Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十二章 僣聖増上慢 三類と戦う「真実の師匠」を求めよ!

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
10  勧持品二十行の偈の身読
 「仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし・いかがせん・いかがせん
 大聖人当時の日本に、経文通りの三類の強敵が出現していることが確認できた。では、はたして、それと戦う法華経の行者は誰なのだろうか、との仰せです。当然、三類の強敵と戦いぬいた法華経の行者は大聖人以外にはおられません。
 そのことを論証されるために、大聖人は、次の勧持品の四つの経文を提示され、これらが大聖人の実践にまったく一致していることを明かされています。
 「衆俗に悪口罵詈せらるる
 「刀杖を加へらるる
 「法華経のゆへに公家・武家に奏する
 「数数見擯出と度度ながさるる
 この四つの迫害の様相は、一つ一つに深い意味があります。
 たとえば、最初に無智の人から「悪口罵詈」されるとありますが、大聖人は、日本中の衆俗から、しかも二十年以上にわたって悪口され続けたのです。大聖人が受けられた難は、どれ一つとっても尋常な規模ではありません。
 「るものは目をひき・く人はあだ
 「犯僧の名四海に満ち」「悪名一天にはびこれり
 「日蓮程・人に悪まれたる者はなし
 万人の意識を変革することの困難さが、この俗衆増上慢からの迫害の様相に示されています。しかし大聖人は、そうした非難中傷の嵐を覚悟のうえで、民衆救済に立ち上がられたのです。なんという崇高な魂であられることでしょうか。この一事を見ても、誰人が真実の法華経の行者かが明確に浮かびあがります。
 第二の「刀杖を加へらるる」については、「上野殿御返事(刀杖難事)」に詳しく示されています。
 そこでは、「二十行の偈は日蓮一人よめり」とされて、「刀杖の二字」、すなわち「刀の難」と「杖の難」の両方にあわれたのは、日蓮大聖人以外に存在しないことを記されています。
 刀の難は、小松原の法難、竜の口の法難です。杖の難として大聖人が特筆されているのは、竜の口の法難の時、松葉ヶ谷の草庵を平左衛門尉頼綱らが襲撃した際、少輔房が大聖人の懐中にあった法華経第五の巻を奪い取り、その第五の巻で大聖人の顔を打ったということです。
 法華経の第五の巻の中に勧持品があります。法華経の行者が杖の難に遭うと記されているのも第五の巻、打つ杖も第五の巻、本当に不思議な未来記である、と大聖人は仰せです。一つ一つが大聖人の身読を証明するように事が運んでいるとしか、拝しようがありません。
 第三に僣聖増上慢からの迫害とは、具体的には権力者への讒奏です。竜の口の法難・佐渡流罪が、讒言によって仕組まれたものであったことは先に述べた通りです。
 言い換えれば、正義の人を陥れようと悪人が卑劣な画策をすれば、それは讒言しか方法がないということです。僣聖増上慢は、宗教的な確たる裏付けなど、もっていません。ゆえに真実の法華経の実践者に対して、卑劣な手段をとるしか、なす術がないのです。
 良観について言えば、戒律を固く持ち不妄語を守らなければならない立場なのに、嘘で人を陥れようとする。その一点だけでも、良観が「両舌」、つまり二枚舌の聖職者失格であることは明らかです。
 最後は「流罪」です。権力からの迫害です。経文には、「擯出」――処を追い出すことであると明確に示されています。
 大聖人は、とりわけ勧持品の一節が「数数見擯出」とあることから、「数数」、すなわち数度にわたる流罪ということを重要視されています。
 「開目抄」ではすでに、この主題を論じられています。
 そこでは、「日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はずいわんや余人をや」と仰せです。
 「数数の二字いかんがせん」――一度ならず二度の流罪(伊豆流罪と佐渡流罪)。大聖人が身延に入られてから、三度目の流罪の噂さえもありました。(「檀越某御返事」1295㌻)
 それほど、魔性は執拗であるということです。その執拗な魔性と戦いぬき、断固として勝ち切ってこそ、法華経の行者と言えるのです。
 大事なことは、執拗な魔性をも圧倒する執念で、「戦い続ける心」を貫き通すことです。
 「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず」です。
 法華経の行者の実践を契機として、それを妨げようと元品の無明が発動した働きが、三類の強敵にほかなりません。「身」が行動している限り、「影」はつきまといます。
 悪が盛んになり善が敗れれば、法性の働きは消滅してしまう。その反対に、善が盛んになり悪を打ち破れば、無明の働きは消滅します。
 常に、瞬間瞬間、生命の中で善と悪の闘争があるのです。「蓮華の花菓・同時なるがごとし」です。したがって、善を強くするためには、悪と戦い続けるしかありません。
 仏法といっても、「法」は目に見えません。善なる法は、法華経の行者の戦う実践の振る舞いのなかに顕現するのです。
 しかしながら、三類の強敵と戦い勝利する法華経の行者に出会うことは稀です。真の仏法の指導者には会いがたいのです。
 ゆえに「求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし」と仰せです。
 「求めて師とすべし」です。
 師弟は、どこまでも弟子が師を求めぬく実践のなかにしかありません。
 自身が求めぬいた時に、戦う師匠の偉大な姿が明瞭に浮かび上がってきます。その意味で、本抄の「関目」とは、”元品の無明・僣聖増上慢と戦う真の法華経の行者の姿に目覚めよ”という意味であるとともに、「開目」の真意は、”師を求め、師とともに魔性と戦いぬく自分自身に目覚めよ”と、弟子の闘争を呼びかけられていることにあると拝することができるのです。

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