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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 文底 全人類を救う凡夫成仏の大法

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
2  通解
 ――ただし、この法華経に迹門理の一念三千と本門事の一念三千という二つの大事な法門がある。倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗などは、一念三千の名さえ知らない。華厳宗と真言宗との二宗は、この法門をひそかに盗んで自宗の教義の骨格とし、眼目としている。この一念三千の法門は、釈尊の一代仏教のなかでも、ただ法華経、法華経のなかでも、ただ本門寿量品、本門寿量品のなかでも、ただ文の底に秘し沈められたのである。竜樹や天親は、一念三千を知ってはいたが、それを拾い出して説くことはせず、ただ、わが天台智者大師だけが、これを心のなかに懐いていたのである。
3  講義
 この御文において日蓮大聖人は、「凡夫成仏」の鍵となる根源の法を「一念コ一千の法門」と呼ばれ、それが「但法華経の本門・寿量品の文の底」に秘沈されていると述べられています。
 「文の底」に秘沈されている一念三千とは、「一切衆生の成仏」を掲げる法華経の真髄というべき法理で、一言で言えば、「凡夫成仏の大法」としての十界互具・一念三千であると言えます。
 大聖人は、この文底仏法を説かれることによって、末法という悪世における民衆一人一人の根源的な救済の大道を開かれたのです。
4  文底の一念三千こそ凡夫成仏の要法
 日寛上人が、この「但」の字を三重に冠して拝され、三重秘伝の教判を立てられたことは、よく知られています。
 すなわち、釈尊一代の教えのなかでも「ただ法華経」と読めば権実相対して「迹門の理の一念三千」を明かし、法華経のなかでも「ただ本門寿量品」と読めば本迹相対して「本門文上の事の一念三一千」を明かし、そして寿量品のなかでも「ただ文の底」と読めば種脱相対して「文底事行の一念三千」を明かすことになります。
 また、一念三千は、ともすると「三千」という法数に目を奪われがちですが、この原理の中核は、むしろ「十界互具」にあります。
 本抄では、この文底秘沈の御文に続く個所で、「一念三千は十界互具よりことはじまれり」と仰せです。
 そしてこの後、成仏の要法としての「本因本果」「真の十界互具」が明かされていきます。(「爾前にぜん迹門しゃくもんの十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」)
 さらに、文底事行の一念三千においては、十界互具といっても、九界即仏界・仏界即九界が重要となる。「撰時抄」に「一念三千は九界即仏界・仏界即九界と談ず」と仰せの通りです。
 なぜ九界即仏界、仏界即九界が焦点となるのかと言えば、そこに凡夫成仏の原理が示されているからです。すなわち、煩悩・業・苦に満ち、無常であると思われた凡夫の生命、すなわち「九界」の衆生の生命に、永遠の「仏界」の清浄にして自在な生命力が涌現し、躍動することを示す法理だからです。「毒を変じて薬と為す」がごとき生命の劇的な転換が起こるのです。
 大聖人は、九界の凡夫の身を捨てずに仏界の生命を現す凡夫成仏の道、つまり事実として十界互具を実現する道を、寿量品の久遠実成の根底に洞察されたのです。
 また、煩悩・業・苦に沈む九界の生命を仏界の生命へと転換することを可能にするのが、妙法への「信」であり、その信を根本とした「祈り」と「行動」です。
 法華経に説かれる不軽菩薩は、自他の仏性を信ずる不屈の信念と、人を敬い礼拝する行動を貫くことによって、ついに凡夫の身のままで宿業を転換し、六根清浄の功徳を得て、成仏しました。
 自他の仏性に対する「清浄で強い信」は元品の無明を打ち破る力であり、「深き祈り」は妙法と一体の仏界の生命力を涌現させる力があるのです。そして、妙法を唱え続ける「持続の題目」は仏界の力を絶えずわが身に顕現させ、一生成仏を可能にする力があります。
 このように大聖人は、十界互具が事実として実現する道を、「信」「祈り」「唱題」という身・口・意の三業にわたる事行の南無妙法蓮華経」として確立してくださったのです。そして、いわば見えない自他の仏性への信を開くために、御自身の南無妙法蓮華経の生命を御本尊として顕され、私たちの信心の明鏡としてくださったのです。
5  文底は文・義・意の「意」にあたる
 ここで、「寿量品の文の底」と言われている意味を、文・義・意の三つの面から考えてみたい。
 寿量品には開近顕遠、久遠実成、方便現涅槃などの文・義が説かれ、それを通して、釈尊の本地は、久遠の過去から永劫の未来にわたり、裟婆世界を含むあらゆる世界の一切衆生を救い続ける永遠の仏であることが明かされます。
 そして、この仏の永遠の生命が、久遠の昔における菩薩行によって得られたと説かれます。すなわち「我本行菩薩道」の文がそれです。この久遠の菩薩行に凡夫成仏の鍵がある。
 ただし、これら経文上の文・義にとらわれると、どうしても、本果の姿を示している教主釈尊に目が奪われます。
 そうすると、自分の外にいる本果の釈尊に”救済してもらう”という誤った信仰に陥ってしまい、絶対的な神仏に”すがる信仰”に終わり、自身の内に仏界を現すという真の成仏は得られない。
 寿量品文上の釈尊が永遠の妙法の力を本果の仏として示したのに対して、文底の仏法は、久遠の菩薩行を修行している凡夫の釈尊を表に立てつつ、凡夫における本因の法と実践を明確に定めていくのです。寿量品の文上には凡夫成仏・十界互具が明確に説かれているわけではない。しかし、その「意」においては、凡夫成仏の要法が文底に厳然と拝されるのです。
6  宗教的精神を忘れるな
 さて、寿量品の「文底」に秘沈された、真の十界互具・一念三千による凡夫成仏は、「法華経の心」であり、「仏法の肝要」であり、また「宗教の根源」でもあると言えます。
 私はこれまで、識者との対談や海外講演で、折に触れて「宗教的精神」や「宗教的なるもの」の大切さを強調してきました。(マジッド・テヘラニアン対談『二十一世紀への選択』、本全集第108巻収録。ハーバード大学記念講演「二十一世紀文明と大乗仏教」、本全集第2巻収録など)
 「宗教的精神」とは、虚無から勇気を、絶望から希望を創造する精神の力であり、また、その力を自他の生命に、そして宇宙の万物に見いだしていく精神です。
 どんな苦難や行き詰まりがあっても、自分のなかにそれらを乗り越えていく力があることを信じ、行動し、新しい価値を創造していく魂が宗教的精神です。
 あらゆる宗教は、人間のこの宗教的精神から生まれてきたのであり、宗教的精神はいわば宗教の原点であり、源泉と言える。
 大聖人は、人々が無常なものに執着し、貪・瞋・癡に翻弄されて、不信と憎悪で分断されていく末法の時代は、宗教もまた、原点の宗教的精神を忘れ、人間から遊離して、硬直化し形骸化し細分化されたそれぞれの教義にとらわれ、争い合う時代であるととらえられました(闘諍言訟・白法隠没)
 そして、根源の宗教的精神を復活させなければ、人々も時代も救済できないと考えられたと拝されます。
 ゆえに、事実として人間生命に仏界を開いていく真の十界互具・一念三千を「文の底」にまで求めていかれたのです。
 だからこそ、人間の生命の永遠性を確かに把握し、人間が現実の行動のなかに永遠性を輝かせゆくことができる事行の一念三千として、文底の一念三千を確立されるに至ったと拝することができます。
 御文では、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗などは一念三千について”名さえ知らない”、また華厳宗と真言宗の二宗は”ひそかに盗み入れて自宗の教義の骨目にしている”と弾呵されています。
 一念三千を盗み入れたというのは、先ほどの文・義・意で言えば、文を盗み入れ、義に同じものがあるように装ったが、意にはとうてい及ばなかった、ということです。
 このような一念三千に関する混乱の姿は、当時の既存の諸宗派が宗教的精神を忘れていることを如実に示しています。
 永遠的なもの、絶対的なものを人間のなかに見て、人間生命を輝かせていくことを願う精神が宗教的精神です。
 大聖人の文底仏法は、その宗教的精神のままに立てられた教えなのです。
 戸田先生は言われました。
 「全人類を仏の境涯、すなわち、最高の人格価値の顕現においたなら、世界に戦争もなければ飢餓もありませぬ。疾病もなければ、貧困もありませぬ。全人類を仏にする、全人類の人格を最高価値のものとする。これが『如来の事』を行ずることであります」(『戸田城聖全集』1)
 戸田先生のこの言葉の通り、学会は大聖人に直結し、宗教的精神を大きく発揮して、「民衆仏法」「人間主義の宗教」を世界に広げてきたのです。
7  末法流布の大法
 この一節の結びとして、大聖人は、「一念三千の法門」を竜樹や天親は”知つてはいたが、それを拾い出して説くことはしなかった”、ただ、天台智者大師だけが”心の中に懐いていた”と仰せられています。
 「竜樹・天親・知って」とは、釈尊滅後の正法の系譜を継承した竜樹・天親も法華経の極理を知っていたとの内鑒冷然の原理を示していると拝されます。
 たとえば竜樹は、他の諸経では不成仏とされた二乗の成仏を説く法華経の「変毒為薬」の力を賛嘆して、法華経こそが真の秘密の法であって、他経にはこの力がないと述べています。これは、九界の生命に仏界を涌現する凡夫成仏を可能にする法華経の極理を知っていることを意味します。
 しかし、「知つてしかも・いまだ・ひろいださず」と仰せのように、「時」が未だ至らいために、一念三千を人々の前に提示することはなかったのです。
 そして、「但我が天台智者のみこれをいだけり」とは、像法時代の天台大師だけが、一念三千の観念観法を行じていたことを示されていると拝せます。
 しかし、天台大師の一念三千は実質上、自行にとどまっており、自他ともの凡夫成仏の法として広く弘めたわけではありません。
 一念三千を「知っていたが顕さなかった」「内に懐いていた」と正法・像法の正師たちについて言及されている元意は、日蓮大聖人こそが「末法に弘める」ことを言外に示されるためです。本抄の後半は、その大聖人の法華経の行者としての弘教について述べられていきます。
 文底の一念三千は「事行」の法です。「法」はがあるものではなく、”弘める”べきものです。「法」を弘めることによって万人の内なる仏性を照らし、その人自身を輝かせてこそ、初めて、法の価値は発揮される。言うなれば、価値を創造しなければ、法の存在意義は生まれないとさえ、言えるのです。
 その意味から言えば、「一念三千の法門」なかんずく「文底の一念三千」を、いっ、誰が弘通するのか。その主題抜きに文底の法を論じても、画餅にすぎない。
 真の一念三千の法門を末法に弘める者こそが、末法の主師親三徳であり、その教主とは日蓮大聖人にほかならないそれを明らかにしていくために、この文底秘沈の一節があるのです。

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