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日蓮大聖人・池田大作

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「法華弘通のはたじるし」――人類救済の…  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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2  広宣流布のための御本尊
 池田 大聖人は、御本尊を「法華弘通のはた(旌)じるし」として認められたと仰せられている。「広宣流布のための御本尊」ということです。「日女御前御返事(御本尊相貌抄)」には、「ここに日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹りゅうじゅ天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり」と仰せです。
 〈通解〉――ここに、日蓮はいかなる不思議であろうか、竜樹・天親等、天台・妙楽等すらも顕すことのなかった大曼荼羅を、末法に入って200年あまりの頃に、初めて法華経弘通の旗印として顕したのである。
 日蓮大聖人が末法の民衆の救済のために命を賭して顕された「広宣流布のための御本尊」を、大聖人の御精神のままに死身弘法の実践で弘通してきたのが、創価学会です。
 斎藤 「法体の広宣流布」を日蓮大聖人が確立され、「化儀の広宣流布」を創価学会が現実のものとしている、ということですね。
 池田 その二つの戦いこそ地涌の使命です。御本尊の意義を更に深く理解するためにも、本章では、「観心本尊抄」の後半を拝しながら、日蓮大聖人が御本尊を御図顕された深義を確認していきたい。
 森中 「観心本尊抄」の前半は「観心」がテーマでしたが、後半は「本尊」です。大聖人が妙法蓮華経の受持によって観心を成就された御生命を、いかにして御本尊として顕すかについて論じられています。
 具体的には、日蓮大聖人が顕される御本尊の相貌が示され、その御本尊が寿量文底の下種の大法であること、そして、末法に地涌の菩薩が出現して御本尊を建立することが示されていきます。
3  虚空会の儀式と南無妙法蓮華経
 斎藤 まず、法華経の「虚空会の儀式」を、御本尊の「相貌」として用いられている点についてお願いします。
 池田 正確に言うと、大聖人が御本尊の相貌として用いられたのは、「寿量品が説かれた時の虚空会の儀式」です。
 寿量品では、仏の永遠性(本果妙)、衆生の永遠性(本因妙)、国土の永遠性(本国土妙)という三つの次元から妙法の永遠性が明かされます。この寿量品の説法があって初めて、永遠の大法である南無妙法蓮華経を指し示すことができるのです。
 森中 三妙合論ですね。「観心本尊抄」では、こう仰せです。
 「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり此れ即ち己心の三千具足・三種の世間なり
 〈通解〉――いま、寿量品を説いた時に現れた本来の娑婆世界は、三災もなく、四劫も超え出た永遠の浄土である。仏はもとより過去に滅することもなく未来に生ずることもない永遠の存在である。仏に導かれる衆生も本質は同じ永遠の存在なのである。これがすなわち己心に具足する三千諸法、三種の世間である。
 池田 この寿量品の三妙合論によって、虚空会の意義が明らかになります。
 すなわち、仏も衆生も国土も永遠の妙法の当体であることを象徴しているのが、虚空会なのです。
 いわば、宇宙全体が永遠の妙法に貫かれている。その永遠の妙法を大聖人は南無妙法蓮華経として顕されたのです。
 斎藤 永遠の法といっても目には見えませんから、法華経では、虚空会という、現実を超え時空を超えた世界をもって表現したわけですね。
 池田 虚空会は、時空を超えて普遍的な価値をもつ「永遠の法」即「永遠の仏」を象徴的に表現したものです。虚空会の種々の描写にも、そのことが拝察できます。
 まず、天と地を結ぶように虚空に屹立する巨大な宝塔です。これは「全宇宙の中心軸」である永遠の妙法を表しています。
 森中 『法華経の智慧』でも紹介されましたが、インド学者の松山俊太郎氏は、『蓮と法華経』(第三文明社刊)で、大地の底から出現してきた多宝如来の宝塔は、インド古来の伝承の〈種子のいっぱいつまった果托(台)をもつ紅蓮(パドマ)の伸びた茎〉が変容したものであると指摘しています。また、それが〈世界軸〉にほかならない、と述べています。
 宇宙的な蓮華、多宝の宝塔とは、宇宙の根源的なエネルギー、力の表象(シンボル)です。その上にいる釈尊とは、天に輝く太陽のイメージと重ね合わせられます。
 斎藤 太陽の光と大地の恵みによって、芽生え、成長し、やがて花を開き実を結ぶ、多くの蓮華の種子――それは仏子の象徴です。一切衆生であり、なかんずく妙法を信受した法華経の行者、地涌の菩薩です。
 池田 虚空会の宝塔は、"世界を支える柱"として宇宙根源の妙法を表すとともに、地(現実)から天(理想)へと渡す"偉大な乗り物"、大乗を象徴している。そして、慈悲と智慧の光で仏子を教え育む太陽を示している。
 森中 主師親の三徳と呼応しますね。
4  池田 大聖人の仏法では、この根源の妙法を南無妙法蓮華経と説くのです。また、大聖人の御名「日蓮」は、まさに太陽と蓮華です。
 多宝の塔は、法華経が説かれれば、いつでも、どこにでも出現すると説かれています。これも、時空を超える普遍的価値が法華経にあることを象徴している。
 森中 三変土田で、十方の世界を通じて一つの広大な仏国土に統一します。そこでは、対立も分断もなく、あらゆる苦悩から人々が解放されます。
 これは、この法華経によって、苦悩に満ちた現実の娑婆世界が、幸福の楽土へと現れることを示しているといえます。
 池田 さらに、過去仏である多宝如来の証明は、妙法の時間的普遍性を示すものといえる。
 また、十方から来た分身の諸仏の証明は、空間的普遍性を示すものといえるでしょう。
 虚空会における三仏(釈迦・多宝・十方分身の諸仏)の集合は、まさにあらゆる仏が妙法を根本として一体であることを示しています。
 斎藤 すべて永遠の「法」を示唆していますね。
 池田 しかし、虚空会の姿だけでは、日常を超えた永遠的世界の荘厳さは伝わっても、「法」そのものを表現し切れまない。そこで、寿量品で三妙合論が説かれて、仏も衆生も国土も包む妙法が示されるのです。
 斎藤 虚空会の儀式で寿量品を聞いた人々は、自身と宇宙を貫く永遠の妙法を会得できるのですね。
 池田 法華経本門では、虚空会の儀式と寿量品の説法によって、永遠の「法」である南無妙法蓮華経を指し示しているのです。大切なのは「法」です。それを、どう示すかです。
 森中 虚空会を暗号に譬えれば、本門寿量品は暗号解読の鍵のようなものですね。その解読された答えが南無妙法蓮華経です。
5  池田 「観心本尊抄」では、南無妙法蓮華経を「本門の肝心」であると仰せです。
 「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何にいわんや其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う
 〈通解〉――この本門の肝心である南無妙法蓮華経の五字については、仏は文殊・薬王らの大菩薩たちにさえ付嘱されなかった。まして、それ以外のものたちには、付嘱されなかったのはいうまでもない。ただ無数の地涌の菩薩たちを呼び出して、涌出品第15から嘱累品第22までの八品を説いて、付嘱されたのである。
 釈尊は虚空会で、根源の法である永遠の妙法、すなわち南無妙法蓮華経を指し示した。それは、自身の滅後の全民衆を救う法です。そして、この説法をもってすべてを説き尽くした釈尊は、すべてを受け継ぐ本物の弟子に後事を託すのです。
 斎藤 それが付嘱ですね。
 法王子と呼ばれ仏と同様に最高に尊敬されていた文殊師利菩薩、勧持品で滅後悪世の弘通という峻厳な誓願を立てた薬王菩薩――。立派な弟子がいっぱいいたはずなのに、彼らをすべて退けます。そして、地涌の菩薩にのみ、釈尊は付嘱しました。
 森中 地涌の菩薩は、法華経本門の涌出品第15から嘱累品第22までの8品だけに出現します。
 これは、釈尊が地涌の菩薩を召し、久遠の過去に成仏したという自らの本地を明かすとともに、その久遠の成仏の根本因を示し、滅後の妙法弘通を付嘱するまでの間です。
 池田 この8品では、まさに釈尊滅後に、弘通すべき法と、弘通する人が明確にされている。
 大聖人は、付嘱を受けた地涌の菩薩の導師である上行菩薩の再誕のお立場から、寿量文底の根源の法である南無妙法蓮華経を直ちに示し、私たちが信受すべき明鏡として御本尊を顕してくださったのです。その際に、ただ南無妙法蓮華経だけを示しても、その深い意義は分かりにくい。そこで、既に広く知られていた虚空会の意義を用いながら、南無妙法蓮華経の深義を明らかにされたのです。
 森中 南無妙法蓮華経を単独で示しても、単なる法華経の題名であるとか、経典に帰命することであるとしか、受け止められません。南無妙法蓮華経が永遠なる宇宙根源の法であることは分かりません。
 池田 本迹に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が「本」で、虚空会は「迹」です。迹をもって本を顕すのです。
6  十界具足の曼荼羅
 斎藤 大聖人が、法華経の虚空会の儀式を用いて南無妙法蓮華経の意義を示されていることは、御本尊の相貌からも拝察できます。
 池田 「観心本尊抄」では、御本尊の相貌について具体的に言及されている。
 森中 拝読します。
 「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属けんぞくとして末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり
 〈通解〉――その本尊のありさまは、本師である久遠の本仏が住する娑婆世界の上に宝塔が空にかかり、その宝塔の中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏と多宝仏が並び、その釈尊の脇士として上行等の四菩薩がおり、さらに文殊・弥勒らの大菩薩は四菩薩の眷属として末座に控え、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民が大地にいて雲閣・月卿を仰ぎ見るようである。十方の諸仏は大地の上にいる。それは、迹仏・迹土であることを表しているからである。
 池田 御本尊の相貌はm宝塔である南無妙法蓮華経を中央の軸として、重層的な構造となっています。このことは、「日女御前御返事」にも記されているね。
 森中 はい。「観心本尊抄」では、列座の衆生として、釈迦・多宝と上行菩薩等の四菩薩、迹化の菩薩、十方の諸仏までが挙げられていますが、「日女御前御返事」では、その他に声聞や六道の衆生が挙げられ、十界の無数の衆生が御本尊の中にそろっていることが示されています。
 その相貌をもって、南無妙法蓮華経が全衆生を包む大法であり、全宇宙は南無妙法蓮華経を中心軸とし、南無妙法蓮華経に支えられたコスモス(調和的秩序)であることが示されています。
 池田 中央の「南無妙法蓮華経」は、根源の真理、真理の全体を示すものです。いうなれば、生命宇宙の中心軸なので、虚空会の中心に屹立する宝塔で示されている。その左右に、釈迦仏と多宝如来がいる。これらは、妙法蓮華経のはたらきを示す仏です。
 多宝如来は、過去仏であり、永遠の真理を表す。智慧の対境(対象)としての法を示しています。釈尊は、現在仏です。法を現実に悟る智慧を現している。
 まさに南無妙法蓮華経の二つの側面です。
 二仏並坐とは、真理と智慧の一致、境智冥合です。
 森中 大聖人は「此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり」と仰せです。
 斎藤 迹門で示された永遠普遍の真理(迹門不変真如の理)と、真理に基づきながら具体的な現実の縁に随って発揮される本門の智慧(本門隨縁真如の智)とも重なるものではないでしょうか。
7  池田 当然、そうなります。大事な点は、釈迦・多宝を本尊とするのではない、ということです。釈迦・多宝も南無妙法蓮華経によって成仏したのです。どこまでも、成仏の根源の法である南無妙法蓮華経を本尊とするのです。
 そのことは、御本尊の相貌で、南無妙法蓮華経が中央に大きく認められ、その左右に釈迦・多宝が位置していることにも明らかです。
 森中 さらに、上行等の四菩薩は、釈尊の脇士とされています。
 池田 南無妙法蓮華経を悟った仏は、必ず万人を救う菩薩行を起こします。その菩薩行の面を示すのが四菩薩です。上行、無辺行、浄行、安立行と、すべて「行」という名がついているのは、悟りの智慧を発揮して現実に行動を展開するからです。
 それは、妙法蓮華経と一体になった無限の生命力に基づく「最高の行動」「無限の行動」「清らかな行動」「ゆるぎない行動」といえるでしょう。
 斎藤 涌出品についての御義口伝では、『輔正記』を引いて、四菩薩が常・楽・我・浄の四徳波羅蜜に配されています。
 池田 "永遠に(常)確固として(我)清浄で(浄)幸福な(楽)境涯を示すもの"といえるでしょう。
 森中 「生死一大事血脈抄」には、地・水・火・風・空(天)の五大(万物を構成する五元素)の力を、「妙法蓮華経の五字」のはたらきであり「本化地涌の利益」だと仰せです。
 池田 地涌の菩薩は、生命本有の力を発揮し、人々を守り救っていくのです。
 森中 さらに、「文殊・弥勒等」の迹化の大菩薩は、四菩薩の眷属であると仰せです。これは何を表すのでしょうか。
 池田 生命本有の力が発揮されて成し遂げる、種々の具体的なはたらきを表すといえるでしょう。
 「三人寄れば文殊の知恵」ということわざもあるように、文殊は"智慧"の象徴です。弥勒は漢訳して「慈氏」という。"慈悲"の象徴です。
 その他の迹化・他方の大小の菩薩は、虚空ではなく地上にいると仰せです。これは、利他の種々の実践を意味しているのではないか。一人ひとりの現実に即して何としてでも皆を救おうとする、さまざまな具体的行動であると言えます。
 これらの菩薩は無数です。余りに多いので御本尊に文字としてすべてを顕されてはいませんが、その功徳は厳然と具わっていることは明らかです。
 森中 十方の諸仏もまた大地にいると仰せです。十方の諸仏とは、釈尊の分身です。釈尊の心を受け継いで、それぞれの地で、その地の人々に応じた教えを説いている応身仏です。
 池田 十方の諸仏は、釈尊が説いた片端・片端の教えの象徴でしょう。妙法という完全な真理の部分・部分を、人々の状況に随って説く、随他意の説といえる。
 森中 「日女御前御返事」には、無数の十界の衆生を挙げられたうえで、「此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり」と仰せです。
 〈通解〉――これらの仏・菩薩・大聖等、更に法華経序品の説法の座に列なった二界八番の雑衆等が、一人ももれずに、この御本尊の中に住し、妙法蓮華経の五字の光明に照らされて「本有の尊形」(本来ありのままの尊い姿形)となっている。これを本尊というのである。
 池田 宝塔の妙法のもとに参集した、これら十界の衆生のすべてが、妙法のはたらきの一分、一分を担っているのです。妙法の光明に照らされて、妙法の当体としての自身を顕し、「本有の尊形」を示しているのです。それぞれが個性を発揮し、妙法の豊かさを表している。これが「自体顕照」です。
 太陽の光は、プリズムを通ると、赤から紫まで連続した多くの色に分かれます。
 「太陽の光」は全体、「それぞれの色」は光が分かれてできた部分、部分です。太陽の光には無数の色が具わっています。種々の色を含むからこそ、ものを照らした時、それぞれのものがその一部を吸収したり反射したりして、さまざまな色合いを見せます。
 森中 太陽の光でなければ、そうはいきません。例えば、高速道路のトンネルにあるナトリウムランプはプリズムで分解しても黄色っぽい色だけです。それゆえ、どんなものも黄色っぽくなり、暗いか明るいかだけのモノトーンになってしまいます。
8  池田 妙法は「能生の根源」です。万物を生み出す源です。すべてが含まれている。すべてを含む妙法の陽光で照らすゆえに、あらゆるものが個性豊かに輝くのです。
 大聖人は「妙の三義」を説かれた。すなわち、妙とは「開く義」であり、「具足・円満の義」であり、「蘇生の義」です。
 当然のことながら、御本尊の功力には、この三義が具わっています。
 御本尊には、万人の仏性を開く力があります。御本尊には、あらゆる機根を包摂する力があります。御本尊には、いかなる悪業や悲惨をも救済しゆく蘇生の力があります。要するに、御本尊には一切を生かしていく力がある。「活の法門」です。
 森中 インドの碩学であられるロケシュ・チャンドラ博士は、先生との対談で、虚空会について、こう語っておられます。
 「この宝塔を中心に行われる虚空会こそ、法華経の独自の法門を示すものといえるでしょう。現在の仏である釈迦と、無限の過去の仏である多宝が、まったく等しいのです。
 永遠の真理と無限の福徳が、今、個々の一個の生命に顕れるということです。まさに即身成仏の原理が示されているのです。
 日蓮大聖人は、法華経を目で読んだだけではなく、体験し、実行しました。題目の五字は実に成仏への直道であると、身でもって証明したのです。
 多宝如来の塔は、法華経のなかの個々の教義を指し示すというよりも、むしろ、この経の教え全体、精神が卓越したものであることを強調するものです。ゆえに、宝塔とは題目であり、経そのものなのです」(『東洋の哲学を語る』305㌻)
 池田 深遠な真実を鋭く洞察する卓見です。
 宝塔とは、縦には三世、横には全宇宙を貫く「法」即「仏」の象徴です。その宝塔を仰ぎ、その高みを目指して無限の向上を図るのです。
 斎藤 塔について、美学者・竹内敏雄氏はこう述べています。「塔は、高く険しくそびえたつことによって、それを観るひとの心をひきあげ、純粋に精神的なものへ昇華させるとすれば、あきらかに崇高な性格をもつものである」(『塔と橋――技術美の美学――』弘文堂)
 塔は、現実を理想へと引き上げる象徴となるものです。
 池田 宝塔が大地から生じて娑婆世界の上空にかかるというのは、世界の久遠の根源から生じ、娑婆世界という現実を通じて、未来へ理念・理想を開花することを表しているのではないだろうか。
 釈尊の一族の末裔という、ネパールのシャキャ博士は、こう語っておられた。
 「虚空会の儀式は、仏の偉大な境地の象徴であり、その『現在』のうちに、『過去の十方世界』も『未来の十方世界』も含んでいると考えられます。時空を超越しているのが『仏界』です。虚空会で説かれている世界を悟れば、人間には何でもできる力が出るということです」
 斎藤 ロシア科学アカデミー東洋学研究所のヴォロビヨヴァ博士も、こう述べています。「仏と融合する境涯を寿量品では説いていると思います。これは『時間を超えた』概念です。宇宙のエネルギーを、自分自身のエネルギーとするのです。その宇宙との一体感を味わう境涯を『永遠性』として表現したのではないでしょうか」
 池田 虚空会は「時空を超えた世界」です。歴史的な特定の時・場所ではない。だからこそ、「いつでも、どこでも」虚空会につながることができるのです。
 虚空会の儀式を用いて顕した御本尊を拝することによって、私どもは、「いま」永遠なる宇宙生命と一体になり、「ここで」全宇宙を見おろす境涯が開けるのです。
 日々の勤行・唱題によって、「いま・ここ」で永遠なる虚空会の儀式に連なれる。我が身に、我が生活に、我が人生に、宝塔を光らせていける。これが御本尊の素晴らしさです。壮大な生命のコスモスが開かれ、現実が価値創造の世界と現れるのです。
9  根源の妙法への目覚め
 斎藤 御本尊には、まさに釈尊をはじめ、あらゆる仏が本尊とした根源の妙法が、御図顕されているのですね。
 池田 第7章でにも確認したが、釈尊が成道の時に詠んだ詩があります。それによれば、釈尊は根源の妙法の太陽が自身の生命に赫々と輝き自身と一体であることを覚知して、仏となったのだね。
 森中 はい。たとえば、こう謳っています。
 「実にダンマが、熱心に冥想しつつある修行者に顕わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を輝かすがごとくである」(玉城康四郎訳。『仏教の根底にあるもの』講談社)
 池田 また、この悟りの境地を確立する直前には、縁起の法を知り、迷いの縁起の消滅を知って、一切の疑惑が消滅したとされる。
 そして、この一連のことが「法」(ダルマ、ダンマ)の顕現によって起こったとされています。根源の妙法の顕現です。
 斎藤 迷いの縁起の消滅と根源の妙法の顕現には、密接なつながりがあるといえますね。「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」という釈尊の言葉があります。
 池田 迷いの縁起とは、心に突き刺さった「一本の矢」に喩えられる、根底の欲望、小我の保存欲によって引き起こされる生死の流転です。根源の迷いである「無明」からの縁起であり、「煩悩・業・苦の三道」であり、六道輪廻です。
 根源の迷いから、種々の煩悩を起こし、種々の悪業を積んで、苦悩の境涯を経めぐる。そういう流転を根源から断ち切って、還ってすべて滅し去っていくことが、ここでいう「縁起の消滅」です。
 そのカギが、根源の妙法へ立ち返ることなのです。
 根源の妙法とは、「無明」に対していえば、「法性」、すなわち根源の悟りです。
 「煩悩・業・苦の三道」という生死流転の縁起に対するのは、「法身・般若・解脱の三徳」という成仏への道です。
 根源の法(法身)に目覚め、智慧(般若)を発揮し、苦悩からの根源的解放(解脱)を得る。そして、無始以来の久遠の生死の流転をついにとどめて、常楽我浄の仏の境地へ至るのです。
 森中 「一生成仏抄」には、生死の流転を止めるには「衆生本有の妙理」を観ずるべきであり、それは妙法蓮華経と唱えることにほかならないと仰せです。
 斎藤 「始聞仏乗義」には「我等衆生無始曠劫むしこうごうより已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり」と仰せです。
 同抄では、『大智度論』の「変毒為薬」の譬えを引いて、煩悩・業・苦の三道に沈む私たちが妙法を信受することによって法身・般若・解脱の三徳をこの身のままで得て成仏できると述べられています。
 池田 根源の妙法を信じれば、己心に妙法が現れ、自身の境涯が根底から変革するのです。迷いの縁起が消滅し、妙法が自身の生命を潤し、さらに環境へと横溢していくのです。世界が根本から変わるのです。これが、御本尊の功徳の根本です。
 森中 虚空会で妙法の光明に照らされる十界の衆生は、どのような苦悩に陥っている衆生も、御本尊の功徳で、妙法の当体としての自身を現し、救われることを表している、と拝することができますね。
10  仏の真意を表す文字曼荼羅
 斎藤 大聖人は、「観心本尊抄」で、御本尊を「此の仏像」と仰せです。しかし大聖人は、木像や絵像ではなく、文字の曼荼羅として顕されています。
 この点、なぜ「文字」の曼荼羅として御本尊を顕されたのでしょうか。
 池田 大聖人は、「木画二像開眼之事」で、仏が具えた主要な特徴である「三十二相」のうち、梵音声だけは、色心二法のうちに分けた時、唯一、心法に属するが、ゆえに、木像・絵像では、仏のすべてを表現しきれていない、と指摘されています。心には、時間・空間を超えて無限に広がる豊かさがある。まして仏の心は、絵や彫刻では表現しきれない。
 森中 見えないが厳然として存在する永遠の「法」は、視覚的には表しがたく、文字を使われたということですね。
 池田 また、絵や彫刻などでは、それを拝した時に受け止め方が違ってきてしまう。どうしても目に見える"表現"の方にとらわれがちで、表現が象徴している"真理"に思いを致すのを妨げることもありがちです。
 斎藤 男性なのか女性なのか、若いのか年配なのか、太っているとかやせているとか、いろいろな差異にこだわってしまう(笑い)。
 池田 絵や彫刻などでは、永遠にして普遍的な法を表現するのは困難です。
 御本尊が、万人に対して「永遠の法」即「永遠の仏」を顕し、弘めるために、像ではなく文字で表現されたことに深い意義を拝することができる。
 森中 確かに、文字を見ると、"誰が書いたのか""どういう意味か"と考えます。「書いた人」、「書いた人の心」へと思いを至らせるはたらきが強いですね。
 池田 文字は、「心」へ、「因」へと導きます。これに対して、絵・像は、「果」に執着させるといえる。
 森中 たしかに、できあがった絵や像の美しさや巧みさにほれぼれとし、その作者の心へはなかなか至らせません。人間の歴史で、美術品がだれの作品かに広く関心がもたれるようになったのは、近世以降です。多くの芸術作品の作者は無名です。
 斎藤 木像・絵像は、因果の功徳のうち「果」の方の表現であり、しかも色心二法のうち色法に過ぎない、ということですね。
 池田 それゆえ、決して、南無妙法蓮華経という因行果徳をすべて具足した根本法を表し尽くすことはできません。
 色心の二法のうち、心は言葉で表されます。
 御書にも「ことばと云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」と仰せです。そして言葉は、文字によって記し伝えていくことができる。仏の心が文字に記され伝えられたものが経典です。文字は「心」の表れです。その文字に、永遠に人々を救う仏のはたらきが具わるのです。
 大聖人は「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり〈仏は文字によって人々を救われるのである〉」と仰せです。
 また「所詮修多羅と云うも文字なり『文字は是れ三世諸仏の気命なり』と天台釈し給えり〈所詮、修多羅(=経)といっても文字である。『文字は三世の諸仏の命の源である』と天台大師は釈されている〉」(御書381㌻、趣意)とも述べられています。
 さらに「滅せる梵音声かえつて形をあらわして文字と成つて衆生を利益するなり――釈尊が亡くなって、すでに滅んでしまった仏の声がかえって形を現して文字となって人々に利益を与えるのである――とも仰せです。
 斎藤 仏の滅後は、文字が、仏のはたらきをなし、民衆を救うのですね。
 池田 ただし、大聖人は「木画二像開眼事」で、文字で記されたもの中でも高低浅深があると仰せです。人々を導くためにその能力に合わせて説いた「随他意」の経典と、仏の真意を直ちに説いた「随自意」の経典との違いがある。
 だからこそ大聖人は「観心本尊抄」の後半で、末法流通の本尊を選び定めるに当たり、序分・正宗分・流通分の三段を五重に用いて、仏の真意を明らかにされているのです。いわゆる五重三段です。
11  己心の十界の表現
 池田 大聖人は、御自身の己心に根源の妙法を観じとり、御自身の生命のコスモス(宇宙)を虚空会を用いて御図顕された。それが、十界具足の曼荼羅御本尊です。
 大聖人は「観心本尊抄」の結論として「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」と仰せです。
 この成仏の根本の種子を、事の一念三千、南無妙法蓮華経の御本尊として御図顕して、全世界の人々に与えてくださったのです。
 その御本尊を信受することによって、私たちは実際に己心の妙法を覚知できることになるのです。
 戸田先生は、虚空会の儀式について次のようにおっしゃっていた。
 「われわれの生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。この生命の力および状態は想像もおよばなければ、筆舌にも尽くせない。しかしこれを、われわれの生命体のうえに具現することはできる。現実にわれわれの生命それ自体も冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の儀式である」
 我が身が荘厳なる宝塔である――しかし、なかなか、その真実が見えない。それを見るのが「見宝塔」であり、それを見るための「鏡」が宝塔品の儀式なのです。
 しかし、滅後末法ともなれば、正法は廃れ、虚空会の象徴的意味がわからなくなる。
 そこで、宝塔品の儀式を用いながら、根源の法の南無妙法蓮華経が明示された御本尊を「明鏡」とするのです。
 宝塔の儀式と同じく、一人一人の身において、そして、国土全体において、仏界を現すための御本尊です。
 末法の私たちは、御本尊を鏡として、自身にも同じ生命宇宙が広がっていることを信受して、その広大無辺な境地の功徳を開き顕していく。そして、あらゆる苦悩を根源から解決し、永遠に崩れぬ幸福を築いていくことができるのです。
 斎藤 その実践の要諦が、受持即観心ですね。受持の核心は「不惜身命の信心」にあることは、前節で、教えていただきました。
12  「闘諍の時」を救う大法
 森中 「観心本尊抄」の最後の個所では、いよいよ地涌の菩薩が出現して御本尊を建立する内容となります。
 「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊ましまさず
 〈通解〉――この時、地涌の菩薩が出現して、本門の釈尊を脇士とする一閻浮提第一の本尊を、この国に立てるのである。月支(インド)・震旦(中国)にも未だかつてこの本尊は出現されなかった。
 池田 もちろん、ここに仰せの地涌の菩薩の先駆が日蓮大聖人であり、大聖人が御本尊を建立されるのです。その上で、ここで「此の時」と言われている「時」が重要です。大聖人は、伝教大師の釈を引いて「闘諍の時」と仰せです。
 そして、大聖人御在世で言えば、「今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり」と示されています。
 斎藤 いずれも「立正安国論」で予言された難です。自界叛逆難は「観心本尊抄」御執筆の前年の文永9年(1272年)の二月騒動(北条時輔の乱)で的中しました。他国侵逼難は、本抄で「西海への侵逼(=侵略)」とあるように、迫りくる蒙古襲来のことです。
 池田 「闘諍の時」に、地涌の菩薩が出現して御本尊を建立するという事実こそ、仏法が民衆の幸福と平和のためにあることを雄弁に物語っています。
 争いは二重の残虐をもたらします。一つは、生命に直接の危害を与えます。そして、もう一つは、人々の心を引き裂き、人と人の絆を引き裂く。総じて、人間生命に具わるコスモスを破壊する悪魔の所業です。
 戦争は悲惨です。残酷です。
 その「闘諍の時」に、全民衆を救うために、地涌の菩薩が御本尊を建立するのです。
 先ほど、御本尊の相貌と虚空会の関係について拝察しました。もう一度、確認したい。
 御本尊は、十界の衆生をすべて相貌の中に納めます。虚空会で言えば、一座の大衆をすべて空中の虚空会に一人も漏らさず包んでいきます。
 爾前権教であれば、六道を切り捨て、二乗を切り捨て、果ては菩薩を切り捨て、九界を忌み嫌う。法華経は、その方向と正反対です。
 森中 "選ばれた民"のみを対象に救済を図ろうとする宗教もあります。
 池田 御本尊の相貌は、万人の平等の尊厳性を示しています。御本尊には、分断され、ずたずたになった対立を調和し、融合する力がある。
 そして、もっとも苦しんでいる六道の衆生を救う力がある。その力を現していく存在が、地涌の菩薩です。
 「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」(998)と仰せのように、魔性と仏性の戦いに、何があっても勝っていくのが地涌の使命なのです。
 地涌の菩薩が悪に勝たなければ、永久に悪から悪へと流転する世界になってしまう。悪に勝ってこそ、法性が現れ、善悪不二の調和の世界が現れるのです。
 斎藤 御本尊に提婆達多が認められているのは、「魔性に勝て」ということですね。
 池田 そうです。彼は、人間不信と嫉妬と慢心と憎悪で、生きながら地獄に堕ちた。普通の宗教なら、釈尊に敵対して命を狙ったのだから永久に救われることはありません。
 しかし、法華経の慈悲の光明は、地獄に堕ちて苦しんでいる提婆達多にも注がれる。
 斎藤 法華経の序品第一で、釈尊の眉間から白毫の光明がサーチライトのように十方世界を照らします。その光は、無間地獄にも届きます。
13  池田 「御義口伝」では、その白毫の光明とは南無妙法蓮華経であるとされている。この光明は十界の各界を照らすから、「十界同時の成仏なり」となることが示されています。
 そして、さらに、「されば下至阿鼻地獄の文は仏・光を放ちて提婆を成仏せしめんが為なりと日蓮推知し奉るなり」とも仰せです。
 森中 大聖人は、題目の光が無間地獄に至って、即身成仏させることを、題目の回向の力とされています。
 そこで、釈尊が提婆達多の悪を許したのではないか、との疑問が生じます。
 池田 釈尊は、徹底して提婆達多の悪を責めました。そのことは疑う余地がない。
 実は、悪を責めることで悪人を目覚めさせることができるのです。妙法の正義の声を聞くことで、悪人の心に眠っていた仏性が動き出すからです。しかし、悪人の心は厚い岩盤のような無明に覆われているから、弱い声では届かない。悪を厳しく責める糾弾の声こそが、その岩盤を打ち破って仏性を照らすのです。
 斎藤 不軽菩薩を迫害し続けた四衆がそうですね。迫害されても不軽菩薩が礼拝を続けたことで、四衆もやがて悔いる心が芽生えてきた。「撰時抄」にそう説かれています。不軽菩薩の礼拝は、悪への呵責に通じていたといえるのではないでしょうか。
 池田 不軽菩薩は戦い続けて勝ったのです。
 正義が沈黙してしまえば、悪はますますはびこってしまう。悪人自身が悔ゆる心を起こすまで、悪を責め続けることが慈悲に通じるのです。
 森中 日本人は、そこが分からず、寛容を誤解して、"これだけ糾弾したんだから、もういいだろう"となりがちですね。
 提婆達多にしても、釈尊が徹底して妥協なく責めたので、提婆も悔ゆる心を起こした。しかし、先ほどの「撰時抄」の続きによると、悪業のゆえに「南無」としか唱えることができず、無間地獄に堕ちた、と仰せです。そこへ、妙法の光明を照らしたということですね。
 池田 御本尊には単に、釈尊に敵対し悪逆の限りを尽くし、至極の苦悩にさいなまれている提婆達多が描かれているわけではない。妙法の光明に照らされて、地獄界の調和という使命を帯びて、まさに提婆でなければなりえない地獄界における妙法の使者となった提婆達多を見ているのです。
 提婆一人の成仏が、無数の悪人成仏の道を開いたことになる。
 先ほども「妙の三義」に触れて述べたが、日蓮仏法の御本尊には、幾多の人類宗教の理想であった、根源の調和の力があります。
 だからこそ大聖人は、闇が最も深い「闘諍の時代」に御本尊を御図顕されたと拝することができます。
 斎藤 広宣流布の原点であり起点となった日本の地で、「広宣流布」と「闘諍」とは深い結び付きがあります。
 蒙古襲来という日本未曾有の出来事の中で、大聖人は御本尊を御図顕されました。
 そして、第2次世界大戦という日本にとって未聞の闘諍の時代に、創価学会が誕生し、戸田先生は戦後の荒廃の中で妙法弘通を叫ばれました。その弘通の核が御本尊です。
 この妙法で、戦後の苦悩にあえいでいる民衆を救っていこうと、戸田先生は牧口先生の誓願を受け継いで立ち上がりました。
 池田 戸田先生の広宣流布の一切の原点は、御本尊から出発したということです。
 その広宣流布の黎明は、出獄の日である7月3日の深夜。恩師の部屋から始まった。
 森中 池田先生は小説『人間革命』の第1巻「黎明」の中で、こう綴られています。
 「戸田城聖は、暗幕に遮蔽された二階の一室で、仏壇の前に端座していた。空襲下の不気味な静けさが、あたりを包んでいた。かれはしきみを口にくわえ、常住御本尊をそろそろとはずした。そして、眼鏡をはずした。
 彼は、御本尊に頬をすりよせるようにして、一字一字たどっていった。
 ――たしかに、このとおりだ。まちがいない。まったく、あの時のとおりだ。
 彼は心につぶやきながら、獄中で体得した、不可思議な虚空会の儀式が、そのままの姿で御本尊に厳然として認められていることを知った。彼の心は歓喜にあふれ、涙は滂沱として頬をつたわっていった。彼の手は、わなないた。心に、彼ははっきりと叫んだのである。
 ――御本尊様、大聖人様、戸田が必ず広宣流布をいたします。
 彼は、胸のなかに白熱の光りを放って、あかあかと燃えあがる炎を感じた。それは、なにものも消すことのできない、灯であった。いうなれば、彼の意志をこえていた。広宣流布達成への、永遠に消えざる黎明の灯は、まさにこの時、戸田城聖の心中に点されたのである」
14  池田 この日のことは、戸田先生から幾度となくおうかがいしました。本当に、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった、と語られていた。
 日蓮大聖人滅後七百年間、誰人も成し遂げえなかった未聞の御本尊流布が拡大していった原点が、ここにある。この御本尊で民衆を救っていこうとする誓願があればこそ、日蓮大聖人の御精神が世界に広がったのです。
 「観心本尊抄」の結論で仰せのように、御本尊は御本仏の慈悲の当体です。広宣流布の実践なくして御本尊を拝しても、真実の仏の大慈悲は通ってこない。
 「日蓮と同意」「日蓮が一門」という、大聖人と同じ広宣流布の決意に立った時、大河のごとく、日蓮大聖人の大慈悲が滔々と流れ伝わるのです。
 御本尊の功力は無限大です。汲めども汲めども尽きることがない。皆がこれまで受けてきた功徳でもまだ比較することのできない、無量無辺の広大な功徳がある。
 その最大の功徳が、人類の宿命の転換です。その功徳を引き出すのが、創価学会の信心です。
 そして、世界百八十五か国・地域に広がった地涌の菩薩の連帯が、御本尊の功力を馥郁と薫らせて、地球の無明を払うべき時を迎えたのです。

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