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日蓮大聖人・池田大作

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自他の魔性と戦う折伏行  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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1  魔性と仏性との闘争
 斎藤 この連載では、日蓮大聖人の御生涯の大綱を拝察するとともに、大聖人の主要な法門について考察していただいております。御生涯については佐渡流罪まで拝察し終わり、これからは、身延期から御入滅までの大聖人の御事跡と法門を考察していただくことになります。
 森中 佐渡流罪を乗り越えられたことにより、大聖人は御生涯における4度の大難をすべて勝ち越えられたことになります。
 池田 大聖人におかれては、これらの大難は単なる難ではなく、権力や宗教がもつ「魔性」との戦いであられた。そして、大難をすべて乗り越えられることによって、いかなる魔性をも乗り越える「妙法の力」「仏界の力」を自ら証明されたと拝したい。
 森中 竜の口の法難では、発迹顕本されて、妙法と一体の仏界の御境涯を示されました。
 斎藤 その「仏界の力」こそが末法濁悪の世の人々を救う力であるがゆえに、大聖人は、それを御本尊として顕し、万人に与えられたのですね。いわば4度の大難は、「仏界の力」の実験証明の場であったとも拝することができます。
 池田 前にも述べたが、末法は「争いの時代」です。国々も人々も抗しがたい力で「争いへ争いへ」と流されていく。
 その激流に抗する力は「自他の仏性を信ずる」という強い信念であり、その信念の実践としての「人を敬う」行動以外にありません。
 なぜならば、争いへの抗しがたい力を生むのが「無明」だからです。「無明」とは、万人に仏性が具わることへの無知であり、不信です。
 また、万人の尊厳を踏みにじる暗い衝動です。末法の争いを生む要因である権力や宗教の魔性も、この無明が根本にあるのです。
 森中 科学や文明が発達した現代においても、人類は、この無明や魔性から解放されているとは思えません。ますます「争い」の度が深まっているようにも感じられます。
 斎藤 むしろ、科学や文明が発達している分だけ、厳しい事態に陥っているとも見ることができます。
 池田 だからこそ、人間性の根本に仏性を見出した仏法の哲学と実践が重要なのです。「人間不在」という現代の深い病理を治すのは仏法しかありません。
 斎藤 アメリカの9・11同時多発テロ(2001年)の4か月後に発表された昨年の「SGIの日」記念提言を思い起こします。
 そこでは「真に脅威なのは、戦わなければならない相手は、一体誰なのか、何者なのか」との問いを立てて、戦うべき最強の敵は「人間不在」という現代の悪霊である、と答えられていました。
 森中 カール・ユングの「ゼロを一万回足したところで一にすらなりはしない。すべてはひとえに一人一人の人間の出来いかんにかかっている」(『現在と未来』松代洋一編訳、平凡社)という言葉が引かれているのが印象的でした。
2  池田 現代の諸問題も、人間生命の洞察に基づく戦いがなければ真の解決はないということです。
 一人の人間の生命における「魔性と仏性の戦い」を徹底的に究められたのが、大聖人の仏法なのです。4度の大難は、その根底的な戦いの場でした。
 そして、大聖人は、厳然と勝ち抜かれたのです。どこまでも「仏法は勝負」です。人類の宿命転換は、この根本的な生命の戦いによってのみあるのです。
 その意味で、「争いの時代」の様相をいよいよ深めている現代においてこそ、日蓮仏法の「戦う人間主義」が時代の要請となってくるのです。
 斎藤 そこに創価学会の使命がありますね。自他の仏性を信じて、自他ともに仏性を開発する実践は、地涌の菩薩の使命そのものです。
 池田 今は、濁世です。人間の良識をあざ笑うかのような愚行が跳梁し、世界を暗く覆っている。一面では、「人類は進歩しているのだろうか」「人間はあまりにも無力だ」といった悲観的な声が広がっている。
 しかし、他方では、だからこそ、「人間の持つ素晴らしい可能性を信じたい」という希望を、少なからぬ人が持っているのではないか。
 濁流が清流を押し流してしまうのか、清流が泥を洗い流すのか。残念ながら、まだまだ濁流の勢いが強いと言わざるをえない。
 私がお会いしてきた世界の良識の方々は、皆、人類は今、重要な岐路に立たされているという認識で一致していた。そして、未来を見すえた責任ある英知の結論も一致している。それは、人間自身が変わるしかない、という一点です。
 混迷の闇が深くなればなるほど、結局は、人間自身が問われてくる。
 焦点は「人間」です。そして、一人ひとりの境涯をどう高めていくか。そこに、未来を開くための急所がある。
 森中 現代こそ、大聖人の仏法の「戦う人間主義」の正念場ですね。
 池田 「時」が来ているのです。
 日蓮大聖人の仏法は「師弟の宗教」です。大聖人御自身が、まず、自他の仏性を敬う折伏行の「さきがけ」として、法戦の先頭に立ち、魔性を破り、人々の仏性の顕現のために闘争されました。
 そして、竜の口の法難、佐渡流罪を機に、民衆救済の大闘争を門下にも強く呼びかけられる。佐渡流罪以後は、弟子たちが戦う時が来たのです。
 その戦いとは「魔性との戦い」即ち「折伏」です。現代において創価学会が出現したのも、まさに現代こそが、この戦いの正念場であるからであると考えたい。
 そこで、この「折伏」の意義について拝察していこう。
3  摂受と折伏
 斎藤 「折伏」というと他宗派を破折することと捉えられ、宗派主義あるいは排他主義として考える人もいますが、そうではないと思います。
 池田 折伏は、「自他の仏性を信ずる」信念の実践であり、「人を敬う」最高の人間の行動です。
 ただ、「魔性と戦う」という厳格な面があるので、どうしても排他的なイメージで受け止められやすいのではないでしょうか。
 斎藤 大聖人が本格的に折伏の意義を門下に教えられていくのは、竜の口の法難以降です。竜の口の法難から約一ヵ月後、大聖人は、大田左衛門、曾谷入道、金原法橋の3人に「転重軽受法門」を与えられ、そのなかで「折伏」行に大難が必然であることを示されています。
 池田 同抄では、善国では順調に法が広まり、悪国では迫害・弾圧がある。それに応じて、弘教のあり方にも摂受と折伏があると仰せです。
 「開目抄」でも、「無智・悪人の国土に充満の時」では摂受を優先し、「0235」は、折伏を優先していくべきであると示されています(235㌻)。
 このように御書では「国」の観点から折伏が優先されるべきであると仰せです。これらの場合、大聖人の御真意は、「日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし」と仰せのように、具体的に"当時の日本"を問題にされて、邪智・破法の国であるから折伏が必要であると示されることにあります。
 しかし、摂受・折伏のどちらを実践すべきかは、より根本的には「時による」ということが大聖人の御教示です。
 「開目抄」では、折伏を論じられて「仏法は時によるべし」と結論されています。また、「佐渡御書」や「如説修行抄」でも、「時による」というのが大聖人の御教示です。
 森中 「佐渡御書」では「仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず」と仰せです。
 〈通解〉――仏法の実践において、摂受と折伏は時に応じて行うべきである。たとえば、世間の文武の二道のようなものである。それゆえ、昔の偉大な聖人たちは時に応じて仏法を実践したのである。
 斎藤 「如説修行抄」では「今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな」と言われています。
 〈通解〉――末法の今の時は、権教がただちに実教の敵となっているのである。一乗法が流布する時は、権教があって敵となって、法の正邪がまぎらわしいのであれば、実教から権教を責めるべきである。これを摂受・折伏という二つの法門のうちでは「法華経の折伏」というのである。天台が「法華経の折伏は、権教の理を破る」と言っているのは、まさしく道理に適っているのである。
 池田 末法は「闘諍言訟・白法隠没」の時代です。万人に仏性を開かせるという仏の真意を説いた実教としての法華経が見失われ、それ以外の種々の方便を説いた権教と区別がつきがたくなっている。
 森中 加えて、権教が人々をたぶらかせて、悪道に堕としていきます。実教である法華経を誹謗する悪僧が充満し、仏の真実の教えが埋没してしまっている。そうした時に大聖人が出現されました。
4  池田 「如説修行抄」の御文に「権教即実教の敵と成るなり」と仰せのように、権教が、万人の仏性を開かせるという仏の真意を妨げる働きを持つようになっていたのです。それこそが「魔性」にほかならない。このことを真実にただ御一人、知悉されていた方が大聖人であられた。ゆえに、民衆を救うためにも、仏法を守るためにも、当時の仏教の中に瀰漫するこの「魔性」と戦っていかれたのです。「権実二教のいくさ」を起こさずにはいられなかったのです。仏性を開くか、魔性にひれ伏すかの戦いです。
 斎藤 そう考えると、「折伏は排他主義」などという批判は成り立ちませんね。
 池田 「時による」というのは、仏性を妨げる魔性が働いていない正法時代、像法時代であれば、権教に説かれる一分一分の修行を実践することを認めているわけです。その実践の在り方が「摂受」です。
 要するに、大聖人は、実教である法華経で説く「自他の仏性の顕現」という仏法の目的を見失っていなければ、摂受も認めておられるのです。これが大前提です。
 ところが末法は、その仏法の根本目的が忘れられてしまった。だから、真実を言い切っていくとともに、諸宗の教えに潜む魔性を打ち破っていくことが不可欠となるのです。
 森中 確かに、大聖人の時代の他の仏教は、自他ともの幸福を確立していくための宗教とは言いがたい面が顕著だったのではないでしょうか。自身の内なる仏性に目覚め、それを開いて現当にわたる幸福を築いていく方向と逆行する宗教ばかりだったといえます。
 池田 本質的には、人間尊敬の方向へ行くか、人間を矮小化する方向へ行くかのせめぎ合いとも言えるでしょう。
 仏法は、徹して確固たる「人間」自身を築くための教えです。
 釈尊も日蓮大聖人も、究極的には「一人の人間が世界を救う」ことを説かれている。
 「人間ほど偉大なものはない」――こう高らかに叫ぶために仏法は存在する。
 慈悲と勇気に満ちた人間の大道。その道を堂々と歩んでいく「人の振る舞い」を説いたのが仏法です。その善の振る舞いを広げ、人間の尊厳を嘲笑する根本の迷いを打ち破っていく。それが末法の仏道修行の本質です。
 斎藤 その具体的な行為が折伏行となるのですね。
 池田 日蓮大聖人は、その大道を御自身と同じように全門下に歩むように教えられた。しかし、それは、大聖人と同じく迫害を受けるであろう道であった。
 それでも、あえて折伏を呼び掛けられたのです。真の幸福は、その大道の中にしかないからです。
 また、仏性を拡大する広宣流布のために立ち上がる弟子を輩出するためです。
 同じ心で立ち上がる弟子が出現しなければ、広宣流布とはいえません。一人ひとりが師子王となる。人類の境涯をゆくためには、真実の弟子の出現が不可欠です。
 斎藤 「開目抄」にしても「佐渡御書」にしても、御自身も門下も大難を受けている渦中の御書です。権力からの迫害のさなかにあって、今こそ「折伏」をしていこうと呼びかけておられるということですね。
5  池田 妙法の松明のリレーがなければ、広宣流布は成就しません。いつの時代にあっても、「日蓮と同意」の弟子が立ち上がらなければ、悪世末法の濁流を押し戻すことはできない。
 「諸法実相抄」に「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」と仰せのとおりです。
 森中 弟子が大聖人と同じく、「折伏行」に立ち上がる。そうした弟子を輩出するために、大聖人は鎌倉を離れて身延に入山されたという考え方はできないでしょうか。
 池田 身延入山の意義は種々考えられるが、それについては別の機会に拝察することにして、大聖人御自身は、どこにいようと広宣流布への闘争をなされることには、いささかの滞りもありません。
 身延入山直後に認められた「法華取要抄」の末尾では、広宣流布実現への展望が記されている。
 森中 はい。拝読します。
 「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か
 〈通解〉――このように(三災七難で)国土が乱れた後に、上行菩薩等の聖人が出現して本門の三大秘法を建立して、全国土・全世界に南無妙法蓮華経が広宣流布することは疑いないであろう。
 池田 いよいよ広宣流布の時代が到来するとの大確信です。隠遁どころか、広宣流布の時代を築かれようと、いよいよ本格的な言論戦を開始されます。
 斎藤 各地での具体的な法戦は弟子たちが主役になっていきました。
 池田 弟子たちも、それぞれの地域で活躍を始めた。日興上人が折伏を展開された駿河の熱原の地で、やがて法難が起こり、それが大聖人の出世の本懐の実現へ、大いなるきっかけとなった。この点については改めて触れるとして、弟子たちの本格的な闘争が、日蓮大聖人と同じ心に立つ折伏行であったことは間違いない。
 いよいよ、広宣流布の舞台を弟子の大いなる折伏で築いていかんとする。そうした決意が、ここかしこで横溢したことでしょう。大聖人の反転攻勢を弟子が引き継ぎ、四条金吾や池上兄弟たちの弘教のドラマ、信仰の実証のドラマが繰り広げられていきます。まさに、大聖人御在世も、門下の実践の機軸は「折伏行」です。
 森中 それでは、その折伏の意義、功徳について、おうかがいしていきたいと思います。
6  慈悲と哲理――地涌の誉れ
 池田 折伏の意義については、何点か述べることができます。
 まず、折伏の核心は、「慈悲」と「哲理」であるということです。
 「慈悲」とは、苦悩する人々を救う仏の心です。しかし、私たちが実践する場合は、友への「思いやり」であり、具体的には、粘り強い「忍耐力」と、正義を語り抜く「勇気」として現れる。
 「哲理」とは、すべての人が成仏できる、誰もが幸福になる権利をもつ、という法華経の哲理に対する「確信」です。
 斎藤 学会歌「広布に走れ」にも謳われているように、「慈悲」と「哲理」こそ、「地涌の誉れ」です。
 池田 折伏の根本は、"すべての人を何としても幸福に"という仏の願いです。その心を我が心とすることが、末法広宣流布に戦う本物の弟子、地涌の菩薩の誓願です。
 「慈悲」は、しばしば「慈」と「悲」に分けて論じられます。
 「悲」は、人々の苦悩を悲しみ、同苦することです。
 「慈」は、人々を我が子のように慈しみ、教え導くことです。
 森中 大聖人は、「唱法華題目抄」で、「悲」を譬えて「たとえば母の子に病あると知れども当時の苦を悲んで左右なく灸を加へざるが如し」と仰せです。
 〈通解〉――たとえば、母が子に病気があると分かったけれども、一時の苦痛を与えることを悲しんで、あれこれ考えることなく、灸の治療を加えないようなものである。
 これに対して、「慈」を譬えて「たとえば父は慈の故に子に病あるを見て当時の苦をかへりみず後を思ふ故に灸を加うるが如し」と述べられています。
 〈通解〉――たとえば、父は慈愛のゆえに、子に病気があると分かって、一時の苦痛を顧みないで、後々のことを思うゆえに、灸の治療を加えるようなものである。
 池田 今の日本では、父親は子に甘く、母親の方が厳しくしつけているという話もあるが(笑い)。
 いわゆる母性的な温かく包み込む愛と、いわゆる父性的な厳しく導く愛の両方に育まれてこそ、人間は心豊かにまっすぐ育っていくことができる。溺愛では、自立心が育たない。抑圧では、個性が伸びない。
 仏は、父母両方の親の徳を具えて、人々を導く。
 苦悩から解放するだけにとどまらず、さらに正しい生き方を教えて、境涯を変革させ、現実に幸福を得られるようにはたらきかけるのです。
 折伏とは、この抜苦与楽の慈悲の実践にほかならない。
7  真実を言い切る――第一義悉檀
 斎藤 「大智度論」などに示される仏法弘通の方軌である「四悉檀」でいいますと、折伏は、悪を止める「対治悉檀」、究極・真実の善を直ちに教え示す「第一義悉檀」に配当できます。
 池田 「第一義」とは、"最高・唯一の価値"です。誰もが認め尊崇すべき"最勝の真実・善"です。先に確認したように、末法は、価値観が混乱し、何が正しいか、何が大切かが分からない時代です。そのような混乱の時には、"これこそが正義である""これが最も大切だ"と明確に示していかないといけない。
 折伏とは、「真実」を語ることです。勇気をもって言い切っていくことです。「正義」の旗を高く掲げることです。
 誰もが大切にすべき普遍的な価値・正義を確立し、実現していくための戦いです。ゆえに、偏狂な宗派主義などでは決してない。また、そうなってはならない。
 法華経は、仏の悟りの真実を直ちに説いているので、「折伏の経典」とされる。
 斎藤 天台は「法華折伏・破権門理」と述べています。
 仏の悟りの真実とは、「皆成仏道」。すなわち、「すべての人が成仏できる道」ですね。
 池田 そうです。あの人も、この人も、一人も残らず、かけがえのない尊い存在である。
 生命尊厳という真実、人間尊敬という最高の実践を、徹して教えているのが法華経です。
 その法華経の心を、この苦悩渦巻く現実世界で、御自身の不惜身命の実践で教え示してくださったのが、御本仏・日蓮大聖人であられる。
 そして、大聖人は、法華経の心を「南無妙法蓮華経」と顕し、私たちが鏡とすべき御本尊として御図顕してくださったのです。
 森中 日寛上人は、「観心本尊抄」の御文を注釈される中で、末法流布の法体である三大秘法の南無妙法蓮華経を建立し、諸宗を破折された大聖人御自身の実践は、「法体の折伏」にあたるとされています。
 それに対して、その御本尊を、人間としての振る舞いを通して現実社会の中に広く流布し、民衆一人一人に信受させていくことは、「化儀の折伏」とされます。
 斎藤 立宗750周年の今日まで、現実に「化儀の折伏」を実践し、世界広布を実現してきたのは、三代の会長の死身弘法の指導のもと堅い団結で進んできた創価学会、SGIしかありません。
 世界を舞台に繰り広げられる、創価学会の広宣流布運動、仏法を基調とした平和・文化・教育の運動は、人間主義の正義を不滅のものとして確立する大闘争です。
 池田 一人立って、正義の旗を掲げゆく。その一人がいれば、皆、迷わない。大安心です。その旗のもとに集い、ともに励まし、ともどもに進む。その永遠の広布旅ほど、楽しいものはない。愉快なものはない。
 旅路には、当然、山もあれば谷もある。晴れる日もあれば、雨の日も風の日もある。
 しかし、苦も楽もすべて乗り越えて進みゆけば、最後にはすべて黄金の思い出として輝くのです。
 逆に、途中で投げ出せば、それまでの人生も、すべてが暗澹たる闇に覆われてしまう。
 不屈の闘争で「最後の勝利」を得た人は、人生のすべてがその大勝利の因となるのです。三世永遠の勝利者となるのです。
 これは、生命の峻厳なる法則です。
 折伏は、共々に「不滅の勝利の栄冠」を勝ち取ろうとの呼びかけです。
8  魔性と戦う――対治悉檀
 斎藤 次に、折伏のもう一つの特徴、「魔性と戦う」という側面についてですが、これについてはすでに述べていただきました。
 池田 「如説修行抄」等には「法華経の敵を責める」と仰せです。この点について、誤解のないように一言しておきたい。
 誤った教えに執着している人は、たとえ正しい教えが示されても、かえって反発し誤った教えへの執着を強める。
 だからこそ、粘り強い対話で、教えそのものの誤り、そしてそれを信じることの誤りの両方を明確に指摘し、気づかせ目覚めさせることが大事です。
 相手が邪見に毒されて悪口している場合は、破折が表になるのは当然です。「破折」を忘れたら、大聖人の弟子ではない。悪への「破折」がなくなったら、創価学会の魂はありません。
 森中 「如説修行抄」には、「諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」とも仰せです。
 池田 ただし、「責める」といっても、決して言い争いをするとか、まして言論以外の手段を用いるということではない。
 「正邪を明らかにしていく」ことであり、具体的には「正法を言い切っていく」ことです。
 "間違っている"という指摘だけでは、不十分です。言われた側も納得できない。"これが正しい"と明確に示してこそ、現実に変革へと一歩、踏み出すことができる。
 斎藤 正義を示す「第一義悉檀」と、悪を打ち破る「対治悉檀」は、一体不二ですね。
 池田 その根本はやはり慈悲です。
 大聖人は、「開目抄」で、御自身が折伏を行じ、諸宗を厳しく破折されている意味を、涅槃経を解釈した章安大師の言葉を引いて示されている。
 森中 拝読します。
 「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くしていつわり親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり
 〈通解〉――仏法を破壊し混乱させる者は仏法の中の敵である。そうした者たちと、いつわって親しみ交わるような慈悲のない者は、その人々に害をなすものである。進んで糾弾し治罰する者は、正法を護持する声聞であり、真の我が弟子である。彼のために悪を除いてやるのが彼の真の親である。よくその誤りを糾弾する者は、我が弟子である。仏法の敵をその場から追放しない者は、仏法の中の敵である。
 斎藤 ここで仰せの「呵責」とは悪を責めること、「駈遣」とは悪を追放することをいいます。
 この言葉に照らして見るときに、一切衆生を仏にしようとの法華経の深い心を踏みにじって、仏法を破壊し混乱させている諸宗を徹底して責めることが、仏法者としての責務であり、真の慈悲の行為です。
 池田 大聖人の実践される折伏行は、どこまでも邪法に惑わされている人々を目覚めさせ、救っていこうとの、大慈悲の御精神に基づくものです。
 私たちの折伏の実践もまた、どこまでも大聖人の大慈悲の御精神に連なって、一人の人を必ず救っていこうとの一念に基づくものでなければならない。
9  不軽菩薩の修行――人間尊敬の実践
 森中 大聖人は、法華経に説かれる不軽菩薩の実践を、折伏行の模範とされています。「開目抄」には、「邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」と仰せです。
 斎藤 不軽菩薩の実践とは、「但行礼拝」の修行です。
 不軽菩薩は、法滅の悪世において、無理解な人々の非難・中傷の中にあっても、堅い信念で、いわゆる「二十四文字の法華経」を唱え、人々を尊敬し礼拝し続けます。
 「二十四文字の法華経」とは「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経556㌻)との文です。
 〈通解〉――私は深く、あなた方を敬います。決して、軽んじたり、慢ったりいたしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道の修行をして、必ず仏になることができるからです。
 この文は、漢文で、二十四文字から成っています。そこで、不軽菩薩の弘めた法華経は「二十四文字の法華経」と呼ばれています。
 この「二十四文字の法華経」は、「広」「略」「要」で言えば、「略法華経」に当たるとされます。
 池田 「略法華経」と呼ばれるのは、法華経の教えがこの二十四文字に凝縮されている、ということです。
 一切衆生に「仏性」がある。「仏界」がある。その「仏界」を不軽菩薩は、礼拝したのです。
 法華経では、「仏性」という言葉は使われてはいない。しかし、不軽菩薩の実践の中で、一切衆生に仏性があることを明確に示されているのです。
 観念的な言葉ではなく、現実の行動で示しているのです。これ以上の「生命尊厳」の思想はない。
 斎藤 正法時代後半の正師とされるインドの世親(天親)は、『法華論』(『妙法蓮華経憂婆提舎』下)で、不軽菩薩の礼拝行が法華経で悉有仏性が説かれている根拠としています。
 森中 天台大師もまた『法華文句』巻10上で、「二十四文字の法華経」で人々を礼拝する文を、正因仏性を示す文と注釈しています。
 池田 正師とされる人は皆、気づいているのです。しかも、法華経は、敵対し反発する人々でさえも皆が尊き「仏子」であると説く。
 森中 自分の仏界を自覚していない者であっても、仏界を具えた尊厳なる存在である事実は変わりません。不軽菩薩が礼拝した通りです。それゆえ、法華経の精神からは、暴力は絶対に出てきません。
 斎藤 不軽品を見ると、邪悪の破折は明確には説かれていません。激しく責めたてられているのは、むしろ不軽菩薩のほうです。
 折伏を「対治悉檀」の面だけで考えて、なぜ、これが折伏の例とされるかが分からないという人もいます。
 池田 やはり、真実を直ちに説くという「第一義悉檀」の面から考えなければなりません。
 「二十四文字の法華経」は、人間尊敬という法華経の根本精神を端的に示す文であり、不軽菩薩の実践は、それを直ちに説き弘めたからこそ、折伏と位置付けられると拝せます。
 第1章でも触れたが、大聖人は、「崇峻天皇御書」で、不軽菩薩の「人を敬う」実践こそが「法華経の修行の肝心」であり、「釈尊の出世の本懐」であると仰せである。
 森中 不軽菩薩は、自分自身は軽蔑され、迫害されましたが、人を敬う実践をどこまでも貫きました。
 大聖人もまた、前代未聞の大難に屈することなく、難に遭うごとにさらに強靭に正義の闘争を繰り広げられました。
 池田 大聖人は「聖人知三世事」に、御自身が不軽菩薩の実践を継ぐ者であると仰せです。
 また、「顕仏未来記」には、大聖人の実践が不軽菩薩の実践に合致する点を、3点にわたって挙げられています。
 森中 拝読します。
 「彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり
 〈通解〉――彼(不軽菩薩)の二十四字と、これ(日蓮大聖人)の五字とは、その言葉は異なっているといっても、その意は同じである。彼の像法の末とこれの末法の初とは、全く同じ(悪世法滅の時)である。あの不軽菩薩は初随喜の位の人であり、日蓮は名字即の位の凡夫である。
 斎藤 整理します。
 まず①「法」の一致です。不軽菩薩の「二十四文字の法華経」と、大聖人の妙法蓮華経五字の題目は、その心は同じである、と仰せです。
 池田 真実の法を言い切っていくということだね。
 斎藤 次に②「時」の一致です。
 不軽菩薩は、威音王仏の像法の末です。大聖人は、釈迦仏の末法の初です。いずれも、法滅の悪世で、世間一般にも宗教界にも、慢心の者が多い時代です。
 それゆえ、ともに反発する人々から迫害を受け、忍難弘通を貫かれました。
 池田 恐れずに魔性と戦いきっていくということです。
 斎藤 そして③「修行の位」の一致です。
 不軽菩薩の初随喜とは、仏の滅後の法華経を聞いて歓喜の心を起こした人の位です。仏滅後において妙法を修行する人を五段階に分けた「五品」のうち、第一段階の人です。
 大聖人の名字即とは、法華経の修行の位である「六即」の第二です。はじめて妙法を聞いて信受した位です。第一の理即は、仏道修行にまったくふれていない人ですので、第二の名字即が実質的な最初の段階です。
 したがって、初随喜・名字即のいずれも、菩薩道を実践し始めたばかりの凡夫、普通の人です。
 池田 万人を救う戦いであるがゆえに、特別な存在ではなく一人の人間として、偉大な仏界の生命を顕していく戦いに、勝ちきっていかなければならないのです。
10  折伏の功徳――成仏
 森中 この不軽菩薩は、教主・釈尊の菩薩の時の姿であると法華経に説かれています。
 不軽菩薩は、但行礼拝の折伏行で、反発・敵対する人まで、あらゆる人を救っていった。その功徳で、自身も妙法を悟り、成仏しています。
 池田 法華経本門で久遠実成を明かした後、釈尊自身の過去世の修行が説かれるのは、唯一、不軽品だけです。そのことから考えると、久遠の釈尊の成仏の本因も、不軽の実践にあったと拝することができるのではないだろうか。
 「御義口伝」では、不軽菩薩の礼拝行について、寿量品の「我本行菩薩道」の文に言及し、「我とは本因妙の時を指すなり、本行菩薩道の文は不軽菩薩なり此れを礼拝の住処と指すなり」と仰せです。
 つまり、久遠において成仏の本因を修行する釈尊とは、不軽菩薩に他ならないとの仰せと拝することができます。
 斎藤 「我本行菩薩道」は、久遠の釈尊が成仏した本因を明かした本因妙の文です。この文底に、成仏の本因の法である南無妙法蓮華経が秘されており、大聖人はそれを万人に説き示し、三大秘法の御本尊として、あらゆる人に成仏の道を開かれました。
 池田 久遠の釈尊は、万人の生命に具わる三世永遠の妙法を覚知し、修行して成仏したのです。
 "誰もが妙法を欠けるところなく具えた尊い存在である"との真実への目覚めによって、自身を仏界という最高の境涯へ高めていくことができたのです。
 また、「御義口伝」では、不軽の礼拝行は寿量品の「毎自作是念」の文にあたるとも仰せです。
 森中 仏が毎に一切衆生の成仏を念じ、願っていることが示されている文ですね。
 池田 仏は成仏する前も成仏した後も、常に万人の成仏を願い続けるのです。それが、あらゆる生命の奥底にある永遠の願いだからです。不軽菩薩の一念は、この仏の心と同じだということと拝することができます。
 これらの仰せから、不軽菩薩の実践すなわち折伏とは、自他の成仏の直道であり、自他ともの幸福を開く崇高な実践であることがわかります。
 森中 大聖人御在世当時、不軽菩薩の実践も、形骸化したものとして行われていました。
 普段の行動は関係なく、特定の日の行事として、礼拝の実践をする習慣があったのです。
 藤原定家は、その日記・「明月記」で、7月7日、七夕の日に自身が門前の道を通る人々を普く礼拝したことを記しています。
 池田 そのような時代にあって、実際に不軽菩薩と同様に、妙法の真髄を人々に語り、命に及ぶ激しい迫害にあわれたのが大聖人です。真実の「如説修行」、「法華経の行者」はこうである、と示してくださった。
 言葉だけ、形だけの実践を打ち破り、妙法の心を実践し、生き抜かれた。その尊い御振る舞いによって、未来永遠の幸福の道を切り開かれたのです。
11  其罪畢已と六根清浄
 森中 不軽品には、「其罪畢已」「六根清浄」の功徳が示されています。
 不軽菩薩は、難を忍んで折伏を行じて、過去世の罪業による報いをすべて消し去り(其罪畢已)、臨終の時に妙法を聞いて生命が清らかになり(六根清浄)、寿命を延ばし、さらに妙法弘通を推進した――このように説かれます。
 これも折伏の功徳に通じますね。
 斎藤 不軽菩薩の「其罪畢已」については、第15回(3月号)で、宿命転換をテーマに詳しく語っていただきました。
 その中で、自他ともの幸福という仏の大願に目覚め、自身の宿業を真正面から見つめ、真っ向から取り組んで転換していくことによってこそ、成仏が可能である、と教えていただきました。
 池田 すべての根幹は、仏の心、法華経の心と一致することです。仏と一体となり、妙法に合致すれば、どんな困難も乗り越えられないことはない。
 仏の心は、万人救済の大慈悲の誓願です。その誓願に連なり成就せんとする大闘争の中で、自身の生命が鍛え磨かれるのです。
 森中 人々を救う闘争によって、自分が「六根清浄」となるのですね。
 池田 折伏行には自他の無明を打ち破っていく力があるからです。
 ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨けない。同様に、人間は人間によってのみ、磨かれ輝くのです。
 斎藤 「御義口伝」には「妙法蓮華経の法の師」、つまり末法悪世に妙法を受持し弘通する人は大いなる功徳が得られると仰せです。
 池田 仏の教説のままに、難をも恐れず勇敢に広宣流布を目指して戦う人は、「即身成仏」「六根清浄」の功徳があると仰せである。勇気をもって戦った分だけ功徳があり、「人間革命」できるのです。
 「御義口伝」には「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」と仰せです。勇気をもって自他の悪と戦っていくところにのみ、妙法の善なる力が現れてくるのです。勇気ある戦いがなければ、偉大な功徳はありません。偉大な人生を歩むためには、折伏が大切なのです。
 一人の人の一生は、長いようで短い。その中で自ら体験できることは限られている。しかし、一人また一人と、他の人の悩みを我が悩みとして、共に祈り、共に戦い、共に勝ち越えていけば、人生の豊かさは、2倍、3倍、10倍、100倍と無限に広がっていく。
 ほかの人のために悩んだ分だけ、戦った分だけ、「心の財」を積むことができる。そして、どんなことが起ころうとも、揺るがぬ幸福境涯を確立していくことができるのです。
12  逆縁による下種の功徳
 斎藤 不軽菩薩は迫害されても迫害されても、広宣流布へ立ち向かっていきました。大聖人も幾多の難を乗り越え、民衆救済の闘争を続けられました。
 反発を受けても、あえて折伏を行うのはなぜか――それは、自分だけではなく、相手にとっても、最大の利益があるからであると考えられます。
 池田 その利益とは、言うまでもなく、「下種」を受けるということ、すなわち生命に成仏の種子を植えていくことです。
 森中 法華経では、一切衆生の生命には、もともと仏性という成仏への因が具わっていると説きますが、具体的にその仏性を発動させていく働きかけが、「下種」という行為です。
 池田 大聖人は「仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし」と仰せです。
 万人成仏の唯一の法である妙法を聞くことが縁です。その縁に触発されてはじめて、人々の胸中に仏種が形成され、芽生えていくということです。
 したがって、人々に日蓮大聖人の仏法を語っていくという行為は、その人の成仏への機縁を作っていく、最も尊い行為である。だからこそ、功徳も大きいのです。
 森中 法を聞いて信受するという過程にあって、法を聞くという「聞法」と、聞いて教えを信受していく「発心」との立て分けが論じられます。
 妙楽大師は「聞法を種と為し発心を芽となす」(『法華玄義釈籤』)と譬えています。
 池田 戸田先生は、こう語られていた。
 「下種には聞法下種と、発心下種の二種類がある。初めて会って折伏した。けれど信心しなかった。これは聞法下種である。ところが、次の人が行って折伏し、御本尊様をいただかせた。これは発心下種である。どちらも下種には変わりはない。功徳は同じである」(『戸田城聖全集』第4巻42㌻)
 聞法下種も発心下種も、いずれも、妙法を教えていく尊い行いです。御本仏のお使いをした功徳は、いずれも絶大です。
 そのうえで、大聖人は、妙法を説き聞かせて、仏縁を結ぶ聞法下種を強調されている。
 大聖人は「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり」と仰せです。
 「毒鼓の縁」とは「逆縁」とも言います。法華経を説き聞かせれば、たとえ、その時は信ずることなく、誹謗しようとも、"正法を聞いた"ことが「縁」となり、必ず後に成仏の道に入ることです。
 斎藤 妙法を説き、耳に触れさせれば、相手の生命の奥底では、必ず仏性が触発されている。それで反発するか、発心するかは、人それぞれですが、必ず「眠っていた仏性」が刺激されているのですね。
 池田 たとえ、すぐに正法を信じることができなくても、妙法を聞いたことによって生命に下種を受けた人は、種子からやがて芽が出るように、いつか必ず正法を信ずる時がくる。
 ゆえに、相手が信じても信じなくても、その人の幸福を願い、真心を尽くし、勇気をもって、仏法の素晴らしさを語っていくことが大切です。
 大聖人も、たとえ、暴力や権力を用いて敵対し迫害してくる相手であっても、少しもひるむことなく堂々と正義を訴え続けられた。
 ロシア科学アカデミー東洋学研究所のマルガリータ・ヴォロビヨヴァ博士は、法華経の重要なメッセージとして、私の『方便品・寿量品講義』のロシア語版に寄せて、このように記しておられる。
 「あなたがどんな人間であっても、いかなる行いをしてしまったとしても、社会の最も低い場所に落ちてしまったとしても、仏はあなたを決してあきらめません。
 それでも、あなたの命は尊いからです。
 仏は、粘り強く教え、戒め、諭し、許すのです。衆生は決して弱く愚かな存在ではないと法華経は励ましています。人間の自立を促す仏の教えは、多くの人々にとって良き助けとなっていくことでしょう。
 釈尊がこの世を去ってから大きな時間が経過しました。その間、仏は、決してどこか遠い世界から衆生を傍観しているのではありません。仏陀の声は、その教えを正しく受け継ぐ生きた人間の声となって私たちに語りかけ続けているのです」
 仏陀の声を受け継ぐ人間の声。それが私たちの折伏です。
 どんな人をも見捨てることなく、救いきっていく仏の振る舞いが、妙法の折伏行です。
 創価学会は、この仏の心と振る舞いを継承しているのです。その戦いに連なる一人ひとりに偉大な功徳がないわけがありません。
 「正義によって立て。汝の力、二倍せん」――私が青年時代から心に刻んできた箴言です。
 正義に立った人間は無敵です。真理をたもった人間ほど強いものはありません。
 アメリカの哲学者エマソンは語っています。
 「己を持して固く自立して居る人には宇宙もまたその味方として立つ」(戸川秋骨訳『エマアソン全集第八巻 人生論』国民文庫刊行会刊)
 森中 マーチン・ルーサー・キング博士は、自らの「非暴力抵抗」について「それが、宇宙は正義に味方するという確信に基づいている」と述べています。
 池田 大聖人は仰せです。
 「然りと雖も諸天善神等は日蓮に力を合せ給う故に竜口までもかちぬ、其の外の大難をも脱れたり、今は魔王もこりてや候うらん
 〈通解〉――(第六天の魔王自身が邪魔をしてきても)諸天善神等は日蓮に力を合わせてくださったゆえに、竜の口の法難さえも勝つことができた。そのほかの大難をも切り抜けることができた。今は魔王も、こりていることであろう。
 全宇宙の諸天善神、仏菩薩――これ以上の強い味方はいません。
 透徹した正義の信念に立てば、大宇宙の力が全身にみなぎってくる。勇気が、智慧が、こんこんと湧き出てくるのです。
 ゆえに、大聖人は「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」と、広大なる歓喜の御境涯を示されています。御本仏の御心のままに妙法を弘める学会員の正義の行動には、宇宙大の福徳が具わることを確信していきたい。

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