Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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万人に「永遠の法」を開く  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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10  池田 「心こそ大切」です。心とは「信」です。先ほどの御文にも「信じさせ給へ」と仰せです。
 入信まもないころ、戸田先生は私に「この御書だけは命に刻んでおきなさい」と言われて、御義口伝の「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」の一節を教えてくださった。億劫にわたるべき辛労を我が一念に尽くして、広宣流布のために戦っていくならば、偉大なる仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくる。無作の三身、すなわち本有の智慧と勇気と慈悲が、わが五体に満々とみなぎってくるのです。
 その無限の生命力を教えるために、大聖人は御本尊を顕してくださったのです。私たちは、御本尊を明鏡として、この生命の力を、自分において、友において、そして万人において信じていくべきです。「自受用身の生命」は、一切衆生の誰人の胸中にも生命の可能性として備わっていると信じるのが「御本尊を信ずる」ということです。
 斎藤 日蓮大聖人が、御本尊の意義を記された御書では、必ずといっていいほど、その御本尊と同じ生命が私たちの胸中にあることを教えられています。
 森中 有名なのは、「日女御前御返事」の一節です。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり
 〈通解〉――この御本尊は、まったくよそに求めてはならない。ただ、我々衆生が、法華経(御本尊)を持って、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのである。これを「九識心王真如の都」というのである。
 また、「阿仏房御書」も同じ趣旨となります。
 「然れば阿仏房あぶつぼうさながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり
 〈通解〉――そうであるから、阿仏房はそのまま宝塔であり、宝塔はそのまま阿仏房なのである。これより外の考えは無益である。聞・信・戒・定・進・捨・慚という七宝で飾った宝塔である。多宝如来の宝塔を供養しているかと思うと、そうではない。我が身を供養しているのである。我が身はまた三身即一身の本より覚っていた如来である。このように信じて南無妙法蓮華経と唱えなさい。そうすれば、ここはそのまま宝塔が住する所である。
 斎藤 単に仏像を置いて拝むような信仰だったら、我が身三身如来とは絶対に感じられませんね。
 三世十方の諸仏が仏になった根源の法が南無妙法蓮華経であり、日蓮大聖人がその南無妙法蓮華経如来であられる。そして、その南無妙法蓮華経如来の御生命を一幅の曼荼羅の中に御図顕された。私たちは、南無妙法蓮華経の御本尊を拝して、胸中の南無妙法蓮華経を涌現させる。
 順番に語りましたが、要するに、我が身がそのまま妙法の当体であると自覚するための御本尊という意義が鮮明になります。
 池田 それが「観心の本尊」です。
 全民衆を救済するためには、どうしても、人間自身の胸中にある本尊を涌現させていく以外にない。
 全人類が平等に胸中の本尊を涌現することができ、万人にその可能性が与えられる。
 「観心の本尊」は、偉大なる本尊革命であり、人間の可能性を最大に尊重し、現実に変革を可能にする「人間のための宗教」の精髄です。
 森中 日蓮大聖人は、どんな悪世でも力強く生きていける「永遠の法」を体得し、それが一個の凡夫に顕現されることを証明されました。
 その究極の御姿が竜の口の法難ですね。
 池田 竜の口の頸の座で、人間とはかくも偉大な存在であると明かされた日蓮大聖人だからこそ、人間を最高に人間たらしめる根源の法を万人のために御図顕していかれたのです。
 一切衆生救済の誓願の結晶であり、万人の成仏のための御本尊――それが日蓮大聖人の「観心の本尊」にほかなりません。

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