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日蓮大聖人・池田大作

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大難を超える師弟の絆  

講義「御書の世界」(下)(池田大作全集第33巻)

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1  池田名誉会長 この冬(2003年)は、白雪を冠した富士山が実に見事だった。
 八王子の東京牧口記念会館からも、厳たる富士の峰が美しかった。あまりにも堂々としていた。
 斉藤克司教学部長 私たちも、かくありたいものです。何事にも揺るがず、威風堂々と厳然と進んでいく。そうした人生を、万人が願っていると思います。
 池田 そうなるための信仰です。また、そうでなければ、宗教を持つ意味がない。
 宗教は、人間を高め、強くするために存在している。宗教の真価は、その宗教を実践している人間を見れば分かります。一切は「現証には如かず」です。
 そして、真の宗教の力は、逆境の時に、より強く発揮されるものです。
 森中理晁副教学部長 日蓮大聖人の御生涯にあって、まさに、死と隣り合わせにあった竜の口法難・佐渡流罪こそ、日蓮大聖人御自身の人間としての崇高さがあますところなく発揮された舞台になっていると思います。
 斎藤 「難即成仏」、「難即悟達」ですね。これについては、大聖人の4度の大難を考察していただいた時に、深き意義をうかがいました。
 池田 本章では、門下にとっての法難の意義を考えてみたい。竜の口の法難と、それに続く佐渡流罪は、大聖人お一人だけではなく、大聖人の教団が全体として弾圧を受けました。真の日蓮門下にとって、信仰を鍛え、師弟不二の絆を確立する機会になった。
 また、佐渡流罪は一面から見ると、難ゆえに真実の信仰を築いた弟子たちにとってみれば、真実の弟子の時代の開幕でもあると捉えることができるのではないだろうか。そうした観点から佐渡流罪を考えてみたい。
 斎藤 これまで、佐渡流罪に関しては、様々な角度から考察されてきましたが、弟子の成長という視点は、あまりなされてきませんでした。
 池田 佐渡流罪という逆境を耐え抜くことによって、真の師弟不二が成就したと思う。
 創価学会もそうです。牧口先生が迫害されて幾度も左遷された時に戸田先生は行動を共にされ、師弟の絆を深められていく。そして、獄中でただお一人、牧口先生の聖業を継いでいかれた。
 私も、戸田先生が事業で一番大変な時に命懸けでお仕えした。それまで「弟子」と名乗っていた人たちが次々と退転していった。なかには、「牧口の野郎」「戸田の野郎」とさんざんに罵倒した者もいた。それまでは、「私は牧口先生の弟子である」「私は戸田先生の弟子である」と言っていた人たちが、がらりと態度を変える。
 人間の心というものは恐ろしいものです。いざという時に堕ちていく者、純粋に自身の信念の道を貫いていく者――人さまざまです。そして、また、権力の卑劣な動きと、あまりにも対照的な堂々たる師匠の存在。大山は揺るがないが、自分が動転して見るものだから山が動いているように錯覚して見えてしまう。
 斎藤 佐渡流罪を通して、そうした人間模様を探訪してみるのも、人間主義の眼を深めるきっかけになるといえますね。
2  流刑の厳しさ――師弟の離間
 森中 竜の口の法難・佐渡流罪は、日蓮大聖人の御生涯で最大の法難でした。大聖人御自身がこう仰せです。
 「既に二十余年が間・此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ、今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反むほんなんどの者のごとし
 大聖人の御生涯の4度の大難の中に2度の王難すなわち国家権力からの弾圧があり、その中でも竜の口の法難・佐渡流罪は、大聖人御自身の命に及ぶ迫害であり、なおかつ、弟子たちにも大弾圧が加えられた、と仰せです。
 斎藤 「わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる」とは、大聖人の法門をわずかばかり聴聞した在家の門下にも幕府等の迫害が及んだということです。具体的には、所領没収、追出、勘当、過料等の迫害です。
 池田 「謀反なんどの者のごとし」との仰せは、決して誇張ではなかった。世論が権力の横暴と同調し、正義の声が封殺された社会ほど恐ろしいものはないからです。
 皆はあまり知らないかもしれないが、戦前もそうだった。だれもが心の中ではおかしいと思っていても、真実を語る自由が奪われ、あげくは、正しい言論を語る人が迫害された。正義の人が「非国民」呼ばわりされ、最後は投獄です。
 人間を良く変えるのも「思想の力」であり、悪くしてしまうのも「思想の力」である。
 斎藤 日蓮大聖人はあまりにも鋭く時代の闇の本質に迫られたがゆえに、かえって大弾圧を受けたのですね。
 池田 だからこそ、正義と真実を叫び続ける勇気が必要なのです。そして、その勇気の声が時代を変えるか否かは、後に民衆が続くかどうかです。
 森中 社会全体が無明に覆われている場合、目覚めた民衆も社会の中で標的になって、迫害されていきます。あらためて御書を拝していくと、大聖人門下に対してもすさまじい弾圧が加えられたことがうかがえます。
 いかに大変な迫害であったかを示す御文を少し拝してみます。
 「かまくら鎌倉にも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候
 〈通解〉――鎌倉でも幕府の処罰の時には千人のうち990人は退転してしまった。
 「我が身の失に当るのみならず、行通人人の中にも或は御勘気或は所領をめされ或は御内を出され或は父母兄弟に捨てらる
 〈通解〉――私(日蓮)自身が処罰に遭うばかりではなく、私のもとに行き通う人々の中にも、ある人は幕府の処罰を受け、ある人は主君から領地を召し上げられ、ある人は一族郎党から追放され、ある人は父母兄弟から勘当されて捨てられた。
 「日蓮が御かんきの時・日本一同ににくむ事なれば弟子等も或は所領を・ををかたよりめされしかば又方方の人人も或は御内内をいだし或は所領をいなんどせしに
 〈通解〉――日蓮が幕府の処罰を受けた時、日本一同に(日蓮を)憎むことになり、弟子たちのある人は領地を召し上げられたので、またあちこちの主君も(大聖人の弟子を)一族郎党から追い出し、領地から追放したのに…。
 「故聖霊は法華経に命をすてて・をはしき、わづかの身命をささえしところを法華経のゆへにされしは命をすつるにあらずや
 〈通解〉――あなた(妙一尼)の亡きご主人は法華経のために命を捨てていらっしゃった。わずかに命を支えていた領地を法華経のゆえに召し上げられたことは、命を捨てることではないだろうか。
 斎藤 まさに「日本一同ににくむ」と言われている通りですね。「千が九百九十九人は堕ちて候」ですから、教団としてはほぼ壊滅状態であったことが分かります。
 また、当時「二百六十余人」という門下のリストが作成されたといいます。いわば"ブラックリスト"です。権力が牙を剥く時は、見境なく襲いかかってくる。
 森中 そこで、いつも疑問に思うことがあります。これほどの大打撃を受けた教団が、どうして再び発展していったのでしょうか。
 教団が壊滅したといっても過言ではないわけですから、仮に再建するとしても、本来ならば、相当な時間が必要だったと思います。
3  池田 宗教には、苦難が信仰を鍛えるという面がある。弾圧がむしろ発展のきっかけとなる場合があることは古今東西の歴史が証明している。
 大聖人は、「堂舎を焼き、僧尼を殺すなど、権力の強制的な力をもってしては、仏法は失われることはない。むしろ悪僧が仏法を滅ぼす」と仰せです。
 本来、仏法を正しく持つべき聖職者こそが仏法を破壊するということです。
 権力者による建造物の破壊は目に見えるが、悪僧の思想・宗教の誤りは目には見えない。その目に見えない狂いが仏法を滅ぼすのです。人々がその狂いによって誤った行動をとるようになり、明らかに目に見えて異常だと分かるようになった時は、すでに手遅れとなってしまう。
 要するに、宗教で一番重要なことは教えを信ずる人の「心」です。
 弾圧を受けて法に殉ずる人は、むしろ「心」においては勝利しているとも言える。「心」が破られなければ、仏法は滅びることはない。
 「心」こそ大切です。だから本当の弾圧は、信仰者の「心」を破壊しようとする。
 先ほどの御文に、堂舎を焼いたり、僧尼を殺すなどの弾圧の例が挙げられています。権力側もそれだけで済むとは思っていない。
 魔性に魅入られた権力が、信仰の心を破壊するために企むものは「離間工作」です。師弟の絆を切り、和合僧を破壊するための策謀です。
 斎藤 離間工作には、信仰者の「心」を蝕んでいく効力があることを、権力者はよく知っているのですね。
 「流刑」の持つ深刻さは、そこにあります。冤罪で流罪し、本人に名誉回復の機会を与えない。そして、デマを社会に流布して、正義の教団に不正義のレッテルを貼る。宗教者の信用を著しく低下させ、社会的に抹殺しようとする。正面から批判のできない臆病な権力者は、必ず、そうした計略をめぐらせます。
 森中 近年、学会を破壊しようとしたデマ事件も全部、同じ構図です。必ず、先生と会員の離間工作を計ろうとしている。
 日顕の「C作戦」もそうでした。学会が正統でないというレッテルをマスコミを使って流布させて、学会組織の破壊を企んだ謀略でした。面と向かって対話もできない。陰にまわって陰険、卑劣な謀略を続けた。こんな最低の人間はいません。悪党はいません。
 斎藤 大聖人時代の念仏者たちや良観らの策謀も、すべてそうです。讒言、讒奏で大聖人一門の弾圧を謀ってきた。
4  池田 以前にも触れたが(本全集第32巻、第8章「法難」)、文永8年(1271年)、祈雨の勝負に敗れた極楽寺良観は、念阿弥陀仏、道阿弥陀仏らと図って、手下の行敏の名前で大聖人を訴えてきた。その訴状の中で、大聖人らは「弥陀観音等の像を火に入れ水に流す」とか、「凶徒を室中に集む」とか非難してきた(御書181㌻、趣意)。
 本尊を燃やした、という作り話に対する大聖人の反論が鋭い。まず"そのことについての確かな証人を出せ"と反対に追及されている。そして"証人がいないのなら、現実に火に入れ水に流しているのは良観たちだ。その罪を大聖人になすりつけているのだ"と矢継早に反論されている。
 要するに、ありもしない事件を捏造し、それを公的に訴える形で騒ぎを拡大しようとする。それが良観一派の企みであった。
 森中 同時に良観は、幕府高官の夫人たちに取り入り、讒言を重ねていきます。
 竜の口の捕縛の時には、今度は大聖人一門を叛逆の徒であると世間に印象づけようとしてきます。
 斎藤 しかし、竜の口の刑場で処刑に失敗して、大聖人の身柄は一時、依智の本間六郎左衛門尉の館に留め置かれるようになります。本間六郎左衛門は、佐渡守を兼務していた北条武蔵守宣時の代官(守護代)です。
 この段階では、大聖人のその後の処遇ははっきりせず、場合によっては赦免の方向性もありえたようです。
 池田 幕府としては慎重論も多かったということだね。
 深夜の人目をはばかるような竜の口の処刑は、それほど異常事態そのものだったということだ。しかし、再び、謀略の徒が巻き返しを図る。
 森中 はい。まず、連続放火や殺人事件を作り上げ、それを日蓮門下の仕業であると冤罪をでっち上げます。その結果、大聖人の門下の鎌倉追放へ260余名のリストができます。
 そのなかで、弟子たちを遠島処分すべきだとか、入獄中の弟子たちを処刑すべきだとか、騒ぎ立てていきます。
 斎藤 結果的には、この謀略が成功して、一門は大弾圧を受け、大聖人の佐渡流罪の処分が最終決定したようです。
 池田 大聖人は、「持斎念仏者が計事なり」と、明確に仰せです。何か具体的な情報が、大聖人のもとに寄せられていたのかもしれません。
 しかし、いずれにせよ、竜の口の処刑が失敗してから依智滞在中の二十日余りの間に、謀略が進められ、形勢は大きく変化したことは間違いないでしょう。
 森中 はい。10月3日(文永8年)の「五人土籠御書」を拝すれば、この時点で佐渡流罪の処分が最終的に決定・通達されていたことが分かります(1212㌻)。
 そして、9日付の「土籠御書」では、その翌日の10日に佐渡に向けて出発する日程が決定したことが記されています(1213㌻)。
5  池田 迫害者たちは、まさに自分たちの計略が成功して、ひとたびは喜んだのでしょう。
 しかし、その悪の所業が、かえって大聖人が真実であることを証明した。そして、良観の卑劣な行動は永久に断罪され、歴史に刻印された。
 当然のことですが、大聖人が生きて佐渡から帰ってこられたから、歴史の真実が残されたのです。悪が最終的に勝てば、悪人が善人として歴史書に記されてしまう。
 森中 悪僧の謀略が一時は成功したように見えたのも、「世論」の操作に巧みだったという面があるのではないでしょうか。悪は悪なりに世論の動向を利用するものです。
 池田 「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土どうこえどを・とられじ・うばはんと・あらそう」と仰せです。現代で言えば、「とられじ・うばはん」とは情報戦ともいえる。正義と真実の声を叫び続けないと、第六天の魔王は十軍を繰り出して人々の心を操ろうとする。
 斎藤 他化自在天とは、情報操作の達人という面もありますね。
 池田 魔の働きは、人々の心を蕩かせ、破壊していくことが目的です。だから、常にデマで人々の心をかき乱そうとする。
 森中 ナチスのファシズムも情報操作を武器にしていました。戦前の日本でも大本営発表など、まさにその典型です。
 斎藤 それを打ち破るのが言論戦ですね。「聖教新聞」の意義も改めて浮き彫りになりました。それとともに、草の根の対話がいかに大切かも分かります。
6  大聖人の反転攻勢
 池田 心の破壊という次元に戻って語れば、そうした悪僧たちの世論操作が、鎌倉社会全般の世論、幕府内の意見を変えて大弾圧を招き起こしたことは間違いないでしょう。
 そう考えると、竜の口の法難・佐渡流罪の一連の大法難は、門下の心を破壊しようとする魔の勢力の攻勢と、門下の信心を守り、むしろ、これを機に門下に御自身と同じ師弟不二の信心を確立することを目指された大聖人の反転攻勢とのせめぎ合いと見ることができます。その反転攻勢は、9月12日(文永8年)の竜の口の法難の当日に、竜の口に向かう途中に四条金吾を呼び寄せたことに始まります。大聖人の御心を金吾に明確に示しておかれるつもりであられたと拝察します。
 また、竜の口から一カ月ほど、相模国・依智の本間邸に滞在されているときも、門下と書簡の交流を行い、また、門下が頻繁に訪ねてきてもいる。この状況は、佐渡流罪の時代にも続くのです。
 師弟の間を離間する策動に対して、師弟の絆を深めていく戦いです。
 森中 まさに「とられじ・うばはん」ですね。
 斎藤 佐渡期は、まさに大聖人の反転攻勢の渦中にあることになります。
 池田 そうです。佐渡期の文永10年(1273年)に著された「如説修行抄」では、「或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし」と仰せです。また同年の御消息には「大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」とも仰せです。いまだ攻防戦の渦中にあるということです。
 森中 良観らの策謀が結果的に成功して、佐渡に流されたといっても、決して敗北したとか、あきらめたということではありませんね。
 池田 当然です。大聖人が佐渡流罪を赦免されて鎌倉に戻られたときは、「鎌倉へ打ち入りぬ」と言われているほどです。
 斎藤 まるで、佐渡で出陣の準備をされて、鎌倉に討ち入られたみたいですね。
7  門下に不惜身命の信心を教える
 池田 末法万年にわたる、万人救済への出陣です。仏法西還・世界広宣流布への旅立ちです。
 その根源は、竜の口法難での発迹顕本であられた。そして佐渡流罪の最中に、末法の万人を救済する法を本尊として顕され、その法理を展開された。そして、仏法西還を展望されています。
 他方、門下たちに対しては、「師弟不二の信心」を教え始められます。師弟不二の信心とは、「大聖人と同じ実践」すなわち「死身弘法の実践」「不惜身命の信心」をしていくことであると教えられています。
 末法広宣流布の出発点にあって、門下たちにも「広宣流布を担う信心」を身に付けさせようとされたと拝したい。それが大聖人の反転攻勢の第一歩であられた。
 斎藤 退転せずに残った門下の心に、大聖人と同じ大願と不惜身命の信心を確立させようとされた。
 池田 そうです。竜の口の法難直後に、門下たちに与えられた手紙の内容は象徴的です。9月21日の「四条金吾殿御消息」では、大聖人が難に遭う場所こそが仏土であると述べられ、竜の口で大聖人と共に殉じようとした四条金吾を称賛されている。
 森中 拝読します。
 「かかる日蓮にともなひて法華経の行者として腹を切らんとの給う事かの弘演が腹をさいて主の懿公がきもを入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり、日蓮・霊山にまいりて・まづ四条金吾こそ法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ
 〈通解〉――このような日蓮に伴って法華経の行者として腹を切ろうとおっしゃったことは、あの弘演(公胤)が腹を裂いて主君の懿公の肝を入れて(敗れた主君の恥辱を隠そう)としたことよりも百千万倍すぐれたことである。日蓮は霊山浄土にまいったら、まず四条金吾こそが法華経のゆえに日蓮と同じく腹を切ろうといいましたと(仏に)きっと申し上げましょう。
8  池田 金吾の不惜身命の信心を讃えられているのです。
 大聖人は、佐渡期の代表的な御書、例えば「佐渡御書」や「如説修行抄」で、一貫して不惜身命の信心を強調されています。
 「大事な命だからこそ、仏法のために使いなさい。法のために命を惜しまずに進みなさい。それこそが成仏の直道である」と教えられています。
 これは、いわゆる命を粗末にする殉教主義ではない。殉教主義は日蓮仏法とは無縁です。むしろ、生きて生き抜くことを教えられていると拝したい。
 そのためにも、身を惜しむだけでは、真の意味で「よく生きる」ことはできない。身を惜しまず、法を惜しんで、仏法を求めきっていくところに、我が生命が妙法と一体になるからです。そこに、成仏という尊極の生き方が可能になるからです。
 広宣流布の指導者は、皆のために自分は難を受ける。しかし、信仰のために自分の命を捨てよなどと皆に強要するような宗教であれば「人間のための宗教」ではありません。
 一人も犠牲者を出さずに広宣流布を完遂する。そう覚悟して指揮をとってこそ、広宣流布の指導者です。
 斎藤 竜の口の法難に際して投獄された門下に送られた「土籠御書」では、「法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」と仰せです。やはり不惜身命の信心を讃えておられます。
 森中 普通であれば、大難にあっている人を慰めるだけですが、大聖人は、もっと突き抜けた深い次元から励まされていると思います。
 池田 法華経のゆえに難を受けた門下に対して、"さあ、いよいよ広宣流布に生き抜いていこう"と激励をされている。大小の苦難があっても、無上の人生を生きることで全て、本質的には乗り越えていけることを教えられている。
 それであって、弟子たちの現実の苦難の痛みに対しては、どこまでもこまやかに配慮されています。
 「今夜のかんずるにつけて・いよいよ我が身より心くるしさ申すばかりなし」「今夜のさむきに付けても・ろうのうちのありさま思いやられて・いたはしくこそ候へ
 森中 あまりにも深い人間主義です。いかに高邁な法を説いても、現実の凡夫の苦悩に対する同苦を忘れたら、所詮、観念論です。
 池田 痛いものは痛い。苦しいものは苦しい。凡夫だから当たり前です。ありのままでいいのです。しかし、妙法を信じ、自他の成仏を信ずる心は絶対に曇らせてはならない。その心さえあれば、我々は凡夫のままで無作三身如来です。
 戸田先生は、「あなたは神様ですか」というマスコミの意地の悪い質問に対して、「私は立派な凡夫だ」と答えられていた。しかし、心は宇宙大に広がっておられた。
 「『説己心中、所行法門』を色読できるなり」――この天台の確信が、身で分かると言われていた。
 「広いところで、大の字に寝そべって、大空を見ているようなものだ。そして、ほしいものがあれば、すぐに出てくる。人にあげてもあげても出てくるんだ。尽きることがない。君たちも、こういう境涯になれ。なりたかったら、法華経のため、広宣流布のため、ちょっぴり牢屋に入ってみろ」とも言われていた。
 斎藤 まさに、日蓮大聖人が大難の中、門下を励ますために次々と御手紙を認められた御心と相通じると言えます。
 森中 この時期の大聖人の弟子たちは、実際に牢に入った人もいます。しかし、他の門下も、幕府だけでなく社会の世論を敵にしているわけですから、全員が牢に入ったような受難ですね。
9  池田 もちろん、今は時代が違う。戸田先生も「今は時代が違うから牢屋に入らなくてもいいが、広布のために骨身を惜しまず戦うことだ」と言われていた。
 これまでにも何回も述べたが、仏の大願である法華弘通に生きぬく人は、自然のうちに仏と同じ生命、つまり仏界の生命になっていくのです。だから大聖人は、身命を惜しまずに広布の大願に生き抜くよう、門下に強く訴えられています。
 佐渡から最初に門下に送られた御手紙は富木常忍に宛てたものですが、そこには「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」と仰せです。
 「この人生をかけて惜しくない大願を持て!」という師子吼です。私が青春時代から深く心に刻んできた一節です。
 自他の成仏、そして仏国土建設という「大いなる理想」「人類根本の目的」に生きる人間をつくろうとされているのです。それが大聖人と不二の生き方の根本なのです。
 大聖人は不惜身命の覚悟を説きます。しかし、それは、万人に仏性ありとの生命の洞察に基づいた広大な理想があるからです。
10  佐渡の過酷な環境
 池田 ある意味でいえば、日蓮大聖人は人類最大の教育者であられる。人間いかに生きるべきかを、最大の法難の時に、むしろ、最大の法難の時だからこそ、全門下にわが身を挺して教えられている。
 佐渡に向かう途中の寺泊から富木殿に宛てた書簡に「心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし」とあります。大難の最中にあって、「心ざし」ある門下に向かって、この永遠に生きる魂の響きをよく聞け、と呼びかけられている。
 その根本は、一切の生きとし生ける者を仏にしようとの誓願です。救わずにおられない。自分に縁したすべての人を幸福にとの誓願があられるからこそ、師になり、親になり、主になって門下を励まさずにはいられないのです。いや、門下だけではない。迫害者をも導こうとする大境涯であられます。
 その魂のほとばしりが、佐渡で「開目抄」や「観心本尊抄」として結実していったと拝したい。
 森中 両書をはじめとして、佐渡流罪の渦中でも膨大な著作を次々と残されています。
 池田 しかし、北国の佐渡の流刑という状況は、筆舌に尽くしがたいほど過酷な環境です。そのことを忘れてはいけない。
 斎藤 まず、流刑地・佐渡の自然環境の厳しさです。大聖人は、佐渡に着いたときの自然環境についてこう仰せです。
 「今は11月の下旬であるが、鎌倉にいたときは四季の転変は万国皆同じである思っていたが、この北国佐渡の国に着いてから2月ほどは、寒風がしきりに吹いて、霜雪が降らない時はあっても日の光をば見ることがない。八寒を現身に感じている」(御書955㌻、趣意)
 森中 11月下旬は、今の暦だと1月上旬頃です。また、一説には当時の気温は、小氷期の関係で、しばしば冬は厳寒となったとも言われています。
 池田 さらに、衣食住に事欠く状態であられたようです。
 斎藤 はい。こう仰せです。「冬は特に風がげしく、雪がふかい。衣は薄く、食は乏しい。尾花(ススキ)・苅萱が生い茂る野中の三昧堂は、堂の上は雨がもり、壁は風が吹き抜け、昼夜に耳に聞くものは枕に吹く風の音、朝に眼に遮るものは遠近の路を埋める雪である。現身に餓鬼道を感じ、さらに八寒地獄に堕ちた」(御書1052㌻、趣意)
11  池田 大聖人は過酷な自然環境だけでなく、過酷な社会環境とも戦われた。佐渡は念仏の影響を受け、人々は大聖人を憎み敵視していたからです。
 そのため、佐渡におられたあしかけ四年の間、「今日切る、あす切る」(御書323㌻)と仰せのように、命の危険にさらされていた。
 斎藤 どうも、幕府の重臣である佐渡守・北条宣時が黒幕のようです。
 大聖人が9月12日に捕縛された時、竜の口に向かうまでの間、佐渡守・北条宣時の邸宅に預りとなります。
 しかし、大聖人を斬首しようとする大事件がありながら、北条宣時は翌13日の早朝に、熱海の湯へ行ってしまう。責任回避の逃走ではないでしょうか。
 斎藤 北条宣時は、この後、幕府内で実権を握る相当な権力者となっていきます。
 佐渡流罪の渦中、文永10年(1273年)には幕府の評定衆の職に就きます。そして、後には、北条時宗の次の九代執権・北条貞時の連署(執権の補佐役)となります。
 池田 彼は、佐渡の大聖人を一層の窮地に陥れようとする「私(=偽)の御教書」を発行した人物でもあるね。
 森中 そうです。この北条宣時は、文永10年12月7日、家人の佐渡守護代・本間重連宛てに勝手に御教書を発行し、佐渡の大聖人一門を弾圧しようとしました。「日蓮に味方する者は追放せよ、牢に入れよ」という、幕府の命令書と称する偽文書です。宣時は、こうした御教書を三度も発行したようです(種種御振舞御書920㌻、窪尼御前御返事1478㌻)。
 池田 その背後にいたのが極楽寺良観だね。佐渡の念仏者たちの謀議を受けて、良観の弟子の道観らが鎌倉に上がって北条宣時に讒訴すると、それを受けて、宣時が御教書を作成し、佐渡に送った。
 この時も讒言だね。方程式は同じだ。
 森中 良観の弟子は、宣時にこう訴えています。
 「この御房(大聖人)が島にいるならば諸宗の堂塔は一宇も残らないし、僧も一人も残らないであろう。阿弥陀仏を、あるいは火に入れ、あるいは川に流している。夜も昼も高い山に登って、日月に向かって大音声を放って、お上を呪咀(神仏に呪いの祈願をすること)している。その音声は佐渡の一国中に聞こえています」(920㌻)
 全くでたらめですね。大体、堂々と国主を諫暁されている大聖人が、一体何の理由があって呪詛などをするのでしょうか。
 斎藤 大聖人が、佐渡の高い山に登って、諸天善神を揺り動かすような大音声を放たれていることは事実です(927㌻)。
 諸天善神を叱咤し、朗々と唱題をされていたのかもしれません。
 池田 それが「呪詛」と映るのは、まさに良観一派の境涯の投影でもある。そもそも、恨みつらみを言っているのは良観一派のほうなのですから。
 森中 いつの時代も、悪人の最終手段は讒言ですね。今で言えば、デマを書いたりするのも全く同じ構図です。事件を捏造して、社会にデマの讒言を広める。現代の讒奏ですね。デマこそ民主主義の敵にほかなりません。
12  末法闘諍の時を救う戦いの本格的始動
 斎藤 ともあれ、富士の如く堂々とされている大聖人が「呪詛」などされるはずがない。権力者や悪人に対して、面と向かって堂々と叫ばれるのが大聖人の御精神です。
 まして、大聖人はすでに反転攻勢に打って出ているのです。本尊など、「世界広布」のための法理的準備をし、それを担うべき門下に「広宣流布の信心」を教えて、後継者育成に着手されています。
 森中 日興上人は、佐渡で常随給仕されているので、この大聖人の御化導をつぶさに学ぶことができたのではないでしょうか。
 池田 だからこそ、佐渡から帰られて、目覚しい活躍をされたのでしょう。
 いずれにせよ、このように師弟の絆を更に深く強く結ぶ戦いを押し進める中で、一つの結果が出てくる。それが「二月騒動(北条時輔の乱)」です。
 大聖人は、竜の口の法難の時に、捕縛に来た平左衛門尉に面と向かって、"日本の柱である日蓮を倒せば二難(七難のうち残っている自界叛逆難と他国侵逼難難)が必ず起こる"と予言されました。そのうち自界叛逆難が半年も経たないうちに的中してしまった。
 森中 その時の大聖人の師子吼を「佐渡御書」で拝読してみます。
 「日蓮は此関東の御一門の棟梁とうりょうなり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべしわずかに六十日乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん
 〈通解〉――日蓮はこの関東の北条一門の棟梁である。日月である。鏡である。眼目である。日蓮を捨て去るとき七難が必ず起こると去年(文永8年=1271年)9月12日の幕府による処罰を受けた時に大音声を放って叫んだことは、まさにこのことである。わずかに60日から150日の間にこのことが起こった。これは一時的な兆しの華報である。真実の果報が実現した時にはどれほど嘆かわしいことになるであろうか。
 斎藤 竜の口法難から「百五十日」というのは、文永9年(1272年)2月の「二月騒動(北条時輔の乱)」です。北条氏同士の戦乱ですから、つまり自界叛逆難です。
 「六十日」というのは具体的には不詳ですが、何か謀反につながる具体的な出来事があったと拝せられます。
 「九月の十二日に御勘気・十一月に謀反のもの・いできたり、かへる年の二月十一日に日本国のかため警固たるべき大将ども・よしなく打ちころされぬ」との仰せとも符合します。
 森中 「六十日」については、蒙古の使者が文永8年9月から翌年1月にかけて日本に滞在しており、朝廷・幕府がこのころ、対応に苦慮していたことを指すとも考えられます。
13  池田 ともあれ、これはまだ「華報」すなわち兆しに過ぎないのであって、「実果」すなわち法華経の行者を迫害した本当の結果ではない。「実果」が現れるときは、北条一門に、どれほど嘆かわしいことが起きようか、と言い切られています。
 「実果」とは、内面的には「後生の堕地獄」で、外面的には「蒙古の襲来」であると言えるでしょう。
 戦乱は、内なる地獄界の現れです。人々の内なる地獄界が涌現して、大聖人への大弾圧となり、自界叛逆難となって兆し、蒙古襲来となって結実していくのです。
 大聖人は、法華経の行者を迫害する人々の内なる生命に、地獄界に通ずる内なる狂いを見たのです。それは、正法に背く不信・謗法の心です。万人の幸福の大法である妙法を信じられない無明であり、利己的欲望を肥大化させていってしまう愚かさであり、戦争へと向かう愚行の根源です。
 大聖人は、当時の日本国の人々のなかに、このような根源的な「愚かさ」があることを見抜いていました。そして、それを救うのは、御自身が悟られた妙法による以外にないと洞察されていた。また、当時の人々を、根本的な愚かさとその帰結である戦乱から救えるのは、御自身一人であると確信されていた。それゆえ、御自分を「日本の柱」と言われたのです。
 「佐渡御書」では、当時の人々が大聖人の一門が迫害を受けるのを喜び、自分たちの愚かさとその恐ろしい帰結に気がつかない狂態を「悪鬼入其身」と喝破されている。
 斎藤 はい。こう仰せです。
 「世間の愚者の思に云く日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉なんと申す日蓮兼ての存知なり父母を打子あり阿闍世王あじゃせおうなり仏阿羅漢を殺し血を出す者あり提婆達多是なり六臣これを瞿伽利くぎゃり等これを悦ぶ、日蓮当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢の如し然を流罪し主従共に悦びぬるあはれに無慚なる者なり謗法の法師等が自ら禍の既に顕るるを歎きしがくなるを一旦は悦ぶなるべし後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず、例せば泰衡がせうとを討九郎判官を討て悦しが如し既に一門を亡す大鬼の此国に入なるべし法華経に云く「悪鬼入其身」と是なり
 〈通解〉――世間の愚者は「日蓮が智者であるなら、どうして国による迫害に遭うのか」と思っている。しかし、日蓮には前々からわかっていたことである。
 父と母を殺そうとした子がいた。それは阿闍世王である。阿羅漢を殺し、仏の身を傷つけて血を出させた者がいた。それは提婆達多である。阿闍世王の6人の重臣はそれを褒め称え、提婆達多の弟子の瞿伽梨らは喜んだ。
 日蓮は今の世にあっては、このご一門の父母であり、仏や阿羅漢のようなものである。その日蓮を流罪にし、主君も家来も共に喜んでいる。あわれで恥知らずな者たちである。謗法の僧らは、日蓮によって自らの過ちが明らかになったことを以前は嘆いていたが、日蓮がこのような身となったことを今は喜んでいることだろう。しかし、後には彼らの嘆きは、今の日蓮の一門の嘆きに劣ることはない。
 例を挙げれば、藤原泰衡が、弟の忠衡を討ち、さらに源義経を討って喜んだようなものである。すでに一門を滅ぼす大鬼がこの国に入っているに違いない。法華経に説かれている「悪鬼がその身に入る」とはこのことである。
 池田 表面的には、大聖人は流罪人で、迫害者たちは権力者であり聖職者です。しかし、内面の実相は、迫害者たちは「悪鬼入其身」であり、大聖人が智者であり、救済者なのです。
 この逆転の実相から佐渡流罪を見るとき、かえって、迫害者たちこそが愚癡と愚行にがんじがらめ閉じ込められた罪人なのです。
 佐渡流罪を赦免になり、鎌倉に戻って平左衛門尉頼綱と対面したときに語られた次の言葉は、大聖人の広大な心の自由を表している。
 「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず
 〈通解〉――王が支配する地に生まれたので、その王に身は随えられるようではあるけれども、心は随えられるものではない。
 この言葉は、佐渡流罪の最中でも、常に大聖人の御胸中に響いていた内なる声であると拝したい。
 森中 佐渡で大聖人は、大瀑布のような勢いで論文や御手紙を書かれて、門下たちを励まし続けられていきます。佐渡期だけでも大長編の御書、重書を含めて数十編の御書が現存しています。
14  池田 数十編の御書といっても、言うまでもなく、一編一編が、人間の限界の極限において、なお民衆を救わんとされる烈々たる御精神で、門下に認めていかれたものです。私たちも、その大聖人の御精神を深く拝していかねばならない。
 門下を思う心情にあふれている御手紙として忘れられないのは佐渡で書かれた「呵責謗法滅罪抄」の末尾の有名な一節です。
 「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり
 〈通解〉――どのような世が乱れていたとしても、お一人お一人を、法華経、十羅刹女よ、助けてくださいと、湿れっている木からでも火を起こし、乾ききいている土からでも水を手に入れようとするように、強盛に祈っています。
 湿った木から火を出し、乾いた土から水をしぼりだすが如き強盛な祈り。それは、御本仏・日蓮大聖人御自身の門下を思う祈りです。
 なんとありがたい師匠でしょうか。御自身が命に及ぶ大難を受けられながら、そこまで弟子の身を思いやる師匠の心。その師匠とともに、大願の人生に歩んでいこうとする門下たちが再び結集していったことは、疑う余地もない。
 ある意味で言えば、文永8年の大法難で、鎌倉の門下たちの組織は、一たびは確かに壊滅状態になった。
 そして、その再建とは、言うならば、散り散りになった門下たちが漠然と集まってきたというのではないと思う。大聖人が佐渡から発信される明確な指導のもとに、戦う心が同一になった門下たちが、以前より堅固な異体同心の和合僧を築いていった。それが佐渡期の鎌倉の門下たちではないだろうか。
 森中 現実に、法難が続いている渦中で再結集するわけですから、当然、門下たちも相当の覚悟があったと思います。
 池田 あえて言えば、真実の信仰に立った、新しい教団の形成とも言えるのではないか。そして、その特徴は一人一人が大聖人と師弟の絆を固くもっていた、ということです。
 強靭な広宣流布の組織というのは、人間の信頼の絆が縦横にめぐらされていて初めて実現する。嵐の中の運動です。
 組織や集団の形式的な論理で一人一人が動くわけがない。一人一人の人間の絆によってしか支え合うことはできません。
 斎藤 インドのガンジーも、国内、国外で文通していた人は数千人だったといわれる。一日平均、100通の手紙です。十通はみずから書き、何通かは口述して、あとは秘書に指示している。そして一日の残りはすべて面会者のために使ったと言います(ルイス・フィッシャー『ガンジー』古賀勝郎訳、紀伊国屋書店、参照)。
 そこまでして初めて、思想が民衆に根づき、人間と人間の深い連帯がつくられていくのですね。
15  池田 その人間の至高の絆が「師弟の絆」です。
 大聖人は大難の中で、こう宣言されています。
 「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」そして「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」とまでおっしゃっておられる。
 広宣流布は師子の集いでなければ実現できない。民衆への法の拡大は和合僧がなければなしえない。その真の和合僧団が、この佐渡期に形成されていったと私は見たい。
 嵐の中で、目覚めた弟子も本格的に呼応し立ち上がっていったのにちがいない。大難こそが真の広宣流布の和合僧を築いていったのです。
 斎藤 ありがとうございました。佐渡流罪のイメージが積極的なものになりました。更に佐渡流罪をめぐり、佐渡期において大聖人が門下に示された重要な法理の一つである宿命転換について考察していただきたいと思います。

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