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日蓮大聖人・池田大作

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第十章 提婆品の二箇の諌暁 変毒為薬・即身成仏の法で万人を救え!

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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2  通解
 法華経見宝塔品第十一の三箇の勅宣に加えて、提婆達多品第十二に二箇の諌暁がある。
 提婆達多は一闡提の者であったが、天王如来となることが約束された。涅槃経四十巻に説かれる一闡提の成仏の現証はこの提婆品にある。善星比丘や阿闍世王ら、五逆罪・正法誹謗を犯した無数の者の中から提婆達多一人を取り上げて、それを筆頭の一人とし、続くすべての者もそこに収めて、枝葉の者を従えたのである。つまり、五逆罪や七逆罪を犯した者、正法を誹謗した者、一闡提の者、これらすべての者の成仏が、提婆達多が天王如来となる例によって示されたのである。毒薬が変じて甘露(不死の妙薬)となったのである。その味は、他のあらゆる味よりすぐれている。
 竜女の成仏は、竜女一人だけの成仏ではない。すべての女人の成仏を示している。法華経以前の小乗の諸経では女人の成仏を許していない。大乗の諸経では女人の成仏・往生を許しているように見えるが、ある場合は男性に生まれてから成仏できるという改転の成仏であって一念三千の成仏ではないので、有名無実の成仏・往生である。これも「一つを挙げてすべてに通じる例とする」(文句記)と言って、竜女の成仏は末代の女人の成仏・往生の道を、踏み開けたものなのである。
3  御文
 儒家の孝養は今生にかぎる未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり、外道は過未をしれども父母を扶くる道なし仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ、しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道猶かなひがたし何にいわんや父母をや但文のみあつて義なし、今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕わるれ、此の経は内典の孝経なり、二箇のいさおわんぬ
4  通解
 中国の儒教等における孝養は、ただ今世に限られている。父母の未来を救わないのだから、儒教等での聖人・賢人と呼ばれる者は有名無実である。
 インドの外道は、過去世・未来世を知っているけれども、父母を救う道を説いていない。仏道こそが父母の未来世を救うのだから、聖人・賢人の名がありうるであろう。しかしながら、法華経以前の大乗・小乗の経典をよりどころとする諸宗派は、自分自身の成仏さえ叶えられない。ましてや父母を救うことができようか。ただ成仏の言葉があるだけで、その内実はない。
 今、法華経の時こそ女人成仏の時であり、悲母の成仏も顕れる。提婆達多の悪人成仏の時、慈父の成仏も顕れる。この法華経は内典の孝経である。以上で、提婆品の二箇の諌暁が終わる。
5  講義
 末法の広宣流布。
 それは、釈尊一人だけでなく、多宝如来や三世十方のすべての仏・菩薩の総意として、法華経で示された大願です。
 法華経見宝塔品第十一の「三箇の勅宣」で、釈尊は大音声をもって、会座の大衆に向けて滅後の弘通を呼びかけます。
 ”多宝如来もまた、大誓願をもって獅子吼された。皆もまた大願を発し、この法華経を持ち、弘通していきなさい”
 その釈尊の呼びかけに応じて、諸仏・諸菩薩が立てた末法広宣流布の誓願は、日蓮大聖人が出現されることで成就していくのです。
6  宝塔品・提婆品・勧持品の身読
 「開目抄」では、釈尊が滅後弘通を勧めた迹門流通分の諸品を、宝塔品第十一、提婆品第十二、勧持品第十三と連続して考察されていきます。
 これにより、この三品を身読し、如説修行されている大聖人御自身こそが末法の法華経の行者であることを証明されていかれるのです。
 宝塔品の「三箇の勅宣」「六難九易」によって示されている仏意のままに、大聖人は難信難解の法華経を弘められました。これは、前章でテ―マとなったところです。
 また大聖人は、提婆品の「二箇の諌暁」に示されるままに、末代悪世の民衆を救うために凡夫成仏・変毒為薬の大道を開かれました。本章では、この点を拝察していきます。
 さらに大聖人は、勧持品の「二十行の偈」に説かれている通り、「三類の強敵」の迫害を受け、そのすべてを乗り越えていかれました。
7  宗教の本義を示す悪人成仏と女人成仏
 さて、提婆品の「二箇の諌暁」とは、提婆達多を代表とする悪人の成仏と、竜女を代表とする女人の成仏の二つの法門です。この二つの法門を説くことは、万人を救う末法広宣流布を必ず成就すべきであると、菩薩たちに対して諌め暁すことになるので、「諌暁」と言われているのです。
 爾前権経では明かされていなかった悪人成仏と女人成仏が、明確に説き明かされたことは、法華経こそが、悪世末法に生きる万人の成仏を実現する唯一の大法であることを、あらためて宣言することになります。
 ここに「法華経の真価」があります。すなわち、今までの爾前権経で救済の対象とならなかった最も不幸な人たちを現実に救わずして、末法の民衆救済はありえない、ということです。この「法華経の真価」を光り輝かせていくことは、釈尊の呼びかけに呼応して、仏意を実現する末法の法華経の行者の証でもあると言えます。
 今、目の前にいる「現実の一人」をどう救っていくのか。その戦いがなければ、「民衆救済」という言葉をいかに叫んでも、何の価値も生まれません。
 生きる希望すら失った、最も悲惨な人に、どう生きる喜びをわきたたせていくのか。この命題に答えられない宗教は、もはや「死せる宗教」と言わざるをえません。
 法華経、そして日蓮大聖人の仏法は、「活の法門」と言われるように、すべてを生かしていく蘇生の宗教です。また、絶望の淵にいる人に対して、今日から明日へ、新たな活力を、その人自身の内面から生み出させていく希望の宗教です。
 その希望の宗教こそ、自分が今生きていることに感謝でき、自分を育んでくれた父母をはじめ自分にかかわる一切の人々の恩に報い、一切の人を幸福にしていく大道を説き明かした、真の「人間の宗教」にほかなりません。
 本抄で示されている法華経提婆品の悪人成仏と女人成仏とは、そうした「宗教の本義」に大きく関わるテーマと言えるでしょう。
8  悪世の成仏の道を開く
 本抄で大聖人が「二箇の諌暁」について述べられているポイントとして、次の三点が挙げられます。
 第一に、爾前権経で成仏から最も遠いとされていた一闡提である悪人・提婆に成仏の授記が、なされました。そして、社会的にも宗教的にも差別されていた女人である竜女が真っ先に成仏の現証を現したことによって、法華経が「悪世に生きる一人一人の成仏の道を開く経典しであることが明らかになります。
 そして、この「万人救済の道を開く戦い」に先駆を切る人こそが、法華経の行者なのです。
 第二に、一切衆生の成仏を実現する法理的裏付けとして「一念三千の成仏」を挙げられています。「一念三千の成仏」は法華経にしか見られない法理です。その現実変革の力として、極悪をも極善に転換しうる「変毒為薬」の可能性(悪人成仏)が示され、凡夫の身を改めずに成仏する「即身成仏」の現証(女人成仏)が明かされるのです。
 ゆえに、法華経の行者とは、自らが「一念三千の成仏を体現した人」であるのです。
 第三に、悪世に生きる人々を一人も残さずに成仏させていく「悪人成仏」と「女人成仏」が説かれることによって、”すべての父母の成仏”の道が開かれたのであり、法華経こそが真に父母への報恩を可能にする「内典の孝経」であると仰せです。
 希望の哲学に裏付けられた報恩の心と実践は、人間社会の基盤であり、核心であり、真の絆になります。法華経の行者とは、社会の平和と繁栄を築くための根本の戦いを貫く「立正安国の実践者」なのです。
9  一闡提をも救う「変毒為薬」の妙
 提婆品に説かれる悪人成仏の意義を論じられるにあたって、大聖人はまず冒頭に「提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、涅槃経四十巻の現証は此の品にあり」と仰せです。
 言うまでもなく、提婆達多は、釈尊に師敵対し、正法を誹謗し、破和合僧などの五逆罪を犯した極悪の存在です。
 一切衆生の成仏の法理そのものは、方便品第二の十如実相によって示されています。その意味で、理論的には、方便品で提婆達多の成仏も約束されているはずです。
 しかし、不信・謗法の一闡提が成仏できるかどうかは、人々にとって重大な関心事になったことも間違いないでしょう。特に涅槃経においては、一闡提の成仏は最も大きなテーマとして取り上げられ、一切衆生にことごとく仏性があり、一闡提にも仏性があると仏は述べています。しかし、反面、仏性があるとしても、正法への不信・誹謗の心があるゆえに、現実には成仏できず、成仏は未来の可能性にすぎないとも説かれています。(涅槃経巻27獅子吼菩薩品第11の1、大正12巻524㌻など)
 まさに、そうした一闡提の代表とも言える提婆達多の成仏が、いかにして実現したのか。誰しも疑問に思うことです。未来永劫に無間地獄に堕ち、無間大城を出ることができないとされた提婆達多に、なにゆえに法華経の会座で成仏の記別が与えられたのか。
 御書には、「法華経の提婆品で、教主・釈尊が、過去世の師である提婆達多に天王如来となるだろうと記別を与えられたことこそ、不思議なことだと思われる」(御書945㌻、趣意)と仰せです。
 まさに「不思議」です。結論を先に言えば、それが妙法の力です。大聖人は、提婆達多の成仏によって諸の悪人の得道も疑いないとして、「故に此の経をば妙と云ふ」と仰せです。
 「妙」には三義あります。「開」の義(仏の悟りを開き顕すこと)、「具足」の義(一切の法が完全に具わっていること)、そして「蘇生」の義(蘇らせる力があること)です。(「法華経題目抄」)
 大聖人は、二乗・闡提・女人という爾前経で嫌われた人たちが、法華経によって成仏できることを、次のように仰せられています。
 「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり
 「法華経は死せる者をも治するが故に妙と云ふ
 ここに「死せる者」とは、誤った思想・信念・宗教に執着することによって、仏性を枯渇させてしまった二乗や一闡提のことです。法華経は、そうした生命さえも蘇生させる力を持っているのです。
 なぜならば、法華経は仏性を蘇生させ、活性化させる生命の究極の滋養となるからです。
 寿量品に、「大良薬」(法華経485㌻)と説かれているのは、そのことを意味しています。
 法華経においては、釈尊も、多宝如来も、他の全宇宙の諸仏も、そして菩薩たちも、悟りの妙法を讃嘆し、妙法の力による仏性の開花に歓喜します。
 そして、万人の成仏の誓願を立て、その大願成就のために不惜身命の戦いをしていく。まさに、法華経の全編が、仏性の触発のためにあるのです。仏性への讃歌ともいうべきこの法華経を聞き、妙法と仏・菩薩の生命の織り成す交響曲に触れると、いかなる悪や不幸の生命にも、仏性が呼び醒まされていくのです。
 法華経では、提婆達多のような極悪の生命も、その例外ではないことが示されています。
 大聖人は「開目抄」で、法華経の提婆の成仏こそ一闡提の成仏の現証であり、提婆一人の成仏は、悪世末法のあらゆる悪人の成仏を示していると仰せです。そして、「毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり」と結ぼれています。まさに提婆の成仏は、法華経で示される「変毒為薬」の現証にほかなりません。
10  末代女性の成仏の道を踏み開ける
 続いて竜女の成仏のポイントを確認してみたい。
 ここでも大聖人が結論とされているのは、竜女の成仏は、竜女一人の成仏ではなく、すべての女性の成仏を示しているということです。
 「竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」との仰せは、「一人」の成仏こそが、「万人」の成仏を約束するということです。
 まず「一人」です。一は「万の母」です。どんな「一人」でも救っていくとの情熱なくして広宣流布はありません。
 さらに、大聖人は、権大乗経にも女性の成仏を一見認めているような教えがあることに対して、教義的な面からも破折を加えています。すなわち、爾前経で女性の成仏を認めているようでも、それは「改転の成仏」、すなわち、女性が男性に生まれかわってからの成仏にすぎないと喝破されています。
 これに対して、竜女が示したのは「一念三千の成仏」、すなわち、九界の身を改めることなく仏界の生命を開くことができる「即身成仏」です。要するに、竜王の八歳の娘である竜女の身を改めず、そのままの身において成就する成仏です。
 法華経提婆品では、この竜女の成仏を容易に認めない舎利弗の疑問が記されています。
 すなわち、竜女が成仏したと聞いた舎利弗は「是の事は信じ難し」(法華経408㌻)として、”どうして女性が速やかに成仏できることがあろうか”などと、実にぶしつけな質問を竜女に向かってなげかけます。
 法華経の会座で成仏の記別を与えられた舎利弗でさえ、無量劫の修行を経た後に成仏するという歴劫修行の考え方を捨てきれないため、即身成仏をにわかには信じられなかったのです。
 提婆や竜女の成仏が示しているのは、まさに、「変毒為薬」「即身成仏」という妙法の功力にほかなりません。この功力によって、初めて末法濁世の万人の救済が成り立つのです。妙法こそが、末法の全民衆を根源的に救う大良薬だからです。
11  三道即三徳の「妙」を信ずる
 大聖人は即身成仏のことを「当位即妙・不改本位」とも仰せです。
 「法華経の心は当位即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり
 「当位即妙」とは、今の身が、その身そのままで妙法の当体であるということです。そして、「不改本位」とは、成仏するために、その身から別の身に改める必要はいささかもない、ということです。
 凡夫の身を改めることなく仏の生命を涌現して、現実の振る舞いのうえに仏の性分を発揮していく。この人間革命・即身成仏の道よりほかに、末法の民衆の救済は考えられません。
 また、末法は生命にも社会にも悪の因果が絶えない時代です。先ほどの御文に「罪業を捨てずして」とありましたが、罪業を捨てなければ成仏できないというのであれば、末法の人々の成仏はもはや不可能です。
 「変毒為薬」の法理は、悪から悪への因果が絶えない末法悪世に、根本的な希望をもたらし、絶望と無力感を乗り越えるカを人々に与えるものです。
 大聖人が御書の中で、幾度となく引用されている竜樹の言葉に「譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」とあります。
 これは、まさに法華経の卓越性を表現したものであり、「妙の一字の功徳」を述べたものです。
 富木常忍に与えられた御消息「始聞仏乗義」で、大聖人は、変毒為薬の「毒」とは煩悩・業・苦の三道であり、「薬」とは法身・般若・解脱の三徳であるとされています。そして、妙法の力により三道の悪の因果を生きている生命も、その当体に三徳の善の功徳を現していけることが変毒為薬であると仰せです。
 煩悩・業・苦の三道とは、人間が営んでいる悪と、苦悩の因果の網の目を表現したものです。
 煩悩とは貪瞋癡の三毒等であり、苦をもたらす原因である心の迷いです。
 業は、煩悩から起こり、苦へと至る身・口・意の行いであり、五逆・十悪・四重などが挙げられます。
 苦は、煩悩・業の結果として心身で受ける報いとしての苦悩で、四苦八苦等です。これらによって、人間の生命は、迷いと苦悩に束縛されていくと説かれています。
 法身・般若・解脱は、仏の生命に現れる偉大な功徳であり、「究極の真理」と「清浄な智慧」と「自在の境地」である。
 凡夫の煩悩・業・苦の三道は、迷いと苦悩でがんじがらめになった生活です。仏の法身・般若・解脱の三徳は、究極の真理と智慧に適った、自由で喜びに満ちた生活です。まったく正反対の生活です。
 しかし、妙法の不可思議な力で、三道から三徳へと、劇的な転換ができるのです。それが変毒為薬です。
 三道の因果を営む凡夫の生命は、正反対に見える三徳の生命となっていく種子、つまり仏種なのです。
 この変毒為薬の鍵は、三道即三徳となる生命の「妙」を説く法華経を信じていくことにあります。その「信」が、生命の妙を開くのです。
 牧口先生は、「いかなることがあっても、われわれはこれからのことを考えて生きていくことだ」と言われたうえで、変毒為薬について次のように語られています。
 「妙法の生活とは”変毒為薬”である。社会で生活している以上、時には事故や災難、そして事業の失敗などにあう場合がある。(中略)だが、どんな場合でも妙法根本、信心根本として、御本尊を疑わず、信心に励めば、毒を変じて薬となしていけるのである。
 たとえば、病気をした、これは罰だと悩んでいるだけでは解決しない。そこで”この病気を、かならず変毒為薬してみせるぞ、健康という大福運、大功徳を開くのだと確信し、決意して信心をつづけていくことが大事だ。そのとき、病気が治るだけではなく、全快したときには、以前よりも健康になるのが、変毒為薬の妙法である」
 変毒為薬の法理は、悪世に前向きに生きていくことを可能にする「希望の源泉」であると言えます。
12  法華経は「内典の孝経」
 「開目抄」では、すべての母、すべての父の成仏の道を開いた法華経は、「内典の孝経」にほかならないことを強調され、「二箇の諌暁」の結びとされています。
 「今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕わるれ、此の経は内典の孝経なり
 先ほど拝察した富木常忍あての「始聞仏乗義」で変毒為薬の法理を説かれているのも、富木常忍の母の三回忌のときに、母子一体の成仏を説くためであられた。同抄の結びで、大聖人はこう仰せです。
 「末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん此れ第一の孝養なり
 この一節の中で、末代の凡夫が聞く「此の法門」とあるのは、変毒為薬・即身成仏の法理にほかなりません。
 大聖人が出家された動機の一つには、御自身を育まれた父母の成仏を願われた孝養の心がありました。末法の一切衆生の成仏を願うここと、自分の父母を救うこことは深い関係があります。
 大聖人は、「自身仏にならずしては父母をだにもすくがたし・いわうや他人をや」と仰せです。
 父母への恩に報いるためにも、自身が成仏すべきであると大聖人は幾度も強調されています。また、自分の父母を救えずして、万人を救うことはできない。大聖人は門下にも、真の孝養は法華経によってのみ成り立つことを訴えられています。
 まさに、変毒為薬・即身成仏の妙法こそが、末法の全人類を救済する大法であり、あらゆる父母を救う真の孝養の大道となるのです。

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