Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 文底 全人類を救う凡夫成仏の大法

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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7  末法流布の大法
 この一節の結びとして、大聖人は、「一念三千の法門」を竜樹や天親は”知つてはいたが、それを拾い出して説くことはしなかった”、ただ、天台智者大師だけが”心の中に懐いていた”と仰せられています。
 「竜樹・天親・知って」とは、釈尊滅後の正法の系譜を継承した竜樹・天親も法華経の極理を知っていたとの内鑒冷然の原理を示していると拝されます。
 たとえば竜樹は、他の諸経では不成仏とされた二乗の成仏を説く法華経の「変毒為薬」の力を賛嘆して、法華経こそが真の秘密の法であって、他経にはこの力がないと述べています。これは、九界の生命に仏界を涌現する凡夫成仏を可能にする法華経の極理を知っていることを意味します。
 しかし、「知つてしかも・いまだ・ひろいださず」と仰せのように、「時」が未だ至らいために、一念三千を人々の前に提示することはなかったのです。
 そして、「但我が天台智者のみこれをいだけり」とは、像法時代の天台大師だけが、一念三千の観念観法を行じていたことを示されていると拝せます。
 しかし、天台大師の一念三千は実質上、自行にとどまっており、自他ともの凡夫成仏の法として広く弘めたわけではありません。
 一念三千を「知っていたが顕さなかった」「内に懐いていた」と正法・像法の正師たちについて言及されている元意は、日蓮大聖人こそが「末法に弘める」ことを言外に示されるためです。本抄の後半は、その大聖人の法華経の行者としての弘教について述べられていきます。
 文底の一念三千は「事行」の法です。「法」はがあるものではなく、”弘める”べきものです。「法」を弘めることによって万人の内なる仏性を照らし、その人自身を輝かせてこそ、初めて、法の価値は発揮される。言うなれば、価値を創造しなければ、法の存在意義は生まれないとさえ、言えるのです。
 その意味から言えば、「一念三千の法門」なかんずく「文底の一念三千」を、いっ、誰が弘通するのか。その主題抜きに文底の法を論じても、画餅にすぎない。
 真の一念三千の法門を末法に弘める者こそが、末法の主師親三徳であり、その教主とは日蓮大聖人にほかならないそれを明らかにしていくために、この文底秘沈の一節があるのです。

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