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日蓮大聖人・池田大作

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現実変革へ、智慧と勇気の大言論戦を  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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2  堂々と赦免を勝ち取る
 斎藤 文永11年(1274年)3月、佐渡に流罪の赦免状が届きます。
 赦免の直接のきっかけは、幕府の蒙古襲来への危機感の高まりだと考えられます。
 森中 大聖人の佐渡流罪中、蒙古襲来の危機はますます高まっていきます。
 文永9年(1272年)5月には、元使・趙良弼の使いである高麗人が来日します。日本は返答しません。
 さらに翌10年3月に、元使・趙良弼自身が太宰府に来ます。しかし、打つ手もない日本は、入京を拒否し、対話することなく、退去させます。
 斎藤 その緊張の中、文永9年10月23日夜、大聖人は蒙古襲来の夢を見、これを手元の日興上人書写の『立正安国論』の裏面にメモされています。
 池田 大聖人は、夢に御覧になるほど、蒙古襲来について切実に、また深くお考えだったのではないだろうか。
 大聖人は、佐渡におられながら、蒙古・高麗の情報を集めておられたようだね。
 森中 はい。9月に四条金吾と思われる門下から報告を受けられています。
 池田 文永9年二月騒動(北条時輔の乱)が起こって、すでに自界叛逆難が現実となった。残る他国侵逼難も、蒙古襲来の脅威として目前に迫っていた。その現実を、大聖人は、すべて引き受けて、解決しようとされた。
 無用の戦乱でさらに民衆を苦しめることを深く憂慮されていたからです。
 大聖人は常に民衆の幸福を願い、平和と安定を願われていた。
 斎藤 二月騒動の後、幕府の迫害が少し落ち着いたのか、門下が大聖人の赦免運動を始めたようです。
 それに対して、大聖人は、同年5月5日付の「真言諸宗違目」では、むしろ、赦免を少しでも言い出すような門下は「不孝の者」だと厳しく禁じられています。
3  池田 大聖人は、大難をもはるかに見下ろす大境涯であられた。幕府に赦免を請うような卑屈な真似は許されなかった。
 幕府が非を詫び、尊崇の念をもって鎌倉御帰還を願う時がくることを、すでに確信されていたのではないだろうか。
 正義の勝利は、正義の言論、正義の行動によってもたらされる。権力にすりよって庇護を受ければ、かえって権力に利用される。そのことを大聖人は厳しく教えられたのでしょう。
 斎藤 「立正安国論」で予言されて以来、繰り返し警告されていた二難がついに具体的な形となって現れたことが、幕府の方針の転換を生みました。
 もともと、幕府自体が大聖人は無実だと分かっていながらの不当な流罪でした。竜の口の処刑失敗直後に「この人は罪がない人である。今しばらくあって、赦免する」とわざわざ急ぎの伝令を出しています。
 池田 幕府要人たちは、"大聖人への不当な弾圧が国を揺るがす危機をもたらすのではないか"という不安を心の奥に抱えていた。
 そこに、大聖人が予言されたとおり、内乱が起こり、外寇が迫ってきた。
 彼らは、大聖人に対して、畏敬とはいかないまでも、畏怖の念はきっと抱いただろう。
 森中 なかでも、虚御教書を3度も出して大聖人を亡き者にしようとしていた佐渡守・北条宣時などは、かなり恐れていたでしょう。
 池田 最終的に赦免を決断したのは、執権・北条時宗だったようだ。大聖人も諸御抄にそう記されている。
 時宗は、大聖人への悪評が讒言によるものだ、とようやく気づいた。もっとも大聖人は、御自身の無実、正義は必ず証明されることを確信しておられた。
 「水は濁ってもまた必ず澄み、月は雲が隠してもまた必ず晴れて現れる道理」だと仰せです。
 時宗は、まだ幕府内にも反対意見がある中で、大聖人の正義に目を向け、聞く耳をもとうとした。それゆえに、大聖人が鎌倉に御帰還されてすぐ、幕府に招いて意見を聞こうとしたのではないか。
 斎藤 日蓮大聖人は、文永11年3月13日に佐渡を発ち、同26日、鎌倉に帰還されました。御帰還後程ない4月8日、大聖人は、幕府に招かれて、平左衛門尉頼綱をはじめとする重臣たちに対面し、質問を受けられます。
 頼綱は、居丈高に振る舞った竜の口法難のときとは打って変わって、礼儀正しく振る舞っていました。また、居並ぶ他の重臣からは、念仏・真言・禅など諸宗についての質問がありました。大聖人に対する彼らなりの気遣いが伺えます。
 森中 大聖人と大聖人を迫害する一派の攻守は、流罪時と赦免時では、まったく入れ替わっていたのですね。そのことは、陰で迫害の糸を引いていた良観らにもいえます。
 池田 大聖人は、まさに反転攻勢の気概に満ちた堂々の凱旋であられたのに対して、讒言を繰り返していた良観は、固く門を閉じ、仮病を使ってこそこそ逃げ隠れしていたようだね。
 森中 良観は、大聖人が流罪に赴かれる時には、"皆、急いで鎌倉へ。私が日蓮と宗論をして皆さんの疑いを晴らそう"などと威張っていました。(笑い)
4  予言は御本仏の慈悲と智慧の現れ
 斎藤 4月8日の対面で大聖人は、国主諫暁を行い、蒙古の年内襲来を予言されました。
 池田 「撰時抄」に記されている「三度の高名」のうちの第3番目だね。
 念のため、御文を拝して、大聖人が国家権力を諫暁された「三度の高名」のそれぞれを確認しておこう。
 森中 はい。1度目は、文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」の上呈の折です。こう仰せです。
 「ひとつにはいにし文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷やどやの入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべしと申させ給へ此の事を御用いなきならば此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし
 〈通解〉――1度目は、去る文応元年太歳庚申7月16日に、「立正安国論」を最明寺殿(北条時頼)に奏上した時、宿谷入道に向って言った。
 「『禅宗と念仏宗とを退けなさい』と(時頼殿に)申し上げてください。このことを用いないようなら、この(北条)一門の内から事件が起こり、また他国に攻められるにちがいありません」と。
 池田 「立正安国論」を幕府の最高実力者・北条時頼に出される際に、面談した幕府の官僚・宿屋光則に対して述べられた予言です。
 まず、当時、時頼らが重く用いていた禅宗と念仏宗への帰依を止めるよう、諫暁された。それとともに、「立正安国論」に認められた自界叛逆難と他国侵逼難という二難について、口頭で述べられている。
 そのうち、自界叛逆難については、より具体的に、北条一門の内紛という形で述べられている。
 斎藤 この二難のうち、自界叛逆難は「立正安国論」提出から12年後、文永9年(1272年)2月の二月騒動(北条時輔の乱)として、他国侵逼難は文永5年(1268年)の蒙古国書の到来にはじまり文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の襲来に至る外患として、現実のものとなりました。
 池田 「立正安国論」提出から蒙古国書到来までですら、8年もある。大聖人の透徹した洞察は、先々を見通し、民衆の苦悩を解決する戦いにおいて、先手を打ち、先駆するものであられた。
 斎藤 北条氏にはライバル(競争相手)となる幕府建設の功労者を次々と滅ぼしていく体質がありますから、自界叛逆難はある程度は想像できます。
 しかし、他国からの攻撃は、当時の人々は想像すらしなかったことでしょう。幕府要人が後ろ盾となって日宋貿易を行っていたとはいえ、いや、逆にそれ故、はるか海を越えてくる大変さを知っていればこそ、他国が実際に襲来するとは考えが及ばなかったに違いありません。
 池田 大聖人の願いは、万人の幸福であられた。それは、当初から、日本一国に止まるものではなかったでしょう。
 「立正安国論」には、主人の発言として、「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん」に続いて、「すべからく一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」と仰せです。
 〈通解〉――国を失い家を滅ぼせば、どこに(苦難の)世を遁れることができようか。
 あなたは、自身一人の安心を願うにしても、四方の平穏を祈らなければならないのではないか。
 大聖人の思いは、"一国家の安定"をはるかに超えて、「四表の静謐」すなわち"全世界の平和"へと広がっていたのです。その御心が、後には、「一閻浮提広宣流布」すなわち"世界の平和と発展"の宣言として表されるといえるのではないだろうか。
 この広大な展望があればこそ、日本という枠組みを超えて、他国からの危機の可能性をも、鋭敏に察知されたと拝察したい。
 森中 大聖人が二難予言の根拠とされた経典は、仁王経や薬師経です。これらは、「安国論」の冒頭にも記されているように、当時の日本でも、護国の経典として、頻繁に読誦されていました。
 池田 多くの高僧らも経の文言は知っていたであろうが、そこに込められた仏の真意は分からなかった。しかし、大聖人は、同じ文言から、現実の民衆の苦悩の本質を喝破され、やがて襲い来るさらなる危機を予測された。
 その差は、民衆の苦悩への深い同苦があるか否かによるのです。何としても人々を幸福にと願う、仏の大慈悲があるかどうかなのです。大事を事前に察知する力は、まさに智慧の発現です。その智慧は、真剣にして熱い思いの結実といえる。
 民衆に不幸をもたらす大事を未然に察知する智慧は、一切衆生を救済されんとする御本仏の大慈悲に基づくものなのです。
5  「日本の柱」との宣言
 斎藤 「三度の高名」の2度目は、文永8年(1271年)9月12日の夕、竜の口の法難の際、大聖人を逮捕しに来た平左衛門尉頼綱に対して述べられた言葉です。
 「二にはいにし文永八年九月十二日さるの時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦はしらを倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばきはらいて彼等が頸をゆひ由比はまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ
 〈通解〉――二度目は、去る文永8年9月12日申の時(午後4時ごろ)に平左衛門尉頼綱に向って言った。
 「日蓮は、日本国を支える棟梁である。私を失うことは、日本国の柱を倒すことだ。只今に、自界叛逆難といって同士討ちが起こり、また他国侵逼難といってこの国の人々が他国の軍勢に打ち殺されるのみならず、多くの人が生け捕りにされるであろう。建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏殿、長楽寺など、すべての念仏者・禅僧らの寺塔を焼き払い、彼らの頸を由比ガ浜で切らなければ、日本国は必ず滅びるであろう」と申したのである。
 森中 この時の模様の記述が「種種御振舞御書」にもあります。
 そこでも、大聖人を迫害することが「日本国の柱をたをす」ことであると強く警告されています。
 それとともに、「真言宗の失・禅宗・念仏等・良観が雨ふらさぬ事」などを語られことが記され、良観の祈雨の失敗について、詳細に記されています。
 ただし、二難の予言は、その中にはありません。「種種御振舞御書」では、二難の予言は、直前の9月10日に平左衛門尉によって幕府に召喚された時の記述の中で詳しく綴られています。同じ内容なので、繁雑を避けて12日の記述では省かれたのではないか、と思われます。
 斎藤 前々日の10日に頼綱と会われた後、大聖人は、「すこしもはばかる事なく物にくるう」という状態で聞く耳をもっていなかった頼綱に対して、12日に書簡を認められています。「一昨日御書」です。
 同書は、頼綱に対して、民衆の苦悩の解決のために妙法に帰依すべきことを、理路整然と述べられています。この書には、わざわざ「立正安国論」を書写したものまで添えられています。
 森中 これが頼綱の手に渡ったかどうかは定かではありませんが、いずれにしろ、その12日のうちに、当の頼綱が逮捕にやってきました。
 対話を拒否し、武力によって威圧する権力の横暴です。それに対して、大聖人は敢然と「言論」で戦われました。
 池田 その眼目が、「この日蓮こそが真実の日本国の棟梁であり、日本国の柱である」との御宣言です。一時的に政権を握った権力者ではなく、永遠の妙法を知った智者こそが、本当に民衆を守る「主」であることを高らかに宣言されたのです。
 その大師子吼に、逮捕に来た軍兵の方が、大聖人逮捕は実は「ひがごと」(誤ったこと)ではないかと疑いを抱き、顔色を変えた。
 その後、大聖人は、良観の祈雨の失敗を悠然とユーモアを交えて語られながら、御自身の正義を堂々と訴えられた。まさに自在の境地です。
 斎藤 なお、「念仏・禅などの僧の頸を由比ガ浜で切るべし」と大聖人が言われていることについて付言しておきたいと思います。
 これは、激しい言葉ですが、蒙古使者の到来以来、大聖人および大聖人の門下の弾圧を企てている幕府の要人たちに、その「転倒」を気づかせるため、あえて用いられた表現だと思います。
 池田 そうだね。幕府は大聖人や門下の首を切ることも検討していた。また、大聖人はそれを知られていた。そこで、首を切るのなら、国を助けようとしている大聖人一門ではなくて、国の乱れの根本原因になっている僧たちではないか、という抗議と警鐘を込めて言われたと拝することができます。
 大聖人の御本意は、彼らへの帰依や布施をやめなさい、ということにあるのは「立正安国論」の内容から言って明らかです。
6  真言による祈禱に対する破折
 森中 「三度の高名」の第3度目は、先に述べたとおり、佐渡流罪赦免後、文永11年(1274年)4月8日、再び幕府に呼ばれた時です。
 大聖人は「日本国のほろびんを助けんがために三度いさめん」とその場に臨まれました。
 池田 大聖人は、国を救い、民の幸福のために、幕府からの再度の召喚に応じられた。そして堂々と妙法の正義を訴え、平和の道、幸福の道を明確に示されたのです。
 森中 「撰時抄」では、話された内容について、次のように記されています。
 「第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、ことに真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろ何頃せ候べき、予言く経文にはいつ何時とはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも今年はすごし候はじと語りたりき
 〈通解〉――第3度は、去年文永11年4月8日、(平)左衛門尉(頼綱)に語って言った。「王の支配する地に生れたので身は随えらえるようではあっても、心は随えられることなど決してないのである。念仏が無間地獄に堕ちる原因であり、禅が天魔の所為であることは、疑いない。ことに真言宗がこの国土にとって大いな災いなのです。大蒙古の調伏を真言師には仰せ付けてはならない。もしその大事を真言師が調伏しようと祈祷するなら、かえって、いよいよ急速にこの国は滅んでしまうにちがいない」
 そうすると、頼綱が問うた。「いつごろ、蒙古は押し寄せてくるのか」
 私は答えて、「経文には、"いつ"とは書かれてはいないが、天の模様をうかがうと、瞋りは少なくないようである。差し迫っているように思われる。到底、今年はやり過ごすことはないであろう」と語った。
 斎藤 この時の模様は、「下山御消息」にも記されています。
 それによると、大聖人は、佐渡流罪がいかに「理不尽」なものであったかを「委細」に諭されたようです。
 その上で、"このままでは他国侵逼難が迫り国が滅びてしまう"と嘆かれました。
 森中 しかし、幕府が召喚した最大の目的は、おそらく蒙古襲来の時期を知ることでした。為政者は、所詮、大聖人を単なる不思議な神通力をもった予言者としてしか見ていなかったのでしょう。
 池田 そのような実態は重々、ご存知でありながら、あえて大聖人は、三度目の国主諫暁に臨まれた。
 それは、日本の民衆を未曾有の不幸から救うための大慈悲からの振る舞いであられたのです。
 大聖人は「高橋入道殿御返事」で、自らこう仰せです。
 「たすけんがために申すを此程あだまるる事なれば・ゆり赦免て候いし時さど佐渡の国より・いかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども・此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候いき
 〈通解〉――国を助けるために諫暁してきたにもかかわらず、これほどまでに憎まれたのであるから、赦免されたときは、佐渡の国からどこかの山中か海辺にまぎれてしまってもよかったのであるが、この事をもう一度、平左衛門に言い聞かせて、日本国で蒙古の攻めに生き残った衆生を助けるために、鎌倉に上ったのである。
 斎藤「此の事」とは、"真言による蒙古調伏の祈祷はかえって他国侵逼難を起こし亡国を招く。謗法の諸宗への帰依を止め、ただ一人正法を持ち人々を救うことができる大聖人に帰依せよ"と諫暁されたことです。
 「下山御消息」「光日房御書」にも、日本国を滅亡から救うために、鎌倉で最後の諫暁をしたことを記されています。無理解を承知で訴え抜かれたのです。
 池田 それは、止むに止まれぬ民衆への慈愛からです。
 「一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事」と、大聖人はお考えでした。それゆえ、生涯をかけて、妙法弘通に戦われ、繰り返し、諫暁されたのです。
 蒙古襲来の危機が迫る中、打つ手がなく焦る幕府と朝廷は、真言を中心とする調伏の祈祷を盛んに行わせていた。
 その亡国の祈りを何としても止めなければならない、と三度目の国主諫暁に臨み、真言破折をされ、正法を用いるべきことを改めて訴えられたのです。
 斎藤 佐渡流罪中、大聖人は、門下一同に激励の手紙をしたためられるとともに、主張に新たな展開を加えられています。
 「真言諸宗違目」「真言見聞」「法華真言勝劣事」などを次々と執筆され、本格的な真言破折に踏み出されました。亡国の教えである真言による加持祈祷を批判し、立正安国を再度、命を賭して訴えていかれます。
 二度目の諫暁でも真言破折は触れられましたが、そこではまだ十分に明かされていなかった点を、三度目で展開されたのではないでしょうか。
 森中 しかし、その時の幕府の対応は、意を得ませんでした。
 日興上人の回想によれば「大聖人は、法光寺禅門(北条時宗)が、西の御門にあった東郷入道の館跡に(大聖人のために)坊を作って帰依しようと言ったと仰せだった」ということです。
 時宗自身も召喚の場にいたのでしょうか。時宗自ら、鎌倉の一等地に宿坊を作って帰依しようと言ったのです。
 池田 しかし、大聖人が望んでおられたのは、当然、御自身の待遇などではなかった。日興上人は、大聖人は時宗の申し出を「決然と断った」と証言されている。
 森中 時宗も、大聖人を不思議な力をもった怪僧というような認識だったのではないでしょうか。その力に期待して、他宗とともに蒙古調伏を祈らせようとしたのでしょう。
 斎藤 当時の人々にとって、戦争は人と人との戦いであるとともに、それぞれの陣営の人が信ずる神仏同士の戦いでもあったとされます。さまざまな現証にふれて、大聖人の仏法の功力に注目し、自陣に加えようと考えたのでしょう。
 池田 政治家は自身の狭い了見で大聖人を判断し、利用しようとするに過ぎなかった。当時の為政者の理解・評価はせいぜいこの程度のものだ、と大聖人は見切りをつけ、新たな闘争に臨まれるために、鎌倉を離れられたのではないだろうか。
7  民衆救済の先駆の誉れ
 森中 ここまで、大聖人の「三度の高名」の御事跡を「撰時抄」等に沿って確認してきました。ここで大聖人が「高名」と自ら表現されている意味は何でしょうか。
 斎藤 一般に、「高名」とは、特に優れた「名声」「名誉」、また、それをもたらす「手柄」という意味です。
 池田 当時の武家社会では、"戦いの先陣を切った手柄""それによって得られる名誉"が重んられた。それに倣った表現であるとすれば、「先陣」「先駆け」という意義が込められていると言えるでしょう。
 日蓮大聖人は「先陣」「先駆け」という言葉を、様々な御書で用いられています。その場合、日蓮大聖人が地涌の菩薩の先駆けとして民衆救済の先陣を切ったという意味で使われています。
 「種種御振舞御書」には「法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども和党共二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし」と仰せです。
 〈通解〉――法華経の肝心であり仏たちの眼目である妙法蓮華経の五字を末法の初めに一閻浮提に広まらせる瑞相に感じて、日蓮は(その弘通の)先駆けをしている。わが弟子たちよ、二陣・三陣と続いて、迦葉や阿難にも勝れ、天台・伝教をも超えるがよい。
 また、「諸法実相抄」には「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」ともあります。
 まさに「民衆救済の先駆の誉れ」という意義が「高名」という文字に込められているのではないだろうか。
 森中 この「三度」の特徴は何でしょうか。
 池田 一つには、3回とも、幕府の公人に向かって、直接、言い切られていること。二つには、3回とも、自界叛逆難と他国侵逼難の二難をめぐる予言をして、それを的中させていることと拝せます。
 斎藤 公の場で幕府の要人に向かってされた予言の的中をもって「高名」と仰せられたのですね。
 池田 大聖人の場合、「予言」といっても、極めて重要な社会的責任を帯びたものと言えるのです。
 森中 的中しようがしまいが安直に予言を放つ、昨今の宗教屋など論外ですね。ただ人々を不安に陥れるだけの予言や、自分に注目を集めんがための売名の予言などは、無責任の極みというべきです。
 池田 大聖人の予言の本質は「智慧」と「慈悲」です。仏の民衆救済の情熱に裏打ちされたものにほかなりません。
 先ほどの御文に、佐渡から鎌倉に入って諫暁を行なったのは「衆生をたすけんがため」であると仰せです。
 "戦乱の中での民衆の嘆き苦しみを思った時に、胸が張り裂けそうだ""為政者よ、民衆のうめきにも似た叫びの声を聞け"という大聖人の心痛の鼓動が伝わってきます。
 民衆の声を代弁し、為政者に諫暁して警告を発する。生命の不協和に調和をもたらし、民衆の幸福と安穏な社会を築いていく――。何としても民衆を救わずにはおくものかという同苦と慈悲の心情に満ちているがゆえに、大聖人の予言は、鋭く時代を切り裂いていく力を持たれたと拝したい。
 森中 一般に宗教者の予言というと、終末をあおるというか、何か人々の悲観につけこんでいくいやらしさを感じるという人がいます。
 池田 大聖人の予言は、そうした低次元のものとは根本的に違う。人々の不安をあおり、破局を待ち望むことなど最低です。
 仏法の真の予言は、どうしたら破局を回避できるのか、そのための智慧の闘争であり、民衆を救う大言論戦です。実証を現さなければ意味がない厳粛なものです。
 斎藤 釈尊も、「バラモン教の輩は、人相占い、家相占い、吉日占い、鏡占い、呪文を唱えて行う運命判断、神懸かりによる予言術などの卑しき法を行いますが、それを行わないように戒めるのが仏教徒です」と明言しています。
 池田 大聖人の予言は、生命の法則性に裏づけされたものです。悪僧と悪政によってもたらされた人々の生命の濁り、ここに注目されている。
 大聖人は「今末法に入つて二百二十余年五濁強盛にして三災頻りに起り衆見の二濁国中に充満し逆謗の二輩四海に散在す」と仰せです。
 〈通解〉――今は末法に入ってから220年余りであるが、五濁(劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁)が盛んで三災がしきりに起こり、衆生濁・見濁の二濁は国中に充満し、五逆・謗法の二種の輩は天下に広がっている。
 生命の濁りと災害に密接な関係があると捉えるのが仏法の叡智です。
 斎藤 「飢渇は大貪よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚しんによりをこる」と述べられている御書もあります。
 〈通解〉――飢饉は大いなる貪欲から起こり、疫病は愚癡より起こり、戦乱は瞋恚から起こる。
 「御義口伝」では、同趣旨の天台大師の言葉も引用しています。
 森中 人間の生命と社会事象、自然現象の間に連関性を見るのは、東洋の英知ですね。
8  池田 大聖人は「善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」と仰せです。大聖人は、この仏の智慧によって予言をされたのです。
 「善の根本」とは法性(妙法の悟り)、「悪の根本」とは無明(根本的な迷い、妙法に対する迷い・不信)です。無明が「悪の根本」であるのに対して、先ほどの貪欲・愚癡・瞋恚の三毒や、三毒から起こる飢饉・疫病・戦乱の三災、さらにはそれらが複合して起こる五濁などは「悪の枝葉」に当たるでしょう。
 大聖人は「立正安国論」で、当時の三災七難の根本原因は一国の「謗法」にあると仰せです。謗法は、妙法への不信・誹謗ですから、悪の根本である無明に等しい。この一国の謗法を放置する限り、あらゆる悪の枝葉が起こってくるのです。善悪の根本を悟り、当時の社会に悪の根本である謗法が盛んであることを洞察された大聖人は、経典に説かれた三災七難という悪の種種相のうち、当時、まだ起こっていない戦乱、すなわち他国侵逼難と自界叛逆難が必ず起こると予言されたのです。
 日蓮大聖人は、言うならば「妙法の智慧」に基づき、打ち続く災難の根本原因を解明し、民衆を苦悩から解放しようとされたのです。
 斎藤 日蓮大聖人の行動には、常に「文証」「理証」「現証」の裏付けがあります。大聖人ほど、理性と感情、言葉と実践が一致している方はいらっしゃいません。
 池田 日蓮大聖人にとっての予言とは、民衆なかんずく為政者を目覚めさせる表現手段であったとも言えるでしょう。
 先に拝した「撰時抄」では、「三度の高名」について述べられた後、予言とは仏の魂の表現であることが示されている。
 森中 はい。拝読します。
 「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只ひとえに釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり
 〈通解〉――この三つの大事は、日蓮が述べているのではない。ただひとえに釈迦如来の御魂が、わが身に入り替られてのことであろう。わが身ながらも喜びが身に余る思いである。法華経の一念三千という大事の法門はこれである。
 池田 「釈迦如来の御神」とは、大聖人御自身の生命に躍動する無始無終の仏界の大生命のことです。その仏界の力、精神の力で、三度の予言を成功させたと仰せです。
 「わが身ながらも悦び身にあまる」です。宇宙大のわが生命を躍動させ、仏界の力が最大に発動された時に、仏は三世を知見する力用を発揮することができる。
 予言が単なるあてずっぽうの未来予知などではないことは、はっきり大聖人が断言されているともいえるでしょう。
 斎藤 仏法の予言とは、超越的な絶対者が教えを垂れるようなものとも違いますね。
 池田 どこまでも九界の身を離れず、九界の凡夫の身でありながら仏界の力に生ききることで発揮される、未来への深い洞察です。
 そのように九界と仏界が一体で働いているゆえに、十界互具・一念三千です。ゆえに「法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」と仰せなのです。
 森中 だんだん、予言の意味が明瞭になってきました。
 「佐渡御書」では、現世のことを言い当てる大聖人の予言と、後生についての大聖人の法門とが深く一体であると述べられています。これも同じ趣旨ですね。
 「日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず
 〈通解〉――日蓮は聖人ではないけれども、法華経を説のとおりに受持しているので聖人のようなものである。また、世間で起こる現象をあらかじめ知っているので書いて残しておいたこと(すなわち安国論の予言)が間違わないのである。現世のことで言い置いた言葉が的中したことをもって、後生の法門についても疑ってはならない。
9  池田 全人類を仏にしていこうとする法華経を実践するところに、仏の智慧が顕現して、民衆を救うための予言、智慧の言葉が生まれたということです。
 そして、その予言の言葉が的中したことをもって、大聖人が後生について説く法理、つまり成仏の法門を疑ってはならない、と仰せられている。
 「立正安国論」でも大聖人は、二難の予言をされた後、「後生」の問題を扱われています。次のように仰せです。
 「就中人の世に在るや各後生を恐る、是を以て或は邪教を信じ或は謗法を貴ぶ各是非に迷うことを悪むと雖も而も猶仏法に帰することを哀しむ、何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を宗めんや、若し執心飜らず亦曲意猶存せば早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん」
 〈通解〉――なかんずく、人はこの世にいる時は、おのおの後生のことを恐れている。そして、そのために、かえって、邪教を信じたり、謗法を貴んだりしている。人々がおのおの、仏法の是非に迷っていること自体はよくないと思うけれども、彼らもまた後生を恐れて仏教に帰依していることを哀れむのである。どうして同じく信心の力をもって、みだりに邪義の言葉を崇めているのであろうか。もし執着の心を改めることなく、正法を信ずる心を曲げてしまうならば、早くこの世を去り、後生は必ず無間の獄に堕ちてしまうであろう。
 ここで、大聖人は謗法に関して「後生」にかかわる問題に言及されている。
 大聖人の予言は、「三世の生命観」から述べられていることが示唆されています。
 森中 「撰時抄」でも、「三度の高名」を語る前に、「三世」という視点を明確に示されています。
 「外典に曰く未萠みぼうをしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみよう高名あり
 〈通解〉――外典にいわく「将来に起きることを知っているのを聖人という」と。内典にいわく「三世を知るを聖人という」と。日蓮には三度の高名がある。
 斎藤 外典の文にある「未萌」とは、"未だ萌していないこと"、つまり"いまだ起こっていない未来"という意味です。
 「萌」という字は、"草木が芽を出す"という意味です。
 池田 多くの人がまだ"兆し"さえも感じていない時に、ものごとの"芽"を鋭敏に見い出し、それに対して的確に対応する――。それができる人こそ、「聖人」と呼ぶに値するということです。
 森中 「聖人」の「聖」という字の起こりは、"一人抜きん出て立ち上がった人が神意を聞く"という様子を写したものだそうです。
 池田 まだ声になっていない声を感じ、聞き取っていく聡明な人のことです。
 斎藤 ここで仰せの「外典」とは、『説苑ぜいえん』ではないかと考えられます。
 同じ文が、為政者の心得を記した『貞観政要』巻第3の「論択官(官僚を択ぶことを論じる)第7」(官僚を択ぶことを論じる)にも引かれています。
10  池田 いずれにしても、大聖人がこの外典の文を引かれる時は、大聖人の仏法が正当なものであり、国家・民衆に資する社会性のある宗教であることを示されたものと拝することができるでしょう。
 この文を引用されている御書の多くは公的な書状です。社会的な立場から鑑みて、御自身の正義を訴えられる際に、この文を用いられています。
 森中 他方、「三世を知るを聖人」という言葉、天台大師の『摩訶止観』巻2上などにあります。『摩訶止観』では、過去は過ぎ去り、未来は未だ来らず、現在はとどまることはないものだが、諸の聖人は三世を貫く生命について知っていることが述べられています。
 池田 三世を貫く生命の因果を把握し、人々を苦悩から救い幸福へと導く人が、聖人であるということだね。
 森中 また、「立正安国論」等に引かれている仁王経には「我今五眼をもつて明かに三世を見るに」(同8巻833㌻)とあります。
 「五眼」とは、凡夫の肉眼、諸天の天眼、二乗の慧眼、菩薩の法眼、仏の仏眼です。仏は、この五種の智慧の眼を駆使して、明らかに三世を見通します。
 池田 仁王経で仏が五眼を用いて見た真実とは、"王の福徳が尽き一切の聖人が去った時に七難が必ず起こる"ということです。
 三世の生命の因果を明らかに見る智慧をもった人を正しく用いなければ、国は滅びてしまう――。そのことを大聖人は、この経文を引いて教えられたのです。
 三度目の諫暁の時に、大聖人は、"真言師(真言で祈る僧)は、病の原因を知らずに病を治そうとしてかえって悪化させる悪い医者のようなものだ"と指摘されている。
 無明と法性という善悪の根本を深く知って、その智慧から現実をありのままに見る「如実知見」の力をもち、苦悩・災難の根源を見抜く智者でなければ、実際に民衆の苦難を止めることはできない。
 では、どうすれば末法の凡夫が、その智慧を持つことができるのか。「聖人知三世事」には、釈尊の前世の姿である不軽菩薩と同じく、悪世の「法華経の行者」として経のままに民衆救済に戦う中で、自ずから湧き出た智慧が真実の智慧であることを示されています。
 斎藤 はい。「予は未だ我が智慧を信ぜず然りと雖も自他の返逆・侵逼之を以て我が智を信ず敢て他人の為に非ず又我が弟子等之を存知せよ日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に」と仰せです。
 〈通解〉――私はまだ自分の智慧を信じていない。しかしながら、自界叛逆難・他国侵逼難の予言が的中したことをもって、自分の智慧を信ずるのである。決して他人のおかげではない。また、我が弟子等は次のことを知りなさい。日蓮は不軽菩薩のあとを継いだので法華経の行者なのであることを。
11  池田 創価学会は、大聖人の仰せどおりの信心で、御本尊から仏の智慧をいただいたがゆえに、多くの民衆を救うことができたのです。「以信代慧」です。
 そして、あらゆる同志の力が、種々の智慧として総合的に働いて、今日の広宣流布の発展があったのです。まさに広宣流布は「普賢威神の力」、すなわち、あらゆる智慧の力で伸展するのです。
 予言は、三世永遠の法を教えるための一つの智慧の形です。永遠の法は見えない。それを智慧によって形に現し、人々の信を促していくのです。
 大聖人は「撰時抄」で、3度にわたり予言を的中させたのは「相如是第一」だからであると言われています。永遠の法を知る智慧を、「形」に現し、「行動」に現し、「実証」として現してこそ、法は広まっていくのです。
 広宣流布は、一人から一人へと法を伝える実践を積み重ねていく以外にないのです。
 斎藤 それゆえ「撰時抄」では、一人から一人へ、そして、一人から万人へという拡大の道のみが成仏の道であることが述べられています。
 「衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」
 〈通解〉――多くの流れが集まって大海となる。小さな塵がつもって須弥山となったのである。日蓮が法華経を信じ始めたことは、日本の国にとっては一つのしずく、一つの塵のようなものであるが、二人、三人、十人、百千万億人と唱え伝えていくならば、やがて妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるであろう。仏になる道は、これよりほかに求めてはならないのである。
 池田 この仰せが、「三度の高名」の御文の結びとなっているということが重要です。日蓮大聖人にとって予言とは、見えない法を現して広宣流布を推進する「智慧の言葉」に他ならないのです。
 「百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる」です。
 日蓮大聖人は、諫暁という精神闘争の中で、予言の的中という「実証」をもって末法・日本国の闇を照らしました。
 同じように、私たちも、一人一人の勇気の行動と勝利の実証で、混迷の現代社会を照らし、現実変革の道筋を切り開いていきたい。

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