ち上がらず、かえって謗法の軍門にくだり、果ては、仏法の正義に立ち上がった牧口先生を切り捨てようとした戦時中の宗門こそ、この「大怨敵」の末流であると呵責しておきたい。そして、この保身の傍観者から、今日、広宣流布を破壊しようとする極悪・邪法の日顕宗が生まれたのです。
 謗法を責めぬいてこそ、宗教革命は成就する。戦えば、必ず変革を拒む者たちから中傷されます。しかし、そうした輩に中傷されることこそ、牧口先生、戸田先生は誉れとされました。
 永遠の指導者、牧口先生・戸田先生の両先生が創価の旗を掲げて以来、地涌の闘将に呼び出された無数の尊き庶民が、全世界で慈悲の光輝を放っています。悲惨と不幸に苦しむ人々に希望を灯し、すべての母と子が安穏に生きる平和の社会を築く潮流は、全世界で確固たる大河となりました。
 全世界の同志の皆さまの勇気ある慈悲の行動を、必ずや牧口先生も戸田先生も喜ばれていると確信します。また、世界中の地涌の勇者の慈悲行を、日蓮大聖人が賞讃なされていることは間違いありません。
 創価学会は仏の慈悲の団体です。創価学会こそ、濁流と化しつつある世界の宿命を転換する主師親の本流であるとの誇りも高く、私たちは、二〇三〇年の創立百周年を目指して、創価の世紀を築いていこうではありませんか。

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