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日蓮大聖人・池田大作

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万人に「永遠の法」を開く  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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1  斎藤 今年(2002年)の教学試験は、青年部教学試験(二級)と教学部中級試験が行われ、全国で約25万人の壮年・婦人・青年部の方々が受験しました。これだけ多くの方々が仏法を真剣に研鑽することは、学会の誇るべき伝統であるだけでなく、民衆の偉大なる哲学運動として社会的にも大きな意義があると確信します。
 中級試験の時は、先生に直接、受験会場で受験者を激励していただきました(9月29日)。本当にありがとうございました。
 池田 教学試験を受けられた方々、また役員の方々はじめ関係者の皆さま方に、改めて、ご苦労さまでしたと申し上げます。偉大な教学の研鑚を心から讃歎申し上げたい。
 森中 試験というと、受験者はどうしても緊張するものですが、先生から激励を受けて、皆さん、のびのびと実力を発揮できたようです。
 また、先生の激励は、居合わせた方々だけでなく、全国で受験した人、当日の運営に携わった人の大きな励みになりました。その時のお話は、私たちにとっても教学の重要な指針となりました。
 例えば「広宣流布のための行動。その力となる教学。ここにしか仏になる道はないのです」「仏法は、大宇宙の根本中の根本です。永遠の生命を貫く法則です」と言われています。
 池田 日蓮大聖人の仏法を奉ずる私たちは、大宇宙の根本の法則、すなわち妙法にのっとって生きることができ、また、その意義を御書を通して確認することができる。
 「信・行・学」の軌道によって妙法に直結できること以上にすばらしいことはありません。また、そこにしか、自受法楽という永遠の幸福を築く道はありません。
2  「永遠の法」に目覚めよ
 池田 自らが歩んだ幸福の軌道に全人類を直結させようとするのが、真の仏の行動です。
 釈尊は自分が妙法の当体であることを覚知しました。そして、あらゆる生命も同じく妙法の当体であり、同じ自受法楽を得ることができる存在であると知った。しかし、残念ながら、人々は真理に目覚めていない。さまざまな迷いに覆われて、愚行を繰り返し、苦悩に陥っている。
 自分と同じ可能性を持つ人々の生命を慈しむがゆえに、人々の苦悩を悲しみ、同苦する。そこで、万人に秘められた真理を人々にも自覚させていくために、法を語りに語り抜いていったのです。自分が悟った「永遠の法」に人々を目覚めさせていくために、「全人格」をかけて戦うのが仏なのです。
 斎藤 法華経の如来寿量品第十六では、釈尊の本地が明かされます。それは、分かりやすく言うと、「永遠の法」と一体になった「永遠の仏」であるということです。
 池田 釈尊は、「永遠の法」が、自身の生命のうえに顕現し、自身と一体となる境地を味わった。目覚めて見れば、自分自身が「永遠の妙法」の当体であり、「永遠に活動する仏」であると悟ったのです。この仏が、寿量品に説かれている「久遠実成の仏」です。
 森中 久遠実成の仏とは、計り知れないほどのはるか久遠の昔に成仏して以来、現実世界で衆生救済の活動を続けている仏です。これに対して、過去世で計り知れないほどの修行をして、今世で始めて成仏して、入滅すると涅槃に入ってしまうという始成正覚の仏が、諸経に説かれる普通の仏陀観です。これから比べると、法華経の久遠実成の仏は画期的な仏です。
 池田 「永遠の法」を悟った仏は、必ず永遠に民衆救済の活動を続けるということを示す画期的な仏陀観です。永遠性に対する考え方が違うのです。
 斎藤 涅槃の静寂に永遠性を見るか、慈悲の活動に永遠性を見るかの違いですね。
 池田 そうです。大聖人が、竜の口での発迹顕本の後、「御本尊」を顕されていかれたのも、凡夫として「永遠の法」と一体化した久遠元初自受用身の御境地を末法の人々に示して、人々を永遠の幸福の大道に導こうとされたからです。
 斎藤 末法万年にわたる救済の法として悟られた「永遠の法」を顕されたのですね。大慈悲をもってされたのですね。
 池田 その「永遠の法」を、日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経」と名付けられた。もっとも、南無妙法蓮華経は法の名であるとともに、その法と一体になった仏の生命、つまり大聖人の御生命の名でもあられる。いずれにしても、この法が諸仏の能生の根源なのです。ゆえに、釈尊や諸仏を本尊とするよりも、永遠の法を本尊とすべきです。
 大聖人は「本尊問答抄」で、「本尊とは勝れたるを用うべし」と言われたうえで、「勝れた本尊とは教主釈尊ではなくて、教主釈尊・多宝如来・三世十方の諸仏が本尊とした法華経そのものである」(趣旨)と仰せです。
 森中 同抄には、こうも仰せです。
 「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり
 一切の諸仏が「出生」した根源の法が法華経であると仰せです。法華経といっても、もちろん、厳密には南無妙法蓮華経のことです。
 池田 別の御書には、南無妙法蓮華経は「三世の諸仏の師範」であり、「十方薩埵の導師」であり、「一切衆生皆成仏道の指南」であるとも仰せです(1116㌻)。
 「永遠の法」と一体の「永遠の仏」が三世十方の一切の諸仏の師です。釈尊も、この法を悟り、この法を師として生き抜きました。これを「ダルマ」とも呼び、「如来」とも呼んでいます。
 また、入滅直前の釈尊が遺言として、「自身と法を依りどころとせよ」、と言った真意も、滅後の衆生をも「永遠の法」に結びつけようとしたことにあると思う。
 森中 法華経寿量品で久遠実成という本地を明かしたのも、法をよりどころとし、法を本尊とすべきであるということを示していますね。
 池田 法華経は、釈尊自身の「師」である「法」を真剣に求めていきなさいと民衆に呼びかけ、「法」に直結する道を教えている経典であると言えます。
 斎藤 そのこと自体が、偉大な宗教革命なのではないでしょうか。
 現代でも、仏とかブッダというと、遠くにいて悟りすまし、時たま、衆生のほうへ降りて来て教えを垂れる存在であり、そう説くのが仏教であると誤解している人がたくさんいます。
 森中 早い話が、「一番偉い」のが仏だという思い込みですね。しかし、仏が偉いのも、根源の法が素晴らしいからですね。
 もちろん、迷いの凡夫にとってみれば、「仏」がいるからこそ、真理の世界を知ることができる。それ自体が仏の偉大な功績です。
3  池田 要するに、仏とは、自身が悟り、師とした「永遠の法」即「永遠の仏」へと、民衆を導く人です。皆が「法」に直結できるよう目覚めさせるために戦い続ける人です。「永遠の法」はすべての人の生命の中にあるという深い洞察があります。その意味で、「永遠の法」こそ、全人類が結びあえる基盤なのです。
 第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所を体験した心理学者のフランクルは、数千年も前に「一なる神への信仰」すなわち「一神教」を生み出した人類は、現代においては、さらに一歩踏み出して、「一なる人類についての知」、いわば「一人類教」が必要になっていると言っています。そうでなければ、万人に妥当する生きる意味が見出せない、というのです。
 こうした志向性は、法華経に一歩近づいているともいえまいか。「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」(開結176㌻)という釈尊の誓願に明らかなように、万人を仏と同じ境涯にすることを、仏法は目的とするからです。
 法華経寿量品で説かれた久遠実成の釈尊を、一神教の絶対神のような特別の存在と考えてはならない。そうではなく、万人が至るべき尊極の境地を示しているのです。その普遍性において、久遠実成の仏は、釈尊一人のことではなくて、普遍的な「法」の面を持っていると見ざるを得ないのです。「永遠の法」を指し示している点に、法華経の真価があるからです。
 法華経で、仏の生命が究極的な「法」と密接な関係にあることを示しているのが、題号の「妙法蓮華経」です。
 斎藤 この題号について、法華経には明確な説明がありません。しかし、一つの意義として、こう拝察できるのではないでしょうか。
 妙法蓮華経は、妙法の自在の力が、清らかな白蓮華のように何の汚れもなく、ありのままに開花している仏の生命を表現している。最も究極的で、最も根源的な仏の生命の表現であると言えます。
 池田 もし、法華経に「本尊」を求めるとすれば、久遠実成の釈尊よりも、この妙法蓮華経こそがふさわしいのです。このことを最初にはっきりと示されたのが大聖人です。大聖人の教えがなければ、法華経の本尊義は見失われていたでしょう。
 斎藤 釈尊の本地である「永遠の法」と一体の「永遠の仏」を表現するのが妙法蓮華経で、この成仏の根源を指し示しているところに万人の成仏を説く法華経の真価があるということですね。
 森中 しかし、時代とともに、その法華経の真価が分かる人が減少します……。法華経を読んでも、ただのお伽話か、遠い昔話としか受け止められないのです。あるいは、「釈尊は立派な仏だったんだ」とは思っても、「自分が仏である」とは思いもつきません。
 そこで、もっとダイレクトに「法」と直結する道が必要になってきます。
4  発迹顕本から御本尊御図顕へ
 池田 そこに、日蓮大聖人が御本尊を御図顕された一つの意義がある。誰もが、生命で実感できるように、「法」に直結する道を万人に開かれたのです。
 斎藤 いわば、法華経を通して「法」に至るのではなく、「法」そのものを御本尊として御図顕することで、万人がそのまま直結できる道を確立されたわけですね。
 池田 それゆえに、日蓮大聖人を末法の御本仏と拝するべきなのです。
 そして、大聖人の御生涯の中でも、いよいよ御本尊を御図顕されていこうとする転機となったのが、竜の口法難における「発迹顕本」だったのです。
 森中 前章で、竜の口の法難とは、日蓮大聖人御自身の人間としての御振る舞いの勝利の姿であることを教わりました。
 大聖人は、あくまでも一人の凡夫として、権力の魔性を打ち破り、大宇宙の諸天善神を自在に動かしていかれた。その御姿にあらためて感動しましたという声が、多数寄せられました。
 斎藤 こういう声もありました。「今までは、日蓮大聖人が竜の口の法難で危機を乗り越えたのは、御本仏なんだから当然なんだと、何の疑いもなく思い込んでいました。しかし、そう考えると、結局は、私たちから遠い存在になってしまいます。しかし、大聖人はどこまでも一人の人間として、大難を悠然と乗り越えていかれたことを知りました。その源泉が『誓願の力』であることも知りました」
 池田 そうです。「誓願」は人間のもつ可能性を無限に引き出す力です。
 大聖人御自身が、どこまでも「法」を求め、守り、弘めていくことに徹した生き方を貫き通された。「法」に生ききる。「法」を万人に開く。これほどの「誓願」はありません。「法」に徹すれば、民衆救済を貫く生き方しかありません。立宗宣言以来、竜の口の法難に至るまでの二十年間というものは、まさに「死身弘法」――「法が根本」の闘争であられた。竜の口法難は、その頂点です。これこそが、凡夫が「法」と一体化する生き方そのものであられた。
 森中 あえて言えば、「法」の偉大さを証明した人生であられたということでしょうか。
 池田 厳密に言えば、「法」と一体化した人間の偉大さを証明されたと言える。
 森中 再度、発迹顕本について確認しておきます。もともとは、法華経で、始成正覚の釈尊は「迹」(仮の姿)であり、久遠実成の仏こそ釈尊の「本地」(本来の境地)であるとする意味です。仏が垂迹を開いて本地を顕す――それが発迹顕本です。
 大聖人の場合、竜の口の法難の時に、名字凡夫という「迹」を開いて、凡夫の身のままで久遠元初自受用報身如来という「本地」を顕されたことが発迹顕本ですね。
 池田 大聖人御自身が、「永遠の法」即「永遠の仏」である自受用身の仏とあらわれたのです。しかも、凡夫の身のままで、というところに大きな意義があると拝したい。
 森中 前章はさらに、大聖人御自身が、凡夫の身そのものに久遠の仏の生命を開かれたからこそ、末法の凡夫の成仏の道が開かれたことを教えていただきました。
 池田 もう一つの側面があります。日蓮大聖人が凡夫の身のままで自受用身の仏として顕れたからこそ、末法の一切衆生を救う御本尊を御図顕される意義が生まれるのです。このことは重大なことだから、順番に論じていこう。
 斎藤 はい。先ほどの話にもありましたが、日蓮大聖人は、竜の口法難で発迹顕本されてから、いよいよ御本尊の御図顕を本格的に開始されます。
5  池田 そこから「佐前佐後の法門」という考え方も生まれてくるわけだね。
 森中 「三沢抄」には、「法門の事はさど佐渡の国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」と仰せられています。
 続いて、次のようにも仰せです。
 「而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頸をねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をわざりけるとをもうて・さど佐渡の国より弟子どもに内内申す法門あり、此れは仏より後迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口より外には出し給はず、其の故は仏制して云く「我が滅後・末法に入らずば此の大法いうべからず」と・ありしゆへなり、日蓮は其の御使にはあらざれども其の時剋にあたる上・存外に此の法門をさとりぬれば・聖人の出でさせ給うまでまづ序分にあらあら申すなり、而るに此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光・巧匠の後に拙を知るなるべし、此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆せて但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候
 〈通解〉しかしながら、去る文永8年9月12日の夜、竜の口で頸を刎られようとした時から以後は、(弟子たちを)不便だと思った。私に着いてきた者たちに真実の事を言ってはいなかったと思って、佐渡の国から弟子たちにに内々に言った法門がある。これは、仏から後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真らの大論師や大人師は知っていながら御心の中に秘しておられ、口から外には出されなかった。その理由は、仏が制して「私の滅後、末法に入らなければ、この大法を説いてはいけない」と仰せだったからである。日蓮はその仏の御使ではないけれども、その時に当たる上、存外にもこの法門を覚知したので、聖人がこの世に出られるまで、まず序分としてあらあら説いたのである。ところが、この法門が出現するなた、正法・像法に論師・人師が説いていた法門は皆、日が出た後の星の光のようであり、巧みな名人の後に稚拙さを知るようなものとなった。この時には、正像の寺や堂の仏像や僧らの霊験は皆、消え失せて、ただこの大法のみが一閻浮提に流布すると思われるのである。
 池田 深夜にきらめく満天の星明かりも、ひとたび、太陽が昇ればかき消されてしまう。それと同様に、末法の大法が赫々と昇れば、正法・像法時代の教えは消え失せる。
 「此の大法のみ一閻浮提に流布す」――これが日蓮大聖人の御確信です。
 そして、この一閻浮提流布を現実のものとしたのが創価学会です。今は、太陽の仏法が、まさに中天に昇っているのではないでしょうか。世界中で、日蓮仏法の功徳の陽光が燦々と降り注いでいる。世界のどこにいっても、日蓮仏法を実践している人がいる。「一閻浮提広宣流布」の大きなチャンスが来たのです。この時を逃してはならない。今こそ、全世界の人たちが、仏法の慈光を思う存分浴びて、功徳の大輪を爛漫と咲かせてほしい。何の遠慮もいらなければ、何もさまたげるものはない。
 自分が幸福になるための御本尊です。万人を幸福にするための御本尊です。
 日蓮大聖人が遺された太陽の仏法の功徳を、全世界の人々が満喫していくために戦うのが、創価学会の使命です。一人ひとりの会員が、御本仏の尊き使いであり、御本尊の使いです。仏の願いを体現する実践ですから、これ以上の「今生人界の思出」はありません。
6  人本尊開顕と法本尊開顕
 斎藤 日蓮大聖人が発迹顕本され、末法の御本仏として、人類救済の闘争に立たれたことは、今の「三沢抄」にも鮮明です。
 そこで、日蓮大聖人の御立場から、竜の口以降の足跡を簡単に確認しておきたいと思います。
 日蓮大聖人が佐渡期に著された御書の中核は、なんといっても「開目抄」「観心本尊抄」の二書です。いうまでもなく、それぞれ、「人本尊開顕」と「法本尊開顕」という重大な意義があります。両著作は、日蓮大聖人が御本尊を顕され、全人類を救済していかれる筋道を明確にする内容となっていますね。
 池田 「開目抄」は「人本尊開顕」の書です。日蓮大聖人が御本尊を御図顕されるにあたって、御本尊を御図顕する日蓮大聖人とはいかなる方なのかを明らかにされています。
 森中 疑問に思うのですが、「人本尊開顕」と意義付けられている一方、「開目抄」のほぼ全体が、門下や世間の疑難に対する回答に費やされています。もっと直截的に、自身が仏であると宣言したら話が早いのではないかと思うこともあります。
 斎藤 そこに深い意義があるのではないでしょうか。「開目抄」では、世間の人が寄せるあらゆる疑難に対して、客観的に経文を引きながら答えていくなかで、明晰に日蓮大聖人御自身がいかなる方なのかを経文に照らし合わせて証明されていっています。
 池田 また、フランクルの言葉を取り上げてみたい。大きな苦難、とくにナチスという悪の権力による最悪の迫害を越えてきた人だけに、彼の言葉には人間への深い洞察があります。彼はこう言っている。
 「われわれは他者の人生に意味を与えることはできません――われわれが彼に与えることのできるもの、人生の旅の餞として与えることのできるもの、それはただひとつ、実例、つまりわれわれのまるごとの存在という実例であります。というのは、人間の苦悩、人間の人生の究極的意味への問いに対しては、もはや知的な答えはあり得ず、ただ実存的な答えしかあり得ないからです。われわれは言葉で答えるのではなく、われわれの現存在そのものが答えなのです」(山田邦男訳『意味への意志』、春秋社)
 要するに、人を救う力を持っているのは、フランクルが「実例」とか「現存在」と言っているもの、つまり「現実に生きる人間の姿」だけであるということです。
 「開目抄」は、大聖人の現実に生きる御姿を示されているのです。
 私も、仏法の偉大さを知りえたのは、戸田先生にお会いし、具体的に先生のお話と行動に触れて、人間の偉大さを感じたからです。戸田先生の姿を通して、仏法に目を開かされたのです。
 森中 大切なお話です。大聖人は「開目抄」で、まず、法華経にしか末法の人々を救う「成仏の法」はないことを論じられています。ここで、いわゆる五重の相対が示されています。
 池田 大聖人は、法を守り、民衆を守るために、人々の成仏を妨げる魔性の悪僧との戦いを起こし、大難を受けられる。そして、その現実の御姿の中に、末法の人々を救う「主師親の三徳」が具わっていることを示されるのです。
 斎藤 法華経に説かれたとおりに大難と戦う大聖人の御姿を示すことによって、万人を救う力強い尊極の生命が大聖人の御内証に脈打っていることが自ずと明かされていくわけですね。
7  池田 死身弘法という具体的な振る舞いを通して、尊極の法と一体の御内証を示されているのです。その「実例」によってしか、人生の究極の意味としての「本尊」、つまり「永遠の法」と一体の「永遠の仏」という尊極の生命は示せない。そこに「人本尊開顕」の書である「開目抄」を著された深い意味があると拝したい。
 斎藤 大難を忍び、尊極の生命を成就されていった御振る舞いを貫く核心が「大願」あるいは「誓願」ですね。
 池田 そうです。末法の民衆をどこまでも救っていかれる「慈悲」の心でもあります。大聖人の誓願については、もうすでに、この連載で何回となく述べてきたとおりです。
 さて、次に「法本尊開顕」の書である「観心本尊抄」ですが、今度は、御内証を御本尊として顕されることについて徹底的に示されている。
 斎藤 大聖人の内なる御本尊を、皆が拝せる御本尊として顕すことですね。
 池田 そう。なぜ顕す必要があるのかを拝察するならば、一つは、佐渡に流されていつ帰ることができるかわからないし、また、佐渡ではお命が狙われている。当時の弟子たちのためにも、末法における正しい法華経信仰の規範を示す必要があられたと拝したい。
 また、もう一つは、より重要なことですが、御入滅後の令法久住・広宣流布のために、大聖人が凡夫として成就された仏界涌現の道を正しく残す必要があった。
 ゆえに、「観心本尊抄」では、南無妙法蓮華経こそが法華経の肝要であり、南無妙法蓮華経を受持していくことが、大聖人と同じく凡夫の身で仏界を顕していくための根幹であることを示されていくのです。いわゆる受持即観心の法門です。
 「観心」とは己心に十界の生命を見ることです。特に、現じがたい仏界の生命を己心に涌現することです。そのために本尊とすべきは妙法蓮華経の五字であると、「法」を明示されているのです。
 斎藤 「開目抄」では、「法華経の行者」としての全人格的な御振る舞いを通して、妙法と一体の大聖人の御内証が指し示されます。これに対して、「観心本尊抄」では、大聖人の御内証に明らかになった本尊の核心が妙法蓮華経の五字であることを示されているわけです。
 池田 それが「本尊抄」の前半、いわゆる受持即観心を明かされているところです。後半は、大聖人が本尊を顕すことができる資格を論じられている。
 森中 はい。大聖人が、法華経で釈尊から妙法蓮華経の五字を付嘱された地涌の菩薩の再誕であることが示されています。ただし、まだ、地涌の菩薩の棟梁・上行菩薩の再誕であることは明示されていませんが、その意を含んでいることは明らかであると思います。
 池田 いずれにせよ、「開目抄」「観心本尊抄」の両方が、ある意味では補いあうことによって、末法の御本尊御図顕の意義が鮮明にされている。
 両書によって、日蓮大聖人の仏としての化導の意義がはっきりします。
 斎藤 「未曾有の大曼荼羅」ともいわれますが、いかに日蓮大聖人が用意周到に進めていかれたかが浮き彫りになります。
 池田 一言で言えば、日蓮大聖人が、久遠元初自受用身如来を証得されていくまでの戦いの御姿が示されているのが「開目抄」です。そして、久遠元初自受用身如来の御境地にある末法の御本仏として、全人類の救済のために御本尊を御図顕していくことが示されているのが「観心本尊抄」です。
 森中 山に譬えれば、立宗から発迹顕本までは頂上までの上り道です。それを示したのが「開目抄」ですね。
 そして、その悟りの御内証、人本尊としての御本仏の生命を、そのまま一幅の曼荼羅に認めて、ふもとの全民衆の頸にかけさせようと、救済の大道を踏み出されたことを明示されたのが「観心本尊抄」です。
8  成仏の大道の確立と広宣流布の呼びかけ
 森中 「開目抄」の御執筆は文永9年(1272年)2月、「観心本尊抄」の御執筆は文永10年(1273年)4月です。
 そして、この両書で大道を確立された後、大聖人は、連続して、翌5月に「如説修行抄」「諸法実相抄」、閏5月に「顕仏未来記」を著されます。
 そのうち「如説修行抄」と「顕仏未来記」は、いずれも全門下に送られた重書です。
 池田 まだ、御自身も流罪地の佐渡におられる。鎌倉の門下たちも法難の余燼のくすぶるなかです。世間から見れば流人とその残党です。
 ところが大聖人は、「如説修行抄」で、弟子門下に、大難を覚悟する強き信心を促すとともに、「権実二教のいくさ」はまだ半ばであり、広宣流布を成就して理想社会を実現していくことを呼びかけられている。
 「広宣流布を目指す強き信心」を喚起されているのです。
 「顕仏未来記」では、さらに強い御確信と大きな構想を示されている。すなわち、大聖人の仏法が太陽の仏法として、いよいよ世界に広まっていくとの、いわゆる「仏法西還」がはじめて明かされている。
 両書とも、「広宣流布」を進めていくことを、力強く弟子門下に呼び掛けておられる。
 また、「諸法実相抄」は、佐渡の弟子・最蓮房に送られた書ですが、明確に、釈尊は迹仏であることを示し、いよいよ南無妙法蓮華経の大法を流布していこうと「日蓮が一門」の地涌の使命を高らかにうたわれています。
 斎藤 「観心本尊抄」を認められ、人類救済の大法の甚深の意義を確立された。広宣流布の大誓願を「法」のうえでは厳然と達成しつつある充足感があられたと拝します。
 そして、いよいよこの大法で全民衆の幸福を実現しようと、全門下に驀進を呼び掛けておられるわけですね。
 池田 まさに、大聖人が顕される御本尊が、末法の万人を救っていける普遍的な大法であるとの御確信を深く拝することができます。
9  凡夫に内在する御本尊
 池田 大法への大確信のもと、5月の青空のような透き通った御境涯で、広宣流布の大闘争を呼び掛けられる大聖人の御心が、この一連の御書に拝することができます。
 また、この三つの御書に共通する重要な要素がもう一つあるように思う。
 それは、広宣流布すべき大法を顕す教主が「凡夫」であると強調されていることです。
 「如説修行抄」では、末法を救済する師匠とは「凡師」、弟子も「三毒強盛の悪人」であることを強調され、ゆえに、末法は釈尊の時代よりも難が激しく、三類の強敵が競うのも当然であると仰せです。
 「顕仏未来記」でもまた、不軽菩薩と比較される形で、末法の救済は釈尊のような仏ではなく、「名字の凡夫」が弘通するゆえに大難が起こることを「六難九易」を通して確認されています。
 そして、「諸法実相抄」では、「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし」と仰せられ、真実の仏は凡夫であることを示されています。
 末法では、「色相荘厳の仏」は、真の教主になり得ないからです。どこまでも凡夫の身でありながら、その内証は仏である。仏の心を持った凡夫の姿でなければ、三毒強盛の凡夫の世界の広宣流布はできない。凡夫の身のままで仏の内証を顕す仏が、末法の教主です。ゆえに、本尊が色相荘厳仏を造形したものであっては、教主と本尊との間に矛盾が生じます。
 また、木像・絵像では、たとえそれが、どんなに芸術的に優れたものであっても、心の一分しか表現できません。心を完全には表現できません。まして、法と一体の仏界の生命を顕すことは不可能です。ゆえに、御本尊が文字で認められていることについては、甚深の意義があると拝せられる。このことは、後にまた考察することにしよう。
 大事なことは、「永遠の法」と一体の「永遠の仏」の生命は、身口意の三業にわたる全人格的な行動の中で現れるということです。
 日蓮大聖人御自身、法を説き、大難を超えながら、「永遠の法」と一体の久遠元初自受用身の御生命を顕されていかれた。つまり、久遠元初自受用身の御生命は、身口意の行動のなかで成就されたのである。その御生命を認められたのが御本尊であられる。
 大聖人は「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」と仰せです。したがって、御本尊を拝する衆生のほうも、身口意にわたって真剣に祈ることが大切になります。それでなければ、大聖人の御生命の御本尊と共鳴しません。
 森中 特別な聖職者に祈ってもらうというような日顕宗ようなあり方は見当はずれですね。
10  池田 「心こそ大切」です。心とは「信」です。先ほどの御文にも「信じさせ給へ」と仰せです。
 入信まもないころ、戸田先生は私に「この御書だけは命に刻んでおきなさい」と言われて、御義口伝の「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」の一節を教えてくださった。億劫にわたるべき辛労を我が一念に尽くして、広宣流布のために戦っていくならば、偉大なる仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくる。無作の三身、すなわち本有の智慧と勇気と慈悲が、わが五体に満々とみなぎってくるのです。
 その無限の生命力を教えるために、大聖人は御本尊を顕してくださったのです。私たちは、御本尊を明鏡として、この生命の力を、自分において、友において、そして万人において信じていくべきです。「自受用身の生命」は、一切衆生の誰人の胸中にも生命の可能性として備わっていると信じるのが「御本尊を信ずる」ということです。
 斎藤 日蓮大聖人が、御本尊の意義を記された御書では、必ずといっていいほど、その御本尊と同じ生命が私たちの胸中にあることを教えられています。
 森中 有名なのは、「日女御前御返事」の一節です。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり
 〈通解〉――この御本尊は、まったくよそに求めてはならない。ただ、我々衆生が、法華経(御本尊)を持って、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのである。これを「九識心王真如の都」というのである。
 また、「阿仏房御書」も同じ趣旨となります。
 「然れば阿仏房あぶつぼうさながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり、聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり
 〈通解〉――そうであるから、阿仏房はそのまま宝塔であり、宝塔はそのまま阿仏房なのである。これより外の考えは無益である。聞・信・戒・定・進・捨・慚という七宝で飾った宝塔である。多宝如来の宝塔を供養しているかと思うと、そうではない。我が身を供養しているのである。我が身はまた三身即一身の本より覚っていた如来である。このように信じて南無妙法蓮華経と唱えなさい。そうすれば、ここはそのまま宝塔が住する所である。
 斎藤 単に仏像を置いて拝むような信仰だったら、我が身三身如来とは絶対に感じられませんね。
 三世十方の諸仏が仏になった根源の法が南無妙法蓮華経であり、日蓮大聖人がその南無妙法蓮華経如来であられる。そして、その南無妙法蓮華経如来の御生命を一幅の曼荼羅の中に御図顕された。私たちは、南無妙法蓮華経の御本尊を拝して、胸中の南無妙法蓮華経を涌現させる。
 順番に語りましたが、要するに、我が身がそのまま妙法の当体であると自覚するための御本尊という意義が鮮明になります。
 池田 それが「観心の本尊」です。
 全民衆を救済するためには、どうしても、人間自身の胸中にある本尊を涌現させていく以外にない。
 全人類が平等に胸中の本尊を涌現することができ、万人にその可能性が与えられる。
 「観心の本尊」は、偉大なる本尊革命であり、人間の可能性を最大に尊重し、現実に変革を可能にする「人間のための宗教」の精髄です。
 森中 日蓮大聖人は、どんな悪世でも力強く生きていける「永遠の法」を体得し、それが一個の凡夫に顕現されることを証明されました。
 その究極の御姿が竜の口の法難ですね。
 池田 竜の口の頸の座で、人間とはかくも偉大な存在であると明かされた日蓮大聖人だからこそ、人間を最高に人間たらしめる根源の法を万人のために御図顕していかれたのです。
 一切衆生救済の誓願の結晶であり、万人の成仏のための御本尊――それが日蓮大聖人の「観心の本尊」にほかなりません。

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