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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 本因本果 信心で開く永遠の仏界・無限の菩薩行

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
2  通解
 ――華厳経をはじめ般若経、大日経などの諸経は、二乗作仏を隠すだけでなく、久遠実成をも隠して説かなかった。これら爾前の諸経典には二つの欠点がある。一つには「差別観を残すゆえに、まだ方便の教えにとどまっている」といわれるように、迹門の一念三千を隠している。二つには、「始成正覚の仏を説くので、まだ仏の仮の姿を取り払っていない」といわれるように、本門の久遠実成を隠している。この二つの偉大な法門は、釈尊一代の大綱・骨格であり、全経典の真髄である。
 迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて、爾前経の二種の欠点のうちの一つを免れた。しかしながら、迹門ではまだ仏が発迹顕本していないので、真の一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらない。水に映った月を見ているようなものであり、根なし草が波の上に浮かんでいるのに似ている。
 本門に至って、始成正覚を破ったので、爾前・迹門における蔵・通・別・円の四教に説かれたすべての仏果が破られた。四教のすべての仏果が破られたので、四教のすべての仏因も破られたことになる。爾前・迹門に説かれた十界の因果を打ち破って、本門の十界の因果を説きあらわしたのである。
 これこそがまさしく本因本果の法門である。九界も無始無終の仏界に具わり、仏界も無始無終の九界にそなわって、真の十界互具、百界千如、一念三千なのである。
3  講義
 この御文では、法華経本門寿量品第十六に説かれる成仏の法である「本因本果の法門」について明らかにされています。
 「本因本果」とは、法華経寿量品で説かれる「久遠の昔における成仏の因果」のことです。寿量品では、釈尊の真の成仏は五百塵点劫という計り知れない久遠の過去のことであると説かれます。この久遠の成仏を「久遠実成」と言い、この時の成仏の原因を「本因」、成仏の結果を「本果」と言います。
 この本因本果による成仏は、寿量品の文の上では釈尊のこととして説かれています。しかし、文底の立場から見れば、釈尊の成仏だけに限られるわけではありません。本因本果は、釈尊の久遠の成仏であるとともに、最も根本的で普遍的な成仏の因果を示しているのです。したがって、万人の成仏の因果でもあるのです。
4  爾前二種の失
 御文では最初に妙楽大師の言葉を引かれながら、爾前経における法理上の二種の欠点を挙げられています。
 その第一は、法華経迹門で説かれる一念三千を爾前経では隠しているという欠点です。
 ここで言われている「行布を存する」とは、仏道修行に段階・差別を設ける考え方が爾前諸経にあるということです。この考え方の前提には、衆生の十界の違いを固定化する差別観があります。
 特に、九界と仏界の間に超えがたい隔たりがあるとの差別観から、九界の衆生が成仏するためには歴劫修行が必要であるとか、二乗は絶対に成仏できないなどと強調されるのです。
 このように十界の差別を固定化する方便の教えが説かれて、真実の教えが未だ明かされていないことが「権を開せず」ということです。
 法華経迹門では、この差別観を打ち破ります。すなわち二乗作仏を強調し、諸法実相を説いて、「九界の衆生に仏界が具わる」「あらゆる衆生に成仏の可能性がある」という「迹門の一念三千」が明確にされます。
 「爾前二種の失」の第二は、法華経本門に説かれる「久遠実成」を爾前諸経は隠しているということです。
 爾前諸経では、釈尊が「始成正覚」で成仏したと説きます。始成正覚とは、今世で始めて正覚(悟り)を成就したという意味です。これは、過去世の長遠の歴劫修行を経て、今世で始めて成仏したのが釈尊であるということです。つまり始成正覚は、歴劫修行を前提とした成仏観なのです。
 したがって、この成仏観は、九界と仏界は隔絶しているという考え方のうえに成り立っていると言えます。
 法華経迹門では、衆生について成仏の可能性があることが明かされて「爾前二種の失」のうちの一つは免れたとはいえ、仏についてはまだ始成正覚の成仏観がそのまま残っているのです。
 久遠実成を説かないという失を残している迹門の一念三千について、大聖人は「いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず」と仰せです。
 発迹顕本とは、寿量品で仏の仮の姿(迹)である始成正覚を打ち破って、仏の真実の姿(本)である久遠実成を顕したことです。
 仏の真実の姿を明かさずに、いくら二乗作仏を説き、九界の衆生に仏界が具するという迹門の一念三千を説いても、それは真実の一念三千とは言えず、二乗作仏も確定しないと仰せです。そして、迹門の一念三千に根拠がなくて不確かであることを、「水中の月」「根なし草」に譬えられています。
5  発迹顕本と本因本果
 次に、”寿量品の発迹顕本がなければ真実の一念三千が明らかにならない”と仰せの点について考察したい。
 寿量品で久遠実成を説いたことの意味は、始成正覚の迹を打ち破ったことと、本因本果を顕したことにあります。
 大聖人は、”始成正覚を打ち破ることによって、爾前迹門の四教にさまざまに説かれる成仏の果がすベて打ち破られた”と仰せです。また、”成仏の果が破られたということは、四教で説かれるすべての成仏の因もととごとく破られた”と言われています。
 こうして、「爾前迹門の十界の因果」をことごとく打ち破るのが、発迹顕本の一つの意義です。「十界の因果」とは、九界を因とし、仏界を果とする成仏の因果のことです。
 そして寿量品では「本門の十界の因果」である「本因本果」が明かされます。つまり、真実の成仏の因果が説かれます。これが発迹顕本のもう一つの意義です。
 ここで、まず寿量品の文上で本因本果がどのように説かれるかを述べておきたい。
 寿量品では、「我れは実に成仏してより己来、無量無辺百千万億那由他劫なり」(法華経478㌻と説かれ、釈尊の真実の成仏は計り知れない久遠の昔のことであったと明かされます。さらに、「我れは成仏してより己来、甚だ大いに久遠、なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして減せず」(法華経482㌻)とも説かれ、久遠実成の仏は常住不滅であることが明かされる。この常住不滅の仏界の生命が、久遠における成仏の果、すなわち本果です。
 次に本因については、「我れは本と菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶お未だ尽きず、復た上の数に倍せり」(同㌻)と説かれます。
 すなわち、本果の仏界の生命だけでなく、成仏の本因となった菩薩行を行ずる九界の生命も、成仏してからの五百塵点劫の間、尽きることがなかったとされ、さらに、これから五百塵点劫の二倍の間も尽きることがないであろう、と述べられています。
 本果である仏界の生命が常住不滅であるとともに、本因である菩薩行を行ずる生命も尽きることがないのです。このように、九界の生命を断じて、仏界の生命を成就するという爾前諸経の成仏観とは大きく異なるのが、本門の因果、本因本果です。
 事実、寿量品では、久遠実成の仏は成仏してからも、九界の現実世界で衆生を救い続けるという菩薩行を絶やすことはないと説かれています。
 ここに、寿量品の発迹顕本によって真実の仏の姿が明らかになるのです。いうなれば、それは、「無限の菩薩行を現す永遠の仏」です。
 九界の現実のなかで無限の菩薩行を行ずる生命は、九界の生命です。しかし同時に、永遠の仏界の生命が、その無限の菩薩行を現す根源のエネルギーになっているのです。
 今世で始めて成仏したとされる始成正覚の仏は、入滅すると別世界の浄土に入るなどとされ、現実世界で菩薩行を続けることはありません。それに対して、久遠実成の仏は、現実世界がそのまま浄土であり、寂光土なのです。
 そして、このような寿量品の仏にとって、九界の現実は、永遠の仏界の活力を自身の生命から現していくための機縁であり、仏界の智慧と慈悲を発揮するための舞台にほかなりません。また、九界の現実に苦しむ衆生は、いたわり救っていくべきわが子であり、仏界の自由を分かち持っていくべきわが友なのです。
 仏界という真の自由を得た仏は、仏界の力で心身をコントロールし、魔性に打ち勝ちゆく真実の「勝利者」「主体者」として一人立ちます。とともに、その仏は、他の衆生の生命にも現実世界の根底にも仏界の力が潜在することを認める。そして、それを顕在化させていくために、世界と衆生に常に語りかけ、「勇気ある行動」「自在の智慧」そして、「大誠実の対話」を貫くのです。
 このように、始成正覚を破り、久遠実成の本因本果を明かす寿量品の発迹顕本は、それまでの仏陀観・成仏観を大きく転換するものでした。
 ただ、寿量品の文上では、久遠実成の仏の「本果」が中心的に説かれており、本因は先に挙げた「我れは本と菩薩の道を行じて」(法華経482㌻)の経文にとどまっています。
6  無始の仏界と無始の九界
 久遠実成の仏の本因本果を説く寿量品の文底に、凡夫成仏の要法が秘沈されていることを洞察されたのが、大聖人であられる。
 大聖人は、本因本果について次のように仰せです。
 「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし
 「無始の仏界」とは、文上では、久遠実成の仏が成就した常住不滅の仏界の生命です。先に述べた通り、常住不滅の仏界の生命を成就した久遠実成の仏には九界の生命も具わっているのです。ゆえに「九界も無始の仏界に具し」と仰せなのです。
 仏界の生命を成就していながら、九界の現実世界で衆生救済のために戦いぬいていく久遠実成の仏においては、苦悩や悲しみなどの九界の生命も衆生救済のために働いているのです。
 普通、苦悩や悲しみは、その人の生命を閉ざし、萎縮させていくものです。それに対して、無始の仏界に具わる九界の生命としての苦悩や悲しみは、衆生を救うための同苦であり、大悲です。それは、仏界の活力がたゆみなく働き、生命が広々と開かれているゆえに起こる積極的な感情です。
7  次に「仏界も無始の九界に備りて」と仰せです。
 まず文上に即して考察を進めると、天台大師の『法華文句』巻九下には「初住に登る時、己に常寿を得」(大正34巻233㌻)とあります。久遠の菩薩行において、不退転の位である初住位に登った時に、すでに常住の菩薩界の生命を得たというのです。
 すべての菩薩は最初に衆生無辺誓願度(あらゆる衆生をすべて救いたいとの誓い)をはじめとする四つの広大な誓願(四弘誓願)を立てます。その菩薩の生き方が間違いないと確信し、永遠に菩薩の実践から退かないと不退転の誓いを新たに固めたことが、常住の菩薩界を得たということではないでしょうか。釈尊はこの確たる誓いがあるゆえに、成仏してからも無限の菩薩行を続けていくのです。
 この『文句』の文を受けて日寛上人は「三重秘伝抄」で、「既に是れ本因常住なり、故に無始の九界と云う」と述べています。生命の「無限の菩薩行」を続ける側面を、大聖人は「無始の九界」と呼ばれたということです。
 九界と仏界は、「無常」と「永遠常住」の違いがあるとされ、この隔たりを超える道として、爾前経では何回も生まれ変わって修行し成仏に近づいていくという歴劫修行を立てたのです。しかし、これでは、結局、九界を捨てて仏界に至るという厭離断九の成仏観しか示せません。
 これに対して、法華経本門では、永遠の仏界の生命とその具体的実践である永遠の菩薩道を説いて「仏界即九界」「九界即仏界」を明かした。そして、釈尊の本因本果を通して一人の生命に十界が常住することを示し、それ以前の因果をすべて打ち破ったのです。
 法華経本門で本因・本果が明かされて、仏界と九界がともに生命に本有であり常住であることが示されたので、名実ともに生命に十界が具足することになります。それゆえ、大聖人は”本門で本因本果が説かれて「真の十界互具・百界千如・一念三千」となった”と仰せなのです。
 しかし、これはあくまで文上に即しての説明です。
 深く洞察すれば、釈尊一人にとどまらず、すべての生命は本来的に「永遠の仏界」を現し「無限の菩薩行」を続けることを求める存在であると言えます。自他ともの幸福を本来、願い求めるのが生命なのです。
 本因本果についての大聖人の仰せには、あらゆる凡夫の本因本果を明かすという文底の意が拝せます。
 日寛上人は「三重秘伝抄」で、文底の義として、「本因初住の文底」に「久遠名字の妙法、事の一念三千」が秘沈されていると示されています。
 「初住」とは、仏と成って万人の救済を実現しようと自身の生き方の根本目的が定まった境地であり、どのような困難があろうとも永遠に菩薩道を前進し続け、決して退かないと心が決まった境地です。釈尊が久遠において、永遠の菩薩道を実践し続けることを真に決意したときが、釈尊の久遠実成の「本因」です。しかし、その初住位に登った修行の原動力として、成仏の根源の法である「久遠名字の妙法、事の一念三千」があると言われているのです。
 「名字」とは「名字即」のことで、妙法を初めて聞いて信ずる凡夫の位です。「久遠名字の妙法」とは、凡夫が実践し成仏を実現する根源の法です。その法とは南無妙法蓮華経であると、直ちに説き示されたのが大聖人であられるのです。
 寿量品文上では、釈尊が成就した仏界の本果を表に立てて本因本果を示したと言えます。これに対して、文底の仏法では、本因の菩薩行を行ずる菩薩を表に立てて、本因本果を論ずるのです。これは、九界の凡夫に即して成仏の真の因果である本因本果を明らかにしていくことを意味します。これが、大聖人の仏法における文底の本因本果です。
 すなわち、凡夫が初めて妙法を聞いて信受し、果てしない菩薩道の実践を決意するのが本因である。そして、その凡夫の生命に永遠の仏界の生命を涌現することをもって、本果とするのです。
8  では、この大聖人の仏法において、「無始の九界」とは、どのようなことでしょうか。
 それは、九界の衆生が、その生命を支配していた無明を打ち破った時の生命だと拝せられます。その生命から仏界の働きが起こるので、「仏界も無始の九界に備りて」と仰せられているのです。
 その無明を破るのが「信」です。何に対する信かと言えば、永遠の妙法への「信」です。万人が、その「信」を立てることを可能にするために大聖人が顕されたのが、御本尊と唱題です。
 大聖人は「義浄房御書」で、寿量品の「一心欲見仏不自惜身命」(法華経490㌻)の文によって御自身の仏界を成就されたと仰せです。(御書892㌻)
 そして不自惜身命の信心とは妙法蓮華経への信であることを示されたうえで、「一心欲見仏」を「一心に仏を見る」「心を一にして仏を見る」そして「一心を見れば仏なり」と三回、転読されて、御自身の仏界成就を説明されています。
 最初の二つは因で、信心の一心を表し三つ目の「一心を見れば仏なり」は果で、仏界成就の一心を表していると拝することができる。信心の一心に本因本果が成就するのです。
9  以上のように「無始の仏界」「無始の九界」が明かされてこそ、無常の九界と永遠の仏界との断絶を乗り越え、両者が一致できるのです。そこに、本当の意味で十界互具が成り立つのです。十界互具が成り立てば、一念三千も成り立ちますゆえに「真の十界互具・百界千如・一念三千」と言われているのです。

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