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日蓮大聖人・池田大作

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第十四章 「我日本の柱とならむ」 一人立て! 不二の誓願に生きよ!

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
1  御文
 詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず
2  通解
 結局のところは、天も私を捨てるがよい。いかなる難にも遭おう。身命をなげうつ覚悟である。
 舎利弗が過去世に六十劫の菩薩行を積み重ねたのに途中で退転してしまったのは、眼を乞い求めたバラモンの責めに堪えられなかったからである。久遠の昔に下種を受けた者、あるいは大通智勝仏の昔に法華経に結縁した者が退転して五百塵点劫、三千塵点劫という長遠の時間を経なければならなかったのも、悪知識に会って惑わされたからである。善につけ、悪につけ、法華経を捨てるのは地獄に堕ちる業なのである。
 「大願を立てよう。『法華経を捨てて観無量寿経などを信じて後生を期するのならば、日本国の国主の位を譲ろう』『念仏を称えなければ、父母の首をはねるぞ』などと種々の大難が起こってこようとも、智者に私の正義が破られるのでない限り、そのような言い分に決して動かされることはない。その他のどんな大難も風の前の塵にすぎない。私は日本の柱となろう。私は日本の眼目となろう。私は日本の大船となろう」と誓った誓願は断じて破るまい。
3  講義
 一人立ち上がり、正義を貫きゆく勝利の生命には、一点の迷いも悔いもない。
 それは、あたかも一片の雲さえない清澄なる青空のごとき境涯です。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん
 私は、「開目抄」の白眉とも言うべきこの一節を拝するたびに、御本仏日蓮大聖人の崇高なる魂の響きに全生命が共鳴し、大いなる勇気と歓喜に打ち震える思いがします。
 昭和三十五年(一九六〇年)の五月三日、私の第三代会長就任の折、深く拝した御聖訓でもあります。
 本章では、この御文に始まる一段を拝していきたいと思います。
 その主題は、「一人立つ精神」です。広宣流布は、常に「一人立つ」勇者から始まります。
 思えば、仏教の歴史も、人間の内なる尊極の生命に目覚めた釈尊が「一人立った」瞬間から始まったと言ことができる。
 そして、御本仏であられる日蓮大聖人が、濁世を生きる人間が尊極の生命に立脚して生きていける道を示され、その実現のために大難を覚悟で「一人立たれた」からこそ、末法万年の広宣流布が開幕したのです。
 この大聖人の御心に連なって、わが創価学会は、先師牧口先生、思師戸田先生が、現代における宗教革命と人間革命の道に一人立ち上がられた。
 私も不二の弟子として一人立ち上がり、未聞の世界広宣流布の道を、切り開いてきました。
 真正の「一人立つ」闘争には、必ず、「二人」「三人」と、勇者が続きます。学会に、おいても、一人また一人と無名の気高き庶民が立ち上がって、今日、地球を包みこむ善と正義の、ネットワークが築かれてきたのです。
4  門下の根源の迷いを払拭
 「詮ずるところは」から始まる「開目抄」の一段は、ある意味で、今日の世界広布の広がりの一つの光源と拝することができる。
 この一段は、日蓮大聖人こそが末法の法華経の行者であられることを結論づける段にほかなりません。
 まず、この一段がつづられるまでの「開目抄」の流れを確認しておきましょう
 本抄全体の構成で言えば、この段は、迫害を受け、諸天善神の加護が見られない日蓮大聖人が真の法華経の行者であるのかどうかという「世間の疑い」への回答を、『御書全集』で約三十ページにわたり展開されてきた結論部分にあたります。この間、轍密に経文を検証され、大聖人御自身の御振る舞いが法華経の経文通りであることを詳細に確認されてきました。
 そして、とりわけ勧持品の経文を踏まえて、三類の強敵を招き起こされた日蓮大聖人こそが、経文に説かれている通りの法華経の行者にほかならないと結論されました。
 さらに、法華経の行者が迫害を受けているのに、なにゆえに諸天善神の加護がないのか。その理由を三点にわたって道理を尽くして説明された。
 このように、「経文」と「道理」に基づく精轍な論証という意味では、疑いに対して完全に答えられたと拝することができる。しかし、大聖人はそこで終えられなかった。
 なぜならば、世間の人々や門下たちが大聖人に対して疑いを起こす根源の迷いが、まだ完全には払拭されていないからです。
 その根源の迷いとは、「謗法」に対する無知です。法華経の行者に難があることに疑いを抱く根には、この無知があるのです。前章で考察したように、「謗法」という根源悪と戦うのが末法の法華経の行者です。無知の者には、この戦いの意味が分からない。
 いかに末法の法華経の行者は大難を受けると法華経に予言されていても、また、どれほど大聖人が諸天の加護が現れない理由を理を尽くして示されても、大聖人があえて「謗法」と戦われて苦難を受けなければならない理由が分からない。
 そこで大聖人は、御自身の「誓願」という形で、謗法と戦う法華経の行者としての御境地を示されていくのです。
 前段までは、人々の疑難に対する文証と理証を尽くした「論証」でした。それに対して、この一段は、大聖人の揺るがぬ「誓願」の生き方を示されて、人々の生命の奥底に潜む根源的な迷いを、現実に打ち破っていかれるのです。これは、ある意味で、「慈悲」に基づいて、万人の生命を磨き高めていく獅子吼と拝することができます。
 そして、この一段を通して、誓願を貫かれる大聖人の”戦う魂”こそが、法華経の行者の真髄であることが示されていきます。文証や理証を通して論証される法華経の行者にとどまるのではなく、大聖人御自身が生きられている法華経の行者の魂そのものが、ここに躍動しているのです。
 御文では、まず「詮ずるところは」と切り出されています。――これまでさまざまに法華経の行者の難について説明してきたが、最も大事なことをこれから述べよう、という意味です。
 そして最初に「天もすて給え」――諸天善神が私を捨てるのであれば捨てるがよい――と喝破されます。
 さらに「諸難にもあえ」――多くの難に遭わなければならないのであれば遭ってもかまわない――と続けられます。
 そして「身命を期とせん」――わが身命をなげうって戦うのみである――と言い切られています。
 世間・門下の疑難を突き抜けた、大聖人の大境涯を示された御文です。”諸天の加護がほしい”とか、”難に遭いたくない”というような人々の思惑を超えて、大聖人御自身の御境地である法華経の行者としての覚悟が示されているのです。
 大聖人の御境地からすれば、諸天の加護の有無を超えて大切なことがある。いかなる大難があろうと、身命を賭して成し遂げねばならない。
 それは、仏が自らの大願として法華経で説いた、最高善である万人の成仏である。そして、その実現である広宣流布にほかなりません。
 これこそ、世間や門下の人々がこだわり、執着するものを超えて、大聖人が戦い取ろうとされたものなのです。
 法華経の行者とは、仏の大願をわが誓願とし、仏の滅後の悪世にあらゆる困難を超えて実現していく「戦う人」の謂です。
 特に、末法の悪世においては、法華経の肝心であり、凡夫成仏の法である妙法蓮華経を弘めなければ、その大願は成就できません。
 妙法蓮華経は「心の法」です。人々に妙法蓮華経への不信をもたらす法華誹謗は、まさに人々を成仏から遠ざける悪縁であり、仏の大願を妨げる大敵なのです。ゆえに、末法の法華経の行者は、必然的に謗法と戦う人にならざるを得ないのです。
 誓願とは、法華経の行者の「戦う魂」です。それゆえに、大聖人は、この一段において、法華経の行者としての誓願を説かれるのです。
5  「不退」こそが信仰の真髄
 それでは、この誓願の人生を歩むうえで最も不可欠な要件はいったい何でしょうか。
 それは「不退の心」です。誓願は、貫き果たしてこそ、真の誓願です。そのためにこそ、不退転の心が肝要となります。それを教えられているのが次の一節です。
 「身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし
 信仰で最も大切なことは「不退の心」です。それは身・口・意にわたる不退でなければなりません。生涯、戦い続ける魂を失わない。それが日蓮仏法の精髄です。創価の心です。
 大聖人御自身、本抄で立宗の時の誓願を振り返られ、覚悟の法戦を開始されゆく「不退の誓い」を示されています。
 「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」と。
 私たちは今、濁劫悪世の裟婆世界の穢土で仏道修行をしています。謗法充満の悪知識のなかで、三障四魔・三類の強敵と戦いながら、信仰の実証を示すことは、常に、自己の生命の無明と戦う錬磨が不可欠です。
 何があっても動揺しない「強き心」、まっすぐに誓いの道を貫き通す「清き心」を確立しなければ、魔性の風に仏道修行の灯はまたたく間に消されてしまう。
 その心を強くすることが「不退」の原点です。深き覚悟がなければ、悪知識の障魔を破ることはできません。
 大聖人は、この悪知識の恐ろしさを示すために、大乗の修行を退転した舎利弗の例、そして三千塵点劫の昔の大通結縁以来の退転者、また久遠五百塵点劫以来の退転者の例を取り上げられています。
 舎利弗の退転について言えば、以前にも説明しましたが、乞眼の婆羅門は、舎利弗を退転させようと近づいてきた魔です。舎利弗は、この婆羅門の責めに敗れたのではありません。自身の心に敗れてしまったのです。
 舎利弗の眼を踏みにじって婆羅門が去った後、残された舎利弗の胸中に起こった無明の生命。それが「度し難し」――こんな人々を救うことなどできない、との心でした。それゆえに、大乗菩薩道を退転して小乗の修行に堕してしまったのです
 もちろん舎利弗の事例は百劫にわたる爾前経の菩薩行であり、歴劫修行ですから、私たちの修行に、そのまま当てはめる必要はありません。仏法の修行は「時によるべし」だからです。
 しかし一面から言えば、それ以上の精神の労苦を、私たち学会員は悪世末法の弘通にあって日常的に経験しています。無智、悪心、邪智ゆえの反発を受け、罵詈中傷されるなかで、わが魂をすりへらす思いで、人々のために尽くそうとしていく。それが、どれほど尊い菩薩の行動の真髄であるか。
 学会員の皆さま方は、何があろうとも、柔和忍辱の心で、御本尊に真剣に祈りきっていく。そして唱題を重ねるなかで、”あの人にも仏性がある””あの人の仏界に届け”とさらなる対話と行動に雄々しく進んでいく。そして、結果として、自己の境涯を大きく拡大していくことができるのです。
 結局、退転した舎利弗に欠けていたのは「法華経の心」です。万人に仏性があることを確信していれば、いかなる婆羅門の責めをも撥ね返すことができたことでしょう。
 本来であれば、眼を踏みにじられた舎利弗のほうが魂の王者であり、哀れむべきは人の善性を信じられない婆羅門のほうです。そうした無明の生命を救うための万人成仏の法を、舎利弗は究極のところで信じることができなかった。そこに根本の問題があったと言えます。
 三千塵点劫、五百塵点劫の退転の例もまた、悪知識に敗れて、法華経への不信が芽生えたからであると拝察できます。
 真実の釈尊の仏法、また、日蓮大聖人の仏法が立脚するのは、万人成仏の法華経の思想です。この思想の対極にあるのが無明にほかならないすなわち、万人に等しく尊極の生命があることを認められない暗き生命です。
 法華経への違背は、坂道を転げ落ちるように最後は無明の淵である無間地獄に辿りついてしまいます。
 それゆえに「法華経をすつるは地獄の業なるべし」なのです。
 法華経こそ、万人の尊厳を認める宗教であります。法華経こそ、法性を開く宗教であります。そして法華経こそ、価値を創造する宗教であります。
 この法華経が弘められた時は必ず、そこから転落させようとする悪知識が働きます。悪知識は私たちの生命を無明へ陥れ、権威に従属させようとします。その悪知識に紛動されてはならない。そのためには、実教の敵である謗法の悪と戦いきるしかないのです。言い換えれば「戦う心」こそ「不退の心」である。戦いを忘れてしまったならば、悪知識の磁力に打ち勝つことはできません。
 ここに、生命勝利の重要な方程式があることを忘れてはならない。
6  誓願に生きる人こそ無上道の人生
 さて、ここで大聖人は「善に付け悪につけ」と仰せです。悪知識は善悪両面から責めてくるということです。その原理を知悉されているからこそ、大聖人は次のように不退の誓願を立てられます。
 「大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず
 「日本国の位を譲ろう」との誘惑があろうとも、「父母の頸を刎ねる」との脅迫があろうとも、そうした大難に絶対に屈することはない。どんなに身命に及ぶような大難であっても、風の前の塵のように吹き払っていくことができるとの御断言です。
 また「わが義はやぶられることはない」との御確信を示されています。
 事実、大聖人は、立宗以来、四度の大難・無数の小難を超えつつ、堂々たる獅子吼の言論戦を貫かれた。そして、竜の口の法難では発迹顕本を勝ち取られ、南無妙法蓮華経が末法万年尽未来際の一切衆生を救済しゆく凡夫成仏の大法であることを証明されたのです。大聖人の正義が破られることはまったくありませんでした。
 そして、不退転の誓いとともに、大聖人が貫かれてきた偉大なる大願が示されます。
 「我日本の柱とならむ」
 「我日本の眼目とならむ」
 「我日本の大船とならむ」
 あまりにも崇高な主師親の三徳の誓いでありましょう
 日蓮大聖人は、立宗の日に、この大願を決意されたと拝することができます。そして、二十年。あらゆる障魔の嵐が吹き荒れても、何ものも大聖人の「不退の心」を揺るがすことはできませんでした。
 数々の悪口罵詈、卑劣な謀略、頸の座、二度に及ぶ流罪――いかなる天魔の暴風も、大聖人の胸中の広宣の炎を消すことはできなかった。いな、大聖人はその炎をいやまして燃え上がらせていかれたのです。
 「ちかに願やぶるべからず」――この御文は、ひとたび誓った誓願は、未来永劫に断じて破ることはない、との御断言です。
 この仏の大願をわが誓願として生きぬく強き信心の人にこそ、仏界の生命が涌現するのです。
 わが創価学会は、この「誓願」を不惜身命で貫き通してきたからこそ、すべてに大勝利することができたのです。
 「誓願」は、悪世末法に法を弘めるうえで根幹の柱です。正義に生きる強い誓いの心が・なければ、濁世の激流を押し返すことなどできません。魔性を打ち返すことはできません。
 いかなる大難をも恐れない。いかなる苦難にも怯えない。その勇気を生み出す根源の力が、広宣流布の誓願です。
 誓願に生きれば、どのような障魔が出来しても、悠然たる王者の魂が光ります。どのような宿命が襲来しても、毅然たる勇者の魂が輝きます。
 そして「わが誓願の心」が破られることがなければ、あらゆる障魔にも宿命にも負けることは断じてありません。また、仏法者にとって、「誓願の心」が破られるのは最大の敗北です。これまでの退転者、反逆者は、増上慢となり、名聞名利に流され、誓いの精神が腐って、惨めに破れ去っていきました。ゆえに「心こそ大切」なのです。「不退の心」を持ち、「誓願の心」を貫くことが人間勝利の真髄であることを、日蓮大聖人は教えられているのです。
7  精神の柱、思想の眼目、救済の大船
 大聖人は「日本の柱」「日本の眼目」「日本の大船」と仰せです。
 言うまでもなく、「日本の」とは日本中心主義ではなく、一国謗法という末法の典型とも言うべき、深い悪世の様相を呈した国土だからです。裟婆世界の中で、最も苦しんでいる衆生と国土を救えれば全人類を救えます。
 大聖人御在世の日本は、精神の支柱を失って崩壊寸前の状況でした。謗法の毒を弘める悪僧が充満し、民衆は苦悩の海に漂っていたのです。
 柱がなければ家は倒壊します。精神の柱なき社会。悪知識が充満する社会。目的なき漂流の社会。その精神の荒野に、日蓮大聖人は、ただ一人で立ち上がられたのです。
 私が、倒壊した国の精神の柱となろう。
 私が、混迷した思想の正邪を見分ける眼目となろう。
 私が、漂流した民衆を救う大船となろう、と。
 この偉大なる誓願は、大聖人の御生涯にわたって貫かれたものです。
 大聖人を亡き者にしようと弾圧を加えてきた平左衛門尉の暴挙に対しても、こう厳然と獅子吼されます。
 「日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦はしらを倒すなり
 また、「種種御振舞御書」には、「開目抄」御執筆の心を次のようにつづられています。
 「日蓮にりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ
 まさに、「日本の柱」とは、いかなる権力の魔性にも倒されない、万人救済の正義の信念に生きぬく覚悟と不惜の闘争があればこそ、表現できる言葉です。
 この御本仏の魂を受け継いだのが創価学会にほかなりません。いな、創価学会しかありません。
 私の脳裏には、会長就任直前の戸田先生の言葉が刻まれています。
 「私には広宣流布しかない」
 「私は立つぞ! 誰がなんと言おうが、恐れるものか! もう、何ものにも邪魔させるものか!」
 「私は、一人立つ!」と。
 いつの時代にあっても、いずれの国土にあっても、広宣流布は、常に「一人立つ精神」から始まります。「一人立つ」心があれば、妙法の力用は自在に発揮されます。
 私も、戸田先生の弟子として、世界広宣流布という未聞の道に「一人」立ち上がりました。
 「一人立つ精神」こそ、三世永遠に変わらぬ妙法弘通の根本原則です。
 そして、「誓願の心」こそ、法華経の行者の魂であり、大聖人の宗教の根幹です。
 この根幹を明かされてから以後の「開目抄」では、「転重軽受」「不求自得の成仏」「慈悲の折伏精神」など、師弟不二の誓願に生きゆく師子の根幹の道を、大爆布の下るがごとき勢いで、教えられていきます。それについては、次章以降に拝察していきましょう。

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