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日蓮大聖人・池田大作

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不惜身命・死身弘法こそ師弟の真髄  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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2  池田 本質的には、地涌の生命の開花です。悪世末法に妙法を弘通する地涌の使命に目覚めた時、人間の持つ力は無限に広がる。如来の使いとして、如来の事を実践することができる。
 和合僧団の総体に地涌の自覚がみなぎっていくことが、日蓮教団の発迹顕本です。
 もちろん、この時代に、一人ひとりが「我、地涌の菩薩なり」と、自分で鮮明に意識していたかどうかは分かりません。
 森中 だいたい、当時の五老僧自体が、そうした自覚をもって指導していたとは思えません。
 池田 そう。しかし、間違いなくいえることは、門下の中核的存在は、皆、「大聖人と同じ心」で戦わなければならないという自覚を持つようになったということです。
 自分が地涌の菩薩という意識はなくても、上首・上行菩薩という外用の振る舞いをされる日蓮大聖人と同じ「不惜身命」「死身弘法」の心で戦う門下は、地涌の使命に立ち上がった生命境涯にあったと言えます。
 佐渡以降に大聖人が門下に強く呼びかけられた「日蓮が如く戦うべし」という仰せが、門下たちに鮮烈な自覚を与えたことは疑う余地がないでしょう。
 大聖人は、「日蓮が如く」「予が如く」「我が如く」と、何度も何度も繰り返し仰せです。根本は「如説修行」の実践です。
 斎藤 佐渡で著された「如説修行抄」では、「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり」と仰せです。
 〈通解〉――法華経を如説修行する真実の法華経の行者として、師匠となり、弟子・檀那となるには、三類の強敵が必ず競い起こってくるのである。
 「如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有る可しと知り給へ、されば釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行者は釈尊・天台・伝教の三人は・さてをき候ぬ、末法に入つては日蓮並びに弟子檀那等是なり」とも仰せられています。
 〈通解〉――如説修行する法華経の行者には、三類の強敵が必ず起こってくると知りなさい。したがって、釈尊の御入滅後、2千年余りの間に、如説修行の行者は、釈尊・天台・伝教の3人は別として、末法に入ってからは、日蓮およびその弟子・檀那以外にいないのである。
3  池田 「日蓮並びに弟子檀那」と示されている。ありがたいことです。
 大聖人と同じ戦いを起こす弟子檀那たちも、皆、如説修行の法華経の行者であると示されている。
 心ある門下は、自分たちも大聖人と同じ法華弘通の戦いを開始しようと決意新たに前進したことでしょう。
 斎藤 その門下が地涌の菩薩であることは、第六章で触れましたが、同じく佐渡でしたためられた「諸法実相抄」には、次の有名な一節を再び引かせていただきます。
 「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや
 〈通解〉――なんとしても、この人生で信心をしたからには、法華経の行者として貫き、日蓮の一門として生きぬいていきなさい。日蓮と同意であれば地涌の菩薩なのであり、地涌の菩薩として定まったならば、釈尊の久遠以来の弟子であることは間違いないのである。
 池田 「日蓮がごとく身命を捨てよ」とまで仰せられているのは「閻浮提中御書」だね。
 森中 はい。第七章で引かれましたが、こう仰せです
 「願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵のとがを顕せ・師子は値いがたかるべし
 〈通解〉――願わくは日蓮の弟子らは師子王の子となって、群狐に笑われることがあってはならない。過去遠遠劫よりこのかた、日蓮のように、身命を捨てて強敵の罪悪を顕せ。そのような真の師子にはあいがたい。
 斎藤 大聖人のそうした呼びかけは、枚挙に暇ありません。
 「四菩薩造立抄」では、「日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」と仰せです。「寂日房御書」には、「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」とあります。
 この両抄とも弘安2年の御述作とされていますから、身延期でも終始一貫して大聖人が「日蓮がごとく」「日蓮と同じく」と強調されていたことがうかがえます。
 池田 今の「寂日房御書」の一節の前では、大聖人が上行菩薩であることを示されているね。
 斎藤 はい。「日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり」と仰せです。
 「御使」とありますが、「日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし」等の仰せから、御自身が上行菩薩であるとの御確信があっての表現であることは間違いないと思います。
4  池田 ここで明確になったことは、「日蓮と同意」とは、大聖人と同じく、強敵の科を顕し、三類の強敵と戦う覚悟の信心を貫くということです。
 大聖人と同じ法華経の行者の実践を貫くことと言い換えてもいいでしょう。
 仏が求めるのは、真実の弟子です。いわば、「偉大な仏に守られる」ことをこいねがうような弟子ではなく、「仏とともに戦い抜く」弟子の出現を仏は待ち望んでいる。
 師匠に守ってもらおうというのでは、まだまだ本当の境地には至っていない。師匠と同じく民衆を守ってこそ、本当の師子の弟子です。
 法華経という経典自体が、仏が真実の弟子を待望し、期待している「師の呼びかけの経典」であるともいえるでしょう。それでなくては、末法の民衆の救済などできないからです。
 斎藤 無明に覆われた末法の時代の民衆を救うことは、それだけ難事中の難事だということですね。
 池田 法華経で釈尊は、末法の弘教は迹化の大菩薩でも困難なゆえに、本化地涌の菩薩を呼び出だした。
 森中 迹化の菩薩は文字通り迹門の仏(迹仏)に化導された弟子。本化地涌の菩薩は、久遠以来、本門の仏(本仏)に化導され、鍛え抜かれて、涌出品で大地を割って出現して来た無数の弟子ですね。
 池田 法華経でも、発迹顕本した「本門の仏」のところに、末法の弘教を担う「本門の弟子」すなわち地涌の菩薩が出現しました。
 師も弟子も一体となって本門の戦いを起こしてこそ、悪世末法の社会を変革していくことができるのです。
 日蓮大聖人の御化導においても同じです。大聖人が、ただ御一人、立宗宣言の日から妙法弘通を開始されて、竜の口の法難・佐渡流罪を頂点とする大難との連続闘争を繰り広げられた。
 これは、大聖人の胸中における仏界の涌現が全宇宙の諸天善神を動かし、民衆の生命の奥底に変革の楔を打ち込む戦いです。
 竜の口の法難で、発迹顕本された日蓮大聖人の御一身は、宇宙の根源の法と一体であり、「事の振る舞い」の中に大宇宙の仏界が脈動している。
 大聖人は、その胸中の仏界の生命を一幅の曼荼羅に認められ、万人が仏界を顕現していく明鏡とされたのです。
 斎藤 師である大聖人が不惜身命・死身弘法の実践で成就された仏界の生命を顕された御本尊です。弟子も、不惜身命の信心で題目を唱え、死身弘法の実践をしてこそ、この御本尊に適うといえます。
5  池田 そうです。その本格的な弟子の育成が、次の大聖人の闘争の核心です。そして、本格的な弟子の出現を待って、全人類の成仏を願われた大御本尊建立へと続いていく。
 日蓮大聖人の御一代の戦いは、同時代の民衆救済のために、国主を諫暁して、謗法に覆われた当時の日本国を、法華経根本の世として立て直そうとされた。
 とともに、大聖人の御本意は末法の時代そのものを救うことであり、末法万年にわたる民衆救済のための「大法」を確立されることであった。
 これが「法体の広宣流布」です。
 この「法体の広宣流布」という観点から大聖人の御化導を精細に拝察すると、大聖人御一人の闘争としての御本尊御図顕までと、大聖人と同じ志で戦う民衆の出現を待っての大御本尊御建立という段階があることが拝せます。
 斎藤 本門の戦う弟子が出現してこそ、日蓮大聖人の三大秘法の仏法が確立するということですね。
 池田 大聖人の「法体の広宣流布」という源流があってこそ、末法万年にわたる「化儀の広宣流布」という大河があるのです。そのどちらにあっても師弟不二の実践が不可欠なのです。
 森中 不惜身命・死身弘法こそ「不二」の内容ですね。
 池田 そうです。大聖人は、佐渡から鎌倉に戻り、平左衛門尉頼綱ら幕府重臣を相手に第3回の国主諌暁を行ってから、鎌倉を退出され、身延に入山されました。この身延入山は単なる隠棲ではなく、本門の弟子の育成と法体の広宣流布の戦いの本格的な開始であられたのです。
6  鎌倉退出、身延入山
 森中 3回目の国主諫暁の模様については、既に語っていただいた通りです(連載第16回)。
 これが文永11年(1274年)の4月8日のことで、約一ヵ月後の5月12日には鎌倉を退出し、17日に身延に到着されています。この間の大聖人の御心情はどのようなものだったでしょうか。
 池田 大聖人は、3回目の諌暁の前後の御心情を「高橋入道殿御返事」で綴られているね。
 森中 はい。拝読します。
 「たすけんがために申すを此程あだまるる事なれば・ゆり赦免て候いし時さど佐渡の国より・いかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども・此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候いき、又申しきかせ候いし後は・かまくらに有るべきならねば足にまかせていでしほどに便宜にて候いしかば設い各各は・いとはせ給うとも今一度はたてまつらんと千度をもひしかども・心に心をたたかい煩悶ぎ候いき
 〈通解〉――日本の国を助けるために諫暁してきたのであるが、これほど憎まれることになってしまったのであるから、(佐渡流罪を)赦免になった時に、佐渡の国から、どこかの山中か海辺にまぎれ込んでしまうべきであったけれども、このこと(真言による祈祷は亡国をもたらすこと)を、もう一度、平左衛門尉に言い聞かせて、蒙古の攻めに生き残るであろう日本国の人々を救うために、鎌倉に上ってきたのである。また、平左衛門尉らを諫暁したあとは、もはや鎌倉にいるべきではないから、足に任せて鎌倉を出たのであるが、(身延へ向かう)ついでであるから、たとえあなた方(駿河の人々)が嫌がったとしても、もう一度、お会いしていこうと千回も思ったが、心と心を戦わせて、会わずに通り過ぎたのである。
7  池田 苦悩する日本国の人々をなんとしても救いたいとの大聖人の御心を拝することができます。「日本の柱とならむ」と誓われた立宗時の誓願そのままの御心です。
 しかし、深く謗法の酒に酔っている日本の指導者たちは、大聖人の諌暁の御心がわからなかった。
 真言による祈祷は亡国の因であるというのが、大聖人のこのときの諌暁の内容の一つであるにもかかわらず、幕府は、わずか2日後の4月10日に、真言宗の僧・加賀法印に命じて祈雨の修法を行わせています。
 森中 はい。当時は旱魃だったようで、阿弥陀堂の加賀法印が修法を行うと、翌日、一日一夜、雨が降りました。執権時宗は大いに喜び、引き出物を贈って称賛したようです(921㌻、趣意)。
 しかし、雨が降ったことは降ったのですが、その翌日には大風が吹き、大変な被害を出したようです。当時の記録には、「四月十二日大風。草木枯」とされています。草木が枯れるような風とは、尋常ではありません。
 斎藤 大聖人も「大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を或は天に吹きのぼせ或は地に吹き入れ、そらには大なる光り物とび地には棟梁みだれたり、人人をも・ころし牛馬ををくたふれぬ」と記されています。
 池田 この幕府の態度から、大聖人は鎌倉幕府を相手にしての国主諫暁は断念されたようです。そこで、1ヵ月後に鎌倉を退出されるのです。
 森中 その間に書かれたと思われる御書には、「事三ケ度に及ぶ、今諫暁を止むべし。後悔を致す勿れ」と仰せです。
 池田 蒙古襲来の危機がもはや目前に迫っている。大聖人の命懸けの諫暁も、傲慢な権力者たちは、この期に及んでも聞く耳を持とうとしない。そこで『礼記』や『孝経』に書かれている「三度いさめても聞かなければ去れ」という言葉にならって鎌倉を去られたのです。
 しかし、それは、幕府相手の諫暁という方法を止めたということであって、当然、当時の民衆の救済を断念したということではありません。
 大聖人は佐渡期以後、民衆救済・広宣流布の道として「地涌の義」を明示されていきます。つまり、大聖人が一人立ち上がられ、二人、三人と、地涌の菩薩の自覚を持った人を増やしていかれたのです。
 「諸法実相抄」に述べられた「地涌の義」についてはこれまでにも触れたが、同様の内容は身延期の「撰時抄」にも示されています。
 先ほども言ったように、いよいよ本格的な弟子を育成し、末法万年にわたる本格的な広宣流布の流れを築くために身延に入られたのです。
 森中 その意味では、大聖人の身延入山は、決して、世間的な隠棲や遁世ではありませんね。
8  池田 そうです。身延入山には明確な目的があられたと拝察できます。
 それは、一つには、末法万年の広宣流布のための法門の確立です。もう一つは、大聖人と同じ誓願と行動を貫く広宣流布の本格的な弟子の養成にあったといえるでしょう。
 佐渡流罪までは、大聖人お一人が広布の戦端を、文字通り命懸けで切り開いて来られた。その同じ闘争を弟子に勧め、広宣流布の流れをより大きく確実なものにし、末法万年の広宣流布の基盤を築かんとの思いであられたと拝される。
 すべては、弟子の戦いで決まる。宗祖がいかに立派であっても、弟子がその魂を受け継ぎ、発展させていかなければ、宗祖の魂は死んだに等しい。
 弟子が師匠の真価を決することを、ゆめゆめ忘れてはならない。
 大聖人は、山林に身を隠して世俗の権力と一定の距離を置かれても、御胸中に燃える広宣流布への闘争の魂は、消えるどころか、いや増して燃えさかっていた。あえて御自身が山林に身を隠されたことは、門下こそ広宣流布の闘争の主役たれとの御指導であったと拝したい。
 斎藤 とはいえ、多くの門下にとっては、大聖人のお振る舞いを目にしてきただけに、自分たちが主役となって広宣流布を切り開いていくことに、大いなるとまどいがあったのではないでしょうか。そのため、大聖人にさまざまな御指導を求めたと思います。その御指導のままに、具体的な広布の闘争を展開していったであろうことは、身延期の数々の御消息からも伺えると思います。
 池田 大聖人ははじめから計画的に身延を目指したわけではなく、「足にまかせて」鎌倉を出たと言われている。おそらくは身延の地頭・波木井実長を入信させた日興上人の勧めもあって、身延に向かったのでしょう。しかし、結果的には、身延の地理的状況は絶妙なものがあったといえるでしょう。
 森中 大聖人は、身延には長く住む気持ちはないが、当面の意には、おおよそ適っていると言われています。
 池田 そう。意に適っていると言われていることの内容を拝察すると、一つには、政治の中心地であり、弘教・拡大の本拠地である鎌倉から、さほど離れていない距離にあった。また、有縁の門下の根拠地にも近い。さらに、幕府に対する「山林に身を隠さん」との御心に適う地でもありました。
 一方、故郷・安房(現、千葉県南部)方面には、大檀那も存在せず、鎌倉からの距離も遠い。いざという時に迅速な動きが取りにくい。また、大檀那・富木常忍たちがいた下総(現、千葉県北部)は一層、遠い。さらに駿河(現、静岡県)以西に大聖人門下の拠点があったわけでもない。
 そうしたなかで、波木井郷は、身延という山間地帯にあり、世間に対して”隠棲”のイメージを与えることができる。また、鎌倉にも、馬を飛ばせば一昼夜という距離にあり、さらに南に下れば駿河に、東に向かえば武蔵、北には信越方面への道が開けています。
9  蒙古襲来による動揺
 斎藤 身延入山後、初冬の10月下旬(新暦では11月末)に蒙古が襲来しました。大聖人の御予言どおり、年内の来襲でした。
 池田 蒙古との合戦は、日本人がはじめて経験する異文化との真っ向からの衝突でした。これによって、社会が大きく変動していきます。大聖人と門下を取り巻く状況もまた、それにつれて変化していきます。
 森中 戦闘そのものにおいても、統制のとれた集団攻撃、毒矢や火薬を用いた兵器の使用、捕虜の扱いなど、日本の武士の常識を超えることが続出しました。
 池田 どれも、当時の武士たちにとって、大きな衝撃だったでしょう。特に、対馬・壱岐での戦闘は大激戦で守護代が戦死するという大変な事態であった。
 斎藤 また、日本と大陸との貿易拠点であった博多の街が焼け落ちたのは、経済的にも大きな痛手となりました。さらに、武門の神である八幡を祀った筥崎八幡宮も焼失しましたが、これは武士たちにとって、精神的衝撃が大きかったと思われます。
 森中 九州本土での戦闘は、10月19、20日のわずか2日で、21日朝には船影が一艘を残してすっかりいなくなっていました。
 なぜいなくなったかは諸説あるようですが、いわゆる神風が吹いて博多湾に沈んだのではなく、混成軍であったためまとまらず攻撃の武器も尽きたため撤退したが、その途上で大風に遭った、と推定されています。
 池田 とはいえ、蒙古軍の力は強大であった。武士はそれなりに奮闘したものの、蒙古襲来は、日本の人々に、ぬぐいがたい恐怖を植え付け、とめどもない不安を残した。
 大聖人は、当時の人々の心情を「又今度よせくるならば・いかにも此の国よはよは弱弱と見ゆるなり」と記されている。この前代未聞の一大事によって、世の中がより一層、大きく動いていった。
 森中 翌年、文永12年の4月15日、長門国室津(現、山口県豊浦町)に元の使い・杜世忠らが到着します。杜世忠らは、鎌倉に送られ、9月7日に、竜の口で頸を刎ねられました。
 池田 幕府の態度は一層、硬化し、正常な判断ができなくなっていた。
 大聖人は、蒙古使者について、鎌倉から駿河国の地元へ戻ったばかりの西山入道から報告を受けられた。その御返事が「蒙古使御書」です。
 同抄には、幕府の非人道的な暴挙を嘆き憤られ、むしろ頸を切るべきなのは誤った教えで人々を迷わし苦しめている諸宗の僧である、と仰せです。
 斎藤 以前は、元や高麗から使いが来たときは、大宰府にしばらく止め、返答しないと決まれば追い返していました。この時の性急な対応は、幕府の姿勢が一層、強硬になったものといえます。
 処刑理由も、永久に和親をたち通交しないため、という頑ななものでした。
10  池田 幕府の要人たちは、不安が募る一方なのに、なす術がなく、追い詰められ、閉塞していったからではないだろうか。
 狭量で臆病な者ほど権力を振りかざして残虐な行為を平気でやってしまう。本当に勇敢な者は、粘り腰で対峙し、真に雌雄を決すべき時に大胆かつ俊敏に動くものです。
 森中 幕府の中枢は、未曾有の危機に直面して激しく動揺し、次第に軍事重視に傾斜し、管理統制を一段と強めていきます。
 九州・中国地方の日本海側諸国の警護を強化し、しかも、その守護職を幕府要人で固めていきます。
 また、驚いたことに、この頃、「異国征伐」「高麗出征」の準備をしていたようです。これも正常な判断力を失っていたことを示しています。
 斎藤 幕府は、蒙古との戦いに、武士だけを動員したのではありませんでした。宗教界をも大きく巻き込んでいきました。
 当時の人々は、神仏への祈祷も戦いの重要な要素と考え、「神戦」等と呼んでいました。
 軍事的な統制と並行して、幕府は異国降伏祈祷をも体制化していきます。
 池田 日本各地の寺社に祈祷を依頼し、祈祷の実績報告を受け、その褒賞として所領を与える仕組みを整えたようだね。
 森中 幕府が恩賞を与える時、武士たちより寺社を優先する傾向があったという指摘が研究者からあります。
 宗教の側もこれを契機に所領の獲得を図っていきました。
 当時、蒙古軍が撤退したのは、神仏のはたらきで起こった神風のおかげだとして、その褒賞を求める者がいたのです。
 斎藤 この異国調伏を率先して行い、最も熱心だったのが、真言律宗です。西大寺の思円(叡尊)、極楽寺良観(忍性)の師弟の宗です。思円は文永5年の国書到来から調伏を祈り、文永10年には伊勢神宮に参詣し経典を納めています。
 弘安の役の時には、良観は鎌倉の稲村ガ崎で仁王経を講じています。博多にも異国調伏の拠点となる末寺を作ったりもします。
 幕府の政策推進にあたり、精神面でのプロパガンダ(宣伝)を担っていたようです。
11  池田 幕府は、国を挙げて外敵排除を目指す体制を整えていったが、その体制に宗教も、私利私欲に目がくらんで、自ら進んで組み込まれていった。
 その中にあって、大聖人は独り、その誤りを訴え、異を唱えられた。
 それゆえ、幕府にとって、また幕府と結託するエセ聖職者にとって、大聖人は目の上のたんこぶであったのは疑いないだろう。
 斎藤 そうしたなか、建治元年(1275年)12月26日、強仁房からの書状が、大聖人のもとに届きます。
 しかし、その書状は、不思議なことに、10月25日付のものでした。幕府が挙国体制をどんどん進めている頃の日付です。あるいは、何かの策謀がこの背景であったのかもしれません。
 大聖人は、即座に返事を著して、強仁房の難癖を打ち破るとともに、公場対決を促されます(184㌻、趣旨)。
 森中 ほどなく年が明けて、建治2年となります。大聖人は、1月11日に清澄寺に手紙(「清澄寺大衆中」)を送られました。真言宗との法論の準備のため、関連する書籍の借用を願われています。
 池田 同抄には、「今年はことに仏法の邪正たださるべき年か」と記されている。
 仏法の正邪の決着をつけて、なんとしても立正安国の道を確立しよう、との固い御決意を拝することができます。
 斎藤 しかし、大聖人の返答が、あまりも鋭い破折であったので、強仁房はうやむやにして逃げてしまったのです。自分から訴えておきながら、不利と感じるや逃亡してしまう。まったくもって不明です。
 池田 この時期はさまざまな策謀が本格化しているようだね。
 3月頃から、大聖人が蒙古襲来を喜んでいるというデマが流れている。また、一方的な大聖人への悪口や噂が広がっていた。
 さらに、この頃、鎌倉で退転者たちの蠢動が始まった。
 森中 はい。4月上旬、四条金吾が、極楽寺と鎌倉御所の焼亡を詳しく報告するとともに、「名越の事」を報告しています(1137㌻)。名越の尼については「おほくの人を・おとせしなり」とあるように、大聖人門下を狙っていたことがうかがえます。
 それにしても、どうして良観らをはじめとして悪人たちは、種々の手立てを使って大聖人の門下を陥れようとしていたのでしょうか。
 池田 考えられることは、「法論」が実現しそうであったからではないか。
 この頃、大聖人は、弟子たちをあらゆるところに派遣して、法論のために必要な経論を収集されています(330㌻)。法論が接近していたことがうかがえます。
 森中 とすると、良観は、負けが見えているので、法論をやらずにうまく逃げ切ろうという魂胆だったのかもしれませんね。また、大聖人門下を分断して、事を有利に運ぼうと画策していたのかもしれない。
 いずれにしても悪辣なやりかたです。
 池田 鎌倉も大変だったが、当時、駿河でも、熱原に弾圧の手が延びてきていた。
 挙国一致・政教一体で蒙古戦争へ向かう幕府権力と、その根底の誤りを糾弾する大聖人とは、どういう場面でも衝突する。その逆境の中でどう戦うか――それがこの当時、弟子たちに問われたことだったのではないか。
 森中 大聖人が身延に入られてから、弟子たちに難が次々と起こってきたのは、幕府が進める戦時体制の強化という背景があったのですね。
12  弟子たちの闘争
 斎藤 一方、打ち続く大難の中でも、信心を貫いてきた勇敢な人々は、大聖人の予言的中という実証に一段と勇気を得て、果敢に正義の主張を展開していったようです。
 建治元年(1275年)7月22日の「四条金吾殿御返事」(1139㌻)には、金吾が16日に他宗の僧に会って「諸法実相」の法門について議論したと大聖人に報告したことが記されています。
 11月23日の「観心本尊得意抄」(972㌻)には、富木常忍が、曾谷教信に悪影響を与えていた「北方の能化」なる天台僧とおぼしき人物と論議したことがうかがえます。
 池田 また、日興上人が中心となって、駿河地方で展開されていた弘教も大きく進展していった。駿河国の守護は時宗であり、御書にも仰せのように、得宗領が多くあり、時頼の妻、時宗の母で極楽寺入道重時の娘である後家尼御前の所領もあった。
 領内の人々は、時頼・重時が謗法のゆえに地獄に堕ちたと言ったと伝えられる大聖人のことを敵(かたき)のように思っていたことでしょう。
 いわば幕府中枢の懐深く入った場所ともいえます。その大変な地で、若き日興上人は、地元の中心であった高橋入道らと力を合わせ、猛然と弘教拡大を行われたのです。
 しかし、そのような大聖人門下の勢いを苦々しく思う勢力も当然あっただろう。
 大聖人の流罪赦免で面子がつぶれ引き篭もっていた良観、自らの手で大聖人を捕縛しながら赦免後は掌を返したように慇懃な応対をした平左衛門尉。その他、幕府の中枢にも、大聖人を快く思っていない人間はまだまだいたことだろう。
 森中 ちなみに、良観といえば、大聖人の鎌倉御帰還時には仮病を使って引き篭もっていたのですが、翌年の3月に自身が住んでいた極楽寺が炎上し、鎌倉市中も被害にあっています。
 大聖人が御帰還後に滞在されていた所にも火の手が及んだらしく、一谷入道に渡すために書写された法華経を焼失した、と入道への御手紙に記されています(1329㌻)。
 また翌建治2年(1276年)1月20日に鎌倉御所が焼亡した時の火事も極楽寺がかかわっていたようで、大聖人は、良観(りょうかん)房ではなく両火(りょうか=二度の火災)房だ、と糾弾されています(1137㌻等)。
13  池田 身延におられた大聖人のもとには、各地の弟子たちの状況が闘争の状況が逐一報告されていた。大聖人は、それを受けて、指示を与え、激励の言葉を送られていた。大聖人のおられるところは、鎌倉であろうと、佐渡であろうと、身延であろうと、戦いの本陣だった。とても静かな隠棲などではなかった。身延においても「日蓮一度もしりぞく心なし」です。常在戦場であられた。
 森中 これに対して、迫害の魔手も門下一人ひとりを襲ってきます。
 このころ、特に矢面に立って攻撃を受けたのは、池上宗仲・宗長の兄弟であり、四条金吾でした。いずれもその黒幕には、良観がいました。
 池田 弟子たちを苦しめたのは、封建的な人間関係の中での迫害です。恩義を受けた主君や親から、信仰を捨てるよう強要された。
 社会的な地位や財産を取るのか、それとも信仰を取るのか――弟子たちは二者択一を鋭く迫られた。
 森中 池上宗仲は、建治年間に2度にわたって父親から勘当されています。
 池上兄弟が、いつ大聖人の仏法に帰依したか確かな史料はありませんが、建長8年(1256年)ごろ、工藤吉隆、四条金吾らと同時期に入信したと伝えられています。大聖人の佐渡流罪中も、四条金吾や富木常忍らとともに門下の中心として戦ったことでしょう。
 斎藤 池上家は、有力な工匠として幕府に仕えていました。幕府の土木・建築事業は、良観ら真言律宗が掌握していました。大聖人が「良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし」と述べておられるように、父の康光は、良観の信奉者であって、何らかの圧力を受けていたと思われます。当然、親子の確執は激しくなったに違いありません。
 森中 兄・宗仲が1回目の勘当にあったのは、建治2年(1276年)の春と推測されます。大聖人がその勘当の直後に「兄弟抄」を送られて激励されていることは有名です。いずれにしても、入信後、長い年月を経てからのことです。当時の武家社会で、勘当というのは大変なことです。
 勘当を受けた子は、所領も没収され、家督相続権や遺産相続権も、さらに惣領を継ぐ地位も失ってしまう。経済的な基盤も、社会的な身分も奪われてしまうのです。
 斎藤 1回目の勘当については、なぜ起きたのかについて、確かな史料は何も残っていません。
 宗仲が入信してから20年もたっています。それまでも、対立があったこととは思いますが、なぜ、父康光は、この期に及んで、勘当という強引なやり方を取ったのか……。
 池田 やはり良観の策動があったにちがいない。良観は、攻撃の矛先を弟子に向け、大聖人一門の切り崩しを図った。大聖人門下には、弟子が自ら立とうという気運が盛り上がっていた。
 だからこそ、各所で良観一派と火花を散らすことになったのでしょう。
 斎藤 池上兄弟は、大聖人から「兄弟抄」という長文の御手紙を頂き、信心を奮い立たせて、父・康光の圧迫をはねのけることができた。その結果、父は、宗仲の勘当をいったんは解くに至ります。
 池田 なぜ勘当が許されたのか。それは何より、大聖人の仰せのままに、兄弟が異体同心の団結で、心一つに戦ったからでしょう。何よりも弟の宗長が大聖人の仰せのままに兄と結束したことが大きな力となった。
 特に大聖人は、弟・宗長の信心を案じられていた。
 兄が勘当されれば、自分が惣領になれる。地位も財産も継ぐことができる。弟にとっては、大いに心が揺さぶられたことだろう。
 人間同士を、分断の方向に、不信と憎悪の方向に向かわせていくのが、「魔」の働きの本質です。これに対して、人間同士を、結合の方向に、信頼と共感の方向に向かわせていくのが、「仏」です。
 斎藤 大聖人は、「兄弟抄」で「難を乗り越える信心」の姿勢を徹底して教えられています。なかでもその核心が、この御文です。
 「其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ
 〈通解〉――そのうえ摩訶止観第五の巻に説かれる一念三千は、今一重立ち入った法門である。この法門を説くならば、必ず魔が現れるのである。魔が競い起こらないならば、その法が正法であるとは分からない。止観の第五の巻には「仏法を持ち、修行と理解が進んできたときには、三障四魔が紛然として競い起こる。だが三障四魔に従ってはならない。畏れてはならない。これに従うならば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」と書かれている。止観のこの釈は、日蓮の身に当てはまるばかりでなく、門家一同の明鏡である。謹んで習い伝えて、未来の信心修行の糧とすべきである。
14  池田 心すべき御文です。大聖人が仰せのように、未来永劫にわたって信心の根本としなければならない教えです。
 仏法は、仏と魔との闘争である。三障四魔を現実に駆り出し、戦い、打ち破ってこそ、自分自身の生命も仏になることができるのです。
 斎藤 「摩訶止観」の引用は、第7章「正修止観」の初めに出てきます。三障とは、煩悩障、業障、報障であり、四魔とは、煩悩魔、陰魔、死魔、他化自在天子魔です。天台大師にとって、「行解」とは「止観」の修行であり、「三障四魔」は、その修行を邪魔する働きとして捉えられています。
 池田 大聖人は、天台の所説を踏まえられながら、大きく展開されています。大聖人にとって「行解」の中心は、折伏です。「三障四魔」は、法華経の行者を迫害する人間の姿として具体的に現れてくる。
 森中 「兄弟抄」では、「三障四魔」と合わせて、悪鬼が身に入って迫害者となるという法華経勧持品の「悪鬼入其身」の原理を法難の説明として用いられています。
 「第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に「悪鬼其の身に入る」と説かれて候は是なり
 〈通解〉――第六天の魔王がこれらの智者の身に入って、善人をだますのである。法華経の第五の巻に「悪鬼が其の身に入る」と説かれているのはこのことである。
 法華経を誹謗する諸宗の教えは、「悪鬼入其身」の僧によって説かれたものであるということですね。
 またこうも仰せです。
 「六天の魔王或は妻子の身に入つて親や夫をたぼらかし或は国王の身に入つて法華経の行者ををどし或は父母の身に入つて孝養の子をせむる事あり
 〈通解〉――第六天の魔王があるいは妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、あるいは国王の身に入って法華経の行者を脅し、あるいは父母の身に入って孝養の子を責めたりする。
 悪鬼は、修行者、妻子、父母、主君、国王など、どのような人間の身にも入り込み、「三障四魔」として顕れ出るのですね。
 池田 仏と魔の闘争といっても、天台大師においては、自分の心の中に閉ざされている。しかし、大聖人は、この宇宙全体を、仏と魔の熾烈な戦場と見ておられるのです。
 「此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属けんぞくなり」と仰せの通り、この世界は魔王の所領となっている。
 大聖人は、それに対して、一人敢然と戦いを起こされた。
 第三章でも引用したが「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土どうこえどを・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」と仰せの通りです。
 斎藤 また、大聖人は、難を受ける原因を、転重軽受という別の面からも教えておられますが、すでに考察していただいているので、ここでは略します。
15  池田 一言だけいえば、過去から現在へと延々と続く、不幸から不幸への連鎖を、今世で断ち切るのです。難こそ成仏への絶好のチャンスです。境涯を大きく開くための飛躍台なのです。だからこそ「賢者はよろこび愚者は退く」のです。
 森中 そこで池上兄弟ですが、勘当という、大きな試練を乗り越えたのも束の間、建治3年の11月に、兄の宗仲は再び、父から勘当されます。
 弟の宗長の動揺を鋭く見抜かれた大聖人は、「兄はこのたび法華経の行者となるが、弟は法華経の敵となるに違いない」と、宗長をあえて厳しく指導しておられます。
 その一方で、「良観らが、親をそそのかして悪道に堕とそうとしている」と、勘当の黒幕が良観だったことを鋭く指摘しておられます。
 斎藤 この時与えられた御書でも、大聖人は、三障四魔に打ち勝っていきなさいと教えられています。
 「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり
 〈通解〉――潮が干る時と満ちる時と、月の出る時と入る時と、また夏と秋と冬と春の変わり目には、必ず、それまでとは異なることがあります。凡夫が仏になる時もまた同じことです。必ず三障四魔という障害が出てくるので、賢者は喜び、愚者は退くのです。
 宗長も覚悟を決めたのでしょう。大聖人の仰せ通り、康光に自身の決意を述べ、兄の勘当を解くよう、必死に諫めたものと考えられます。建治4年(1278年)の1月前後に勘当が許されたようです。
 森中 そして、兄宗仲の二度にわたる勘当という大難の後にやってきたものは、兄弟の宿願だった父の入信でした。同年・弘安元年の9月の御述作とされる「兵衛志殿御返事(親父入信事)」では、兄弟が団結して父を入信させることができたが、その功績は「ひとえに貴辺の御身にあり」と宗長の戦いを讃えておられます。
 父・康光は翌年、死去しますが、兄弟の父親に対する真実の孝行をたたえられながら、正法に帰依して逝った父の成仏は間違いないと激励されています。
 池田 大聖人は「兄弟抄」で、二人が同心で戦っているので、「未来までの・ものがたり物語」として、これ以上に素晴らしいものはないであろうと仰せです。まさに、そのとおりになった。
 森中 こうして700年以上も経っても語り継がれています。
 池田 「障魔と戦って信心を貫き、勝利していく」ことこそ仏法の真髄です。障魔の究極的な正体は元品の無明です。万人の生命に具わっている不幸の根源です。
 万人が元品の無明に打ち勝ち、元品の法性を現して成仏を遂げていくことこそ、仏が法を説く根本の目的です。池上兄弟の戦いは、その仏法の真髄を実践しぬいた最高の「物語」なのです。
 斎藤 現代においては、学会員によって障魔に勝ち抜いていく無数の「物語」が編まれています。
 池田 門下が、仏法の真髄と言うべき生命勝利の物語の主役として活躍してほしい。これが大聖人の御心です。
 その「物語」を大聖人がまず万人の手本として戦われた。それが4度の大難です。そして、勝利の証明として御本尊を顕してくださった。元品の無明を打ち下して、元品の法性と一体になった大聖人の仏界の御生命を顕してくださったのです。
 そして、今度は、大聖人の門下が、一人一人の戦いとして生命勝利の「物語」を演じぬき、大聖人の仏法を証明していく番です。
 その証明が未来の万人の勝利の鏡になるのです。
 池上兄弟とほぼ同じ時期に障魔と戦って見事な実証を示したのが四条金吾だね。
 斎藤 はい。その物語はすでに語っていただきましたので(本連載第18回)、ここでは略したいと思います。
16  池田 そうだね。ただ、金吾の最大の苦境のときに、大聖人が四条金吾に代わって自ら筆を執られ、金吾の主君に対して金吾の冤罪を徹底して訴えられた「頼基陳状」(建治3年6月25日)を書いてくださったことを忘れてはならない。
 大聖人が我がことのように門下の勝利のために戦ってくださった一つの象徴です。同じ月に、門下になって間もない因幡房日永のために「下山御消息」を代筆されています。
 因幡房は、念仏を信じていた下山兵庫光基によって寺を追い出されようとしていた。「下山御消息」は、因幡房の立場に立って下山兵庫を諌める一種の諌暁の書です。下山兵庫は、この御手紙によって、入信することになります。
 同じような例をもうひとつ挙げると、大聖人は、弘安2年10月にも、熱原法難の張本人である滝泉寺の院主代・行智の不法を訴えた「滝泉寺申状」の草案を、門下の日弁・日秀の名で認められています。
 師匠というのは、本当にありがたいものです。弟子の勝利のために全力を尽くしておられたのです。
 人生は熾烈な戦場です。そして、仏法は勝負です。人生の戦場でいかに勝利していくか。その究極の方途を教えているのが、この仏法です。
 戸田先生は、よく言われていた。
 「信心は、人間の、また人類の行き詰まりとの戦いだよ。魔と仏との闘争が信心だ。それが仏法は勝負ということだ」と。
 前進していれば、行き詰まる場合もある。そうなったら、更なる勢いで祈り、行動することです。必ず考えられないような大境涯が開けてくる。そして、また前進していくことができる。
 この限りなき連続闘争が信心です。行き詰まりとの不断の闘争に勝つか負けるか、それが勝負なのです。
 その戦いを万人が勝っていけるために、いわば勝利の証として、そして究極の希望として、大聖人は御本尊を顕してくださったと拝したい。
 斎藤 「法華経の兵法」と言われたゆえんですね。大聖人と同じ心で戦わなければ、御本尊の意義がわからないといえます。
 池田 仏とは、人間としての究極の勝利者のことです。仏の別号である「世雄」とは、人間の世(世間)にあって、最強の英雄ということです。
 また「勝者」「最勝者」という別号もある。障魔に勝った人という意味の尊称です。
 大聖人は、現実の社会の真っ直中に生きる弟子たちに対して、あらゆる迫害を勝ち越えて、人間としての最高の勝利者になるよう教えられたのです。
 民衆が大聖人と同じ心で迫害に耐え、信心の勝利を勝ち取っていけることを示した「弟子の闘争」の究極が、熱原の法難です。これについては、のちに詳しく考察していこう。
17  仏法は師弟の「大道」の中に
 森中 末法の民衆が大聖人と同じ心で戦い、人生の究極の勝利を勝ち取っていく――仏法は、どこまでも「師弟の法」ですね。
 池田 妙法蓮華経自体が、「師弟の法」です。「妙」は師匠、「法」は弟子です。また「蓮華」は因果倶時です。因は九界で弟子、果は仏界で師。妙法も蓮華も師弟不二です。師弟一体で妙法蓮華の花が咲いていく。
 法華経も、師(仏)と弟子(衆生)の「不二」を一貫して説いた経典です。
 そして、御本尊自体が、一人ひとりの胸中の仏界を開いて、日蓮大聖人と等しい仏界の生命を涌現するために御図顕してくださったものです。
 元来、仏(ブッダ)とは、生命の真実に目覚めた人です。生命の真実とは、自分も人も、本来、妙法の当体である、ということです。
 一切の生きとし生けるものが、自他ともに宇宙大の可能性を秘めた存在であり、自他ともの幸福を満喫するために生き生きと輝いていくべき存在である、ということです。
 この真実に目覚めることが、私たちの人生の目的であり、幸福への直道です。また、妙法の信心とは、「我が身が仏である」という真の目覚めと、「皆を仏にする」という真の実践の中に脈打っていきます。
 まず、仏が民衆を目覚めさせる行動に移る。そして、目覚めた一人が、自分を目覚めさせてくれた仏と同じように、他の人を目覚めさせていく、ということですね。
 斎藤 その意味で、最初に目覚めた人も、次々に目覚めた人たちも、最終的には同じ実践をしていくわけですね。
 池田 元品の無明と元品の法性の戦いです。師も弟子も同じ戦いをしていかなければ、仏法は広まりません。ゆえに師弟不二です。
 斎藤 よく、弟子が師匠と同じだと思うのは、かえって不遜ではないか、という問いかけがあります。
 池田 むしろ、師匠と弟子の間に断絶を設けることは、弟子にとって自分中心の増上慢の心に陥る危険が多いのです。結果的に、如説修行にはならない。
 森中 如説修行どころか、”自説修行”になることが多いですね。我執は慢心と一体です。
18  池田 戸田先生は、「弟子の道」と題する講演で明確に語っています(昭和16年11月2日)。
 「日興上人は、日蓮大聖人様をしのごうなどとのお考えは、毫もあらせられぬ。
 われわれも、ただ牧口先生の教えをすなおに守り、すなおに実践し、われわれの生活のなかに顕現しなければならない」(『戸田城聖全集』第3巻383㌻)
 師匠の教えは、民衆救済です。その教えをすなおに守り、すなおに実践する弟子もまた、民衆救済に徹していかなければならない。
 師匠が、不惜身命・死身弘法ならば、弟子もまた、不惜身命・死身弘法でなければならない。
 不遜どころか、師匠の振る舞いと一致しなければ「弟子の道」は存在しない。
 大前提は、仏の生命は「戦う心」の中に顕現するということです。戦い続ける人は、常に「まだまだ」「いよいよ」と、ますます師匠と同じ戦いを繰り広げようとする。
 斎藤 創価学会も同じです。池田先生が「一人の人を大切にする」実践と同じように、私たち弟子が周囲の人を大切にしていったら、創価学会は今の10倍、20倍発展すると思います。
 池田 戸田先生は、講演をこう結ばれている。
 「弟子は弟子の道を守らねばならぬ。ことばも、実行も、先生の教えを、身に顕現しなければならない」
 私も、同じ覚悟で戦ってきました。
 創価学会は、「日蓮大聖人が如く」そして「牧口先生が如く」「戸田先生が如く」で、発展してきた。師弟不二を目指す実践があったからこそ、広宣流布が進んできたのです。
 「弟子の道」という観点から言えば、一切の諸仏もまた、根源の「法」を師匠として仏となったのですから、「法」の前では「弟子」です。
 釈尊も、絶えず自身の胸中の「法」に基づいて行動した。日蓮大聖人も外用の振る舞いとしては、久遠の釈尊の弟子である地涌の菩薩の実践を貫かれたといえます。
 ありがたいことですが、大聖人御自身が、法華経の経文通りの如説修行のあり方を、身をもって門下に教えてくださった。
 弟子の道とは、如説修行の道です。師の教えのままに行動し抜くことです。
 森中 その意味でも、日顕宗には完全に「師弟」が欠落していますね。
 大聖人の御内証が代々の法主に流れ伝わるなどという誤った血脈信仰をもち、反対に、大聖人と同じ広宣流布の実践など全く行わない。加えて日顕は、先師違背です。先師の事績を悉く破壊した。先師否定こそ無相承の証です。
 斎藤 「弟子の道」こそが、生死一大事血脈が流れ通う道だともいえるのではないでしょうか。
19  池田 いずれにしても、「化儀の広宣流布」もまた、師弟不二の実践があってこそ成就していくということは間違いない。
 「化儀の広宣流布」を進める唯一の仏意仏勅の団体が創価学会です。
 その「化儀の広宣流布」にあって、「師弟の意義」を再度、確認しておきたい。
 まず、言うまでもなく、私たちにとって日蓮大聖人は末法の御本仏であり、根源の師匠であられる。
 森中 この根幹が理解できなかったのが五老僧ですね。末法の御本仏に迷ったがゆえに御本尊の本義にも迷ったといえます。
 斎藤 また、仏宝と法宝を正しく示されたがゆえに、日興上人が僧宝となるわけですね。正しい日蓮仏法の信仰は、六老僧の中では日興上人のみが継承しました。
 池田 その日興上人も、仏道修行していくうえで師弟が必要であることは前にも触れた。
 「この法門は、師弟の道を正して仏になる。師弟の道を誤ってしまえば、同じく法華経を持ちまいらせていても、無間地獄に堕ちてしまうのである」と仰せです。
 森中 まさに、この原理に照らせば、日顕一派は無間地獄ということになります。
 斎藤 日興上人自身、立場によって尊貴があるというのでなく、行動のいかんによって尊貴が決まるという考え方をもっておられました。
 「たとえ貫首(法主)であっても仏法に相違すれば用いてはいけない」と明確に示されています。
 池田 反対に、日興上人は、戦っている人を仏の如く敬え、と仰せです。この原理に照らせば、広宣流布に戦っている学会員を仏の如く敬ってこそ、大聖人の弟子であり、真の日興門流です。
 日興上人ご自身が、「先師の如く」「先師の如く」と明確に言われています。
 森中 「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」「巧於難問答ぎょうおなんもんどうの行者に於ては先師の如く賞翫す可き事」等と仰せです。
20  池田 師弟不二とは、究極的には、「法」を同じくすることであり、大聖人と「精神」「誓願」を同じくすることです。
 そして、大聖人が根源の師匠であることは大前提として、「化儀の広宣流布」にもまた、妙法弘通の師弟が不可欠です。
 創価学会は、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために地涌の菩薩が集った和合僧団です。
 斎藤 その地涌の菩薩の指導者が、三代の会長です。
 池田 牧口先生は、法華経の行者としての信心を貫き、獄中までの実践のなかで日蓮仏法を色読された。仏の使いとして、現代に日蓮大聖人の仏法を蘇らせた。まさに大聖人と師弟不二です。
 戸田先生は、獄中で、久遠以来日蓮大聖人の弟子であることを覚知された。
 お二人の実践は、日蓮大聖人の仏法の実践を寸分もたがわず現代に移されたものです。その意味で、日蓮仏法の体現者です。
 「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」とは、御本仏・日蓮大聖人の御遺命です。「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」とは、日興上人の御遺誡です。
 この「不惜身命」「死身弘法」の大誓願に立ち、忍難弘通によって、仏法史上に未曾有の壮大なる地涌の陣列を築かれたのが牧口先生であり、戸田先生です。
 斎藤 そして、今、池田先生の死身弘法の実践によって世界中に地涌の陣列が築かれました。750年の間、否、三千年の仏教史に燦然と輝く不滅の世界広布の陣列です。
 また、大聖人滅後、創価学会の三代にわたる広布の指導者ほど難を受けた存在はありません。これは厳然たる歴史の証明です。この三代の広宣流布の指導者が、現代における仏法弘通の師匠となることはあまりにも自明のことではないでしょうか。
 池田 たとえ、周囲が見ていようと見ていまいと、また、だれがどう言おうと言うまいと、自分は「弟子の道」を貫く。それが「師弟」です。
 戸田先生ほど、牧口先生を師と仰いで「弟子の道」を貫いた方はいません。
 「我が人生の誉れは、牧口先生の4度(よたび)の難にお供したことである」と戸田先生は語っていました。
 西町小学校からの左遷。
 三笠小学校からの排斥。
 白金小学校からの左遷。
 どんな時も、若き戸田先生は、牧口先生に従い、支え守り抜きました。
 斎藤 この過程で、あの『創価教育学体系』が編まれ、創価教育学会が創立されたことは有名です。
 そして、四度目は、軍部権力の弾圧ですね。戸田先生は、牢獄までともに行動されます。
 池田 この時に、臆病の弟子たちが豹変し、牧口先生の名を呼び捨てにして罵り去っていった。それに対して、高齢の師匠の身を案じ、戸田先生は「罪は我が身一身に集まり、一日も早く師を出獄させ給え!」と祈りつづけられた。これが弟子の道です。
 斎藤 池田先生もまた、戸田先生に徹して仕えられ、「弟子の道」を教えてくださいました。そして、戸田先生との約束はすべて実現され、今も師弟の大道を歩まれています。
21  池田 私のことはともかく、仏法とは「師弟の大道」に生き抜く中にあるということです。
 ともあれ、日蓮大聖人の身延期の闘争は、門下に師弟の大道を教え、確立させていく一代の御化導の総仕上げの時期であったともいえるでしょう。
 妙法弘通のゆえの大難は、仏法者にとって最高の誉れです。その大難を、ともに乗り越えていく真の弟子の出現を待たれていた。
 そして真実の弟子が活躍した分だけ広宣流布は大きく前進する。その広宣流布の方程式を確立しようとされたと拝したい。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」です。
 どんな大難にも莞爾として、師とともに戦いゆく真実の弟子を育てていく。まさに、仏の最後の仏事は教育です。
 ”我が、この弟子を見よ”若き人材が陸続と出現し、きら星のごとく輝く姿を見る以上の師匠の喜びはありません。
 大聖人の御化導で言えば、いよいよ民衆次元で真の仏弟子が躍り出ることを待望されていた。その仏弟子の出現が熱原の民衆です。そして、人間主義の仏法の確立が、いよいよ熱原を舞台に繰り広げられていく。次は、権力に屈しなかった民衆の勝利を語っていこう。

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