Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全人類救済の法の確立  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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4  相対種と即身成仏
 池田 そこで下種益の法が必要になってくるのです。煩悩・業・苦の三道に深く迷う末法のどんな凡夫に対しても、直ちに仏種を植え、仏性を触発していける教法です。
 それは、煩悩・業・苦の三道に迷う凡夫の生命にそのまま、仏の法身・般若・解脱の三徳を開くことができる教法です。仏界の生命とあい対立するような煩悩・業・苦に迷う生命も仏種になりうるのだと説くのです。これを「相対種」といいます。
 大聖人は「始聞仏乗義」で、「相対種とは煩悩と業と苦との三道・其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する是なり」と仰せです。
 「其の当体を押えて」とは、煩悩・業・苦の三道に迷う当の生命を離れることなく、その生命に法身・般若・解脱の三徳を現しうるという意味です。
 斎藤 同抄では、仏になる種(原因)について、就類種と相対種の二種があることを説いています。
 就類種とは、同類種ともいい、仏になる原因(仏性)は、結果(仏果)と同種のもの、つまり善なるものでなければならないとするものです。
 池田 法華経の仏性の考え方は、同類種のみに限る狭い考え方をとっていません。それは妙法の力を限定することになるからです。
 妙法の偉大な力は、悪をも包み込み、むしろ、悪を善の開発の縁にもしていくことができるのです。
 煩悩・業・苦の三道を捨てたり、断ち切ろうとするのではない。悲哀が創造の源泉となり、逆境が前進のバネとなる。妙法とは、偉大なる価値創造の本源力なのです。
 大聖人は、「妙の三義」を説いています。開く義、具足の義、蘇生の義です。
 一切を包み、一切を生かして、善の方向へ大きく変換させ、蘇生させていくのが真の妙法の力です。妙法の偉大さを示し、万人が妙法の当体であることを明かして、万人の成仏を謳うことが法華経の真意です。
 しかし、宗教といえば絶対的な創造神を立てるのが常識であった時代に、万人を仏にすることを説こうとするのですから、どうしても機根を整えるための熟益の教法を前提とせざるを得なかった。そのために、法華経では、部分的な方便教である熟益の教法を統合するという余計な作業がどうしても必要にならざるを得なかった。
 それに対して、大聖人は、最も深い迷いに陥った二乗や悪人の成仏を説いて相対種の考えを内包する法華経の本意を純化して取り出し、煩悩・業・苦の三道に迷う末法の悪人も即身成仏できる道として、自身の内なる妙法の無限の力を直ちに信ずる妙法蓮華経の五字の信行を打ち立てられたのです。
 ゆえに先に引いた観心本尊抄の御文に「此れは但題目の五字」と言われているのです。
 斎藤 今、ここにいるわが身を、仏種である妙法の当体と信ずる道ですから、下種益と言うことができます。
 池田 大聖人が法華経の精髄を取り出して立てられた下種仏法は、現代においてこそ、ますます大きな意義があると言えます。
 近代的な人間主義は、前時代的な絶対者の支配から、人間を解き放ちました。しかし、解き放たれたはずの人間は、今度は、自らの欲望に振り回され、支配される存在となってしまった感が深い。
 また、その反動として、国家主義や宗教の原理主義が台頭しています。ドグマで人間を縛り付け、「国家のための人間」「宗教のための人間」として生きることを強いていったのです。
 どちらも、「今、ここ」にいる人間に尊厳性を認められないという点では、同じ病根を抱えている。だから、21世紀の今になっても、人類社会には、国家の次元の戦争にしろ、テロにしろ、個人の次元の犯罪にしろ、平気で生命を踏みにじるような暴力が蔓延しているのです。
 今こそ「人間のための社会」「人間のための宗教」が求められています。
 下種仏法は、「今、ここ」にいる人間という存在の、究極的な尊厳性を説き、宇宙的な偉大さを示している。単に、説き示すだけではなく、その法を実際に生きることを、自身にも、他者にも強く促している。
 それは、近代の人間主義の限界を超え、「大いなる人間」への目覚めをもたらす「人間革命の宗教」なのです。

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