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日蓮大聖人・池田大作

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第八章 法華の深恩 悪世に法を弘める人を諸天が断じて守る

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
1  御文
 但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし
2  通解
 ただし、世間が疑っていることであり、自分も心に疑っていることだが、どうして諸天は日蓮を助けないのか。諸天らの守護神は、仏の前で法華経の行者を守護すると誓願している。法華経の行者に対しては、たとえ猿であっても、法華経の行者と讃えて、速やかに仏の前で行った誓願を遂げようと思うべきなのに、それが果たされないのは、この私が法華経の行者ではないのであろうか。
 この疑いは、この開目抄の肝心であり、日蓮一生涯の重大事であるので、随所にこれを書き、そして、疑いをますます強くして答えを示していきたい。
3  御文
 されば諸経の諸仏・菩薩・人天等は彼彼の経経にして仏にならせ給うやうなれども実には法華経にして正覚なり給へり、釈迦諸仏の衆生無辺の総願は皆此の経にをいて満足す今者已満足の文これなり、予事の由を・をし計るに華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をば・その経経の仏・菩薩・天等・守護し給らん疑あるべからず、但し大日経・観経等をよむ行者等・法華経の行者に敵対をなさば彼の行者をすてて法華経の行者を守護すべし(中略)日蓮案じて云く法華経の二処・三会の座にましましし、日月等の諸天は法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸うがごとく月の水に遷るがごとく須臾に来つて行者に代り仏前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候にいままで日蓮をとぶらひ給はぬは日蓮・法華経の行者にあらざるか、されば重ねて経文をかんがえて我が身にあてて、身の失をしるべし
4  通解
 以上のことから、諸経に説かれている諸仏や菩薩や人界・天界などの衆生は、それぞれの経において仏に成ったようであるが、実際には法華経によって真の悟りを得たのである。釈迦仏や諸仏が立てた、すべての衆生を苦しみから救おうとする誓願は、すべて法華経において成就したのである。法華経方便品の「今、ついに満足した」との経文はこのことである。私がこうしたいきさつから考えると、華厳経や観無量寿経や大日経などを読み修行する人を、それぞれの経に説かれている仏や菩薩や諸天などが守護することは疑いない。ただし、大日経や観無量寿経などを読む行者が、法華経の行者に敵対したならば、仏菩薩たちはそれらの行者を捨てて法華経の行者を守護するはずである。(中略)日蓮はこう思う。法華経の二処三会の場にいた日天・月天などの諸天は、法華経の行者が現れたならば、磁石が鉄を吸い寄せるように、月が水面に身を映すように、すぐやって来て、行者に代わって難を受け、守護するという仏の前での誓いを果たすはずであると思っていたが、今まで日蓮を訪ねてこないのは、日蓮が法華経の行者ではないということか。それならば、重ねて経文を検討してわが身に引き当てて、自身の誤りを知ろうと思う。
5  講義
 これまで、「末法の法華経の行者」としての日蓮大聖人の御境地を拝察してきました。それを要約すると、まず末法の法華経の行者である第一の要件として「誓願」を挙げられています。成仏の法としての法華経を、自分も何があっても信じぬき、また、他にも弘めぬいていくという誓願です。
 次に説かれている要件は「忍難」です。誓願を貫き、いかなる大難にも耐えぬいていってこそ法華経の行者です。ただし「難を忍ぶ」といっても、単に受け身で耐えるだけではなく、いかなる大難も乗り越え、勝ち越えていく戦いを貫くことです。
 さらに大聖人は、忍難とともに「慈悲」を挙げられています。忍難の力は慈悲から起こるからです。何があっても末法の全民衆を救済しようと立ち上がった法華経の行者の「慈悲」の前には、いかなる大難も「風の前の塵なるべし」です。
 そして、経文に説かれた通りの実践をしている法華経の行者は、悪世ゆえのあらゆる苦難を吹き飛ばして「悦び」の境地にあることを、願兼於業を例として示されています。
6  「法華経の行者」の要件
 「誓願」「忍難」「慈悲」「悦び」――この大いなる御境地にあられた大聖人が、法華経の行者としての御確信に立たれていたことは言うまでもありません。しかし大聖人は、このように末法の法華経の行者の御確信を示されたうえで、”大いなる疑い”を提示されていきます。
 「但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか
 ――”諸天がどうして、法華経の行者である日蓮大聖人を守護しないのか。諸天善神らは、仏の前で、末法の法華経の行者がたとえいかなる人物であろうと、法華経を行ずる者であるならば、必ず守護するとの誓いを述べたではないか。にもかかわらず守護がないのは、大聖人御自身が法華経の行者ではないからか”――と。
7  「世間の疑」と「自心の疑」
 この「疑い」は、本抄御執筆の背景と深い関係があります。
 すなわち、文永八年(一二七一年)九月十二日の竜の口の法難と、それに続く佐渡流罪は、幕府による大聖人の教団全体への大弾圧であったため、大聖人門下の多くの人々も迫害を受けています。所領没収や追放、罰金などの迫害を受けて、鎌倉の多くの門下たちが退転してしまった。
 「弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり
 「御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候
 そうした状況のなかで、”大聖人が法華経の行者であるならば、なぜ諸天の加護がないのか”という非難が世間から浴びせられます。あるいは、退転していった門下たちも同じ疑問を持っていたのかもしれない。残った門下たちにしても、日蓮大聖人を最後まで信じぬいて戦っていましたが、世間や退転者からの非難に対して反論する力をもっていません。悔しい思いをしながら、仏法の正しき法理の解答を待ち望んでいた弟子たちもいたかもしれない。
 こうした内外の疑問に対して明確に答えることは、万人の心の闇を晴らし、確信を与えるために不可欠なことでありました。その疑網を晴らしていくことに本抄の大部分が割かれていきます。
 ここで大聖人は、「世間の疑」と並べて「自心の疑」とも言われています。これは、当然、大聖人御自身が迷いや不信に通じる疑いを持たれているということではありません。
 世間の人々や門下たちの疑いは、大聖人が法華経の行者ではないのではないか、というものでした。それに対して、大聖人の御胸中には、当然、御自身こそが末法の法華経の行者であるとの御確信がかつかく赫々と燃え盛っておられた。であればこそ、そこに「答えるべき課題」がある。それは、諸天善神が加護の働きを起こさないのはなにゆえか、という問題です。諸天善神による法華守護をめぐる問題こそが、大聖人の「自心の疑」にあたると拝することができます。
 大聖人は法華経の行者ではないのではないかという「世間の疑」と、諸天善神が法華守護の働きを起こさないのはなにゆえかという「自心の疑」――この二つは切り離せない一体の問題です。
8  「此の書の肝心・一期の大事」
 大聖人は、この二つの面を持つ問題について「此の疑は此の書の肝心・一期の大事」と仰せです。すなわち、この疑いこそ「開目抄」の根幹であり、大聖人御生涯の闘争における最重要事であるとまで仰せです。
 この疑いの厚い雲を突き抜ければ、雲海を見下ろし、赫々と太陽が照らしゆく、大確信の青空が広がります。この疑いの解決こそが、「人本尊開顕」に至るための道筋になるのです。それゆえに、「疑いを強くして答をかまうべし」――むしろ疑いをさらに強めて、答えを示そう――と言われています。問題を鮮明にすることによって、真の解決を目指されているのです。
 これ以降の本抄の展開を拝すると、”大いなる疑い”を強めながら解決を示されていく論述は、二つの柱から構成されています。
 一つは、二乗や菩薩・天・人などが法華経において初めて成仏できるようになったという「法華の深恩」を明かし、にもかかわらず彼らが大聖人を守護するために現れないのは、大聖人が法華経の行者ではないからかと、あえて「世間の疑」を強めていきます。(御書203㌻)
 ここで疑いを強める形をとられていますが、実は「諸天善神の守護」の本質を論じられているのです。それは、「成仏の法」である法華経に対する「報恩」として法華経守護の力が発揮されるということです。また、これによって、法華経の行者とは「成仏の法を行ずる人」であるという本質が示されていきます。
 二つは、菩薩に滅後の法華弘通の誓願を勧める宝塔品の三箇の鳳詔、凡夫成仏を説く提婆達多品の二箇の諌暁、三類の強敵を説く勧持品二十行の偈などを考察されていきます。これによって、大聖人御自身の実践が法華経に説かれている通りの実践(法華経身読)であることが示されるとともに、成仏の法である法華経の弘通を妨げる謗法が今の日本国には満ちているという「謗法の醜面」が明かされていきます。(御書217㌻)
 これは、大聖人が法華経の行者であられるという御確信を法華経の経文に照らして確認されつつ、それにもかかわらず、なぜ諸天の守護がないのかという「自心の疑」を強められているのです。
 そのうえで、「自心の疑」に対する答えがいくつかの観点から示されますが、これについてはあらためて考察します。とりあえず、その要点を述べれば、諸天善神が謗法充満の国土全体を捨て去っているからこそ諸天の守護が働かないという点にある。
 しかし、このことはまだ一応の答えです。真の答えは「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」から始まる大聖人の大願を明かした一節にあります。つまり諸天の加護があるかないかが問題ではなく、大難があっても大願を貫き謗法の国土を救っていく戦いをやめない人こそ法華経の行者なのです。
 結局、この第二の論述を通して、法華経の行者とは「成仏の法に背く謗法の悪と戦う人」であるゆえに大難があることが明らかになっていくのです。
 また、そのような真の法華経の行者にこそ、真の諸天の守護はあるのです。
 この点については、以上の二つの論述のうち、第一の点を少し詳しく拝察してから述べたいと思います。
9  二乗に対する法華経の深恩
 第一の論述において、大聖人は、最初に二乗、次いで菩薩・天・人らが、法華経に深恩があることを明確にされていきます。
 すなわち、彼らは、法華経に至ってはじめて成仏することができた。その法華経の大恩に報じるために、法華経を行ずる者を守護することを仏の前で誓っている。だから、末法の法華経の行者の前に出現するのは当然ではないか、という論点です。
 大聖人は、「報恩」の大切さから説き起こされています。(御書203㌻)
 恩を報じることは、人間の最高の徳目です。反対に忘恩の者は、必ず人間としてのあるべき軌道を踏み外す。真の人間の輝きは、恩を知り、恩を報ずるなかにあります。
 まして、法華経の会座に連なった二乗・菩薩・天らが、法華経への深恩を忘れるはずがないではないか、と論を進められていきます。
 最初に取り上げられているのは、二乗です。ここでは、二乗は成仏できないと徹底的に弾呵された爾前権経と、二乗の成仏を実現した法華経とを対比されています。
 法華経以前の経典で、釈尊が声聞たちを問責する厳しさは容赦のないものでした。大聖人は分かりやすく、爾前経で成仏できないと責められた迦葉尊者の泣く声は三千世界に響きわたったと仰せられている。それは、「利他」を忘れ「自利」のみに生きる二乗の心の無明を断ち切るための仏の大慈悲の弾呵です。
 そして、声聞たちは、法華経で「不死の良薬」を得ます。二乗の不成仏は仏道修行者としての死です。しかし、法華経において二乗は、灰身滅智を超えて妙法の智慧を得ます。ここに仏道修行者として蘇生するのです。ゆえに法華経は「不死の良薬」なのです。
 法華経で成仏が許された四大声聞は誓います。「私たちは、真の声聞となった」(法華経235㌻、通解)と。すなわち、仏の声を表面的に聞いて浅く理解していた、これまでの二乗の立場を超えて、仏の真の智慧を深く聞き取り、その仏の声を一切衆生に聞かせていく真の声聞として戦っていくことを宣言します。これは菩薩として蘇ったことを意味します。
 まさに、自身の苦悩からの脱却のみに汲々としていた狭い世界から、一切衆生の救済という大空を無限にはばたく世界へ、師とともに戦う不二の誓いです。そして、経文では続けて、どれだけの報恩を尽くしても、この仏の大恩に報いることはできないと強調されています。十方の世界を見渡す仏眼、法眼を得た二乗が、裟婆世界の法華経の行者を見落とすわけがない。末法に法華経の行者がいるならば、これらの聖者は大火の中を通り抜けでも必ず駆けつけ、法華経守護のために戦うはずである。そうでなければ、後五百歳広宣流布の経文は嘘になってしまうではないか。
 そうであるのに、なぜ、大難を受ける法華経の行者を守護しないのか。声聞たちは、謗法の者たちの味方なのか。このように鋭く糾弾しつつ、大聖人は、二乗の守護がないのはどうしてなのかと重ねて問われ、「大疑いよいよ・つもり候」と結ぼれています。
10  菩薩・天・人に対する法華深恩
 次に、菩薩・天・人に対する法華経の深恩について論じられていきます。(御書207㌻)
 ここでも爾前経と法華経の相違を浮き彫りにしていますが、成仏の法としての法華経の教法がより鮮明に明らかにされていきます。すなわち、方便品の「十界互具」、寿量品の「久遠実成」の法門を取り上げられ、これによって成仏できた菩薩・天・人たちが、いかに法華経に深恩があるかを示されていきます。
 まず、大聖人は、爾前経において諸菩薩は釈尊の弟子ではなかったと言われています
 たとえば、華厳経の会座に集まった菩薩たちは、菩提樹下で初成道した釈尊の前に十方の仏土から現れた存在であり、釈尊の弟子ではありません。そして、彼らが説く法門以上の教えを、釈尊は爾前経で説くことはなかったと言われています。
 その菩薩たちが法華経では合掌して釈尊を敬い、「具足の道」を聞きたいと請います。
 大聖人は、「具足の道」とは十界互具の法理であり、南無妙法蓮華経にほかならないことを明かされます。
 「具とは十界互具・足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり満足の義なり
 十界互具によって、十界各界に仏界を顕すことが実現し、万人平等の成仏が明確になります。方便品の「衆生をして仏知見を開か令めんと欲す」との「衆生」について、大聖人は、「衆生と申すは舎利弗・衆生と申すは一闡提・衆生と申すは九法界」と仰せられ、具足の法によって成仏できたのは、二乗の舎利弗だけでなく、一闡提も含めた九界の衆生すべてであることを明確にされています。
 そして、この万人成仏の道が開かれたことで釈尊の「衆生無辺誓願度」が成就し、あらゆる菩薩・諸天たちは、法華経の一念三千という無上の法門を初めて聞いたと領解したことが示されています。
 この時点でも、十分、菩薩たちにとって法華経は無上の教えとなるわけですが、さらに寿量品の久遠実成の法門によって、法華経の深恩は決定的になります。
 すなわち、寿量品で久遠実成が説かれることによって、諸経の諸仏は皆、釈尊の分身として位置づけられることが示される(御書214㌻)。ここにおいて、諸仏の弟子である菩薩たちも釈尊の弟子となります。
 このように寿量品では、久遠実成の仏に諸仏が統合され、久遠実成の釈尊こそが成仏を目指す一切の菩薩の師となるべき仏であることが明かされたのです。
 この久遠実成の仏は、「永遠の妙法」と一体の「永遠の仏」を指し示しています。この仏こそが、実在の人間である釈尊の本地であると説かれているのは、宇宙根源の法である永遠の妙法の力を人間生命の上に開きうることを示しているのです。
 仏とは、生命に永遠の妙法の力が開花した存在、すなわち妙法蓮華経です。この妙法蓮華経こそ仏の本体であり、本仏です。
 ここに釈尊の説いたとされる一切経の中では初めて法華経寿量品という形で、永遠の妙法が「成仏の種子」として顕現したのです。
 寿量品の仏は、仏の本体である妙法蓮華経を指し示しています。そして、この妙法蓮華経は、万人に内在する生命の法であり、万人の成仏の種子となるのです。
 成仏の種子が寿量品の文底に秘沈されているゆえに、寿量品こそ一切経の頂点なのです。ゆえに、大聖人は寿量品をこう讃えられています。
 「一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の・国に大王の・山河に珠の・人に神のなからんが・ごとくして・あるべき
 ここに、成仏を目指す一切の菩薩が法華経に深恩を感じるべきゆえんがあるのです。
11  「才能ある畜生」と喝破
 大聖人御在世当時の諸宗は、一切経の中では寿量品の仏こそが成仏の修行の本尊とすべき仏であることを知りません。知らないどころか、事実を隠し、ゆがめている宗派さえある。
 末法は、悪比丘が出来し正法を隠します。その結果、法華経の真実が見失われます。やがて、諸宗は本尊に迷います。
 大聖人は、当時の諸宗の本尊観・成仏観について、寿量品に説かれた成仏の種子を持つ根本の仏に迷っていることを厳しく破折されています。それは、王子が、国王である自分の親に迷い、王をさげすんだり、他人を王と思うようなものであると、分かりやすく教えられています。そして、寿量品の仏を知らない諸宗の者は父を知らない子のように「不知恩」であり、仏法を知っているように見えて、その実は「才能ある畜生」であると鋭く喝破されている。
 ともあれ、法華経を聞いて成仏した菩薩らは、法華経の行者を守るために、磁石が鉄を吸うように、月が水に映るように、たちまちのうちにやってきて仏の前で誓った守護の誓いを果たさなければならない。そうであるのに、なぜ、今まで大聖人を守るために出現しないのか。その結論として、「日蓮・法華経の行者にあらざるか」と、疑いをさらに強められていくのです。
 そして、「されば重ねて経文を勘えて我が身にあてて、身の失をしるべし」(同行)とまで仰せられ、”大いなる疑い”の第二の論述へと考察を引き継がれていきます。
12  本尊とは法華経の行者の一身の当体
 さて大聖人が第一の論述において、法華経で初めて成仏の法を知り、また成仏したとされる二乗、菩薩などの法華守護を論じられているのは、諸天善神の守護の働きは成仏の法である妙法の力によるからであると拝することができます。
 言い換えれば、元品の法性が諸天善神と現れるのです。であればこそ諸天善神は謗訟が充満する国土を見捨てて去ると言われる。しかしまた謗法の悪世にあっても、妙法を守り、妙法を弘めていく法華経の行者がいれば諸天善神がこの人を守るのです。
 どんな悪世でも、諸天善神は、仏法のために戦う人を草の根を分けても探し出し、断じて守護する。仏法のために戦う人は、三世永遠に妙法に包まれ、妙法と一体の当体となるからです。
 二乗、菩薩などによる法華守護を論ずるなかで、大聖人は、「成仏の法である妙法を行ずる人」、また、「妙法に背く謗法と戦う人」という「法華経の行者」観を提示されています。
 末法においては、法華経の行者の身においてのみ、妙法が現れているのです。方便品で明かされる「十界互具」も、寿量品で久遠実成の仏が説かれることによって指し示される「種子の妙法」も、法華経の行者の一身以外にあるのではありません。
 ゆえに大聖人は、「御義口伝」に、おいて「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と仰せです。
 成仏の修行の明鏡となり、指標となる本尊は、法華経の行者の一身に拝することができるのです。
 ここに諸天の守護と法華経の行者をめぐる問題が「此の書の肝心・一期の大事」と言われるゆえんがあり、また「開目抄」が「人本尊開顕」の書と言われるゆえんがあるのです。

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