Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 主師親の三徳 一切衆生が尊敬する「人間主義」の指導者

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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2  通解
 そもそも、あらゆる人々が尊び敬うべきものが三つある。それは、主と師と親である。また、習い学ぶべきものが三つある。それは儒教・道教などの中国の諸教と、外道(仏教以外のインド諸教)と、そして内道(仏教)である。
3  御文
 かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という但現在計りしれるににたり(中略)孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ
4  通解
 儒教等の中国諸教の賢人・聖人たちが、さまざまな形で巧みにその理論を立ててはいるが、まだ、過去世・未来世については何も知らない。彼らが説く「玄」とは黒であり、幽かという意味であり、微妙であるゆえに「玄」と言われているのであるが、ただ、現世のことだけを知っているにすぎないようである。
 (中略)孔子が「この中国に賢人・聖人はいない。西の方に仏図(仏陀)という者があり、その人が真の聖人である」といって、外典である儒教を仏法へ入るための門としたのはこの意味である。すなわち儒教においては礼儀や音楽などを教えて、後に仏教が伝来した時、戒・定・慧の三学を理解しやすくさせるために、王と臣下の区別を教えて尊卑を示し、父母を尊ぶべきことを教えて孝行の道を尽くすことの大切さを知らせ、師匠と弟子の立場を明らかにして、師に帰依することの重要性を教え知らせたのである。
5  御文
 其の見の深きこと巧みなるさま儒家には・にるべくもなし、或は過去・二生・三生・乃至七生・八万劫を照見し又兼て未来・八万劫をしる、其の所説の法門の極理・或は因中有果・或は因中無果・或は因中亦有果・亦無果等云云、此れ外道の極理なり(中略)しかれども外道の法・九十五種・善悪につけて一人も生死をはなれず善師につかへては二生・三生等に悪道に堕ち悪師につかへては順次生に悪道に堕つ、外道の所詮は内道に入る即最要なり
6  通解
 インドの外道で説かれた教えは、その見解が深く巧みなさまは儒教等の遠く及ぶところではない。過去世に遡ること二生、三生、七生、さらに八万劫まで照見することができ、また併せて未来八万劫も知ることができると称していた。その所説の法門の極理は、あるいは「因の中に果がある」という決定論、あるいは「因の中に果はない」という偶然論、あるいは「因の中にまたは果があり、または果がない」という折衷論などである。これらが外道の究極の理論である。(中略)外道の法は九十五派あるが、それらの修行では、善い外道であっても、悪い外道であっても、一人として生死の苦悩から離れることはできない。善師に仕えても、二生、三生等の後には悪道に堕ち、悪師に仕えては、次の生を受けるごとに悪道に堕ちていくのである。結局のところ、外道というものは仏教に入るための教えであり、このことが外道のもつ最重要な意義なのである。
7  御文
 三には大覚世尊は此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり、外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし我が大師は変易・猶を・わたり給へり況や分段の生死をや元品の無明の根本猶を・かたぶけ給へり況や見思枝葉の麤惑をや
8  通解
 儒教・外道に対して、第三の内道の場合では、釈尊はすべての人の偉大な導師、眼目、橋、舵取り、福徳の田である。儒教等で代表的な四人の師匠(尹寿、務成、太公望、老子)や、インドの外道の三人の代表(迦毘羅・漚楼僧佉・勒裟婆)は、聖人と呼ばれていても、実際には三惑をいまだ断ち切っていない凡夫である。また賢人と呼ばれていても、実際には因果の道理を知らないことは赤ん坊のようである。そのような彼らを船として生死の迷いの大海を渡ることができるだろうか。彼らを橋として六道の悪路を越えていくことは難しい。それに対して、我らの釈迦仏は、変易の生死(二乗・菩薩等の生死)さえ超えている。まして分段の生死(六道を輪廻する凡夫の生死)を超えているのはもちろんである。元品の無明という根本の迷いさえも断ち切られている。まして見惑・思惑という、枝葉の浅い迷いを断たれているのは言うまでもない。
9  講義
 「開目抄」全体を貫く主題は「主師親」の三徳である。それは、本抄冒頭の一節に明確に示されています。
 「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」。万人が尊敬すべきものとして「主の徳」「師の徳」「親の徳」という三徳を挙げられているのです。
 さらにまた、習学すべき思想・宗教として儒・外・内、すなわち儒教・道教などの中国の諸教、インドの外道つまり仏教以外の諸教、そして内道である仏教の三つを挙げられている。
 これらは、要するに、当時、日本に伝えられていた世界の主要な思想のすべてを挙げられているのです。
 全世界の主要な思想・宗教を検討して、一切衆生にとって真に尊敬すべき主師親の三徳を具備する存在は誰かを明らかにしていくことが、本抄の骨格として貫かれている大テーマとなります。
 これらの思想・宗教に説かれる神々や仏・菩薩、聖人・賢人らは、何らかの形で主師親のいずれかの徳を具えたものとして説かれており、実際に、多くの人々から尊敬されていた。しかし、大聖人がここでテーマにされているのは、主師親の三徳をすべて兼ね具えた存在は誰かということです。三徳を「具備」していてこそ、「一切衆生」に尊敬されるにふさわしい存在だからです。
10  真の主師親と真の成仏の因果
 大聖人は「祈祷抄」で、こう言われています。
 「父母であっても身分が低ければ主君の義を兼ねることはできない。主君であっても父母でなければ恐ろしい面がある。父母や主君であっても師匠であるわけではない。諸仏は世尊であられるから主君であるが、娑婆世界に出現されていないのであるから師匠ではない。『裟婆世界の衆生はわが子である』とも明言されていない。ただ釈迦仏御一人が主師親の三義を兼ね具えていらっしゃるのである」(御書1350㌻、趣意)
 この仰せは、諸仏のなかで釈迦仏のみが主師親の三徳を具備していることを示されていますが、これは仏教以外の諸教に範囲を広げても同じです。
 「開目抄」に述べられているように、古代のインドや中国の思想・宗教においては、創造神や裁きの神、また理想的な皇帝、さらに教えを残す聖人・賢人などに主師親の三徳があるとされてきました。しかし、いずれも三徳具備とは言えない。
 尊貴さ、威厳、力など、主の徳にあたるものは具えていても、父母の慈愛のような徳が見られない場合がある。逆に、慈愛の徳があっても、尊貴さがないものもある。さらに、尊貴さや慈愛があっても、衆生を導く法を説かないので師の徳が見られないものもある。このように三徳の一分しか具えていない場合が多いのです。
 「開目抄」では、儒外内の主師親を論ずるなかで、それぞれの教えがいかなる「法」を説いているか、また、その「法」にに基づいて衆生がいかなる実践をしているかに焦点を当てて検討を進められていきます。
 三徳は、衆生との関係で表される仏・菩薩や諸尊の徳ですから、衆生に何を教え、いかなる実践を促すのかが、三徳の真正さを知るうえで非常に重要であることは言うまでもありません。
 その観点から検討すると、釈尊こそが一切衆生に対して三徳を具備しているのであり、中国の儒家やインドの外道の諸尊・諸師は「因果」を知らず、真の主師親とは言えない、と結論されています。
 「大覚世尊は此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり、外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果をわきまざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし我が大師は変易へんにやく・猶を・わたり給へりいわんや分段の生死をや元品の無明の根本猶を・かたぶけ給へりいわんや見思枝葉の麤惑そわくをや
 ここで仰せの「因果」とは、人間の幸不幸を決する「三世の因果」であり、本抄ではさらに「五重の相対」を通して、真の「成仏の因果」である「本因本果」が明かされていきます。これこそ、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている真の十界互具・一念三千なのです。
 「開目抄」前半では、とれまで伝えられた儒・外・内の教えのなかでは、一往、釈尊が一切の衆生に対して三徳を具備していると結論されます。そのうえで、釈尊の教えのなかでも、「文底の一念三千」こそが真の成仏の法であり、末法の衆生を救う大法であることを明かされています。釈尊こそが主師親の三徳を具備しているとされているのも、この真の「成仏の因果」を自ら悟り、体現し、法華経として説きあらわされたからなのです。
11  法華経の行者の実践に主師親が具わる
 本抄の後半では、この真の「成仏の因果」を悟り、それを末法の全衆生に開いていく、大聖人の「法華経の行者」としての戦いが明かされていきます。
 大聖人は、ただ御一人、法華経の文底に秘沈された成仏の大法を知られるとともに、この成仏の法を妨げる悪法が日本国に蔓延していることを知られている。「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」と仰せの通りです。
 しかし、その正法正義をひとたび説くや、想像を絶する未聞の迫害の嵐が吹き荒れます。
 「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし
 そうした闘諍の時代、濁世の様相のなかで、それでも大聖人は、流罪、死罪の大難を越えて民衆救済の精神闘争を止められることはなかった。その御境涯を示されたのが、次の一節です。
 「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし
 この一節についての詳細な講義は後の機会に譲るとして、ここで結論だけを記せば、釈尊以降の仏教史にあって、民衆救済の忍難と慈悲の次元において、日蓮大聖人以上の仏法指導者は存在しないとの大宣言であります。
 法華経の行者である大聖人に、なぜ法華経に説かれている通りに諸天善神の加護がないのか。また、なぜ迫害者たちに現罰がないのか。本抄後半は、この疑問をめぐって展開されます。
 この疑問は、本抄御執筆の背景の一つとして取り上げられる重要な疑難です。これは、世間から大聖人に浴びせられた中傷であると同時に、退転し、あまつさえ反逆した門下からも寄せられた非難でした。
 大聖人は本抄で、「此の疑は此の書の肝心・一期の大事」として、この疑難に正面から向き合い、人々の疑いを晴らしていかれた。
 そのなかで、次第に明らかになるのが、法華経で説かれる法華経の行者としての弘教の振る舞いや、受ける迫害の相と、大聖人の御振る舞いとの完全なる一致です。
 特に、宝塔品第十一に説かれる菩薩への誓願の勧めと六難九易、提婆達多品第十二の凡夫成仏(悪人成仏と女人成仏)の奨励、そして勧持品第十三に説かれる三類の強敵による法華経の行者への大迫害――すべて大聖人こそが法華経の行者であることを証明するものとなっているのです。
 大聖人こそが、文底の大法を悟られ、それを末法の人々を救うために弘められている真の法華経の行者であられる。そのことが、大聖人の御振る舞いと法華経の経文との一致が確認されるにつれて、厳然と証明されていきます。
 法華経の経文による御自身の御振る舞いの精緻な検証が極まったとき、大聖人御自身の「民衆救済の誓願」が迸るように宣言されます。それが「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」以下の獅子吼にほかなりません。
 精神の究極の頂上に立たれて、迫害者や退転者の蠢きをはるか下方に悠然と見下ろされている。無知や不信や迷いを突き抜けて戦われる、魂の清澄な響きが鳴り渡る白眉の一節です。
 ”汝自身の生命の宝塔を輝かせ”と、突き抜けた青空から降り注ぐような慈悲の陽光の御境涯が拝されます。
 本抄ではさらに、弟子たちに、民衆救済に徹する仏法の実践こそ、転重軽受・宿命転換の直道であり、一生成仏の大道であることが示されていきます。
 そして最後に、折伏の本質は「慈悲」であることが示されます。どこまでも一切衆生を思う大慈悲のゆえに、悪と戦い、難を忍び、法を弘めていかれるのです。この「慈悲」に即して、大聖人は御自身こそが末法の主師親三徳であることを力強く宣言されます。
 「日蓮は日本国の諸人にしうし主師父母なり
 当時の日本国とは、法減の国です。この日本国の諸人を救うことは、全人類の救済を可能にします。すなわち、日蓮大聖人こそが、日本国の諸人、再往は末法万年にわたる全人類の主師親の三徳具備の人本尊であられることを宣言されている一節にほかなりません。
 このように、「開目抄」では、導入部で主師親三徳を主題として提示し、結論部において、法華経の行者として戦われる日蓮大聖人こそが、末法にあって、主師親三徳を現した方であられることを宣言されているのです。
12  末法下種の主師親
 以上、大聖人の主師親論として本抄の展開の大要を述べました。
 これに基づき、日蓮大聖人御自身の主師親三徳、つまり「末法下種の主師親」について、さらに拝察していきたい。
 大聖人は、成仏の種子である妙法蓮華経を悟られただけではない。末法に生きる一切衆生の異の苦、また同一苦を、御自身一人の苦として受けられながら、妙法蓮華経を受持しぬかれました。また、この大法を末法の全衆生のために身命を惜しまずに説き弘められた。この大聖人の偉大な御振る舞いに、末法の衆生を啓発して成仏を可能にする「末法下種の主師親」の徳を拝することができるのです。
 まず、妙法蓮華経は宇宙根源の法です。大聖人は、その法を悟られただけでなく、大難を越えながら妙法受持を貫かれた。この御振る舞いは、大聖人の御生命が妙法蓮華経と完全に一体化されたことを証明するものであり、宇宙全体と一体化した宇宙即我の御境地を示されていると拝察できます。
 この広大にして尊貴なる御境涯は「主徳」と拝することができます。釈尊の主徳は法華経譬喩品で「三界は我が有」と表現されていますが、これにならって大聖人の主徳を表現すれば「宇宙は我が世界」と言えるのではないでしょうか。
 いかなる大難があっても、師子王の心を取り出し、いささかも揺るぐことなく、誓願のままに広宣流布に邁進される御姿には、宇宙の中心に屹立する法華経の大宝塔さながらの荘厳さと威厳を拝することができます。
 次に、大聖人は、御自身の御生命に事実として顕現された妙法蓮華経を、衆生のために実践化されました。
 すなわち明鏡たる御本尊と信・行の題目をもって衆生を成仏の道に導かれたことは、まさに「師徳」を現されていると拝することができます。
 そして、衆生を苦悩から救うために、末法の凡夫が己心に仏界を開くことができることを弛まず説き続けて励まされた。
 とともに、自他の内なる仏性を信じられない謗法の心を厳として戒め、謗法に引きずり込む悪縁の教えには、強く問責された。
 そして、この謗法呵責のゆえに大難を受けられたが、それをすべて忍ばれた。これらは、すべて、大聖人の大慈悲によるのです。
 法華経譬喩品では「三界の中の衆生は皆、わが子である」(法華経191㌻、趣意)と親の徳が示されていますが、大聖人の忍難・弘教の御振る舞いに、末法の衆生をわが子のごとく育まれる「親徳」を拝することができます。
13  凡夫成仏の「先駆」「手本」
 大聖人は、末法広宣流布の「最初の人」「先駆の人」として、一切衆生を救うために大法を弘められ、その戦いに自ずと主師親の三徳を具えられたのであります。
 また、大聖人の先駆の戦いを、それに続く弟子の立場から言うならば、末法における凡夫成仏の「模範」であり「手本」として拝することができます。
 大聖人は「一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し」と言われています。なかんずく、凡夫成仏の手本は大聖人以外におられないゆえに私たちは大聖人を「人本尊」と拝するのです。
 この点について、牧口先生が、真理を発見し教える「聖賢」の立場と、その真理を信じて実践し価値創造する私たち「凡夫」の立場を区別されたことを思い起こします。究極の真理を発見する「聖賢」は一人でよく、その他の人は真理を実践し証明することに果たすべき使命があると考えられたのです。
 すなわち次のように述べられています。
 「先覚の聖賢が、吾々衆生の信用を確立せしめんがために、教えを開示された過程(即ち説教体系)と、それを信じて導かれ、最大幸福の生活に精進せんとする吾々凡夫の生活過程とは、全く反対であるべきものである(『牧口常三郎全集』8。以下、同書から引用・参照)
 すなわち、”聖賢が出て、万人が信じ実践すべき根本法を確立した後は、私たち凡夫はその結論を実践して結果を体得してから、その法理を理解すればよい”と言われているのであります。
 それにもかかわらず、聖賢の教えを伝承する者が、聖賢が結論に至る過程まで追体験することを民衆に要求するのは「大いなる錯誤」、「道草を喰う無益の浪費」であるとし、真理と価値の混同を厳しく批判されています。
 自他ともの幸福の実現こそが人間の最高の目的であると考える牧口先生にとっては、現実に苦悩を除き、幸福をもたらすことが目的であり、そのための理論は手段にすぎなかった。
 さらに言えば、この実践の”模範”としては、凡夫、普通の人のほうが望ましいと考えられていたのです。
 つまり、「最高の具体的模範となる目標」であっても、あまりにも「完全円満」な存在であれば、見習う人にとっては「崇拝はするが及ぼぬとして近付き得ぬ目的」である。むしろ、「最低級なる姿」すなわち凡夫の姿のままで「下種的利益」をなす人こそが「最大無上の人格」であるとされているのです。
 現実に苦悩にまみれて生きる人間にとって模範たりえる人こそ、最高に尊いのです。
 日蓮大聖人は、苦悩の渦巻く時代に一庶民として誕生され、現実に生きる人間に仏界を涌現させるという人間主義の実践を貫かれた。
 それゆえに種々の難に遭われ、法華経を身読してその教説を証明し、人間のもつ偉大な可能性をその身の上に示し顕してくださった。
 牧口先生はその点について「それ(=釈尊の仏法、・なかんずく法華経)が日蓮大聖人の出現によ地上(=現実世界)に関係づけられ、しかもその御一生の法難などによって、一々因果の法則が証明されたとしたらば、理想だけの法華経が吾々の生活に現実に生きたことではないか」と述べられています。
 さらに「これは単に日蓮大聖人御一人に限ったことでなく、仰の通り、何人にでも妥当するものであることは、吾れ人(=自他)の信行するものゝ容易に証明され得る所である」とし、忍難弘通された日蓮大聖人こそが私たちの模範と仰ぐべき末法の御本仏であることを訴えられているのです。
 以上、牧口先生の卓越した洞察を見てきましたが、牧口先生が徹底して、信じ実践する者の側に立った信仰観をもっておられていたことがうかがえます。とともに、ここには、人間に平等な尊厳を見る「人間主義」の精神が示されていると言えます。
14  宗教観の転換
 最後に、大聖人の「主師親」観に拝することができる「宗教観の転換」について述べておきたい。
 大聖人は「諸法実相抄」で仰せです。
 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり
 ――凡夫は仏の本体であり本仏である。釈迦・多宝などの仏は働きを示す仏であり迹仏である。したがって、釈迦仏は私たち衆生に対して主師親の三徳を具えられていると思っていたが、そうではなくて、かえって仏に三徳を与えているのが凡夫なのである――。
15  旧来の神仏の考え方から言うと、釈迦仏が衆生のために主師親の三徳を具えた偉い仏かと思っていたのに、実は、そうではない。衆生が仏性をもち、仏の生命を現す可能性を具えているからこそ、釈迦仏は衆生の主師親としての徳を発揮しうるのであり、それゆえ衆生が釈迦仏に三徳を与えているのであると言われているのです。
 ここでは、主師親三徳の考え方、そして、宗教のあり方について、「革命的な転換」がなされています。旧来の考え方で言えば、主君は民衆を支配し、従える存在です。師匠は、弟子を導き、鍛える存在です。親は、子を産み、子に敬われる存在です。このような関係だけで見ると、主・師・親は権威ある存在であり、そこから仏を主師親になぞらえても権威主義的な宗教しか生まれません。
 しかし、主君は民衆を幸せにしてこそ主君であり、師匠は弟子を一人前に成長させてこそ師匠であり、親は子を立派に育ててこそ親です。このような観点で主師親を見れば、主君は民衆が幸せになる可能性を持っていればこそ主君としての力を発揮できるのであり、師匠は弟子が立派に成長する可能性を持っているからこそ師匠としての徳を具えることができるのであり、親は子が一人前に育つ可能性を持っているからこそ親としての役割を果たせるのです。
 宗教も同じです。衆生が成仏できる可能性を持っているからこそ、仏は主師親の三徳を具えることができるのです。
 この大聖人の仰せには、神や仏に服従し、僧侶に拝んでもらう「権威主義の宗教」から、民衆が幸せになるための「人間主義の宗教」への転換が示されているのです。

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