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日蓮大聖人・池田大作

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第十七章 折伏 善を広げ悪を責める厳愛の獅子吼

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
1  御文
 疑つて云く念仏者と禅宗等を無間と申すは諍う心あり修羅道にや堕つべかるらむ、又法華経の安楽行品に云く「ねがつて人及び経典の過を説かざれ亦諸余の法師を軽慢せざれ」等云云、汝此の経文に相違するゆへに天にすてられたるか、(中略)汝が不審をば世間の学者・多分・道理とをもう、いかに諫暁すれども日蓮が弟子等も此のをもひをすてず一闡提人の・ごとくなるゆへに先づ天台・妙楽等の釈をいだして・かれが邪難をふせぐ、夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木は日輪の眷属けんぞく・寒月に苦をう諸水は月輪の所従・熱時に本性を失う、末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし
2  通解
 疑って言う。念仏者や禅宗などを「無間地獄に堕ちる」と言うのは、争う心がある。
 きっと修羅道に堕ちてしまうであろう。また法華経の安楽行品には、「好んで人や経典の誤りを説いてはならない。また、他の法師を軽んじ侮つてはならない」と説かれている。あなたはこの経文に反しているために、天に捨てられたのではないか。
 (中略)あなたの疑いを世間の学者の大半は道理と思っている。日蓮がどんなに諌暁しても、わが弟子たちでさえこの疑いを捨てられない。一闡提のような者なので、まず天台・妙楽らの解釈を示して、その誤った批判をふさぎとめるのである。
 摂受・折伏という法門は、水と火のようである。火は水を嫌い、水は火を憎む。摂受を行ずる者は折伏を笑い、折伏を行ずる者は摂受を悲しむ。
 無智の者、悪人が国土に充満している時は摂受を第一とする。安楽行品に説かれる通りである。邪智の者、謗法の者が多い時は、折伏を第一とする。常不軽品に説かれる通りである。譬えて言えば、暑い時には冷たい水を使い、寒い時には火を求めるようなものである。草木は太陽の一族であり、寒い月夜には苦しみを受ける。また、水は月の従者であり、暑い時にはその本来の性質を失ってしまう。
 末法には摂受・折伏の両面がある。いわゆる悪国と謗法の国の両方が必ずあるからである。現在の日本国は悪国なのか謗法の国なのかを見分けなければならない。
3  御文
 問うて云く念仏者・禅宗等を責めて彼等に・あだまれたる・いかなる利益かあるや、答えて云く涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」等云云、「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くしていつわり親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云
4  通解
 問うて言う。念仏者や禅宗などを責めて彼らに憎まれることは、どんな利益があるのか。
 答えて言う。涅槃経には次のように説かれている。
 「もし、善比丘が仏法の破壊者を見て、放置して、厳しく責めず、追い出しもせず、罪を挙げて処罰しないならば、よく覚えておきなさい。この人は仏法者の中にいる敵であることを。もし、すすんで追い出し、厳しく責め、罪を挙げるならば、この人こそがわが弟子であり、真の声聞である」
 また、章安は次のように言っている。
 「仏法を破壊し乱す者は仏法者の中にいる敵である。慈悲もなく、偽って親しくする者は、その人にとって敵である。すすんで悪を糾す者は護法の声聞であり、真のわが弟子である。人のために悪を取り除く者は、まさにその人にとって親である。すすんで悪を厳しく責める者こそ、わが弟子である。悪を追い出そうとしない者は仏法者の中にいる敵である」(『涅槃経疏』)
5  講義
 仏法の根幹は慈悲です。慈悲は、仏の悟りの証であるとともに、菩薩の実践の根本です。
 「難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」――この御文を通してすでに拝察してきたように、日蓮大聖人は本抄において「忍難」と「慈悲」に勝れている人が真の法華経の行者であると明かされました。
6  法華経の厳愛
 「悪」が根強く深くはびこる末法の時代において、人々を悪から目覚めさせる使命を自覚した人は、誰であれ、大難に立ち向かい、悪と戦い続ける覚悟を必要とします。まして、万人の成仏のために戦うことが、法華経の行者の使命です。その忍難の根底には、末法の人々に謗法の道を歩ませではならないという”厳父の慈悲”があります。
 本抄では、法華経の「厳愛」が強調されています。すなわち、「仏種の一念三千」こそが末法の衆生を救うことができる唯一の凡夫成仏の法であり、この仏種を衆生に下種する仏の慈悲は、民衆を深く慈しむとともに、謗法を厳しく戒める厳愛でもあるのです。なぜならば、法を謗る無明・不信の心があるかぎり、衆生は即身成仏できないからです。
 大聖人は本抄で、伝教大師の「他宗所依の経は一分仏母の義有りと雖も然も但愛のみ有つて厳の義をく、天台法華宗は厳愛の義を具す」の文(御雪『法華秀句』)を引き、下種の本尊を論じられています。
 「仏母の義」とは、母のような無限の優しさです。そのような仏の慈悲の一分は、法華経以外の諸経典にもうかがうことができます。しかし、それらは「但愛のみ有って厳の義を闕く」のであり、法華経にのみ「厳愛の義を具す」のです。
 すなわち、法華経の慈悲には、母の愛のような無限の優しさも当然、具わっていますが、成仏の法について方便を交えない厳格さで明らかにしていく経典が法華経ですから、おのずと”法に対する厳格さ”が具わっているのです。これが、法華経の慈悲のもう一つの面なのです。
 それは、凡夫の成仏を可能にする「仏種」としての妙法を明らかにしていく厳格さです。この厳格さは、凡夫成仏のための厳格さであり、万人に法を開いていく慈悲の現れなのです。
 本抄で「主師親の三徳」を論じられているのは、この厳愛を具える慈悲の担い手は誰かを明かすためです。その方こそ、末法の衆生の成仏のために謗法と戦い、仏種の妙法を弘める法華経の行者、すなわち日蓮大聖人であられるのです。
 末法下種の主師親すなわち末法の御本仏については、次章で詳しく拝察していきたいと思います。本章では、その前提として論じられている「開目抄」最後の主題ともいうべき「折伏」論について考察しておきたいと思います。
7  「貧女の警え」再考
 前章で拝察したように、大聖人は涅槃経の「貧女の譬え」を通して、法華経の行者における成仏の道を明かされました。すなわち、諸難があっても疑う心がない「強き信」を貫けば、自然に成仏の境涯に至ることができると弟子たちに呼びかけられた。
 ここで、貧女が求めずして大利益を得ることができた原因を思い起こしてみたい。それは、ひたすら子を思う一念にあった。その一念が、心を一つのものに集中する「禅定」の修行の意味をもつとともに、子に対する貧女の無償の慈愛は「慈悲」の意味をもつと、大聖人は言われています。
 貧女が何があってもわが子を守りぬくことは、諸難があっても疑う心を起こさずに、万人の成仏を説く法華経への信を貫くことを譬えています。貧女が梵天に生まれたことは、信を貫いて成仏することを譬えています。
 そして、万人の成仏を信じてやまない姿にこそ慈悲があるのです。
 この信に伴う「慈悲」の面を代表する修行が「折伏」であると拝することができます。言い換えれば、「折伏」は、成仏に至るために不可欠な実践なのです。
8  「争う心」か「戦う心」か、「修羅道」か「菩薩道」か
 「開目抄」では、当時の念仏宗や禅宗の教義は人々に法華経を捨てさせる悪縁となる謗法の教えであり、無間地獄の因となると大聖人が破折されたことに対して、その主張は「争う心」があり、大聖人こそ「修羅道」に堕ちるのではないか、との問いを立て、折伏論を開始されています。
 また、法華経安楽行品の中に、「楽って人、及び経典の過を説かざれ。亦た諸余の法師を軽慢せざれ」(法華経431㌻)と説かれている。にもかかわらず大聖人はこの法華経の経文に違背して折伏を行ったのであるから、諸天善神が大聖人を捨てたのだとの非難を挙げられています。
 これらの非難は、おそらく実際に大聖人に寄せられたものだったのでしょう。
 他宗を責めることは仏教らしくない。他宗批判は和の精神と違う。多くの人々は、そうした考えにとらわれていた。また、他宗からの非難だけでなく、大聖人の門下のなかにも、大聖人の行動を理解しきれていなかった者がいたことが本抄で示されています。
 「汝が不審をば世間の学者・多分・道理とをもう、いかに諫暁すれども日蓮が弟子等も此のをもひをすてず
 世間の学者らに同調し、大聖人に違背していった門下たちに対して、大聖人は「佐渡御書」で、「疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人びゃくにん」であると痛烈に破折されています。
 ここに潜む本質的な問題は、仏教に対する誤った認識が根深く横たわっていることにあると言わざるをえません。
 一般に仏教と言うと、涅槃という完全なる静寂の境涯の獲得であると理解されがちです。だから修行は人里離れた山に籠り、現実世界から逃避する傾向が生まれる。あえて言えば現実の苦悩の世界から離れて、理想郷を求めていく思想です。
 しかし、そうとらえている限り、仏の真の精神闘争は理解できません。真の仏教とは、架空の天地に理想郷を求めるのではなく、この現実の苦悩渦巻く裟婆世界の中で理想を実現する、現実変革の思想である。現実との闘争のなかで、いかなる嵐をも乗り越えていく強靭な生命を獲得するのが、仏法の目的です。
 いわば、波一つ立たない小さな池のような平穏を求めるのではなく、怒濤渦巻く大海にあっても崩れることのない幸福境涯を確立するのが、仏法の教えの真髄です。事を荒立てないような小さな幸福を願っても、ひとたび嵐が吹けば必ず波は生じます。むしろ、無明と宿命の嵐のなかを毅然と前進する根源的な力を発揮してこそ、初めて幸福を得ることができる。その意味で、戦うなかにしか幸福の実現はありません。
 自他ともの幸福を築くためには、人々の悪縁となる誤った思想・宗教と戦っていくしかない。それが「折伏」行です。
 折伏には「争う心」があって、「修羅道」に堕ちるのではないかとの批判に対して、大聖人は、折伏は「慈悲」であり、「悪と戦う心」であると答えられていきます。それは、「仏の心」にほかならないのですから、折伏は仏と不二の心で実践する修行であり、末法の「菩薩道」なのです。
9  摂受と折伏
 折伏には「争う心」があるのではないかとの非難に答えるにあたり、大聖人はまず、仏法の修行に「摂受」と「折伏」の二義があることを説かれています。これによって、折伏が正当な仏道修行であることを示されているのです。
 この二つは実践形態としては正反対であることから、往々にして、どちらかを実践する者は他を実践する者に反発します。摂受を行う者は折伏行を笑い、折伏を行う者は摂受の実践を悲しむ、と仰せられています。
 引いに反発し、自分の修行に執着し、他者を排除する。そこに人間の持つ、我執という根本の迷いがあります。
 大聖人の結論は、摂受と折伏は両者とも正当な仏道修行であり、どちらを実践すべきかは「時による」ということです。そして、大聖人は両者を選ぶ基準を次のように示されていきます。
 「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし
 質問者は法華経の安楽行品をもって、大聖人の諸宗破折は法華経と異なるではないかと言ってきましたが、それは一方を見て他方を見ない拙い非難であることが分かります。
 他宗教や伽認の人の咎を言わないという安楽行品の実践の場合は、無智・悪人が多い時における実践です。それに対して、邪智・謗法の者が充満している時は、不軽菩薩が杖木瓦石の迫害のなかで礼拝行を続けたように折伏行が表となる、ということです。
 不軽菩薩の礼拝行は、万人に仏性があるとの法華経の精髄にあたる思想を表現した「二十四文字の法華経」を唱え、反発する上慢の四衆の迫害にも信念を曲げませんでした。このように不退転で真実を言い切っていくことが、結局は相手の過ちを折伏していることになるので、不軽品は折伏を説いているのです。
10  末法の邪智の国は折伏を第一とする
 このように摂受・折伏を選ぶ根本の基準は「時」です。
 もちろん、「時」とは、単なる歴史学上の時代区分とは別なものです。その国にいかなる思想・宗教が広まっているかという思想状況と、その国を構成する衆生の生命状況や衆生を取り巻く社会状況・自然環境などが密接に絡み合って形成される全体的な傾向、総合的な時代状況ともいってよいでしょう。
 具体的に言えば、大聖人御在世の末法の様相は、法華経の一念三千を言葉や観念でのみ盗み入れた真言・華厳などの諸宗や、法華経に敵対する教えを説く念仏・禅などの諸宗が入り乱れ、権実が雑乱し、凡夫成仏の実義が見失われていた時代です。
 さらに、それに加えて重大な問題があることを大聖人は指摘されています。それは、本来、法華経の真義を守るべき立場の者たちが仏教破壊に加担しているという事態です。
 すなわち、天台・真言の学者らが、この念仏・禅の檀那に諂い、怖じてしまっている。その様は「犬の主にをふり・ねづみの猫ををそるるがごとし」であると喝破されています。そればかりか、国主・為政者に対して、破仏法の因縁・破国の因縁が説かれている。
 一国の思想の混乱こそ一国衰亡の根源であり、これとそ民衆の苦悩をもたらす元凶にほかなりません。
 そうした状況のなかで、もし、手をこまぬいて正義を叫ばなければ、それは仏教者の精神の敗北であり、宗教者としての魂の死を意味します。大聖人は、現実を離れ山林にまじわって修行をする輩に対して、立ち上がるべき時に戦わないのは、「摂受・折伏時によるべし」との原理に背く姿であるがゆえに、今生には餓鬼道に堕ち、後生は阿鼻地獄である。どうして、生死の苦悩を離れることができようか、と痛烈に破折されています。
 言うなれば、法華経に敵対する宗教者。その信奉者。そして、法華経の敵を見ておきながら放置して戦わない法華経の修行者。この三者が織り成して毒が充満し、一国が毒気に染まるのが「邪智・謗法」の国です。
 この時に立ち上がらずして、護法の実践をすべき時はありません。民衆を救済することはできません。仏の諌暁を貫くことはできません。
11  民衆を救う智慧こそ真の寛容
 そして、この「法華経」の思想自体は、普遍的な価値を持つものです。法華経は、万人の尊厳性を説く思想であり、平等を語い上げる経典です。
 また、法華経以前の爾前経も、本来は人間の尊貴を示す思想・実践の一分が説かれている経典であり、法華経の立場から存分に用いていくことができる。法華経は、開会の思想に見られるように、あらゆる仏教の教義を包み込むことのできる寛容的な経典です。
 それゆえに、現代にあっても、人間主義の旗を掲げる最高峰の経典として聳え立つのです。
 しかし、ひとたび、反人間主義の勢力が生まれ、そうした勢力が法華経の精神をゆがめるならば、そうした邪義とは徹底的に戦う。それもまた法華経の思想です。
 法華経には、そうした悪世の中では、法華経の行者を迫害する勢力との闘争になることが説かれています。法師品の「猶多怨嫉況滅度後」も、宝塔品の「六難九易」も、勧持品の「三類の強敵」も、すベて、そうした無明・慢心との闘争を宣言しています。
 日蓮仏法の折伏の実践も同じです。民衆を苦しめる一切の勢力とは徹して戦う。その一方で、民衆を根本とする思想であれば、仏教と相通じる精神をそこに見いだそうとする広さを持ちます。
 中国に仏教が伝来する以前に、民衆を救った為政者の存在に対しては、「此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり」と評価されたうえで、「彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」と、民衆を救う智慧こそが仏法の智慧であると言及されています。
 折伏は、どこまでも仏の慈悲行の実践です。最も開かれた万人尊敬の念が根幹にあるからこそ、折伏行が成り立ちます。相手への尊敬がなければ折伏は進展しない。このことは、折伏を実践しぬいた人ほど強く実感していることではないでしょうか。
 このように、折伏には徹頭徹尾、「争う心」などないのです。したがって、折伏とは、排他主義、独善主義とは根本的に異なります。
 折伏の根幹はどこまでも「慈悲」です。また、慈悲を勇気に代えて悪と戦いぬく「破折精神」です。
 人間の最も基となる宗教そのものが混乱している時に、人間の精神を破壊しようとする誤った思想・宗教の横行に対して、何も行動しなければ、それは仏法の慈悲とかけ離れた姿以外のなにものでもありません。
 「人間のための宗教」「民衆を救済する宗教」という原点を忘れた誤った宗教を放置していれば、結果としてますます民衆を苦悩に沈ませてしまう。
 それは、一見、「争う心」のない穏やかな姿に映るかもしれないが、その重罪はあまりにも大きいと言わざるをえない。
12  「慈無くして詐り親しむは彼が怨」
 本抄では、悪と戦う折伏精神がいかに重要であるかを、次の問答を通してあらためて説明されています。
 「問うて言う。念仏者や禅宗などを責めて彼らに憎まれることは、どんな利益があるのか」
 この問いに対して大聖人は、涅槃経を引いて答えます。
 ――釈尊は弟子たちに呼びかける。仏法の破壊者に対して、呵責・駈遣・挙処という毅然たる闘争を挑まない者は、たとえ仏弟子であっても仏法の敵となる。戦う者が、真の仏弟子、護法の声聞となる、と。
 これを『涅槃経疏』では、仏法破壊者に対して「慈無くして詐り親しむ」ことは、かえって「彼が怨」になってしまうと説いています。(大正38巻80㌻)
 ここに、折伏は慈悲の行為であることが明確にされていると言えます。相手の生命を破壊する無明を断ち、その人を根底から救うことが真の慈悲です。
 信心と慈悲から起こる、やむにやまれぬ行動が折伏です。大聖人は「開目抄」で次のように仰せられています。
 「自分の父母を人が殺そうとしているのに、父母に知らせないでいられょうか。悪逆な息子が酔い狂って父母を殺そうとするのを止めないでいられようか。悪人が寺院に火を放とうとしているのを止めないでいられようか。わが子が重病の時に治療しないでいられようか」(御書237㌻、通解)
 「慈悲」の対極にあるのが「詐りの心」です。相手の悪を知っておきながら放置する「詐りの心」が社会を覆ってしまえば、欺瞞が当たり前になり、人々が真実を語らなくなり、やがて社会は根っこから腐っていきます。
 思想の柱が倒れれば、社会も倒壊します。
 宗教は社会の柱です。その宗教界にあって、「人間を隷属させる宗教」「人間を手段化させる宗教」が横行することは、言うなれば、人々の魂に毒を流すことです。ゆえに、大聖人は「法華経の敵」と断固、戦いぬけと仰せなのです。
 「信心ふかきものも法華経のかたきをばめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・めざれば得道ありがたし」です。
 慈悲の折伏は、人々の心に善を蘇生させ、社会に活力と創造力を広げていくための獅子吼にほかなりません。
 それは、魔を破り、無明を断破し、どこまでも民衆の幸福を実現していく高貴な精神闘争である。それこそ、師子王の「戦う心」そのものです。その戦いのなかに、金剛不滅の生命が鍛えあげられていくのです。
 大聖人は、折伏行の利益として、涅槃経をあげ、「金剛身を成就すること」であると示されています。折伏を行ずる人は、誰人も破壊することのできないダイヤモンドのごとき生命をつくり上げることができるのです。
 慈悲の戦いを起こすことで、私たちは自分自身に潜む惰性、油断、臆病などの生命の錆を落とすことができる。一人を救おうとする智慧の闘争を貫く人は、人間を束縛する固定観念、人間を疎外する不信の無明を破ることができる。
 悪と戦う人は、精神の腐敗を破る清冽な水流で自己の生命も磨きあげ、万人の幸福を願う広々とした境涯をどこまでも開いていくことができる。
 そして、戦う心を失わない人は、今生人界の無上の思い出を生命に刻むことができる。
 戦いぬくなかに、広宣流布の人生の栄光があります。広布のため、いかなる法戦も断じて勝ち取った自身の金剛不壊の生命こそ、今世だけでなく、三世永遠に自分自身を飾りゆくことができるのです。

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