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日蓮大聖人・池田大作

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第十六章 「我並びに我が弟子」 「まことの時」に戦う人が仏に

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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2  通解
 私も、そして私の弟子も、いかなる難があっても疑う心がなければ、必ず仏界に至るのである。天の加護がないからと信仰を疑ってはならない。現世が安穏ではないからと嘆いてはならない。私の弟子に朝にタに教えてきたけれども、疑いを起こして、皆、法華経を捨ててしまったようだ。弱い者の常として、約束したことを大事な時に忘れてしまうものである。妻子をかわいそうだと思うから、現世における別れを嘆くのであろう。生死を多く繰り返すなかで、そのつど親しんだ妻子と、自らすすんで嘆かずに離れたことがあっただろうか。仏道のために離れたことがあっただろうか。どの時も同じ嘆きの別れなのである。まず、自ら法華経の信心を破ることなく霊山へゆき、そこから妻子を導きなさい。
3  講義
 苦難は、人間を強くします。
 大難は、信心を鍛えます。
 難に挑戦して信心を鍛えぬけば、わが己心に「仏界」を現していくことができる。
 大難が襲ってきても「師子王の心」で戦い続ける人は、必ず「仏」になれる。
 日蓮大聖人の仏法の真髄は「信」即「成仏」です。
 その「信」は、自身と万人の仏性を信ずる「深き信」であることが肝要です。また、何があっても貫いていく「持続する信」でなければなりません。そして、いかなる魔性にも負けない「強靭な信」であることとそが成仏を決定づける。
 この「信」即「成仏」の深義を説く「開目抄」の次の一節は、あまりにも有名です。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
 いかなる苦難に直面しても「疑う心」を起こしてはならない。諸天の加護がなく、現世が安穏でなくとも、「嘆きの心」にとらわれではならない。不退の心で信仰を貫く人が、真の勝利者である。信心の極意を示した根本中の根本の御指導であり、永遠の指針です。
 本章では、この一節を中心に、日蓮仏法における信心の本質を学んでいきます。
4  師弟の精髄を明かした一節
 この御文の冒頭に「我並びに我が弟子」と呼びかけられています。
 「開目抄」では、日蓮大聖人御自身について、根源悪である謗法と戦う「真実の法華経の行者」であり、日本を法滅と亡国の危機から救う「日本の柱」であり、凡夫成仏の大法を顕して長く末法の闇を照らす「末法の御本仏」であられることが明かされます。
 そして大聖人は、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」と御覚悟され、「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ」との大誓願を獅子吼されて、御自身の御精神の核心を示されたのです。
 この御文と対照すれば、「我並びに我が弟子」の呼びかけで始まる一節は、まさに、師である大聖人の御精神と呼応する信心を、弟子たちに教えられていることは明らかです。
 ”わが弟子たちよ、師と同じように立ち上がれ!”
 ”師子王の子らしく、疑いと嘆きを打ち破れ!”
 ”まことの時に信心を忘れる愚者になってはならない!”
 「大聖人とともに」と、師と同じ決意で立ち上がり、広宣流布に邁進してこそ真の弟子です。誰人であろうと、大聖人と同じ心に立ち「日蓮が一門」となった時、実は、すでに成仏への道は広々と開かれているのです。後は、その大道を歩み通せば、「自然に」成仏に至るのです。
 仏が説いた法は、万人の生命の中に仏の生命があることを明かしております。万人の胸中にそれまで眠っていた「仏知見」を開き、示し、悟らせ、入らしめる。万人を仏にしてこそ仏の出世の本懐が成就することは、法華経にも明確に説かれています。自分と同じく万人を「偉大な人間」にする。それが仏教の本質です。
 ゆえに仏教は、どこまでも師と同じ心で戦いゆく弟子の育成が眼目となる。仏教は、「師弟の宗教」にほかならないのです。
 「天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」と仰せられている日蓮大聖人の赫々たる魂の炎が、全門下の胸中にも灯されてこそ、「師弟不二の宗教」は完成するのです。その意味で、「我並びに我が弟子」との呼びかけに、わが門下よ、二陣、三陣と続きゆけ」との思いが込められていると拝することもできます。
5  不惜身命が師弟の絆
 「我並びに我が弟子」との仰せ、は拝するごとに金文字のように鮮烈に浮かび上がってきます。
 普通の宗教者であれば、「わが弟子たちよ」と一方的に呼びかけるにとどまるところです。ところが大聖人は「我並びに」と仰せです。「私もそうだ」と語りかける御心に、師弟一体の仏法の精神が込められています。
 そして、その師弟を貫く強靭な核が「不惜身命」です。師である日蓮大聖人御自身もまた法に対して「不惜身命」であられるがゆえに、仏法を万人に開く民衆の指導者たりえるのです。弟子もまた、弟子の次元で法を弘通するために、師と同じ「不惜身命」の実践で戦いぬいていかなければなりません。
 そのことを教えられているのが「妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫たしょうこうごうに・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし」の一節です。
 もちろん、命をも奪われようとする大難の渦中でこその仰せです。私たちにとってみれば、戦前の軍部権力による創価教育学会の弾圧の際に、牧口先生、戸田先生とともに投獄された幹部たちがこの御聖訓に背いて退転し、権力に屈してしまった事実を忘れてはならない。
 その獄中で戸田先生は、書簡にこうつづられました。
 「決して、諸天、仏、神の加護のないということを疑ってはなりませぬ。絶対に加護があります。現世が安穏でないと嘆いてはなりませぬ」
 まさに、「開目抄」の精髄を込めた内容です。
 一個の人間として、また、一人の信仰者として、どう生きぬくのか。最極の法に生きぬき、不惜身命で戦いぬく信心のなかにこそ、生命が鍛えられ、金剛不滅の成仏の境涯を確立できることを忘れてはならないのです。
6  不求自得の成仏
 御文では、多くの難があっても、それに耐えて信心を貫きさえすれば、求めなくても自ずから成仏の利益があると仰せです。いわば「不求自得(求めざるに自ずから得たり)」の成仏です。
 なぜ、求めなくても成仏できるのか。
 それは、衆生の生命が本来、妙法蓮華経の当体だからです。そして、「強き信」によって、本来具わっている妙法蓮華経の自在の働きが何の妨げもなく現れてくるからです。
 人間の生命の上に、この妙法蓮華経が自在に働き出した時、その生命を仏界の生命といいます。妙法の無限の力が、何の妨げもなく働き出し、種々の人間の力として発揮されていきます。
 たとえば”一人立つ勇気”、たとえば”耐える力”、たとえば”苦境を切り開く智慧”、たとえば”人を思う慈しみの心”。そういう、いわゆる仏の生命として説かれる種々のものが、必要な時に適切な形で現れてくる。何の妨げもなく、妙法の力を人間の力として呼び現すことができる。
 ここで大事なのは、妙法の力が現れ出てくるのを妨げているものが、実は私たちの心の中の根本的な迷い、すなわち「無明」であるという点です。
 「無明」とは、妙法が分からないという根本的な無知です。また、妙法が分からないために、生命がさまよった状態になり、暗い衝動的なものに支配される。これが不幸をもたらしていきます。諸の不幸、苦しみの根に、この無明がある。
 したがって、妙法が分かれば、この無明はたちどころに消えてしまう。これを譬えて言うと、妙法が太陽で、無明は、それを覆う暗黒の雲みたいなものです。暗雲が晴れると、太陽の光がサーッと差し込んでくる。根本的な迷いを打ち破れば、直ちに妙法の力が生命に働き出し、さまざまな功徳、価値創造の働きとなって現れてくる。そのさまざまな形で功徳、価値が開花してくることが「蓮華の法」です。
 ですから、「衆生は妙法の当体であり、仏界の生命をもともと具えている」といっても、無明の暗雲を晴らす戦いをしなければ、仏界は実際には現れてはこない。単に、形ばかり題目を唱えていればいいかというと、そうではない。もちろん、僧侶に唱えてもらうなどというのは論外です。
 唱える人が無明を晴らす戦いをしなければならない。無明は心の中の迷いですから、これはやはり、自分の心の中で戦わなければならない。その戦いとは、一言で言うと「信」を貫くことです。
 仏の悟りを表明した法華経に基づいて、大聖人が御自身の内に発見され、そしてまた、それを御自身の戦いのなかで確かめ、実証されてきた妙法蓮華経という根源の法の働きをわが生命に自在に現すには、大聖人と同じ意味での「唱える」ということが必要になる。つまり、その根本に「無明と戦う心」である「信」がなければならない。
 大聖人の弘められた題目は、いわば「戦う題目」です。
 疑い、不安、煩悩などの種々の形で無明は現れてくる。しかし、それを打ち破っていく力は「信」以外にない。大聖人は「無疑自信(疑い無きを信と曰う)」と仰せです。
 また、「元品の無明を対治たいじする利剣は信の一字なり」とも言われている。鋭い剣です。魔と戦うということも、根本的には無明と鋭く戦うのでなければならない。私たちは、広宣流布を妨げる魔の勢力と戦っています。この魔との戦いも、根本的には無明との戦いです。また、人生に起こってくるいろいろな困難と戦うのも、本質は無明との戦いです。
 妙法への「信」、言い換えれば「必ず成仏できる」「必ず幸せになれる」「必ず広宣流布を実現していく」という一念が失せたならば、人生の困難にも、広布の途上の障魔にも、負けてしまいます。
 本抄で「疑う心」に負けてはいけない、「嘆きの心」にとらわれてはいけないと言われているが、その疑いや嘆きこそ、まさに無明の表れなのです。
 無明を打ち破る「信」の意義を端的に教えられているのが、本抄で述べられている涅槃経の貧女の譬喩です。そこでは、子を守るために命を捨てた母の話が説かれています。
7  涅槃経の貧女の譬え
 涅槃経には大要、次のようにあります。
 ――住むべき家もなく、救護してくれる人もいない貧女が、ある宿で子どもを産んだ。しかし、その宿を追い出されてしまい、貧女は子どもを抱いたまま他国に行こうとする。その間、激しい風雨にあい、飢えと寒さの苦しみに襲われ、また、蚊・虻・蜂・毒虫に食われる。やがて、河を渡ろうとした時に、流れが速く、子どもを手放すことをしなかったために、ついに母子ともに没してしまった。しかし、この女人は、子どもを思う慈愛の心の功徳によって、死んで後、梵天に生まれた――という話です。(大正12巻374㌻)
 すなわち、貧女がわが命をなげうっても子を守ろうとしたその強い慈愛の心にこそ、境涯革命の力があることを教えられているのです。
 現代人にとってみれば、暗く悲しい物語という印象が残ってしまう内容かもしれない。もとより、すべての母と子が幸福になるために仏法はある。まして、妙法を持った私たちからみれば、今世のうちに成仏し、絶対的幸福を確立することができます。その意味で、一生成仏を説く日蓮仏法とは異なる考え方も含まれている。そのうえで、あえて大聖人が本抄で引かれたのは、なにゆえか。
 それは、この経文の最後に、釈尊が呼びかけた内容が重要なメッセージであるからだと拝されます。
 すなわち、釈尊は、善男子たちに”この母が子どもを守りきったように、法を護りぬきなさい”と指導します。
 法を護りぬく信心、それが成仏への道であるというメッセージです。いわゆる、「不惜身命」「我不愛身命」の信心です。
 私たちの実践でいえば、不惜身命とは、いたずらに命を犠牲にすることではない。どこまでも自身が法に生きぬくことにほかなりません
8  一念三千の玉
 本抄では、貧女の譬えを通して示される成仏の原理を端的に「一念三千の玉」と表現されています。
 簡潔に本抄での筋道を追いましょう。大聖人は、涅槃経の貧女の譬えが示す本質を次のように結論されています。
 「詮ずるところは子を念う慈念より外の事なし、念を一境にする、定に似たり専子を思う又慈悲にも・にたり、かるがゆへに他事なけれども天に生るるか
 ――結局、子を思う慈愛の一念以外には何もない。心を子という一つの対象に集中するのは、瞑想によって心を定める修行に通じる。ひたすら子を思うのはまた慈悲にも通じる。このような理由で、他の善の行いが、ないにもかかわらず天界に生まれたのであろう――。
9  すなわち、貧女がなにゆえに不求自得で梵天に生まれることができたのか。その理由として大聖人は禅定に通ずる「念を一境にする」ことと、慈悲に通ずる「専子を思う」心の二つを挙げられている。
 「念を一境にする」とは、一つのことに心を集中することです。つまり「一念を定める」ことです。
 そにお究極は、「一念に億劫の辛労を尽くす」実践です。その実践があるところに、無作三身の仏の大生命が厳然と現れます。(御書790㌻)
 その後、大聖人は、諸経・諸宗で説く唯心法界、八不中道、唯識、五輪観などの成仏論は「玉」ではなく「黄石」にすぎないとされ、これらでは仏になることはできないと言われています。そして、法華経の「一念三千の玉」こそが「仏になる道」であると仰せられています。
 この「一念三千の玉」の一つの解釈として、一人の人間の一念において実現しうる”九界の因と仏界の果が同時に具わる因果倶時の状態を指して、「玉」と表現されていると拝することができます。十界・三千のすべてが一まとまりとなって具わり、しかも、宝石のように輝いている心を「玉」に譬えられたのです。これこそが、妙法蓮華経への「強き信」です。「信」の一念が仏界を含んだ宝玉と現れるのです。
 諸経・諸宗の成仏論は、ある場合は単なる世界観にすぎないもので、安易な自己肯定で終わってしまう。また、ある場合は、無明を滅することを説くが、煩悩を断滅する小乗教の灰身減智に似たものに陥ってしまう。どれも「一念三千の玉」とは似て非なるものです。
 大聖人は再び涅槃経を取り上げられ、「不求解脱・解脱自至」の一節をもって貧女の警えを結ぼれています。解脱を求めなくても、解脱に自ずから至るのである、という意味です。
10  「まことの時」に無明との戦いを忘れるな
 「疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」と仰せのように、「信」の一念のみが、疑いや嘆きなどの無明の生命を打ち破って、妙法蓮華経の力用を生命に現す力を持っています。
 しかし、「無明」の力もまことに執拗であり、根深い。本当に無明と戦っていかなければならない時に、私たちの心に忍び寄り、生命を侵していくのが無明です。その愚かさを「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と戒められています
 強盛な「信心」を起こすべき時に、反対に、不信を抱き、疑いを起こして退転してしまうならば、あまりにも愚かなことだ。”今が「成仏への時」ではないか! この大難を突破すれば、永遠の幸福を成就することができる!”との大聖人の魂の叫びが伝わってきます。
 何があっても疑わない。何が起ころうとも嘆かない。その強靭な魂を持った人は、何も恐れるものはない。
 創価学会の歴史に、おいても、戦前に牧口先生が投獄された時、戦後の再建期に戸田先生の事業が大変だった時、そして、宗門が三類の強敵としての牙をむき出しにしてきた時など、これまで大難に直面した時は幾たびとなくあった。この時に、何をしたのか、どうしたのか。そこに弟子として、仏法者としての本質があらわになっていくのです。
 「まことの時」に戦う信心にこそ「仏界」が輝くことを、断じて忘れてはならない。これが本抄の一つの結論であると拝することができます。

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