Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第十七章 折伏 善を広げ悪を責める厳愛の獅子吼

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
12  「慈無くして詐り親しむは彼が怨」
 本抄では、悪と戦う折伏精神がいかに重要であるかを、次の問答を通してあらためて説明されています。
 「問うて言う。念仏者や禅宗などを責めて彼らに憎まれることは、どんな利益があるのか」
 この問いに対して大聖人は、涅槃経を引いて答えます。
 ――釈尊は弟子たちに呼びかける。仏法の破壊者に対して、呵責・駈遣・挙処という毅然たる闘争を挑まない者は、たとえ仏弟子であっても仏法の敵となる。戦う者が、真の仏弟子、護法の声聞となる、と。
 これを『涅槃経疏』では、仏法破壊者に対して「慈無くして詐り親しむ」ことは、かえって「彼が怨」になってしまうと説いています。(大正38巻80㌻)
 ここに、折伏は慈悲の行為であることが明確にされていると言えます。相手の生命を破壊する無明を断ち、その人を根底から救うことが真の慈悲です。
 信心と慈悲から起こる、やむにやまれぬ行動が折伏です。大聖人は「開目抄」で次のように仰せられています。
 「自分の父母を人が殺そうとしているのに、父母に知らせないでいられょうか。悪逆な息子が酔い狂って父母を殺そうとするのを止めないでいられようか。悪人が寺院に火を放とうとしているのを止めないでいられようか。わが子が重病の時に治療しないでいられようか」(御書237㌻、通解)
 「慈悲」の対極にあるのが「詐りの心」です。相手の悪を知っておきながら放置する「詐りの心」が社会を覆ってしまえば、欺瞞が当たり前になり、人々が真実を語らなくなり、やがて社会は根っこから腐っていきます。
 思想の柱が倒れれば、社会も倒壊します。
 宗教は社会の柱です。その宗教界にあって、「人間を隷属させる宗教」「人間を手段化させる宗教」が横行することは、言うなれば、人々の魂に毒を流すことです。ゆえに、大聖人は「法華経の敵」と断固、戦いぬけと仰せなのです。
 「信心ふかきものも法華経のかたきをばめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・めざれば得道ありがたし」です。
 慈悲の折伏は、人々の心に善を蘇生させ、社会に活力と創造力を広げていくための獅子吼にほかなりません。
 それは、魔を破り、無明を断破し、どこまでも民衆の幸福を実現していく高貴な精神闘争である。それこそ、師子王の「戦う心」そのものです。その戦いのなかに、金剛不滅の生命が鍛えあげられていくのです。
 大聖人は、折伏行の利益として、涅槃経をあげ、「金剛身を成就すること」であると示されています。折伏を行ずる人は、誰人も破壊することのできないダイヤモンドのごとき生命をつくり上げることができるのです。
 慈悲の戦いを起こすことで、私たちは自分自身に潜む惰性、油断、臆病などの生命の錆を落とすことができる。一人を救おうとする智慧の闘争を貫く人は、人間を束縛する固定観念、人間を疎外する不信の無明を破ることができる。
 悪と戦う人は、精神の腐敗を破る清冽な水流で自己の生命も磨きあげ、万人の幸福を願う広々とした境涯をどこまでも開いていくことができる。
 そして、戦う心を失わない人は、今生人界の無上の思い出を生命に刻むことができる。
 戦いぬくなかに、広宣流布の人生の栄光があります。広布のため、いかなる法戦も断じて勝ち取った自身の金剛不壊の生命こそ、今世だけでなく、三世永遠に自分自身を飾りゆくことができるのです。

1
12