Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第十一章 三類の強敵 元品の無明から現れる迫害の構造

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
2  通解
 以上、五つの仏勅によって目覚めた菩薩たちは、勧持品において法華経を弘めることを誓ったのである。明鏡である勧持品の経文を出して、今の世の禅宗・律宗・念仏宗の僧侶および、それらを支える有力な者たちの謗法を示そう。
 日蓮と名乗った者は、去年の九月十二日深夜、子丑の時に首をはねられた。これは、魂魄が佐渡の国に至って、明けて二月、雪の中で記し、縁ある弟子に送るのであるから、ここに明かす勧持品に説かれる難は恐ろしいようであるが、真の法華経の行者にとっては恐ろしいものではない。しかし、これを分からず経文を見る人は、どれほどおじけづくだろうか。この勧持品は、釈迦・多宝・十方の諸仏が、未来の日本国の今の世を映された明鏡である。形見とも見るべきである。
3  御文
 勧持品に云く「唯願くはうらおもいしたもうべからず仏滅度の後恐怖悪世の中に於て我等当に広く説くべし、諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし、悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲てんごくに未だ得ざるをれ得たりとおもい我慢の心充満せん、或は阿練若あれんにゃに納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂つて人間を軽賤する者有らん利養に貪著とんじゃくするが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるることを為ること六通の羅漢の如くならん、是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若あれんにゃに仮て好んで我等が過を出さん、常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗ひぼうして我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其身に入つて我を罵詈毀辱せん、濁世の悪比丘は仏の方便随宜の所説の法を知らず悪口し顰蹙ひんしゅくし数数擯出せられん」等云云
4  通解
 勧持品では次のように菩薩たちが誓う。
 「どうか、心配なさらないでください。御入滅の後、恐怖の悪世に、私たちは必ず法華経を弘めます。仏教を知らない多くの人々が私たちを非難し、ののしり、刀や棒で打つ者があるでしよう。私たちは皆、それを必ず耐え忍びます。(以上、俗衆増上慢)
 悪世の僧は邪智にたけて、媚びへつらいの心があり、まだ悟りを得ていないのに悟ったと思い違いをして、慢心に満ち満ちているでしょう(以上、道門増上慢)
 あるいは、人里離れた所で、粗末在衣を身にまとい、静かな修行の場にあって、自分では真実の道を行じていると思い、俗世間を軽蔑する者がいるでしょう。
 自分の利益にのみ執着しているため、在家の人々のために法を説いて、世間から厚く敬われるさまは、まるで六種の神通力を得た聖者のようです。この人は邪悪な心を懐いて、常に世俗のことばかり考え、山林で修行している立場を表に出して、私たちの過失を挙げつらうことに余念がないのです。
 (中略)常に大衆の中にあって、私たちを非難しようとして、国王や大臣、高僧や社会の有力者、およびその他の僧たちに向かって、私たちを誹謗し、悪人であると説き、邪義を唱える人であり、外道の論を説いていると訴えるでしょう。(以上、僣聖増上慢)
 (中略)濁った時代、悪い世には、多くのさまざまな恐ろしいことがあるでしょう。邪悪な魔が人の身に入って、私たちをののしり、恥をかかせるでしょう。
 (中略)濁った世の悪僧は、法華経以外の教えが、仏の方便の教えであり、機根に合わせた教えであることを知らないで、私たちを悪しざまにののしり、顔をしかめるでしょう。そして、私たちはたびたび追放されるでしょう。
5  講義
 悪世末法に、万人の成仏のために法華経を弘めるのが「広宣流布」の戦いです。この戦いに立ち上がる「法華経の行者」には、あらゆる障魔が競い起こってくることは必至です。魔性の具体的発現として、必ず「三類の強敵」が出来します。その三類の強敵と戦い、勝利してこそ、一生成仏と広宣流布が現実のものとなるのです。
6  障魔に勝ち切ってこそ法華経の行者
 日蓮大聖人の御生涯にあって、三類の強敵が最大の規模で襲いかかってきた極限の法難が、竜の口の法難と佐渡流罪です。しかし、結局は、いかなる魔軍も大聖人の御命を奪うことはできなかった。
 大聖人は、「竜口までもかちぬ」と仰せです。あらゆる法難を乗り越えた末に、ついに権力の手による処刑という絶体絶命の法難にも「勝った!」と大勝利の宣言をされているのです。
 元品の無明を正体とする第六天の魔王が、僣聖増上慢、道門増上慢、俗衆増上慢という悪鬼入其身の軍勢を総動員して、日蓮大聖人の御生命を奪い、広宣流布を破壊しようとしても、敵わなかったのです。あらゆる魔性の跳梁を打ち破られた大聖人の勝利の生命こそが、久遠元初自受用報身如来という御本仏の本地の生命そのものにほかなりません。
 「開目抄」では、大聖人が末法の法華経の行者であられることを論証するために、宝塔品第十一と提婆品第十二が考察されたのに続いて、勧持品第十三の「二十行の偈」に光が当てられていきます。
 それによって、「三類の強敵」という障魔と戦われ、勝ち切った御自身こそが法華経の行者であることを結論づけられていくのです。(御書223〜230㌻)
 勧持品は、宝塔品・提婆品の「五箇の鳳詔」を受けて、八十万億那由位の諸の誓薩が滅後の弘教を誓う品であり、その誓いの言葉のなかに「三類の強敵」が説かれます。いわば、宝塔・提婆両品は”師匠の勅命”であり、勧持品は”弟子の誓い”となります。
 ともあれ、障魔に勝ち切っていくことこそが、末法の広宣流布を担う真の師弟の道なのです。
 本章からは、本抄の急所ともいうべき勧持品の「三類の強敵」の意義を学びます。
7  大聖人は、勧持品の「二十行の偈」を検証される段の冒頭で、御自身の「竜の口の法難」の意義を述べられています。まさに、大聖人御自身が勧持品に説かれる三類の強敵と戦い、魔を打ち破った御境地を示されるととろから説き起こされているのです。
 いわば「魂の勝利宣言」ともいうべきとの御文は、「開目抄」全編が勝利の凱歌であることを示す重要な個所であると拝されます。
 「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・ん人いかに・をぢぬらむ
 ここで「頸を捌ねられた」と仰せられているのは、それまでの大聖人の御立場、即ち凡夫として振る舞われた御立場は竜の口で終えられた、との御断言です。
8  「開目抄」は全編が勝利の凱歌
 すでに本講義の第一章において考察しましたが、ここでは、大聖人が竜の口で発迹顕本されたことを示されています。「魂魄」とは、発迹顕本された大聖人の本地の御生命、すなわち久遠元初自受用報身如来の御生命を意味します。この魂魄が佐渡の国に至り、まさに、この地から御本仏として末法広宣流布の指揮を執られていくという御境地を、今「開目抄」に認められていると宣言されているのです。
 「返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくれば」――文永八年(一二七一年)十一月の初めに佐渡・塚原に到着されてから直ちに構想された「開目抄」が、文永九年(一二七二年)二月に完成し、有縁の弟子に送られます。「有縁の弟子」とは、直接には、竜の口の法難に不惜身命の心で大聖人にお供した四条金吾ですが、広くは、これまで日蓮大聖人に随順して戦ってきた全門下を指します。
 続けて大聖人は「をそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ」と仰せです。「をそろしくて・をそろしからず」とは、”恐ろしいように見えるが、本当は何も恐ろしいことはない”との励ましです。
 確かに、勧持品に説かれる三類の強敵による迫害は恐ろしい。経文に示されている大難の相の恐ろしさもさることながら、その根底にある魔の本質を知れば、まさしく戦慄すべき魔性の恐ろしさに突き当たらざるをえません。
 しかし、どんなに恐ろしい障魔による大難であっても、不惜身命の覚悟で広宣流布に立ち上がられ、今、すべての障魔に勝ち切られた日蓮大聖人の御境地からみれば、何も恐れる必要はないとの仰せです。
 強敵と戦う心こそ師子王の心です。戦う覚悟と勇気があれば、その師子王の心に仏界の生命が涌現する。そこに勝利への闘志も智慧も生命力も涌き出ずる。それゆえに、もはや何も恐ろしくはないのです。
 ゆえに、師子王たる大聖人、および師子王の子たる不惜身命の共戦の弟子にとってみれば「おそろしからず」です。
 しかし、不惜身命の覚悟に立てず、臆病で退転してしまいかねない弟子たちにとってみれば、「みん人いかに・をぢぬらむ」となる。
 すなわち、この勧持品の三類の強敵の経文を覚悟もなく見れば、どれだけ怖じてしまうだろうかと御心配されているのです。
 臆病はそれ自体が、魔に食い破られた姿です。さらには、いつしか生命が深く食い破られて生命力も智慧も失ってしまい、ついには人生全体が敗北の坂を転げ落ちていくしか、なくなる。ゆえに、大聖人は、そうであってはならないと戒められているのです。
 結局は、師匠と同じ覚悟に立たなければ、魔に敗れます。
 ゆえに「開目抄」では、”師弟不二の誓願に立て”との弟子への呼びかけが全編に響きわたっているのです。
9  「当世をうつし給う明鏡」
 次に大聖人は、三類の強敵を説く勧持品の「二十行の偈」の大要を引用されます。(御書224㌻)
 「二十行の偈」の冒頭は、菩薩たちが力強い決意を釈尊に誓うところから始まります。
 ”釈尊よ、何も心配なさらないでください。どんなに恐怖に満ちた悪世の中でも、私たちは厳然と法を説いていきます”。そして、迫害者の具体的な様相や、迫害の内容が次々と説かれていきます。後に妙楽大師が、この内容を三つに分類して「三類の強敵」と表現しました。
 すなわち、第一に「俗衆増上慢」です。仏法に「無智」の在家の人々で、悪口罵詈、刀杖など、言葉や暴力の迫害を加えます。
 第二の「道門増上慢」は、悪世中の比丘です。「邪智」にして心の諂い曲がった比丘たちは、まだ、悟りを得ていないのに得たと思い込み、自義に執着する慢心が充満しています。
 第三が「僣聖増上慢」です「僣聖」とは、”聖者を装う”という意味です。
 この僣聖増上慢の特徴として、次の諸点が挙げられています。
 ① 人里離れた場所に住み、衣を着て、宗教的権威を装う。
 ② 自分は真の仏道を行じていると言って、人々をバカにする。経文の言葉で言えば「人間を軽賤する」。
 ③ 利欲に執着し、それを貪るために在家に法を説く。
 ④ 世間の人々から六神通を持った阿羅漢のように崇められる。
 ⑤ 法華経の行者に「悪心」を懐いて、種々の迫害を起こす。
 ⑥ 自分の宗教的権威を用いて法華経の行者を貶める。
 ⑦ 権力者や社会的有力者などに讒言する。
 ⑧ ”法華経の行者は邪見の人であり、外道の教えを説く”と非難する。
 大聖人は、これらの三類の強敵を全部、現実に呼び起こし、すべてを乗り越えられました。その勝利宣言が、先ほど拝した「竜口までもかちぬ」との御断言です。
 では、大聖人御在世の時代に出現した三類の強敵とは、具体的に誰か。それについて「開目抄」では詳細に論じられていきますが、今は結論だけを挙げておきます。
 まず俗衆増上慢については、”道門増上慢と僣聖増上慢の悪僧たちを支える「大檀那」たち”であると言われています(御書226㌻)。これは、鎌倉の大寺院の高僧に供養する幕府の要人たちを指します。
 次に、道門増上慢については「法然ほうねん等の無戒・邪見の者」であると言われている。これは、法然の系統にある多くの念仏宗の僧たちを指します。
 そして、僣聖増上慢については、ある面から見れば「華洛には聖一等・鎌倉には良観等」であり、別の面から言えば「良観・念阿」であると名指しで指摘されています。これを通して、結局は、「良観」の名が浮き彫りにされ、僣聖増上慢にあたる”一人”を明確にされていると拝察できます。
 まさに、僣聖増上慢の良観を中心として、平左衛門尉をはじめとする権力者たちと、念阿らをはじめとする念仏者たちが結託して、大聖人を亡き者にし、大聖人の教団を壊滅させるために企てた大弾圧が、竜の口の法難と佐渡流罪だったのです。
 「開目抄」では、三類の強敵が具体的に出現したことをもって、大聖人御自身が末法の法華経の行者であることは疑いがない、と考察を結ぼれていきます。
 まさに、勧持品の明鏡こそ、悪世末法の迫害者を映し出すとともに、末法の法華経の行者が誰人であるかを指し示していると言えます。それゆえに「当世をうつし給う明鏡」であり、「仏の未来記」であると仰せなのです。
10  「無智」「邪智」「悪心」から起こる迫害
 さて、あらためて考えてみれば、不思議な明鏡であり未来記ではないでしょうか。法華経においては、悪世では俗衆、道門、僣聖増上慢という形で迫害が起こるという具体的な姿まで予見しえた。しかも、大聖人におかれては、事実として、経文に完壁に符合する迫害を受けられた。
 経文と大聖人の実践の一致の意義については次章で述べますが、どうしてこのような一致が起こりうるのでしょうか。
 それは、一つには、法華経において、生命の無明が引き起こす第六天の魔王の働きが克明に洞察されているからです。二つには、大聖人が、法華経に説かれた通りに、末法の悪世に万人の成仏の法を不惜身命の覚悟で弘められたからであると拝察できます。
 末法は、本抄に仰せのように、まさに”世が衰え、人の智は浅く”(御書190㌻)、”聖人・賢人が隠れ、迷者が多く”(御書199㌻)なる時代です。末法の危機の本質は、人々が権威主義化した宗教や思想に囚われ、従属してしまうために、法華経のような”深き”宗教・思想を退けるようになり、生命のゆがみが増大していくことにあります。
 人間同士がいがみあい、相互に不信を募らせる末法の人々にとって、一切衆生の平等と尊敬を説く万人の成仏の教えである法華経は、いっそう受け入れ難いものとなるのです。自分たちが理解し難いものとして、万人の成仏の法を疎んじるのです。
 そしてさらに、勇んで”深き法”を弘めて真実の民衆救済のために努力する法華経の行者に対しては、憎しみすら抱くようになるのです。
 それは、暗闇に慣れた者が太陽の光を直視できないようなものであり、また、夜盗が光を憎むようなものである。それゆえ、怨嫉の者は、万人に無限の可能性を説く法華経、および、その法華経を弘通する者を軽賎し憎嫉するのです。ここに”謗法の生命”の恐ろしさがあります。
 勧持品の経文に、俗衆増上慢は「無智」ゆえに、道門増上慢は「邪智」ゆえに、そして僣聖増上慢は「悪心」ゆえに迫害を起こすとあります。これは、無明の発動に「無智」「邪智」「悪心」の三つの段階があることを示していると見ることも可能です。
 すなわち、仏法に「無智」の者は、「邪智」「悪心」の者たちの扇動に乗りやすい。ゆえに、往々にして在家の者たちが、法華経の行者に対して直接に悪口を言ったり、暴力を振るうのです。
 次に、無明を「邪智」として現す敵対者です。ひとたびは出家して仏道を求めますが、自身の理解しえた教えを絶対化し、それのみが正しいという邪智を起こすのです。
 特に、万人が成仏できるという法華経は、自分が信ずる仏の絶対性を損なうように見えて容認できない。そのために、さまざまな形で法華経の意義を低めていこうとします。そうした出家者たちが、万人の成仏の法を正しく弘める法華経の行者に対して、強い憎しみを抱くようになるのです。
 最後は、無明を「悪心」として発動させる敵対者です。この悪心は「権力の魔性」に近い。それは、自分の欲望を満たすために宗教的権威を利用しようとする「大慢心」であると言ってもよい。
 経文に、僣聖増上慢は自分の権威を誇って「人間を軽賎する」とある。この心こそ、万人を尊敬する法華経と対極の生命です。それゆえに、法華経の行者に対する憎しみは強く、ありもしない過失を捏造し、中傷する。
 悪心の究極は、権力をも自在に動かし、法華経の行者への大弾圧をはかることに現れます
 無明が深いゆえに、悪心の者は手段を選ばない魔性の権化と化す。ゆえに、僣聖増上慢は迫害の元凶になるのです。
 万人の成仏の法を正しく弘める法華経の行者が、仏法の精神を根本的にゆがめる魔性の勢力に対して、退くことなく戦う局面を深く洞察すれば、そこには、おのずと、正法に対する無明が俗衆、道門、そして僣聖増上慢の出現という形で発動してくることを、ありありと予記できるのです。

1
2