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日蓮大聖人・池田大作

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「観心の本尊」は「信心の本尊」  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
2  池田 非常に重要な指摘です。大聖人の内在本尊の法義に通じるからです。
 斎藤 そこで「日蓮がたましひ」を本尊とされている御文を拝読します。多くの同志が心に刻んできた有名な御文です。
 「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし、妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給う
 〈通解〉――この御本尊は日蓮の魂を墨に染め流して書いたのである。信じていきなさい。仏の御心は法華経である。日蓮の魂は南無妙法蓮華経にほかならない。妙楽大師は「久遠の寿命という仏の本地を明かしたことをもって法華経の命とする」と述べている。
 池田 南無妙法蓮華経は御本尊の根本であり、当体です。そのことは、御本尊の中央に大きく「南無妙法蓮華経日蓮」としたためられていることからも明らかです。
 大聖人は三類の強敵として襲いかかってきたあらゆる魔性に打ち勝ち、竜の口法難の時に永遠の妙法と完全に一体となる御境地を成就された。それが久遠元初自受用身の御境地です。
 いわゆる発迹顕本(迹を発いて本を顕す)です。大聖人の凡夫の御生命に久遠元初自受用身という本地を顕されたのです。
 斎藤 本地とは、本来の境地という意味です。これは、人と法が一体の御境地です。
 森中 人法一箇のこの御境地は、元初の妙法の無限の力が、何の妨げもなく、現実に生きる人間の生命に成就されている真の仏界であると拝されます。
 池田 人間生命への妙法の清浄なる開花、すなわち妙法蓮華経です。それが「日蓮がたましひ」です。
 森中 大聖人は「顕本遠寿(本の遠寿を顕す)」という妙楽の言葉を引かれています。御本尊は、永遠の妙法と一体の久遠元初自受用身の生命を顕したものであることを示すための引用ですね。
 池田 その尊極の御生命を、大聖人は南無妙法蓮華経として顕されたのです。
 斎藤 あらゆる生命は、本来、宇宙本源の妙法の当体ですから、妙法と一体の如来の生命は、あらゆる生命の本地とも言えるのではないでしょうか。
 池田 そうです。その真実を末法の民衆に気づかせるために、大聖人は御自身の覚知された尊極の生命を御本尊としてしたためられたのです。
 大聖人が、元初の妙法と一体である御自身の生命を、そのまま御図顕されたのは、万人の「胸中の本尊」を開き顕すためです。私たちが成仏するための修行の明鏡として与えてくださったのです。
 森中 「日蓮がたましひ」とは、この連載の第8回で教えていただいたように、「師子王の心」にも通じますね。それは「生命本源の希望」であり、「生き抜く力」です。万人の幸福を開くために、不幸をもたらす一切の悪と敢然と戦う「勇気」でもあります。
 斎藤 師匠が命懸けで示された「師子王の心」が、弟子の自分にもある。このように信じることが、その「勇気」を開くカギですね。
 池田 そうです。師弟不二の道を生き抜くところに、自身の幸福があり、皆の幸福がある。
 その真実を、法華経は「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」と説いている。
 "私も人間だ、あなたたちも人間だ、人間はかくも偉大なり!"という「人間王者の讃歌」です。それが法華経の魂といえる。
3  御本尊は自身の生命を映し出す明鏡
 池田 万人が内なる本尊を顕す道を、体系的に説かれた御書が「観心本尊抄」です。題名の「観心の本尊」は、本尊が内在的なものであることを端的に示しています。この「本尊抄」の前半では「観心」について述べられ、その結論として「受持即観心」の深義を示されているね。
 斎藤 はい。それを踏まえて後半では、大聖人の観心に基づく「本尊」の建立について述べられていきます。
 池田 本節では、前半の結論である「受持即観心」を中心に考察しよう。
 森中 よろしくお願いします。まず、「観心」の意義ですが、同抄には、こう述べられています。
 「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり
 〈通解〉――観心というのは、自分自身の心(生命)を観察して、十法界(十界)を見ることである。これを観心というのである。
 池田 我が生命に、地獄から仏までの十界の境涯のすべてが、本来的に具わっていることを観察する。それが「観心」の実践です。
 森中 観心とは修行であり、実践ですが、率直な疑問として「自分の生命に十界がすべて具わっていること」を観察することに、どのような意味があるのでしょうか。
 池田 「本尊抄」の流れから拝すると、己心に十界を見るということのポイントは「己心に仏界を現すこと」にある。
 十界を具しているといっても、瞬間瞬間に観察できるのは、その時に現れている一界の生命だけです。すると、十界の中でも現れがたい四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)、その四聖の中でも最も現れがたい仏界が問題になる。
 斎藤 「本尊抄」では実際に、凡夫の己心に現れる六道の生命を観じ、更に二乗界(声聞界・縁覚界)と菩薩界の生命を観じたうえで、「仏界計り現じ難し」と仰せです。
 池田 凡夫の己心に十界を観ずるといっても、仏界が現れるかどうかが一番の問題なのです。
 ただ、仏界を観ずるとしないで、十界を観ずると言われているのは、仏界が現れたとしても他の九界がなくなるわけではないからです。あくまでも十界互具の実相を観ずるのが観心だからです。
 たとえば、すべてに行き詰まってしまい、まさに今、苦悩に喘ぐ地獄界の生命が現れているとしても、その中に、すべてを乗り越え勝利していける仏界の大生命力が厳然と具わっていると見るのが、十界互具の実相の観心です。
 斎藤 しかし、頭では一念三千・十界互具とわかっているつもりでも、"本当にそうだ"と心の底から納得し実感し確信することは、難事中の難事だと思います。
 大聖人は「本尊抄」で、悪世末法に生きる私たちに仏界が具わっていることこそ最も「難信難解(信じがたく理解しがたい)」であると繰り返し述べられています。
 森中 そして、爾前経や法華経の迹門・本門で膨大な因行と偉大な果徳が説かれている釈尊と同じ仏界の生命が、凡夫の生命の中にあるとは到底、思えないという最大の難問が示され、それに答える形で「受持即観心」の法門が明かされていきます。
4  池田 誰人の生命にも"仏界が元来、具わっている"というのが、生命の真理なのです。この真理がなかなか分からない。信じられない。いったんは信じても、何かあると不信に陥りやすい。それは、根源的な迷い、「無明」があるからです。
 そこで、大聖人は、「観心」の実践にあたっては「明鏡」が必要だと仰せです。
 その明鏡が、釈尊の「法華経」であり、天台の「摩訶止観」であり、末法にあっては大聖人の「御本尊」なのです。
 森中 「本尊抄」には「法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり」と仰せですね。
 〈通解〉――法華経、また天台大師が述べた「摩訶止観」などの明らかな鏡を見ることがなければ、自身の生命に具わる十界、百界千如、一念三千を知ることはできない。
 池田 法華経、摩訶止観は、自具の十界なかんずく仏界を見、そして現わすための鏡です。
 「法華経」、『摩訶止観』は、それぞれインド、中国における、仏教流布の状況、文化・伝統・国民性などを踏まえて作られた「明鏡」です。それぞれが、己心の本尊を見るために意味があったのです。
 大聖人は、それらを踏まえて、その真髄を一幅の曼荼羅に図顕し、この末法の時代の人類のための「明鏡」を残されたのです。
 戸田先生は、法華経方便品の十如実相の文に御本尊のすがたが表されていると言われていました。また、その十如実相を基に展開された天台の一念三千の観念観法は、御本尊を自身の胸中に作り顕すものである、と講義されていた。
 そして、末法では、大聖人が証得された妙法をそのまま御本尊として御図顕してくださったので、「御本尊を拝んで南無妙法蓮華経を唱えることによって、わが生命のなかにずーっと御本尊がしみわたってくる」とわかりやすく語られていた。
 御本尊を持ち、強盛な信心によって自身の生命を仏界に染め上げていくのが、末法の成仏の修行なのです。
 「万人を幸福に!」との御本仏の御心を我が心とし、御本仏のお使いとして行動していけば、我が胸中の仏界が更に強く染められていく。
 如来の使いとして如来の事を行じれば、如来の生命のリズムが、我が生命に共鳴してくるのです。
 だからこそ、広宣流布に強く進んでいくことです。また、広布に進む人を仏の如く最大に尊敬し大切にしていかなければならない。
 斎藤 大聖人の御生命に赫々と輝く仏界。その同じ仏界の生命が私たちの生命にも厳然と具わっている――。そのことを信じさせるために、大聖人は凡夫のままで仏界を現じた御自身の生命を、御本尊として御図顕された。
 森中 我々に「己心の十界を見よ」「己心に仏界を涌現させよ」「己心に御本尊があることを自覚せよ」とお示しになっておられるのですね。
 池田 「日女御前御返事」には、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」と仰せです。
 「余所に求めてはならない」のです。大聖人が久遠元初自受用身の生命を「日蓮がたましひ」として成就されたように、自身の生命に妙法が顕現し、「自身の魂」として尊極の生命が成就しなければ意味がないのです。
 森中 御本尊の明鏡をわかりやすく譬えると、たとえば、女性がお化粧をする時、鏡に向かいます。鏡に映った像を見ながら、自分の顔におしろいや紅で装い、自分の魅力を引き立てていくのがお化粧です。ところが、鏡に映った像の方に、おしろいを塗り、紅をはいていては、いつまで経っても自分はもとのままです。
5  池田 御本尊という明鏡に向かう場合も同じでしょう。御本尊はすごいと感心するばかりで、おねだりし、すがるだけでは、いつまでたっても自分自身は輝いていかない。
 また、何か悪いことがあると、御本尊に責任があるかのように、グチをこぼすのも同じです。
 この素晴らしい御本尊と同じ境涯が、我が生命にもあるのだと確信して、日々の生活の中で、たゆまず自身の生命を鍛え磨くから、福徳が燦然と輝くのです。
 森中 かつて戸田先生は、この御文を講義されて、こう語られていました。
 「大御本尊様は向こうにあると思って拝んでおりますが、じつはあの三大秘法の御本尊様を、即南無妙法蓮華経と唱え、信じたてまつるところのわれらの命のなかにお住みになっていらっしゃるのです。これはありがたい仰せです。この信心をしない者は、仏性がかすかにあるようにみえてひとつも働かない、理即の凡夫です。われわれは御本尊を拝んだのでから、名字即の位です。名字即の位になりますと、もうこのなかに赫々として御本尊様が光っているのです。
 ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さい電球はうすい。さらにこの電球の例でいえば、信心をしない者は電球が線につながっていないようなもので、われわれは信心したから大御本尊という電灯がついている。ですから、われわれの命はこうこうと輝いている」(『戸田城聖全集』第6巻)
 池田 大聖人の仏法では、「観心」とは「信心」の異名です。「観心の本尊」とは「信心の本尊」なのです。強盛な信心によって御本尊に直結するのです。そうすれば、自身の内なる御本尊がはたらき、直ちに希望の光に包まれる。力が湧き出していく。
 斎藤 結論的に言うと、大聖人の「観心の本尊」は、己心の仏界の涌現のための本尊であると言えますね。
 池田 「万人が自らの心に仏界を涌現し、己心に十界を観る」ための本尊です。全ての人が観心を成就できるように顕してくださったのです。
 御本尊は、永遠の師たる御本仏の大境涯をそのまま顕されたものです。
 大聖人という一個の人間生命に具わる御本尊を拝し、この御本尊が我が生命にもあるとの「強い信心」によって無明を破り、「仏界の生命」を厳然と涌出できるのです。
6  受持即観心
 森中 「観心」即「信心」とは、仏法用語では「受持即観心」に当たりますね。
 ここで「受持即観心」の法門を述べられた「本尊抄」の御文を拝したいと思います。
 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
 〈通解〉――釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足しているということであり、我々はこの妙法蓮華経の五字を受持すれば自然に釈尊の因果の功徳を譲り与えられるのである。
 池田 釈尊は法華経で開三顕一や開近顕遠など、種々の深義を説いて観心の明鏡とし、人々の信を促した。天台は一念三千を説いて観心の修行の明鏡とした。これに対して、大聖人は一幅の御本尊を明鏡として立てられた。この御本尊を明鏡とすれば観心が成就できる理由を示されているのが今の御文です。
 斎藤 因行とは成仏の原因となる修行、果徳とは修行の結果として得られた仏果、仏の福徳です。
 爾前経では、釈尊の因行として、過去世における長遠の修行を説きます。いわゆる歴劫修行です。また、身命を布施する尸毘王や薩埵王子らの修行も釈尊の因行です。また、その結果の果徳として、菩提樹下で成道した始成正覚の釈尊を説きます。迹門の因行・果徳も基本的に爾前経を踏襲しています。
 池田 本門では、五百塵点劫という長遠の過去において釈尊の因行と果徳の成就があったと説く。そして、それ以来の計り知れない期間を休まずに様々な姿を現しながら衆生救済を続けている寿命長遠の仏が釈尊であると説かれます。
 爾前・迹門にせよ、本門にせよ、膨大な因行と果徳が説かれています。それらがすべて「妙法蓮華経の五字」に具足していると仰せなのです。
 森中 それを証明する文証として、六波羅蜜を修行しなくてもその全てを修行したのと同じ功徳を具えることができるという無量義経の文、「具足の道」があることを説く法華経の文、そして「妙」の字に一切が具足することを示す諸文を挙げられています。
7  池田 文証を挙げられているが、「妙法蓮華経」というわずか五文字に、膨大な因行・果徳がすべて具わっているということは、大聖人の深い悟りと言わざるを得ません。
 ただ、「本尊抄」の翌月(文永10年5月)に著された「義浄房御書」には、大聖人御自身の実践に即して、この受持即観心の法門と同じ趣旨の内容が述べられているので、それを手がかりに拝察していくことにしたい。この御書で大聖人は、寿量品自我偈の「一心欲見仏・不自惜身命」の文によって御自身の仏界を成就したと仰せです。
 森中 はい。「義浄房御書」の御文を拝読してみます。
 「寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し、叡山の大師・渡唐して此の文の点を相伝し給う処なり、一とは一道清浄の義心とは諸法なり、されば天台大師心の字を釈して云く「一月三星・心果清浄」云云、日蓮云く一とは妙なり心とは法なり欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり、一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり、無作の三身の仏果を成就せん事は恐くは天台伝教にも越へ竜樹・迦葉かしょうにも勝れたり、相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり、法華経の御為に身をも捨て命をも惜まざれと強盛に申せしは是なり、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経
 〈通解〉――寿量品の自我偈に云く「一心に仏を拝見しようとして、自ら身命を惜しまない(一心欲見仏不自惜身命)」とある。日蓮の己心の仏界を、この経文によって顕すのである。その理由は、寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就しているのが、この経文だからである。このことは秘しておきなさい。(中略)
 日蓮が言うには、「一」とは妙であり、「心」とは法であり、「欲」とは蓮であり、「見」とは華であり、「仏」とは経である。この妙法蓮華経の五字を弘通しようとするためには身命を惜しまないというのが「不自惜身命」である。(「一心欲見仏」とは)「一心に仏を見る」「心を一にして仏を見る」「一心を見れば仏である」ということである。無作の三身という仏果を成就するということは、おそらくは天台・伝教にも越え、竜樹・迦葉にも勝れているのである。心の師とはなっても、心を師としてはならない、と釈尊が経文に記されていることを深く心得なさい。法華経の御ためには身をも捨て、命をも惜しまないようにと強盛に言ってきたのは、このことである。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。
8  池田 要するに、「一心欲見仏不自惜身命」すなわち「不惜身命の信心」が大聖人の観心であるということです。
 また、「一とは妙なり心とは法なり欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり」と言われている。つまり、一心に求めたものは「妙法蓮華経」であるということです。しかも、この五字を単に自分だけ求めたのではなくて、身命を惜しまずに弘通したと仰せです。自行化他です。そして、成就した仏果は「無作の三身」であると言われている。
 すなわち、凡夫の身のままで、妙法の当体としての自身(無作の法身)を開悟し、その法を知見し、自受法楽し、他に説き弘める智慧の身(無作の報身)を成就した。そして、同じ法身を持ち、同じ智慧を開き得る可能性を持つ存在として衆生を慈しみ、また、それにもかかわらず衆生が無明にとらわれて苦しんでいることを悲しみ、同苦する大慈悲の身(無作の応身)を得たのである。
 また、この仏果の帰結として、大難を超えて、末法の万人を救う三大秘法を完成することができたとも言われている。
 まさに、身命を惜しまずにひたすら「妙法蓮華経」を受持することで、無作三身・末法教主としての最高の仏果を成就されたのである。つまり、「観心」の成就である。
 そして、このひたすらなる受持による観心成就の経緯を「一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり」と表現されている。「一心欲見仏」を三回読みかえて並べられています。
 最初の二つの「一心に」「心を一にして」は因行、最後の仏になっている「一心」は果徳に当たるでしょう。
 しかし、すべて「一心」であることには変わりがない。つまり一貫して不惜身命の御心と求道であられたのである。
 したがって、凡夫の身はいささかも改めていないのであるが、一心に求める心がそのまま仏の心へと、精神的境位が大変革されたのです。
 さらに、「心の師とはなるとも心を師とすべからず」との経文を引かれている。「心」のあり方を強調しているのが仏法です。すなわち、「不惜身命の信心」をひたすら貫けば、生命が妙法に適い、自然に「無作の三身」の仏果が現実に開き顕されるのである。
 森中 「受持即観心」の法門がより深く理解できるようになりました。受持の核心は「不惜身命の信心」であり、その信心におのずと観心が成就するのですね。
 斎藤 御本尊には、大聖人が妙法蓮華経の五字を受持しぬき、観心を成就したことの全体、つまり大聖人の因行・果徳の全体を込めて「南無妙法蓮華経日蓮」としたためられていると拝してよろしいでしょうか。
 池田 大聖人は「日蓮がたましひ」と言われている。御本尊の首題には大聖人の不惜の戦いが込められていると拝したい。
 戸田先生は、そこに日蓮大聖人がましますがごとく御本尊を拝しておりました。
 その御本尊を、今度は我々が受持するのですが、その受持とは当然、不惜身命の信心でなければならない。
9  受持の要件
 斎藤 「義浄房御書」に即して、「不惜身命の信心」という受持の根本を教えていただきました。御書には「受持」について、さらにいくつかの要件が挙げられていると思われます。
 池田 受持とは、法華経を信受することです。法華経とは、「皆成仏道」の教えです。万人の生命にゆるぎない幸福境涯である仏界が本来的に具わっており、それを開き顕すことができる――このことを教えているのが、法華経の法理です。
 「万人の成仏」、「自身の成仏」への信を促す教えです。
 万人成仏の法である法華経の受持のあり方について、大聖人は、「生死一大事血脈抄」で大きく3つ、あるいは4つの観点から、語られている。
 森中 はい。まず、大聖人は次のように仰せです。
 「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり
 〈通解〉――久遠実成の釈尊と、皆成仏道を明かした法華経と、私たち衆生との三つの間には、まったく違いがないと理解して、妙法蓮華経と唱えることを、生死一大事血脈というのである。このことが、まさに日蓮の弟子・檀那らの肝要なのである。法華経を持つというのは、このことである。
 斎藤 久遠の仏と万人成仏の法華経の教えと私たち一人一人、この三つの本質が同じである――その真実に目覚めよ、との仰せですね。
 池田 これは何を信じれば法華経受持になるのかを教えられています。
 久遠の仏も、法華経の教えも、私たち一人ひとりも、すべて妙法の現れ、表現です。諸法実相です。
 その真実を確信することが、法華経受持の本質です。
 万人が成仏できる、必ず永遠の幸福をつかみとることができる――。この確信こそが、すべてを開いていくのです。
 いわば、妙法への信は、真っ暗な闇を照らす希望の光である。どんな困難にも挑戦する勇気の泉です。
 森中 次に「臨終只今にあり」という信心の姿勢を教えられています。
10  池田 これは、不惜身命の信心と相通ずるでしょう。受持は、教えを信受することとともに、生涯信じつづける持続が大切となる。人生の究極の意味を成仏に求めるのですから、生涯持続すべきなのは当然の理です。
 大聖人は「成仏は持つにあり」と、持続の大切さを教えておられる。その持続の鍵が、「臨終只今にあり」という姿勢です。今、人生を終えても悔いがない信心です。
 人生をかけて悔いがない澄み切った信心であってこそ、自身が妙法と一体化する。そして、その信心の持続によって一生成仏を遂げていける。
 「生死一大事血脈抄」で大聖人は更に、三世にわたって切れない信心を強調しておられるね。
 森中 三世永遠の信心という点については、大聖人は、次のように仰せです。
 「過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑有るべからず、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり
 〈通解〉――過去世に法華経と縁を強盛に結んだので、現在、この法華経を受持するのである。未来には、その結果として、成仏することは決して疑いない。過去の生死、現在の生死、未来の生死という三世の生死において、法華経から離れ切れないでいることを法華の血脈相承というのである。
 斎藤 今世の受持により、妙法の功徳が生死を超えて、三世永遠にわたるとの仰せです。
 池田 真実の受持であれば、妙法の功徳は三世にわたって決して失われることはない。心の田に、仏という植え手によって植えられた妙法という成仏の種子は、決して失わたり壊されたりすることはない。
 森中 大賀ハスの種子は、何千年も経て生き延び、芽を出し花を咲かせました。
 妙法蓮華の種子もまた、たとえ地獄のような境涯に堕ちたとしても、壊れないとされます。
 池田 「種子不失の徳」だね。一度、生命に植えられた妙法の種子は、いつか慈悲の雨で潤い、智慧の陽光を浴びれば、必ず芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶ。
 大事なことは、どのような困難があっても、妙法を信じぬき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経と唱え切っていくことです。妙法から離れるようなことは決してあってはならない。謗法不信は、自ら種子を断絶することになります。
 森中 「生死一大事血脈抄」では、さらに異体同心の団結が受持の要件であることが示されています。
 「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮しょせん是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か
 〈通解〉――総じて、日蓮の弟子・檀那らが、自分や他人、あれやこれと差別する心がなく、水と魚のように分かち難い思いで、異体同心で南無妙法蓮華経と唱える、そこにこそ生死一大事の血脈があるのである。今、日蓮が弘通している究極は、まさにこのことである。もし、そのようにするならば、広宣流布の大願も叶うに違いない。
 斎藤 異体同心の団結とは、万人の幸福を願う仏の心に皆が心を合わせ、それぞれの使命に生き抜く団結ですね。
 池田 誰もがかけがえのない一人となって活躍し、困難を打ち破り、新しい希望の未来を切り開いていく――そこにこそ、最高に充実した人生がある。
 広宣流布は、一人ひとりの偉大な人間革命によって、一歩また一歩と永遠に進んでいく壮大な偉業です。
11  観心成就の相
 森中 次に受持する法体である「妙法蓮華経の五字」についてお願いします。
 まず、素朴な疑問ですが、「妙法蓮華経」は本尊なのでしょうか、唱える題目なのでしょうか。
 池田 大聖人は「法華初心成仏抄」で、「我が己心の妙法蓮華経」を本尊として、「南無妙法蓮華経と唱える」のであると言われています。本尊も妙法蓮華経であり、本尊を信じて唱える題目も妙法蓮華経です。
 「妙法蓮華経」は、十界のあらゆる衆生が等しく具えている「仏性」と、三世の諸仏が悟る妙法の共通の名です。
 したがって、この題目を一度でも唱えるならば、あらゆる仏の悟りの法とあらゆる衆生の仏性を呼び出すことができ、功徳は無量無辺であると言われています。
 斎藤 こう仰せです。
 「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、たとえば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ、されば「若し暫くも持つ者は我れ則ち歓喜す諸仏も亦然なり」と説き給うは此の心なり
 〈通解〉――我が己心の妙法蓮華経を本尊と崇めたてまつって、我が己心の中の仏性を南無妙法蓮華経と呼び、呼ばれた仏性が顕れた時を仏というのである。
 たとえばカゴの中の鳥が鳴けば、空を飛ぶ鳥が呼ばれて集まるようなものである。空を飛ぶ鳥が集まれば、カゴの中の鳥も出ようとするようなものである。口に妙法を呼びたてまつれば、我が身の仏性も呼ばれて必ず顕れるのである。
 梵天や帝釈の仏性は呼ばれて我らを守る。仏や菩薩の仏性は呼ばれて喜ばれる。すなわち法華経宝塔品に「もし少しの間でも、妙法を持つ者がいれば、我(釈尊)は即座に歓喜する。諸仏もまた同様である」と説かれているのは、この意なのである。
 池田 南無妙法蓮華経と唱えることは、日蓮大聖人の顕された御本尊を最高に讃歎することです。それは同時に、我が己心の御本尊を讃歎することであり、我が仏界の生命を讃歎することです。
 そうすれば、自らの名を呼んで讃えられた仏界の生命が、顕れて出てくるのです。
 「よびよばれて」と仰せです。呼ぶ側も自身、呼ばれる側も自身です。外から与えられるのではない。自分の中から呼び覚ますのです。御本尊との感応です。
 その声の響きに応じて、全宇宙の諸天善神が動くのです。そして、我々の生命を守ってくれるのです。また、あらゆる仏も菩薩も歓喜するのです。「歓喜とは法界同時の歓喜なり」です。宇宙全体が歓喜に満ちあふれるのです。
 斎藤 まさに仏界涌現です。
12  池田 宇宙根源の法も妙法蓮華経、自身の実相も妙法蓮華経です。仏の生命は妙法蓮華経が人格のうえに顕現した姿であり、その仏が説く究極の成仏の法も妙法蓮華経です。
 であるがゆえに、仏が顕した南無妙法蓮華経の御本尊を明鏡として、我が己心の御本尊を深く確信し、自行化他にわたって南無妙法蓮華経を唱えれば、妙法蓮華経と妙法蓮華経が共鳴しあって、自身が仏界と現れるのです。
 森中 それが観心の成就ですね。
 池田 そうです。「観心本尊抄」では、受持即観心の法門を明かした後に、経文を引いて観心成就の相を示されています。
 斎藤 己心の声聞界(二乗界)、己心の釈尊、己心の三仏(釈尊・多宝・十方諸仏)、己心の菩薩が現れると仰せです。つまり現れ難い四聖が揃い、我が己心に十界を見ることになります。
 森中 法華経信解品で四大声聞が迹門の教えを聞いて妙法を信受できたことに歓喜し、「無上の宝珠、求めざるに自ら得たり」と述べています。この言葉を挙げて、「我等が己心の声聞界なり」と仰せです。
 池田 この言葉はそのまま、末法の衆生が御本尊を受持することにより自然のうちに仏界を涌現できた時の歓喜を表現していることになります。ゆえに御本尊を受持する者の己心の声聞界に当たるのです。
 斎藤 次いで、釈尊が方便品で、過去世からの誓願を述べた次の言葉を挙げています。
 「我が如く等しくして、異なること無けん。我が昔の所願の如き、今は已に満足しぬ。一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」
 池田 衆生が仏と同じ境地に達することを願う釈尊の誓願です。
 妙法蓮華経を受持して仏の因果の功徳をすべて譲り受ければ、その人は仏と全く異なることがない生命となっていく。
 森中 それ故「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」と仰せです。
 〈通解〉――妙覚の悟りを成就した釈尊はそのまま妙法蓮華経を受持する我々の血肉であり、その境涯をもたらした因果の功徳は我々の骨髄に当たる。
 池田 この個所は、師である仏と同じく弟子である衆生が自身に具わる因果の功徳を自在に享受し用いる身になることが示されている。
 斎藤 法の功徳を自在に享受する仏が自受用身ですから、日寛上人の文段ではこの御文を「自受用身に約して師弟不二を明かす」と位置付けられています。
 次に、「法華経を受持する者は、釈迦・多宝・十方の諸仏を供養することになる」(趣旨)という宝塔品の経文を挙げて、「釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹して其の功徳を受得す」と述べられています。
 〈通解〉――釈迦・多宝・十方の諸仏は妙法蓮華経を受持する我らの仏界である。この三仏の跡を受け継いで仏界の功徳を受得できるのである」
 池田 三仏は己心の無作三身を顕している。釈迦は智慧の表象として報身、多宝は真理の表象として法身、来至した十方諸仏は慈悲の表象として応身に当たります。
 先ほども述べたように、妙法蓮華経を受持する者には、凡夫の身のままで無作三身の功徳が具わるのです。
 斎藤 子が親から全財産を受け継げば、全く親と同じであるように、無作三身という仏の全功徳を受け継いだ弟子は仏と同じです。ゆえに日寛上人は文段で、「無作三身に約して親子一体」を表す文と位置付けられています。
 森中 さらに寿量品には「然るに我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」とあります。久遠実成を明かす文です。
 この経文を挙げて、「観心本尊抄」では「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」と仰せです。
 〈通解〉――妙法蓮華経を受持する我等の己心の釈尊は五百塵点劫以前に三身を成就した仏であり、無始無終の古仏である。
13  池田 これは「永遠の法」である妙法蓮華経と一体の「永遠の仏」が己心に現われたことを言われているのです。すなわち、久遠元初自受用身であり、「日蓮がたましひ」です。
 森中 また寿量品の「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず、復上の数に倍せり」との経文を併せて挙げています。そして「我等が己心の菩薩等なり」と言われています。
 池田 その経文は、五百塵点劫に成仏した久遠実成の釈尊は、成仏後も菩薩行を絶やさないことを示しています。涌出品に出現する無数の地涌の菩薩は、久遠実成の釈尊の弟子ですが、釈尊の菩薩界を代表しているのです。
 同様に、妙法蓮華経を受持する者の己心に現れる永遠の仏にも、菩薩の眷属が現れます。それが、己心の菩薩界です。
 斎藤 永遠の仏が己心に現れれば、その眷属である菩薩界の生命も現れます。この関係を日寛上人は「君臣一体」と言われています。
 池田 悟った後に、他の浄土に去ったり、涅槃の静寂に入り込んでしまう仏は、真実の仏ではありません。成仏したが、九界の生命がなくなってしまうというのでは、真の悟りでも、真の成仏でもありません。
 九界の生命が渦巻く現実社会に入って、人々を救う菩薩界の生命を表に活動するのが真実の仏なのです。
 現実に様々な苦悩をかかえる一人一人に真正面から向き合うのです。徹して一人を大切にする。そして、たゆむことなく、一人また一人と幸福へと導いていく――その不屈の菩薩道の中にこそ、仏の生命が輝くのです。
 皆の幸福のために、心を砕き身を尽くし、あらゆる手立てを講じるのです。十界のすべての総動員です。九界のどの境涯であっても、必要なときに必要な境涯を現せるのが、本当の仏の自在さです。
 森中 「本尊抄」の観心成就の相を明かすところでは、最後に、妙楽大師の「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」との文が引かれています。
 池田 妙法蓮華経の五字の受持によって観心が成就し、自身の妙法蓮華経と宇宙の妙法蓮華経が一体化して自在の生命力を顕したときの自在の境涯が表現されています。

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