Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全人類救済の法の確立  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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2  法の力、仏の戦い、衆生の可能性
 池田 いうならば、人間が仏性の底力を発揮していく戦いを助けるために、仏は法を説くのです。特に下種の教えは、衆生の仏性を触発する力を持っていなければならない。そして、その教えの力によって衆生の仏性が喚起されたとき、仏種すなわち成仏の種子が下されたと言えるのです。
 斎藤 仏と衆生と法(教え)の三者の関係の中で下種ということが成り立つのですね。
 この関係について、「曾谷殿御返事」では「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」と仰せです。
 池田 分かりやすい譬えで三者の関係を教えてくださっています。
 仏は法を説く人であり、種を植える人です。絶対神や創造主と異なり、仏とは、あくまでも法を覚知し、その法を万人に伝えるために働く人です。そして仏が種を植えていく場所は、衆生の心という田です。人びとを目覚めさせるために戦い続けるのが仏です。
 森中 仏の下種によって衆生の心田に実りがもたらされた時、その所有者はどこまでも衆生自身です。衆生一人ひとりが「仏に成る」という考えは、絶対神を立てる宗教からは生まれてきません。
 池田 いずれにしても、この御文で大聖人は「法の力」と「仏の戦い」と「衆生の可能性」がそろってこそ下種が成り立つことを示されています。これは、仏法の基本と言うべき「縁起」の関係なのです。
 森中 縁起とは”縁りて起こる”こと、つまり一切のものが因と縁の和合によって生起することですね。
 池田そう。私たちの胸中に仏の生命が「有る」と言っても、湧現する方途がなければ「無い」のと同じです。しかし、現実に顕れていないからといって「無い」わけではない。それは縁によって厳然と現れるからです。
 ゆえに大聖人は「仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし」とも言われている。「一乗」とは法華経です。
 仏が悟った根源の妙法は、凡夫には不可思議の境地です。見ようとしても見ることができるものではない。また、言葉で表現しようとしても表現しきれるものでもない。しかし、厳然と存在している。まさに「妙」です。
 この「妙」なる「法」の世界を凡夫にも覚知させていかなくてはならない。それが仏教の出発点でした。しかし、人の生命を目覚めさせることは容易なことではない。悟りの当初、釈尊自身がその困難さに逡巡したほどです。
 そこで釈尊が試みた方途が「方便力」による説法です。方便力による教えとは、真実そのものではないが、人々を真実に接近させるための過程的な教えです。そうした釈尊の方便教は、様々な経典にまとめられた。しかし、これらは、衆生の九界の心に合わせて説かれた法であり、衆生を仏界に目覚めさせる力を持っていないのです。
 重要なのは、仏性を触発する縁となりうる「法の力」です。
 仏の仏界の生命を説いた随自意の法華経こそが、衆生に仏種を覚知させる力を持っているのです。ゆえに、これまで拝した二つの御文では、「法華経」「一乗」が衆生に仏種を覚知させる縁になりうる下種の法であるとされています。
 この点について、大聖人は「観心本尊抄」で文底下種三段を述べられ、より厳密に示されています。
3  脱益と下種益
 森中 はい。こう仰せです。
 「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」と仰せです。
 〈通解〉――釈尊在世の法華経本門と末法の初めの日蓮の法門は同じく純円の法である。ただし、法華経本門は脱益の法であるのに対して、末法の法門は下種の法である。法華経本門は一品二半であるのに対して、末法の法門はただ題目の五字である。
 斎藤 まず、釈尊在世の法華経本門と末法の初めの大聖人の法門は同じく「純円」であると仰せです。「純円」とは純粋な円教、混じりけのない円教のことです。
 円教とは完全な教えの意で、要するに万人を成仏させることができる教えです。
 池田 そう。法華経全体が純円の教法ですが、特に本門において純円の教法が完全なる形で示されるのです。
 すなわち、法華経迹門では二乗作仏が説かれて、非常に深い迷いに陥った二乗も妙法の力で成仏できることが示された。それによって、衆生がいかに深い迷いと苦悩の中にあっても、仏の生命へと転じうる妙法の偉大な力が示されたのです。
 そして、法華経本門では、釈尊の本地が永遠の妙法と一体の永遠の仏であることが明らかにされ、釈尊の成仏の真実の姿が示された。
 とともに、因・果・国の三妙が合論され、衆生も国土も釈尊の本地と一体であり、妙法の当体であることが示されます。ここに万人成仏の法である円教の全貌が明らかになったのです。
 しかし、大聖人は、同じ純円の法でも、釈尊の在世に説かれた法華経本門は「脱」(脱益)、末法の大聖人の仏法は「種」(下種)であると、違いを明確にされています。
 これは、法華経本門よりも大聖人の南無妙法蓮華経の方が、釈尊滅後の衆生成仏の要法として完全であり、衆生の仏性を触発する力においては、本門の純円よりもはるかに優れた、完璧な円教であることを意味していると拝することができます。
 森中 「脱益」とは、その法を聞いた人を得脱させ、成仏の利益をもたらすということです。「下種益」とは、その法を聞いた人に仏種を植える力、つまりその人の仏性を触発する力を持っているということです。
 池田 先ほど述べたように、法華経本門では久遠実成・三妙合論という形で妙法が示されました。これによって釈尊在世の衆生は、妙法が久遠下種の法であること、つまり自分の生命の根源に具わる仏種であることを覚り、成仏したのです。
 ただし、このように、結果的には脱益の教法で久遠下種の妙法を覚知し、得脱することができるのですが、それは、その前提として「熟益」を経ているからこそ可能になるのです。
 熟益の教法とは、仏が悟った成仏の法そのものではなく、それを衆生の種々の機根に適合した部分的な教法として説き分けて、機根を調熟していく教えです。
 斎藤 法華経本門の脱益の教法は、熟益の教法による化導を経ている衆生にしか効果がないのです。
 森中 法華経では、仏の化導と衆生の関係には、三千塵点劫あるいは五百塵点劫以来の種熟脱の過程があるように窺えます。
 これから見れば、下種されてから長い間、機根を調熟されてきて、釈尊の法華経にたどりつき、本門において得脱したことになります。
 池田 長い時間を経なければ本門の純円の法を理解できないとすれば、万人を成仏させるという仏の理想は成就しがたいと言わざるを得ません。
 斎藤 私たち末法の衆生から見れば、あまりにもまわりくどい感じがして耐えられませんね。(笑い)
4  相対種と即身成仏
 池田 そこで下種益の法が必要になってくるのです。煩悩・業・苦の三道に深く迷う末法のどんな凡夫に対しても、直ちに仏種を植え、仏性を触発していける教法です。
 それは、煩悩・業・苦の三道に迷う凡夫の生命にそのまま、仏の法身・般若・解脱の三徳を開くことができる教法です。仏界の生命とあい対立するような煩悩・業・苦に迷う生命も仏種になりうるのだと説くのです。これを「相対種」といいます。
 大聖人は「始聞仏乗義」で、「相対種とは煩悩と業と苦との三道・其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する是なり」と仰せです。
 「其の当体を押えて」とは、煩悩・業・苦の三道に迷う当の生命を離れることなく、その生命に法身・般若・解脱の三徳を現しうるという意味です。
 斎藤 同抄では、仏になる種(原因)について、就類種と相対種の二種があることを説いています。
 就類種とは、同類種ともいい、仏になる原因(仏性)は、結果(仏果)と同種のもの、つまり善なるものでなければならないとするものです。
 池田 法華経の仏性の考え方は、同類種のみに限る狭い考え方をとっていません。それは妙法の力を限定することになるからです。
 妙法の偉大な力は、悪をも包み込み、むしろ、悪を善の開発の縁にもしていくことができるのです。
 煩悩・業・苦の三道を捨てたり、断ち切ろうとするのではない。悲哀が創造の源泉となり、逆境が前進のバネとなる。妙法とは、偉大なる価値創造の本源力なのです。
 大聖人は、「妙の三義」を説いています。開く義、具足の義、蘇生の義です。
 一切を包み、一切を生かして、善の方向へ大きく変換させ、蘇生させていくのが真の妙法の力です。妙法の偉大さを示し、万人が妙法の当体であることを明かして、万人の成仏を謳うことが法華経の真意です。
 しかし、宗教といえば絶対的な創造神を立てるのが常識であった時代に、万人を仏にすることを説こうとするのですから、どうしても機根を整えるための熟益の教法を前提とせざるを得なかった。そのために、法華経では、部分的な方便教である熟益の教法を統合するという余計な作業がどうしても必要にならざるを得なかった。
 それに対して、大聖人は、最も深い迷いに陥った二乗や悪人の成仏を説いて相対種の考えを内包する法華経の本意を純化して取り出し、煩悩・業・苦の三道に迷う末法の悪人も即身成仏できる道として、自身の内なる妙法の無限の力を直ちに信ずる妙法蓮華経の五字の信行を打ち立てられたのです。
 ゆえに先に引いた観心本尊抄の御文に「此れは但題目の五字」と言われているのです。
 斎藤 今、ここにいるわが身を、仏種である妙法の当体と信ずる道ですから、下種益と言うことができます。
 池田 大聖人が法華経の精髄を取り出して立てられた下種仏法は、現代においてこそ、ますます大きな意義があると言えます。
 近代的な人間主義は、前時代的な絶対者の支配から、人間を解き放ちました。しかし、解き放たれたはずの人間は、今度は、自らの欲望に振り回され、支配される存在となってしまった感が深い。
 また、その反動として、国家主義や宗教の原理主義が台頭しています。ドグマで人間を縛り付け、「国家のための人間」「宗教のための人間」として生きることを強いていったのです。
 どちらも、「今、ここ」にいる人間に尊厳性を認められないという点では、同じ病根を抱えている。だから、21世紀の今になっても、人類社会には、国家の次元の戦争にしろ、テロにしろ、個人の次元の犯罪にしろ、平気で生命を踏みにじるような暴力が蔓延しているのです。
 今こそ「人間のための社会」「人間のための宗教」が求められています。
 下種仏法は、「今、ここ」にいる人間という存在の、究極的な尊厳性を説き、宇宙的な偉大さを示している。単に、説き示すだけではなく、その法を実際に生きることを、自身にも、他者にも強く促している。
 それは、近代の人間主義の限界を超え、「大いなる人間」への目覚めをもたらす「人間革命の宗教」なのです。

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