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日蓮大聖人・池田大作

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第十三章 なぜ大難に遭うのか 根源悪「謗法」と戦う法華経の行者

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
1  御文
 有る人云く当世の三類はほぼ有るににたり、但し法華経の行者なし汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり、此の経に云く「天の諸の童子以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わざらん」又云く「若し人悪罵すれば口則閉塞くそくへいそくす」等、又云く「現世には安穏にして後・善処に生れん」等云云、又「頭破れて七分と作ること阿梨樹の枝の如くならん」又云く「亦現世に於て其の福報を得ん」等又云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出せば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩びゃくらいの病を得ん」等云云、答えて云く汝が疑い大に吉しついでに不審を晴さん
2  通解
 ある人が次のように言った。
 今の世に三類の強敵は、ほぼ現れたと言ってよい。ただし、法華経の行者はいない。あなたを法華経の行者であると言おうとすれば、経文と大きな違いがある。この経には、「法華経を持つ者には、天の童子たちが来て、仕えるであろう。また、刀や杖で打っこともできないし、毒をもって害することもできないであろう」(安楽行品)、「もしある人が法華経を持つ者を憎み、罵声を浴びせれば、その人の口は塞がってしまう」(同)、「法華経を持つ者は、現世で安穏であり、未来世は善きところに生まれるであろう」(薬草喩品)、「法華経を説く者を悩まし、その心を乱す者は頭が七つに割れて阿梨樹の枝のようになるであろう」(陀羅尼品)「また法華経を持つ者は、その報いとして、この一生のうちに幸福になる」(普賢品)、「また、この経典を受持する者を見て、悪口を言う者は、そのことが事実であろうとなかろうと、この一生のうちに重病に苦しむであろう」(同)などと説かれている。
 答えて言う。あなたの疑いは実にもっともである。この機会にその不審を晴らそう。
3  御文
 事の心を案ずるに前生に法華経・誹謗ひぼうの罪なきもの今生に法華経を行ずこれを世間の失によせ或は罪なきをあだすれば忽に現罰あるか・修羅が帝釈をる金翅鳥の阿耨池に入る等必ず返つて一時に損するがごとし、天台云く「今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報・将来に在り」等云云、心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云、不軽品に云く「其の罪畢已」等云云、不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪・身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり、又順次生じゅんじしょうに必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし一闡提人これなり(中略)詮ずるところ上品の一闡提人になりぬれば順次生じゅんじしょうに必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし例せば夏の桀・殷の紂の世には天変なし重科有て必ず世ほろぶべきゆへか、又守護神此国をすつるゆへに現罰なきか謗法の世をば守護神すて去り諸天まほるべからずかるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし還つて大難に値うべし金光明経に云く「善業を修する者は日日に衰減す」等云云、悪国・悪時これなり具さには立正安国論にかんがへたるがごとし
4  通解
 この問題の本質を考えてみよう。過去世に法華経誹謗の罪がない者が、今世に法華経を行ずる。この人に対して、世間の罪に事寄せたり、あるいは何の罪もないのに迫害するならば、たちまちに現罰があるということなのか。これは、修羅が帝釈天を射たり、金翅鳥が竜を食おうとして阿耨池に入ったりすれば、必ずその報いを自身に受けて、たちまちに身を損なう
 ようなものである。
 天台は「現在の自身の苦悩は、皆、自身の過去の行為による。現世で積んだ福徳はその報いが将来に現れる」(法華玄義)と言っている。心地観経には「過去の因を知りたいと思うならば、現在の果を見よ。未来の果を知りたいと思うならば、現在の因を見よ」とある。不軽品には「自身の罪の報いを受けおわって」とある。不軽菩薩は過去に法華経を誹謗した罪が自身にあるため瓦喋や石を投げつけられた、という意味である。
 また、次の生に必ず地獄に堕ちると決まっている者は、今世で重罪を造っても現罰はない。一闡提の者がこれである。
 (中略)所詮、極悪の一闡提の者になってしまえば、次の生で必ず無間地獄に堕ちることになっているために現罰はない。たとえば、中国の夏の桀玉、殷の紂王の時代には予兆となる天変がなかった。重罪があって必ず世が滅ぶことが定まっていたためであろうか。
 また、守護神がこの国を捨てたために現罰がないのであろうか。謗法の世は、守護神が捨てて去ってしまい、諸天も守ることはない。このために正法を行ずる者に、はっきりとした守護のあかしがない。かえって大難に遭うのである。金光明経には「善法を修する人は日に日に減少する」とある。悪国・悪時とはとのことである。
 具体的には立正安国論で考察した通りである。
5  講義
 「開目抄」は、日蓮大聖人の宗教」の確立を告げられた書です。
 「主師親の三徳」を主題としつつ、本抄前半では末法の世を救う「法」が、後半では、その法を弘める「末法の師」が明かされていきます。
 特に、その後半では、法華経見宝塔品第十一、提婆達多品第十二、勧持品第十三の経文に照らして、大聖人の弘教、および受けられた迫害が経文と一致することを示され、大聖人こそが末法の法華経の行者であられることを明かされます
 これは「文証」をもって、大聖人が末法の師であられることを示されたと拝することができます。この部分は、これまで詳しく拝察してきました。
 残る問題は、なにゆえに法華経の行者に難があるのか、また、難が起こったときに諸天善神の加護がないのはなにゆえか、という問題です。これは、本抄で大聖人が「此の書の肝心・一期の大事」と言われた問題です。
 この疑問に対して、大聖人は、道理をもって答えられていきます。ゆえに、ここは「理証」をもって、大聖人が末法の法華経の行者であられることを示されたところと拝察できます。本章では、この部分を拝していきます。
 なお、このあとの「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」で始まる一節では、不退転で「日本の柱」として戦い続けることを誓われた大聖人の「大誓願」が述べられ、「末法の師」として屹立する大聖人の御境涯を示されています。
 そして、この一節以後は、大聖人が確立された末法救済の宗教の「信心」「功徳」「実践」が明かされていきます。
 いわば、大聖人御自身の御胸中を明かされて、師弟不二の信心と実践を門下に勧められているのです。
 その意味で、大聖人の御生命に実現された「現証」をもって、末法の師」を明かされているところと拝することができます。
6  大難と戦いぬくなかに真の安穏が
 さて、大聖人が末法の法華経の行者であることを「理証」をもって示されるところではまず、日蓮大聖人が法華経の行者であると言うならば、経文と矛盾が生じてしまうではないか、という問いを挙げられ、その内容に対する反論を展開されています。
 「有る人云く当世の三類はほぼ有るににたり、但し法華経の行者なし汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり
 「大なる相違あり」として、この後に法華経の経文を六カ所引用されています。
 これらの経文を大別すると、(1)末法に法華経を弘通する者には諸天善神の加護が必ずあり、行者は現世安穏・後生善処となる、(2)法華経の行者に対する迫害者は必ず現罰を受ける、という二種類があると言うことができます。
 大聖人は、この問いの直前に、勧持品等の経文を文証とされて、経文に説かれた通りの迫害を受けている御自身こそが真の法華経の行者であり、求めて師とすべきであると仰せです。
 大聖人は、まず論議の前提として、大難を受けてこそ法華経の行者であることを、過去の事例を挙げてあらためて確認されます。
 すなわち、九横の大難に遭った釈尊、杖木瓦石の難に遭った不軽菩薩、殺された目連、提婆菩薩、師子尊者らを挙げて、命に及ぶような難に遭い、諸天善神の加護がなかったからといって、法華経の行者ではないとは言えないではないかと仰せです。
 「御義口伝」に「妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せのように、法華経の行者が安穏といっても、それは大難と戦いぬく境涯の確立のなかに真の安穏があるのです。
 このように過去の事例を示されたうえで「事の心を案ずるに」と述べられて、法華経の行者自身が大難を被り、諸天善神の加護がない理由、あるいは迫害者に現罰が現れない理由を三点にわたって説明されていきます。
 三点を要約すれば次のようになります。
 第一に、法華経の行者が難を受けているのに諸天の加護がないのは、法華経の行者自身の過去世に謗法の罪業がある場合であって、法華経の行者に過去世の罪業がない場合は、迫害者に直ちに現罰がある。
 第二に、来世には必ず堕獄すると定まっている一闡提人には、今生で重罪を犯しても現罰としては現れない。
 第三に、一国謗法のゆえに諸天善神が国を捨て去ってしまっているために、諸天善神の加護が現れない。
 それぞれの点について、御書の仰せに基づいて考察していくことにします。
7  ①法華経の行者自身の宿業
 「法華経の行者を迫害する者には現罰がある」と法華経に説かれていると言っても、それは法華経の行者の過去世に法華誹謗の罪がない場合であると仰せです。
 法華経の行者であっても、過去世に法華経誹謗があれば、その罪の報いとして迫害を受ける。
 不軽菩薩も自身の罪業ゆえに大難を受けたのであり、事実、経文では不軽菩薩自身が「其罪畢己」するまでは、不軽菩薩を迫害した四衆に現罰があったとは経文に説かれていません。
 仏法は因果の理法です。
 「心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云
 現在の果報は過去の業因による。しかし、現在の因によって未来の果報がある。大事なのは、どこまでも「現在」です。
 今を決定づけたのは過去世の因ですが、同時に、未来を決定づけるのは今この瞬間です。過去の業因が未来をも規定するものではありません。むしろ、過去にどのような業因があろうとも、現在の因によって輝かしい未来の果報を得ていくことができることを強調しているのが、日蓮大聖人の仏法の真骨頂です。大聖人が宿業を説くのは、あくまでも宿業は必ず転換できることを示すためです
 大聖人の宿業論については別の機会に詳しく拝察したいと思いますが(第十五章参照)、ここで確認しておきたいのは、大難の因を自分自身の中にも見いだしていくという考え方を示されている点です。これは、宿命転換を可能にするためには、どうしても必要な考え方なのです。
 法華経誹謗の罪業は、実は元品の無明から起こる根源的な悪業です。万人に内在する根源の仏性を否定し、仏性を現していくための教えである法華経や、法華経を弘める人に対して誹謗することこそ、人間としての最大の悪となります。
 この謗法を生む元品の無明こそ、諸々の悪業の根源となるのです。そして、今の人生で元品の無明を妙法への信によって打ち破ってこそ、これまでの悪から悪への生命の流転を止め、妙法を根本とした善から善への流転に転換していくことができるのです。これが宿命転換です。
 大聖人はここで、罰の問題についても、罪なき者を迫害すれば現罰があるとされています。神のような、自分の外の存在が罰を与えるのではない。罰は本人の行為の結果であり、因果の法則に則っているのです。いわば法罰が、仏法で説かれる罰なのです。
 ただし、過去の罪がある法華経の行者を迫害する者に現罰がないといっても、まったく罰がないということではない。即座に現れる現罰がないだけであって、見えない冥罰は厳としてある。それを明かされているのが、次の一闡提人の問題です。
8  ②堕獄が必定の一闡提
 ここで、順次生に堕獄することが必然となっている一闡提人の場合には現罰が現れないと仰せです。
 すなわち、「順次生じゅんじしょうに必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし一闡提人これなり」と仰せのように、迫害者自身が、必ず無間地獄に堕ちることが決まっている場合、目に見えて現れる現罰はないのです。
 「法蓮抄」では、「牢獄に入って死罪に定まっている者は、その牢獄の中でどんな悪事を行っても死罪を行うことが決まっているので新たな罪に問われることはない。しかし、許されることがある者は、獄中で悪事を行った時はいましめられるようなものである」(御書1054㌻)と示されています。
 本抄では、涅槃経を引かれつつ、相当の悪人でも、さまざまなことを縁として心をひるがえし悔いることがあるが、一闡提人の場合には、それがまったくないことを指摘されています。
 一闡提人は、不信・謗法に染まりきって悔いる心がない者を指します。もちろん一闡提人といえども、正因仏性はあります。
 しかし、それを現していくために必要な「信」を持っていない。だから仏性を覆う無明を打ち破れない。ゆえに仏性がないに等しく、悪心を抱き、悪行に走るのです。空に太陽があっても、暗雲が覆っているために、太陽の光に浴することができず、暗闇をさまよっているようなものです。
 無明に覆われた生命は、自他の仏性を信ずることができず、自分が犯している謗法にも麻痺し、取り返しのつかない堕獄の淵に向かっていかざるを得ません。また、現罰がないといっても、心の中は仏性を信じられないことによる根本的な不安にさいなまれています。その心の不安によって、生命は蝕まれていくのです。したがって、現罰が現れていない段階でも、厳然たる冥罰を受けているのです。
 ゆえに大聖人は、「法華経の行者を迫害する者は、初めは何事もないようであるけれども、最後は滅びざるをえない」(御書1190㌻)と断言されているのです。
9  ③諸天善神が国土を捨て去る
 第三には、諸天善神の辞去の問題です。
 「守護神此国をすつるゆへに現罰なきか謗法の世をば守護神すて去り諸天まほるべからずかるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし還つて大難に値うべし」と仰せです。
 これは、「立正安国論」でも示されている「神天上の法門」です。
 「世皆正に背き人ことごとく悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所をして還りたまわず、是れを以て魔来り来り災起り難起る
 すなわち、国中の人々が謗法に陥っているために、諸天善神は法味を失い、その国を捨て去ります。
 諸天善神がいないために、法華経の行者を守護し、法華経を誹謗した者を治罰する働きがなくなるので、迫害者に現罰が出ないのです。
10  法華弘通に生きぬく誓願と実践
 以上のように、本抄では、三つの観点から、法華経の行者が難に遭い、しかも迫害者に現罰がない理由を説明されています。
 過去世の法華誹謗の罪業、一闡提人、そして一国謗法に伴う善神捨国――この三点に共通するのは「法華経誹謗」即ち「謗法」の問題です。
 法華経の行者をめぐって起こる諸悪は、すべて「謗法」という根源悪に深く関係しているのです。
 なぜならば、法華経の行者は「正法」を行ずる人だからです。法華経の行者が「正法」を行じて「謗法」を責めるがゆえに、一闡提人の「元品の無明」を激発し、一闡提人たちは三類の強敵となって現れ、大迫害が起こるのです。
 法華経の行者の戦いは、謗法の悪を滅していくための「宗教改革」の戦いです。だからこそ、必然的に競い起こる迫害によって苦難を受けざるをえない。
 しかし、この苦難は、過去世の法華誹謗の罪業をたたき出す生命鍛錬のためのものであり、悪世に生きる人間の生命に仏界を確立する戦いの意味があるのです。この戦いのゆえに「難来るを以て安楽」との大境地があるのです。
 他方、一闡提人は、法華経の行者を迫害することによって、元品の無明をますます強く起こし、法華経への不信・謗法に染まりきって堕地獄への冥罰を受けます。また、一闡提人の影響で国土全体に不信・謗法が広がれば、国土を守る「諸天善神」の働きが失われてしまう。
 こうしたなかで、法華経の行者が難を乗り越えて正法弘通の戦いを貫くとき、一人一人の生命に仏界が涌現していきます。
 この法華経の行者の妙法弘通の戦いは、個人の「宿命転換・一生成仏」のための戦いであるだけでなく、諸天善神の働きを蘇生させて国土の安穏をはかる「立正安国」の戦いとなって現れるのです。
11  「戦う人間の魂」を創る日蓮仏法
 「法華経の行者であるのなら諸天善神の守護がないのはなにゆえか」、また「迫害者に現罰がないのはなにゆえか」という人々の疑いは、諸天善神の加護を、ただ待ち焦がれ、頼みにするような信仰が前提となった疑問です。
 これに対して大聖人は、一応、道理をもって答えられつつも、法味を失って去った諸天善神をも蘇生させていく「宿命転換」「立正安国」の妙法を宣言されます。
 その御文が「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」で始まる「大誓願」の一節なのです。
 ここに示される末法の主師親としての日蓮大聖人の御境地に照らせば、大聖人の仏法は、諸天の加護がないことを嘆くような宗教ではない。現実に立正安国の実践をすることによって、国土全体に諸天善神の力強い働きを再び起こし、理想郷の実現を目指す仏法であると拝することができます。
 私の胸中には大聖人の大音声が響いてきます。
 今、戦わずしていつ戦うのか。わが門下よ、勇気をもって立ち上がれ!
 師子王の心を取り出して戦えば、いかなる罪障も消滅し、宿命転換することができる!
 我らを迫害する一闡提をも救い、人類の無明を断ち切っていくのだ!
 そして、立正安国を実現し、平和の楽土を築いていくのだ!
 「戦う人間の魂」を創るのが、大聖人の仏法であり、「開目抄」の真髄ともいえます。
 したがって、本質的な意味で、諸天の加護の有無、法華経の行者に対する大難への疑難を乗り越えていくには、「大願」「誓願」に立ち、不惜身命・死身弘法で自ら法華弘通に生きぬく以外にはない。「開目抄」は、「誓願」を持ち、「法」に生きぬく真の宗教のあり方、真の人間の生き方に万人が目覚めてゆく「開目」の本義を示されているのです。

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