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日蓮大聖人・池田大作

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難即成仏と発迹顕本――苦難が人間本来の…  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
1  刀の難・小松原法難
 斎藤 前節では、日蓮大聖人の四度の大難のうち、「立正安国論」の提出に伴って起きた松葉ケ谷の法難と伊豆流罪について語っていただきました。
 これらの法難では、法華経勧持品に説かれる三類の強敵のうち、俗衆増上慢と道門増上慢が登場しました。道門増上慢は念仏者たち、俗衆増上慢は念仏に帰依する北条重時・長時親子をはじめとする在家の者たちです。
 また、伊豆流罪に際しては、鎌倉の念仏者の首領であり、大聖人に論争を挑んで大敗した道教(道阿弥陀仏)が僭聖増上慢に似た行動を取ります。
 池田 本格的な僭聖増上慢は、言うまでもなく、文永8年(1271年)の竜の口法難と佐渡流罪において現れます。この法難においてこそ、本格的な僭聖増上慢が登場し、三類の強敵が結託して、恐るべき大弾圧を繰り広げるのです。
 大聖人は、仏法を曲げ、民衆を苦しめ、社会を誤った方向へ導く魔性と常に戦っておらた。いかなる魔性も恐れずに戦ってゆくのが仏の心です。
 その師子王の心で、文永8年の大弾圧も超えられていった。
 斎藤 その竜の口法難に入る前に、大聖人がはじめて「刀の難」を受けられた小松原法難について考察していただければと思います。お命にも及びかねない、この難を乗り越えられたのも、やはり、魔性と戦う強きお心ゆえであると思います。
 森中 伊豆流罪から戻られて間もない文永元年(1264年)の秋、大聖人は、病気中の御生母を見舞うため、また御生父の墓参のため、久し振りに故郷の安房に帰郷されました。
 文永元年8月、安房・上総で疫病が流行します。御生母は、この疫病にかかられたのかもしれません。
 池田 御生母は瀕死の重態であったようだが、大聖人の懸命の祈りで、蘇生し、寿命を4年延ばされたのだね。
 森中 大聖人は、9月22日、安房国長狭郡の西条花房の僧坊で「当世念仏者無間地獄事」を書いて浄円房に与えられています。このことから考えると、当時、しばらく花房に滞在され、若干名の弟子たちとともに故郷・安房の弘教に当たられたのかもしれません。
 池田 地頭・東条景信は、訴訟に負け、さらに後ろ盾の北条重時を亡くしたとはいえ、まだまだ勢力をもっていた。一触即発の緊迫した状況の中で、大聖人は弘教を続けられたのです。常に最前線に立ち、率先垂範で行動される御本仏であられた。
 斎藤 そして11月11日、景信はついに行動に出ます。後に大聖人は「結句は合戦起りて候」と回想されています。
 その日、大聖人は、西条花房から、天津に住んでいた工藤吉隆邸へ向かわれます。
 その途中、東条の松原という大路で、東条景信が率いる武装した念仏者が襲撃してきたのです。
 森中 その模様について、難の翌月に認められた「南条兵衛七郎殿御書」に次のように記されています。
 「十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉の時・数百人の念仏等にちかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・ものの要にふものは・わづかに三四人なり、あめごとし・たち太刀いなづまのごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のにて候、自身もられ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん・ちもらされて・いままできてはべり
 〈通解〉――11月11日、安房国の東条の松原という大路で、申酉の時(夕方5時頃)、数百人の念仏者ら待ち伏せされていて、日蓮は唯一人、十人ばかり共にいたが、役に立つ者はわずか3、4人であった。射かけてくる矢は雨のようであった。打ち合う太刀は稲妻のようであった。弟子一人がその場で討ち取られ、二人は大怪我を負った。
 私自身も斬られ、また打たれ、もはやこれまでというありさまであったが、どうしたことであろうか、討ちもらされて、今まで生きているのである。
2  斎藤 時刻は申酉の時といいますから、夕方5時頃。この日は、現在の暦でいえば12月1日に当たります。もうすっかり暗くなっていたでしょう。
 わずか10名そこそこの大聖人御一行は、おそらくは松明の明かりを頼りに道を急がれていたのではないでしょうか。
 池田 大聖人は、大胆にして細心であられる。十分、用心はされていたことでしょう。夕闇の中の出発です。また護衛となる人が混じっていた。情勢も緊迫はしていたものの、小康状態にあった時期です。
 斎藤 当時、僧を殺す罰(ばち)は恐れられていました。宿敵とはいえ、僧の命を狙うというのはよほどのことです。それを踏み越えさせたのは、大聖人を「念仏の敵」と見なす強烈な怨念だったのかもしれません。
 森中 急ぐ大聖人御一行の前に、大勢の暴徒が現れ、取り囲みます。大聖人は数百人と認識されています。大聖人御一行に、矢を雨のように降らせます。さらに稲妻のように刀をきらめかせて切りかかってきたのです。御一行のうち、応戦できるのは、わずか三、四人。弟子一人がその場で討ち死にし、二人が重傷を負います。
 伝承によれば、討ち死にしたのは鏡忍房です。重傷を負ったのは、左近尉すなわち工藤吉隆と、大聖人のもとで雑用をしていた左藤次郎です。工藤吉隆は、法難後ほどなく亡くなったと伝えられています。
 池田 この時、大聖人御自身も大怪我をされた。先ほどの御文に「自身もられ打たれ結句にて候いし程に」とあるが、具体的には「聖人御難事」に「頭にきずをかほり左の手を打ちをらる」と仰せです。
 森中 額の傷は、癒えた後も四寸(約13㌢)の跡が残る怪我だったといいます。。
 池田 「今までもきて候はふかしぎ不可思議なり」と御自ら認められているように、まさに危機一髪、九死に一生を得られた。
 まさに法華経に説かれる「刀杖」の難を身で読まれたのです。
 森中 それにしても、大聖人は、どうして、危険を冒して、東条の中心地をいったり来たりしていらっしゃるのか。これは謎です。
 ある伝承では、小松原ではなく、東条の宿所の前を通り過ぎた時に襲われたという。敵陣の真ん前を堂々と通り抜けようとされたというのです。
 たとえば、天津の工藤邸になぜずっと滞在されるという選択をされなかったのか?
 斎藤 一つには、御生母の病状との関係で、往還する必要が生じたからであるとも考えられます。一度、訪ねて祈られて、よくなった。ところが、また悪化した知らせがあって、赴いたのではないか。
 森中 あるいは、一度少人数でこっそり行って、比較的安全な裏道などを確保したうえで、攻めに転じて、弟子を引き連れて弘教を推進しようとされたのかもしれません。
 まるで、景信を挑発しているようですが、慎重で用意周到な反面、難を呼び起こして正邪を決する大胆さは、大聖人らしいのではないでしょうか。
 斎藤 いや、景信は、見境のない凶暴な相手です。大聖人もやはり慎重になられていたと思います。安易にはいえません。
3  池田 この点については研究課題としておこう。伝承が間違っている可能性もないわけではありませんから。
 それよりも、この大変な襲撃の中で、辛くも大聖人の御命が助かった。それはどうして可能だったのか。おそらく、大混戦となって、その隙に夜陰に紛れ、山道を通って避難されたのではないだろうか。
 森中 これを考えるうえで、大事なのが、法難が起きた場所です。「東条松原と申す大路」とは一体、どこなのか。それによって答が違ってきます。
 斎藤 まず、現在、法難跡といわれているところは、現在の鏡忍寺がある小松原と呼ばれる一帯です。東条の中心や景信の館跡といわれるものよりも、ずっと離れた、東条の地域の西のはずれです。花房からは待崎川をわたってすぐのところです。この川が、西条と東条の境界と思われます。領地に入ってすぐのところで待ち構えていた景信一味が襲ったというのは分かりやすいですね。
 池田 大聖人が逃げられる際は、襲撃をかいくぐって川を渡りきり、西条の領域に入り、安全を確保されたのかも知れません。
 森中 一方、別の伝承では、館を越えた後で襲撃されたとされています。ずっと東になり、どちらかというと天津に近くなります。東条の地域の東のはずれです。
 池田 御書には「東条松原と申す大路」と仰せで、小松原とはいわれていない。小松原の遺跡は寺を建ててからできた伝承による可能性もある。
 森中 その場合、「東条松原と申す大路」とは、松林が連なる当時の街道ではなかったでしょうか。もしかすると、今の天津小湊田原線は、花房から東条を通過し天津へ向かうまっすぐな道なので、案外、この道がそうかも知れません。
 そうしますと、景信らが待ち伏せするには、一行が絶対通過する地点、すなわち山と海が迫る東のはずれです。それで、大聖人が逃げる時もすぐに山中に入って遁れられたという考えも可能ですね。
 池田 ともあれ、大聖人が難を切りぬけることができた理由としては、襲った集団の質の問題が考えられます。
 「妙法比丘尼御返事」には激しい戦闘があったゆえに「合戦」と仰せですが、襲ってきた集団は、確かに武器をもってはいたものの、全員が鍛えられた武士の軍勢というわけではなく、実態は、地元の念仏者を中心とする無頼の徒党であったかもしれない。
 大聖人は、刀で額に傷を受けるとともに、棒などで打たれて左の腕を骨折されています。棒だけを持っていた者もいたのではないか。
 斎藤 未訓練の者が多い軍勢であれば、大聖人側も三、四人の戦闘経験がある者だけで、しばらくは持ちこたえることもできますね。そこへ工藤吉隆の手勢が駆けつけてきた。場所が東条の東側であれば工藤邸から2㌔㍍くらい、小松原でも4㌔㍍ぐらいです。馬を飛ばせばそれほどかかりません。こうして、乱闘にはなったものの、かろうじて助かることができたと思われます。
 森中 伝承によれば、工藤吉隆の手勢は50騎といいます。訓練された兵士の援軍に驚いて逃げた者が多かったのではないでしょうか。
 その混乱の中で、地元でおそらく土地勘もあられた大聖人は、一行とともに避難できたのでしょう。
 あるいは、工藤吉隆に大聖人の危機を知らせたのは神僧と伝えられます。おそらく清澄寺ともかかわりのある修験者でしょう。その仲間がうまく山道を手引きしたのかもしれません。
4  池田 さらには、景信たちの目論見の問題もあったのではないだろうか。大聖人に傷を負わせたことで当初の目的を達したと妥協したのかもしれない。
 いずれにせよ、「日本第一の法華経の行者」との大聖人の御確信が、諸天を動かし、危難を脱されたのでしょう。「心の強きによりて神の守り則ち強し」と仰せのとおりです。
 斎藤 大聖人は、重傷を負う中で、弟子たちとともに再び花房の僧坊に戻って、治療に当たられました。
 法難の3日後、旧師の道善房が訪れます。この時の確信あふれる大聖人の話も、大聖人の御心の強さを物語っていると思います。
 森中 道善房は、大聖人が重傷を負ったことを聞いて心配して、景信の目を気にしながらも、こっそり清澄山から山道を降りて見舞いに来たのでしょう。
 おそらく道善房は大聖人が亡くなるのではないかと思っていたことでしょう。
 しかし、思いのほか元気でほっとしたのか、今度は道善房自身の来世を気に懸け、"念仏を信仰して五体の阿弥陀像を作った自分は無間地獄に堕ちるのか"と大聖人に問い掛けています。
 大聖人は、同じく清澄寺にいた、道善房の兄・道義房義尚が臨終に苦悩したとの話を踏まえられ、怪我をおして、毅然と"五度地獄に堕ちる"と破折されます。
 道善房はがっかりした様子であるものの、それを期に信仰を改め、法華経を信じようとし釈迦仏を造立したといいます。
 池田 道善房に対する報恩のためにも、法華折伏・破権門理の精神で、何があろうとも仏法の正義を語り続けられたのです。
 森中 その後ほどなく、大聖人は下総の富木常忍の元に身を寄せられたようです。
 斎藤 また、この時の迫害者たちには厳然とした罰が現れています。大聖人を迫害した景信、それに加担して道善房を脅していた円智房・実成房らは、この難の後、ほどなく死んでいます。
 池田 大聖人は、翌々文永3年(1266年)正月6日には清澄寺に戻られており、「法華経題目抄」を著されている。
 これは、法華経の題目を唱えるだけで成仏できるのかと尋ねてきた女性に対する長文の御返事です。
 斎藤 お尋ねした女性が誰かははっきりしませんが、内容から、従前に念仏を信仰していた人のようです。御生母、光日尼、伯母などの伝承がありますが、もしかすると、領家の尼かもしれません。
 池田 故郷に長年巣食ってきた念仏信仰を打ち払い、題目の声が響く故郷を築こうとの思いが込められた御書です。念仏勢力に打ち勝った勝利宣言の御書といえるのではないでしょうか。
 すべては、万人の成仏の道、幸福の道を開くためです。その大慈悲と勇猛果敢な行動に感謝し、私たちも広宣流布の闘争で勝ち続けてまいりたい。
5  三類の強敵の結託
 斎藤 さて、文永8年の大弾圧、竜の口の法難の考察に入りたいと思います。その大きなきっかけは、何といっても文永5年の蒙古の使者の来日です。しかし、それ以前に迫害者である三類の強敵が形成されていくうえで、見逃せない点があります。
 それは伊豆流罪の時期から数年間における、政治・社会の大きな変化です。
 森中 政治面では、集権を図る北条時頼・時宗親子の北条本家と、名越などの分家や足利など有力御家人との対立が深刻化してきます。
 池田 それとともに、この時期に、鎌倉の宗教界にも大変動があり、僭聖増上慢の極楽寺良観が登場する下地ができあがったのだね。
 斎藤 はい。大聖人が伊豆流罪中の弘長2年(1262年)2月、良観の師である奈良・西大寺の叡尊が、時頼・実時の度重なる招聘を受けて、鎌倉を訪れます。2月27日に鎌倉に到着し、8月15日に西大寺に帰ります。
 この約6ヶ月の間、戒律復興を唱えた叡尊・良観一派は、活発に授戒活動を展開します。
 森中 連日、大乗戒を説く梵網経の解説をして身分の上下を問わず授戒し、日々、数百人、時には千人、数千人に及んだといいます。
 池田 この叡尊の関東下向によって、幕府中核と叡尊・良観の西大寺流真言律宗との間に、密接な関係ができあがったと言えるね。
 森中 はい。到着直後の2月晦日に、北条実時の一族、また、時宗の母が説法を聞きに行ったと記されています。時宗の母は、この後長く良観の信奉者となり、影響力を発揮して良観の活動を支えています。
 また、最高権力者の北条時頼自身も、この滞在中に叡尊と幾度か面会しています。
 斎藤 注目すべきは、この際、他の諸宗の僧も、叡尊から授戒されていることです。
 禅宗の僧が供物を届け、また禅宗の拠点である建長寺の僧も授戒を受けています。
 また、念仏宗も同様です。念仏は本来、称名念仏の専修で、無戒のはずです。ところが、専修念仏を捨てて、戒を受ける者が現れてきます。さらには、念仏者の主領である新善光寺別当の道教もこの時、菩薩戒を受けています。
 池田 叡尊が師となり、諸宗の僧が弟子となったということと考えてよいでしょう。叡尊の関東下向を機に、真言律宗を頂点として鎌倉の諸宗が再編制されたと言える。
 森中 道門増上慢、そして僭聖増上慢の魔性を現していく勢力が結託したと言えますね。
 池田 さらにまた、幕府の中核の人々にとって、叡尊・良観は授戒の師となった。叡尊・良観らは、「国師」ともいえる立場になったのです。
 俗衆増上慢となる国主の北条氏一族らの支援のもと、道門増上慢の念仏者が、僭聖増上慢の良観らと結託していったのです。三類の強敵が構造的に結合していったのが、この時期です。
 この総体が、文永8年(1271年)には大聖人の教団に襲いかかってくるのです。
 斎藤 弘長2年(1262年)の西大寺・叡尊の招請は、西大寺律宗が禅宗とともに鎌倉幕府政治の補完的役割を果たしていく起点となった、との指摘もあります(川添昭二『人物叢書北条時宗』吉川弘文館)。
 森中 また、鎌倉の大公共事業を推進・管理する主体が、この頃、念仏者から真言律宗へ移ったとし、念仏と禅が律宗にすり寄っていったと指摘する学者もいます(馬淵和雄『鎌倉大仏の中世史』新人物往来社)。
 真言律宗の授戒は単に宗教上のものだけではなく、幕府の治安・財政などの体制作りにも深く関わったものだったようです。
 良観は、この直後の3月に、重時の息子の業時の要請で、多宝寺の住職となり、鎌倉での地歩を一段と固めます。
 池田 真言律宗を中心とする、いわば"大政翼賛体制"が、叡尊の関東下向で確立したと言ってよいでしょう。
 大聖人の伊豆流罪の間に、恐ろしい体制を幕府は作り上げていったわけです。良観は、その中心者に据えられたといえるのではないだろうか。
 この事態を大聖人は厳しく認識されていた。そのため、弘長から文永にかけてのころから、念仏と禅に加えて、真言律宗への破折が加わってくるのです。大聖人は、悪の結託の構図を見据え、混乱と不幸への警鐘を一段と打ち鳴らされていったのです。良観の欺瞞性については、この頃に著された「聖愚問答抄」にも、すでに明確に破折されているね。
6  森中 こう仰せです。
 「上古の持律の聖者の振舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り行雲廻雪には死屍の想を作す而るに今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん、次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり汝見ざるや否や
 〈通解〉――昔の持律の聖者の振る舞いは、「殺」と言い、「収」と言うことすらも嫌って、清浄な語に言い換え、美人を見ては死体を思った。ところが、今の律僧の振る舞いを見ると、絹布をまとい、財宝を蓄え、利息を取って金を貸すのを仕事としている。教えと行いが不一致であるから、誰が律僧を信受できようか。また、道を作り、橋を渡すことについて言えば、これらはかえって人々の嘆きになっている。飯嶋の津で六浦の関米を取るので、人々の嘆きは多い。諸国の七道の関所もまさに旅人の迷惑そのものである。これらは眼前のことである。あなたの目には入らないのか。
 斎藤 大聖人は、良観らの律僧の欺瞞性と反社会性を抉っておられます。叡尊や良観は、"非人救済"という慈善事業をしたと言われていますが、それも欺瞞的だったようです。彼らは、供養を募るための儀式を行なう時には非人といわれた人々を"文殊菩薩の化身"と祀りあげて本尊として扱います。しかし、一方、日常では宿業深い罪人として扱い、労役に駆使したようです。
 森中 おぞましいですね。このように扱われた側の心情について、研究者はこう述べています。
 「儀式が終わって現実の非人に残されるのは、乞食をするために与えられた施与の品物と、儀式を通じて付与された前世の因縁による宿業観という虚偽意識だけであろう」(細川涼一『中世の身分制と非人』日本エディタースクール出版部刊)
 池田 大聖人は、良観らの戒律復興運動を「時を弁へず機をしらずして小乗戒を持たば大乗の障となる」「小律の者どもは大乗戒を小乗戒に盗み入れ(中略)大乗の人をあざむく」(御書349ページ)と破折されている。
 時や機根に合わない戒律は、必ず欺瞞性に陥ります。煩瑣な規則の受持は外面を繕い飾るだけであって、かえって内面に潜む邪悪を覆い隠し助長する危険があるからです。
 しかも、戒を受けて出家者の資格を得れば、それだけで尊敬され、供養を受ける対象となる。地位や見かけの立派さは、往々にして、人々を惑わします。
 いずれにしても、時代社会の現実を無視し、人間性の本質を無視した戒律主義は、必然的に、戒律を持つ聖者と戒律を持てない凡夫との差別主義に陥ります。
 斎藤 確かに叡尊らは、人々を劣悪最低な機根の衆生と下しておいて、自身をその人々に"仏縁をつけるために授戒を行う慈悲深い聖人"へと高めていきました。
 池田 しかも、大聖人が「聖愚問答抄」で喝破されたように、聖者といっても見かけだけの聖者であって、内面はどろどろとした欲望で充満しているのです。
 森中 彼らは権力の庇護のもと、"低劣な機根のお前たちでも律宗の授戒によって救われる"と民衆を誑かし、救いを求める民衆が進んで喜捨しうるシステムと動機づけを与え、庶民から供養を巻き上げる仕組みを確立していきました。
 池田 叡尊・良観らは、罪深き庶民の救済者として自らを位置付けることに成功した。御書には、「世尊」「尊者」と仰がれた当時の良観に対する世評が記されています。大聖人は、こうした良観ら律宗の僧たちの欺瞞性を「律国賊」と表現して、厳しく呵責されたのです。これは、良観が、持戒・持律の者を「国宝」であると僭称していたからです。
7  蒙古の国書の到来で予言的中
 森中 文永8年の大弾圧の遠因は、蒙古からの国書の到来にあります。
 文永4年9月、蒙古の国書を携えて、使者・藩阜が来日しますが、受け取らず追い返しました。ところが、4ヵ月後の文永5年1月、再度、蒙古の国書がやってきて、今度は受け取ります。2月、蒙古の国書が朝廷に着き、検討され、さらに幕府に転送されました。
 末尾に「兵を用うるに至る。それ孰んぞ好むところならん。王、それ之を図れ」との文がありました。
 池田 まさに他国侵逼難の始まりだね。大聖人が立正安国論で明確に予言されていた二難が、いよいよ現実になった。
 しかし、真摯な警告を無視していた幕府も、また朝廷も為す術もなく、無視して返事をしないと決めます。
 とりあえず、西国の守護・御家人に蒙古襲来に対する備えを促しますが、具体的に何をするかは分からないままです。
 ただただ諸宗に命じて神仏に祈祷をさせるばかりであった。しかも、当初は、祈祷といっても、どの経を読み、どの呪を唱えるかさえ分からない様相であった。国中が大混乱でした。
 森中 この大混乱の中、同3月、長老の政村が執権を降り、若い北条時宗が第8代執権の座に就きました。
 この頃、幕府では、北条本家による集権政治、いわゆる得宗専制が進みます。危機管理を強化する体制でもありました。
 その中で、得宗家に仕えた平左衛門尉頼綱が徐々に権力の中枢に食い込んできます。
 斎藤 この時にあたり、大聖人は4月に「安国論御勘由来」を認められ、幕府の要人と思われる法鑒房に送られます。
 また8月には宿屋入道に書状を送り、予言的中を指摘し、諸宗の邪義を捨てて正法に帰するよう執権・北条時宗へ奏上するよう依頼しています。
 さらに10月には、時の最高実力者である北条時宗や平左衛門尉、また建長寺道隆や極楽寺良観ら幕府権力と結ぶ宗教家などへ11通の書状を送り、公場対決で正邪を決することを求められました。
 池田 「安国論御勘由来」には、「日蓮復之を対治たいじするの方之を知る叡山を除いて日本国には但一人なり」とのお言葉がある。
 国家の存亡の危機に黙ってはいられない! 何よりも民衆に塗炭の苦しみを味わわせるわけにはいかない! との御心情が拝せられる。
 言うべき時に、言うべきことを正々堂々と述べるのが、正義です。また、それが本当の慈悲です。放っておいては手遅れになってしまう。そうなってからでは取り返しがつかない。だからこそ、大聖人は、矢継ぎ早に幕府にはたらきかけられたのでしょう。
 斎藤 幕府は、予言を的中させた智者である大聖人を用いるどころか、かえって迫害を強めました。
 池田 民衆の幸福ではなく権力維持それ自体が目的の政権だったのです。それゆえ、必然的に立正安国を目指す大聖人と衝突したのです。
 大聖人は、日本の万人が正念を失って狂っているのだと仰せだね。
 森中 実際、幕府は大聖人への警戒心を強め、大聖人と門下に対する迫害を検討したようです。しかし、この時点では幕府内部で議論されただけで、実際の迫害が起きることはありませんでした。
 池田 他国侵逼難の予言が現実になったことから、鎌倉を中心に大聖人に帰依して法華経を信ずる人々が増えていったと推測されます。
 「金吾殿御返事」によれば、大聖人は翌文永6年11月には、流罪・死罪をも覚悟のうえで、再度、諸方に書簡を送られています。その中には、返事を送ってきたものもわずかながらいたようです。
8  僭聖増上慢の暗躍
 池田 この時期、いよいよ第3類の僭聖増上慢が、その醜い本性をあらわにしてくるね。
 森中 はい。そのきっかけは、何といっても、文永8年6月、良観との祈雨対決です。良観が完膚なきまでに負け、怨みを深めます。
 文永4年8月に極楽寺に入った良観は、祈雨を売り物にしていたようです。同6年(1269年)には、江ノ島での祈雨で効験をあらわし、律僧としてのみならず、祈祷僧としても次第に名声を高めていったとされます。
 「下山御消息」にも「彼常に雨を心に任せて下す由披露」と記されており、ある伝記によれば、生涯24回の祈雨に成功したと言われています。
 池田 大聖人は良観が祈雨をするとの情報を得られ、即座に極楽寺へ使いを遣わされた。大聖人はあえて、敵の得意とする分野で、対決されたのです。
 森中 大聖人の申し出に良観は小躍りして喜んだようです。祈雨が売り物の良観としては、しめたと思ったのでしょう。
 斎藤 良観は、7日の内に雨を降らせることを弟子たちに宣言した。その祈祷の仕方は、実に奇妙なものでした。「或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて」とあるように、律・真言・念仏の3宗のうえに法華経まで持ち出した、なりふりかまわぬ祈りでした。
 結局、7日間では全く降らず、もう7日間期限を延期したが、結果は明らかな良観の敗北だった。
 池田 祈雨に敗れた良観は、自らの敗北を認めるどころか、浄光明寺の念阿良忠と結託し、その弟子である行敏を訴人(原告)として大聖人を訴える訴状を問注所に提出させたのだね。
 森中 その訴状では、大聖人門下が「年来の本尊弥陀・観音等の像を火に入れ水に流す」等という言いがかりをつけています。
 池田 それは、前回見た「沙石集」にあるように、当時の念仏者がやっていたことです。自分たちがやってきたようなことを大聖人門下もやっていると虚偽の訴えをしたのです。
 だから、大聖人は、「事実というなら、証人・証拠を出してみよ」と強く迫られ、「良観ら自身でやった罪をかぶせるのか」と反論されているね。
 斎藤 悪人のやり口はいつも同じです。火のないところに煙を立てる。自分たちのやっているような低劣な所業を正義の人になすりつけて、ウソとデマで攻撃してくる。しかし、いくらウソを並べても、真実は一つです。かえって、ウソは重ねれば重ねるほど、必ず破綻する。
 池田 だから、ウソは徹して攻めることが大事です。そうすれば、本質は臆病な悪人らは、ウソを積み重ねて、ついには自滅していく。大聖人も直ちに「行敏訴状御会通」で反駁されています。追撃の手を決して緩めてはならない。
 森中 行敏は以後の訴陳を提出することもできず、訴えは公的な沙汰(判決)が下されないまま、うやむやのうちに終結してしまいました。
 斎藤 そこで良観は、更に奸智を巡らせて、配下の僧侶らを使い、権力者に通ずるあらゆる伝(つて)を駆使して、讒言を繰り返したようです。
 池田 良観を首謀者とし、道隆・念阿良忠・道阿などの鎌倉仏教界の有力僧が表に立って「対大聖人」包囲網を敷き、執権・時宗の母であり、前連署・重時の娘である尼御前らをそそのかしたのだね。公的にはどうしようもないので、あくまでも私的に働きかけたのです。
 僭聖増上慢は往々して姿を現さない。影から人々を操り、正義の人を迫害しようとする。妙楽が「第三最も甚だし後後の者は転識り難きを以ての故に」(第三の僭聖増上慢の迫害は最も甚だしい。第一よりも第二、第二よりも第三が、より一層、正体を見ぬきにくいからである)と言っている通りだ。
 しかし、どこまでも三類の強敵は見破っていかなければならない。戸田先生は「魔は、ごめんください、お邪魔しますと言って入っては来ない。すーっと入ってくる」と語っておられた。それを防ぎ、魔につけ入らせないのも信心です。「心の固き」によるのです。
 斎藤 良観の策謀の結果、9月10日になって、大聖人は幕府に召喚され、得宗執権家の家司と侍所所司(=次官)で、当時、幕府要人の中でも第一人者であった平左衛門尉の尋問を受けられました。
 平左衛門尉に宛てられた「一昨日御書」には「剰え不快の見参に罷り入る」あります。
 池田 大聖人は平左衛門尉に対して「立正安国論」で述べられた趣旨を堂々と主張し、二難があることを厳しく警告されたのです。
9  竜の口法難当日の大聖人の御振舞
 斎藤 さて、いよいよ竜の口の法難当日の9月12日です。日蓮大聖人の御生涯でも最大の法難となります。
 森中 この法難の意義と背景を確認する意味で、ここまでの内容を簡単におさらいしておきたいと思います。
 まず大前提は、蒙古襲来という未曾有の国難の渦中にあったということです。日本史始まって以来の出来事であり、しかも、日本は幕府といういわば「軍事政権」のもとで、他国の侵略の脅威にさらされ、迎え撃つことになります。軍国主義的色彩を強めていきます。
 諸宗は争って、その体制の中で「異国調伏」を祈っていく。
 池田 そのなかで、他国侵逼難の予言を的中させた大聖人は、真に社会を守り、民衆を守るのは、何よりも思想の力であると訴えられたのです。その大聖人の叫びに、呼応して共感する人たちも広がっていった。
 一方で"翼賛体制"が進み、一方で「思想」を重んじ、善の連帯を求める民衆のうねりが高まる。両者は、必然的に激突せざるをえません。
 言ってみれば、日本の軍国主義の本格的幕開けに激突したのが悪僧らの宗教に支えられていた鎌倉幕府と日蓮大聖人です。そして、日本の軍国主義の最後に激突したのが、戦前の国家神道と、牧口先生・戸田先生でした。この一点でも、日蓮仏法は、平和を求める宗教である点が鮮明になる。
 森中 強権政治の背景には、権力争いに走る政治家と、私利私欲にあけくれる宗教家がいました。
 斎藤 また、鎌倉幕府の内部でも対立が絶えなかった。北条氏直属の家臣である御内人と、将軍に仕える御家人との対立が激しくなります。それぞれの勢力を代表するのが、平左衛門尉頼綱と安達泰盛です。平左衛門尉は、軍事的挙国一致体制を利用して、己の実権をますます強めようとします。
 そして、怒りに荒れ狂っていた極楽寺良観たちが、讒言を重ね、権力を動かして大聖人一門の弾圧をはかります。
 池田 いよいよ僭聖増上慢がその正体を現していく。
 文永8年(1271年)の法難は、いうならば三類の強敵が出そろったものだった。俗衆も道門も、僭聖増上慢と一体になって、同時に出現したのです。
 仏法の眼から見れば、三類の強敵が結託するという、まさに経文通りの「猶多怨嫉況滅度後」の三類の強敵が出来する。
 なんども拝してきたが、「佐渡御書」の通りです。
 森中 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し」と仰せです。
 池田 絶対的権力を持つ「悪の政治家」と、宗教的権威と卑劣な讒言を使い分ける「邪僧」が結託する。権力と権威の邪悪な連合は、必ず正義の人を迫害する。
 大聖人は、実はその野合の大難が起きた時こそ、仏になるチャンスであると仰せなのです。世間的には恐怖の極致ともいえる三類の強敵の出現に対して、一歩も引かずに「勇気」をもって立ち上がることが、成仏の境涯を開いていく道なのです。
 「難即悟達」「難即成仏」です。大聖人は、竜の口の法難で身をもって、そのことを私たちに教えてくださっている。その意味で、大聖人御自身の振る舞いに注目して竜の口の法難の経過を追ってみよう。
 大聖人がどのように最大の法難を乗り越えていかれたのか。そこに注目すれば、日蓮仏法の人間主義が浮き彫りになるからです。
10  森中 それでは、「種種御振舞御書」を踏まえて、竜の口の法難を時間を追いかけながら見ていきます。
 捕縛の正確な時間ははっきりしませんが、「さるの時」とありますから、午後3時頃から5時頃の間です。
 捕縛のために松葉ケ谷の草庵に向かう平左衛門尉頼綱一行の姿は「常ならず法にすぎてみゆ」とあるように、尋常なありさまでなく、法を超えた異常なものでした。頼綱が大将となり、数百人の兵士に胴丸(鎧の一種)を着せて、烏帽子をかけ、眼をいからし、声を荒げてやってきたとあります。
 斎藤 明らかに、大聖人を謀反人扱いしていますね。
 大聖人御自身、「了行が謀反ををこし大夫の律師が世をみださんと・せしを・めしとられしにもこえたり」と仰せられています。
 〈通解〉――了行が謀反を起こし、大夫の律師が世を乱そうとした時に、幕府に逮捕されたありさまにも過ぎたものであった。
 池田 大聖人は身に寸鉄を帯びず、権力の後ろ盾など一つもない一人の宗教者です。捕縛だけが目的なら二十人もいれば十分でしょう。大聖人を深く敵視するゆえの仰々しさです。しかし、大聖人は、一つも慌てる御様子はなかった。
 「日蓮これを見てをもうやう日ごろ月ごろ・をもひまうけたりつる事はこれなり、さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ、くさかうべをはなたれば沙に金をかへ石に珠をあきな貿へるがごとし
 〈通解〉――日蓮は、これを見て思った。「つね日ごろ、月ごろに思い備えていたことは、これ(=「御勘気」)である。ああ幸いなるかな、法華経のために命を捨てようとは。臭い頭が斬り離されるならば、砂と金を交換し、石で珠を買うようなものである。
 これが大聖人の崇高な御心境です。この大難の日を待ち望んでいた。
 捕縛の姿・形にも権力の威光をかけ、敵視と怨念の感情をむきだして向かって来る平左衛門尉。一方、大聖人は静かに向かわれ、「さいわひなるかな」と歓喜が満ち満ちておられる。
 あるいは、平左衛門尉と対峙した大聖人は、莞爾と笑まれていたかもしれません。
 「一身一念法界に遍し」です。この瞬間に、すでに大聖人の御一念は、法華経身読の仏界の喜びで大宇宙を包んでおられた。一方、平左衛門尉は「眼をいからし声をあらうす」と、修羅・畜生の生命に支配されている自分の生命すらも見えない。
 すでに両者の境涯の差はあまりにも明確でした。この瞬間を境に、大聖人はますます悠然と振る舞い、平左衛門尉は、ますます狂ったように瞋恚に衝き動かされていく。
 平左衛門尉の生命が伝播していったのでしょう。役人たちの捕縛の模様も尋常ではなかった。けだものが荒れ狂っているような様子であった。
 森中 まず、家来の一人である少輔房という者が走りより、大聖人が懐中に持っていた法華経を取り出して、大聖人の顔を三度なぐりつけ、さんざんに打ち散らします。
 池田 その法華経とは、第五の巻です。そこには、提婆達多品第十二から従地涌出品第十五までが収められています。そのなかで勧持品第十三には「諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん」とあります。この経文の記された巻き物で、大聖人が打たれたことは、まことに不思議な符合です。
11  斎藤 当時の常識から言えば、経典は神聖で、礼拝の対象にすらなるものです。ところが、幕府の武士たちは経巻を散らし、踏んだり、身にまとったりします。正気のさたではありません。その姿を冷静にご覧になっていた大聖人は、大音声で語ります。
 「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら殿原但今日本国の柱をたをす
 池田 「をもしろや」です。捕縛される側が「愉快愉快」と感じている。幕府の役人は「ものにくるう」ありさま。普通は逆です。この姿自体に、正邪は明々白々です。
 「日本国の柱を倒す」との一声は、役人たちの胸中に刺さったのではないだろうか。
 大聖人は、諄々と諸宗の悪を指摘し、良観のみじめな祈雨の敗北の様子を語られていく。この時、役人たちに動執生疑がすでに起き始めている。
 森中 その後、「日中に鎌倉の小路をわたす事・朝敵のごとし」とあるように、日中に町中を引き回し、謀反人に対するのと同様の処遇で連行していきます。
 そして、何の裁判もなく、いきなり酉の刻(午後六時前後)までには、佐渡流罪の処分が定まったようです。
 斎藤 この時の幕府の処置については、今後の研究が待たれますが、国家に対する犯罪であるならば、職権によって逮捕・判決に踏み切ることが通例であるとの説もあります。
 池田 そうだとすれば、平左衛門尉はすべて計算づくで大聖人を謀反人扱いしていたことが分かる。
 斎藤 権力者は悪知恵が働くものですね。
 森中 佐渡流罪の判決ですから、大聖人の身柄は、佐渡を領地に持つ北条武蔵守宣時の預かり処分となり、宣時の屋敷に留め置かれるようになります。
 しかし、「外には遠流と聞えしかども内には頸を切ると定めぬ」とあるように、流罪の処分は表向きです。平左衛門尉は、内々で大聖人を斬首する意志を固めていたようです。
 子の刻(午前零時頃)、大聖人は馬に乗せられ、武装した兵士に囲まれて竜の口の刑場に連行されていきます。すべては闇の中で事態が進みます。
 斎藤 察しのいい役人だったら、"どうも、これは、尋常な手続きではない"と思い始めたでしょうね。確かに、本当に謀反人ならば、仲間が襲撃してこないうちに身柄を護送して、早く処刑をする――そうしたことはありえます。しかし、それにしては、平左衛門尉の態度と大聖人の振る舞いのコントラストは、動執生疑を起こすには十分だったと思います。
 池田 おそらく、噂に聞く罪人の日蓮房と、目の前の大聖人とが一致しない困惑がめばえ始めたのではないだろうか。
 あまりにも大聖人は堂々とされていた。そして、この連行中にも、さまざまな人間ドラマが起きていきます。まずは、八幡宮への諫暁です。
 大聖人の一行は、鎌倉の中心を貫く若宮小路にさしかかった。鶴岡八幡宮がまっすぐに続く大通りです。大聖人の四方を兵士が取り囲んでいたが、大聖人は「みんな騒ぎなさるな。八幡大菩薩に言っておきたいことがある」(御書912㌻、趣意)と言って、馬から降りて大音声をもって八幡大菩薩を諫めます。
 "日本第一の法華経の行者である日蓮が、このように大難にあっているのに、八幡大菩薩の守護がないのはどういうわけか。法華経への大恩を忘れたのか。釈尊との約束を踏みにじるのか!"――烈々たる叱咤されたのです。
 斎藤 鶴岡八幡宮というのは、鎌倉幕府にとって、幕府の守護神ともいうべき中心的な宗教施設です。鎌倉の町そのものが、この八幡宮を中心に形成され、この若宮小路がまっすぐ市街地の中心軸となっている宗教都市です。そのシンボルの神を大聖人は叱責された。
 池田 当然、大聖人のそうした行動に、役人たちは驚愕し、憎悪する者もいたに違いない。
 しかし、釈尊の名前を挙げ、理路整然と法華経の会座の話をする。大聖人の豊かな音声を聞いていくうちに、兵士たちの心も動いていったことは間違いないでしょう。再び馬に乗り移動していく道すがら、兵士たちは何かを考えるかのように寡黙になったかもしれない。
 森中 やがて一行は由比ヶ浜に出ます。そして御霊社の前にさしかかった時、「しばらく待て。ここに知らせるべき人がいる」(御書912㌻、通解)として、熊王という童子を遣わします。近くの長谷に住む四条金吾を呼んだのです。
 驚いて裸足のまま駆けつけて来た金吾は、大聖人が乗られた馬の口に取り付いて、泣き悲しみます。
 池田 大聖人は金吾や一緒に駆け付けてきた金吾の兄弟たちに対して、「今夜頸を切られに行くのである。この数年の間願ってきたことはこれである」(同㌻、通解)と、諄々と大難の意義を語られる。そして、金吾も腹を切る覚悟でお供をする。
 崇高な師弟の劇です。いかなることがあっても、信念に殉じようとの至高の生き方を貫く師弟の姿は、信条の違いを超えて、見る人の胸を強く打ったに違いない。
 ことここに至って、兵士たちも心が完全に揺さぶられていたでしょう。この罪人は、一体、いかなる人か。この深夜の処刑は本当に正しいのか。自分たちは、何か、取り返しのつかないことをしようとしているのではないだろうか。そう思うようになっても不思議ではありません。
 まさに一幅の名画を見るような師弟の光景が、戦場で命をかけて戦う東国の鎌倉武士の心に衝撃を与えないわけがない。
12  森中 一行は、極楽寺の近くを通り、刑場に向かいます。到着してからの場面は、「種種御振舞御書」を拝読します。
 「此にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門尉申すやう只今なりとな(泣)く、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそく(約束)をば・たがへらるるぞと申せし時、江のしま(島)のかたより月のごとく・ひかりたる物まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ(昧爽)人の面も・みへざりしが物のひかり月よ(夜)のやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめ(興醒)て一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずく(蹲踞)まれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとを(遠)のくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよ(夜)あけば・いかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐる(見苦)しかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじ(返事)もなし」
 〈通解〉――(頸を斬る処刑の場は)ここであろうと思っていたところ案にたがわず、兵士どもが動きまわり(準備で)騒いだので、左衛門尉は「いまが御最期でございます」と泣いた。日蓮が申すには「不覚の殿たちである。これほどの悦びを笑いなさい。どうして約束を違えられるのか」と言ったとき、江の島の方向から、月のように光った物が、鞠のような形をして、辰巳(東南)の方向から戌亥(西北)の方向へ光り渡った。十二日の夜が明ける前の暗がりの中で人の顔も見えなかったのが、このものの光で月夜のようになり、人々の顔もみな見える。太刀取りは目がくらんで倒れ臥してしまい、兵士どもは、ひるみ恐れ、気力を失って一町(約109㍍)ばかり走り逃げ、ある者は馬から下りてかしこまり、また馬の上でうずくまっている者もいる。日蓮は「殿たちよ、どうしてこれほどの大罪人から遠のくのか。近くへ寄ってきなさい、寄ってきなさい」と声高々と呼びかけたが、すぐ近寄ってくる人もない。「さて、夜が明けてしまったならばどうするのか。頸を斬るならいそいで斬りなさい。夜が明けてしまえば見苦しいであろう」と勧めたけれども、何の返事もない。
 斎藤 刀を手にした武士が今にも処刑せんと身構えた時、金吾がこらえきれず嗚咽します。それに対して、大聖人は最後の最後まで、悠揚迫らぬ態度を貫かれました。
 池田 「これほどの悦びをば・わらへかし」です。
 こうした大境涯が、どうして形成されるのか。人間はかくも偉大になれるのか。
 不思議といえば、これ以上の不思議はありません。私は、これが誓願の力だと確信する。深き誓いと正しい理想に生きた時、人間の心は無限大に広がります。
 仏法で説く「久遠の誓い」とは、無明を破り、法性のままに生きる心を確立していくことです。具体的には、自他共の幸福を願う心であり、広宣流布の大願です。
 この本源の誓いに目覚めた人間の心を阻むものは何もありません。身は刎ねられても、心を切り裂くことはだれもできない。これが、慈悲に生き切る人間の力です。ただ一人、地獄のような境遇にさらされても、何も怖いものがない。反対に、このように恐れるものが何もない人間に対しては、まわりが、本当の意味で怖さを感じます。
 日蓮大聖人の大難また大難の御一生は、人間の研ぎ澄まされた魂の力が不滅であることを証明した御生涯であられた、と言えるでしょう。
 "人間は、かくも偉大なり"ということを全生命を通して宣言されている。
 森中 この時の「光り物」の正体については、様々に言われています。先生は、「おひつじ・おうし座」流星群ではないかという研究を紹介されました。(『仏法と宇宙を語る』。本全集第10巻収録)
 池田 この「光り物」について興味は尽きませんが、大事なことは、大聖人の頸が斬られるというまさにその瞬間に、出現したということです。
 大自然そのものの運行は、物理学上で説明できるでしょうし、研究が進めば「光り物」の正体ももっと解明されるでしょう。しかし、その「瞬間」に現れたという事実こそ重大です。
 死という最大の恐怖にも負けなかったということは、大聖人が、無明を打ち破って法性を現す、という仏の心を人間として確立しきったことの証明です。
 また、大聖人は、この「光り物」を諸天善神の働きとしてとらえています。三光天子(日天子・月天子・明星天子)の月天子が「光物(ひかりもの)」として現れたと述懐されています(御書1114㌻)。
 森中 それにしても、居合わせた兵士が、おじ恐れて、ひるみ伏せ、走りしりぞき、うずくまるという状況は尋常ではありません。やはり、大聖人の荘厳な御境涯に宗教的な畏怖を感じていたからではないでしょうか。
 この後、大聖人は、最終的には佐渡流罪になりますが、幕府内では、とくに執権時宗は「此の人はとがなき人」として無実であることを認めていたようです。
 それを受けて、放免の方向もあったようですが、卑劣な連中の策動によって世論が大きく動き、再び佐渡流罪が決定し、大聖人門下にも大弾圧が加えられます。
13  発迹顕本
 斎藤 詳細は別の機会に譲るとして、この竜の口の法難こそ、日蓮大聖人の御一代で「発迹顕本」という最重要の意義があることを確認しておかなければなりません。
 大聖人御自身、翌年二月、佐渡で御認めの「開目抄」で次のように仰せられています。
 「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくれば……」
 〈通解〉――日蓮と名乗った者は、去年の九月十二日深夜、子丑の時に頸をはねられた。これは、魂魄が佐渡の国に至って、明けて二月、雪の中で記し、縁ある弟子に送るのであるから……。
 池田 ここで、実際に頸をはねられたわけではないのに、「頸をはねられた」と仰せられているのは、それ以前のご自身は竜の口の刑場で終わったという表現です。分かりやすく言えば、新しい自分に生まれ変わったということです。
 また、次の「魂魄・佐土の国にいたりて」の「魂魄」とは、その新しいご自身のことです。竜の口法難で顕になった大聖人の御内証を言われたものです。
 そして、この一節こそが大聖人御自身の発迹顕本をあらわす仰せであると拝されます。
 森中 「発迹顕本」とは、仏が垂迹の姿(仮の姿)を開いて本地(本来の境地)を顕すことです。「迹」とは、影、跡の意味です。
 もともとは法華経で説かれる迹門の仏(迹仏)すなわち始成正覚の仏と、本門の仏(本仏)すなわち久遠実成の仏を対比して天台大師が説明した言葉です。天台は、始成正覚の釈尊は迹であり、久遠実成の仏こそ釈尊の本地であるとし「発迹顕本(迹を発いて本を顕す)」と説明しました。
 言わば、天空に浮かぶ月の本体そのものが「本地」で、水面に映った月影が「迹」であるとたとえられています。
 池田 その天台大師の「発迹顕本」の考え方を、日蓮大聖人の仏法でも用いるようになったのです。
 日寛上人は、この「開目抄」の一節を次のように解説しています。
 「この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり」(日寛上人文段集192㌻)
 つまり、日蓮大聖人が竜の口の法難の時に、名字凡夫という迹を開いて、凡夫の身のままで久遠元初自受用報身如来という本地を顕されたことをいいます。
 言い換えれば、凡夫の身のままで、宇宙本源の法である永遠の妙法と一体の「永遠の如来」を顕すということです。
 この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としての御立場に立たれます。すなわち、末法の御本仏として、万人が根本として尊敬し、自身の根源として信じていくべき曼荼羅御本尊を御図顕されていきます。
 また、ここで注意しなければいけないのは、「発迹」の「迹を発(ひら)く」という意味です。「発」は「開く」ことです。
 斎藤 ここが誤解されやすい所ですね。
 「迹を発(ひら)く」からといって、何か別者になるというわけではないということですね。確かに、表面的な姿を見れば、「迹」と「本」では天地雲泥の違いはあります。そこにだけ注目すると、全く別物に見がちです。
 池田 どこまでも凡身の上に、自受用身の生命が顕現していくのです。ここを見誤ると、成仏とは、人間を離れた超越的な存在になることだという誤解が生じる。
 日蓮大聖人も凡夫の身を捨てられたわけではない。しかし、凡夫の身そのものに久遠の仏の生命が赫々と顕れている。
 もう一つ、大事なことを言いたい。それは、この原理は私たちにとっても同じである、ということです。苦難を超えて、信心を貫き、広宣流布に生き抜く人は、発迹顕本して、凡夫の身のままで、胸中に大聖人と同じ仏の生命を涌現することができるのです。
 日寛上人は次のように仰せです。
 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(文段集548㌻)
 「人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり」「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」(同683㌻)
 ありがたい仏法だ。超越的な別な理想人格がゴールだったら、私たちは今世で幸福になることはありえなくなる。
 森中 仏に成れたはいいが、すでにこの現実世界を離れてのことだったり、自分自身が別な人格になってから成仏するのでは、末法の凡夫にとっては何の魅力も感じません。
 池田 末法の全人類にとって成仏の指標を示し、その方途を示されたからこそ、日蓮大聖人は末法の御本仏なのです。
 森中 日蓮大聖人が発迹顕本されて、その御生命を御本尊に御図顕されたおかげで、私たちは御本尊を拝していけるわけですね。御本尊を明鏡として、私たちも発迹顕本していける。そう考えると竜の口の発迹顕本は、きわめて重要な出来事と言えます。
14  池田 私たちの一生成仏の手本を、大聖人が身をもって示してくださったのです。いかなる苦難も超えて、無明を打ち破り、法性を現していく自分を確立することが発迹顕本です。大難を受けるほど、仏界の生命は輝きわたっていく。そういう自分を確立することが、一生成仏の道です。
 真の意味の人間性の錬磨は、難を乗り越える信心の中にあるのです。
 森中 凡夫は、どうしても難を乗り越えるというよりも、難を避けていこうとする生き方が出てしまいます。ぎりぎりの状態になっても、何か余所に方法があるのではないかと考えてしまう(笑い)。
 あっちへ行って、こっちへ行って、それで、もうどうしようもないという状態にたどり着いて、はじめて腹が据わります(笑い)。
 池田 そこに壮年部と婦人部の違いがあるかもしれないね(笑い)。
 最後は御本尊の前に座れるんだから、それもいいが、最後に座るんだったら最初から座ったほうが早い。真一文字に御本尊に直結していく。それが凡夫が仏にやすやすとなる道だし、信心です。
 「夫信心と申すは別にはこれなく候、妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに、法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり」と仰せのとおりです。
 「正直捨方便・不受余経一偈」です。
 凡夫にどうしても生じる、「迷いがちの心」。その迷いの心をすっきりと断ち切れるかどうかです。「正直」にとは、竹を割るように「潔く」という意味です。
 信心が深まってから難に向かうのではありません。難に向かっていくなかに生命が鍛えられ、金剛の信心が築かれていくのです。どんな悩みも、そのまま御本尊に祈っていけばいいのです。題目をあげることで悩みを乗り越えていくことができる。
 微妙な順番の違いかもしれないけれど、行動に現れるかどうかは決定的な違いです。
 それぞれの使命の人生に苦難は必ずあります。しかし、心さえ確かであれば、乗り越えられない困難はありません。打ち勝てない試練はありません。人間にはもともと、はかりしれない力がそなわっています。それが久遠元初自受用身の力だ。だから、戦えば戦うほど、自分自身の力が引き出せる。信心は、その秘宝を引き出す力です。大難があれば、即悟達に通じる。大難が即成仏を決定づける。
 大聖人は、一つ一つの大難を自らが乗り越えられることで、門下にその生き方を教えられたと拝したい。そして、その究極の生き方を、四条金吾に対して、まざまざと指南されたのが、竜の口の法難であったとも言える。弟子のためであり、未来のためです。
 金吾もまた、迷いの心がなかった。だから、師弟ともに仏果に至ったのです。竜の口が寂光土になったのです。
 捨てるべき迹とは「弱気」です。「臆病の心」です。大聖人は、「勇気」の本地の御姿を示すことで、発迹顕本の御姿を万人に示された。
 この大聖人の「勇気」の御心を、自身の決意として、あらゆる困難に莞爾として立ち向かっていくことが、今度は私たちの発迹顕本につながる。
 斎藤 今の地球を見ると、無明が人類を覆っているような気がします。二十世紀は、結局は戦争の無明、エゴによる環境破壊の無明、貧困を生む無明、差別の無明、衝突の無明がことごとく噴出した世紀でした。
 池田 しかし、唯一の"収穫"はあります。それは、人間自身が変わらなければ、そうした人類の闇は晴れないということに心ある人が気づき始めたことです。
 私の敬愛すべき友人であった故ノーマン・カズンズ氏は、重病など、多くの苦難を受けた人であるが、楽観主義を終生貫かれた。
 氏は、こう言われている。
 「人間は恐らく、現代世界の変化に対処するだけの理解力を養うことはできまいと言う人々がある。しかし人間をもっと高く評価する、別の見方もある。歴史が裏書きするのは、そちらの方であろう。その見方によれば、すでに人間の内部に、変化に対応する大きな能力が存在していて、きっかけさえ与えられれば、すぐに発揮されるはずである。人間は無限の順応力、無限の向上力、無限の包容力を持っているのである。その巨大な可能性に呼び掛けるのが、指導者の地位にある人の特権である」(「人間の選択」)
 人類の持つ無明の転換――文字通り人類の宿命の転換です。二十一世紀は人類全体の発迹顕本の岐路とも言える。
 転換できなければ、二十一世紀は二十世紀以上に無明が広がってしまう。そうなればもう、人類には先がありません。人類にとって苦難と試練が続く現代は、人類が地球規模で目覚める大きなチャンスなのです。
 人類の発迹顕本――。日蓮仏法は、その必要性と可能性を教えています。ゆえに、二十一世紀に必要不可欠な人類宗教であると私は信じています。それを証明するのが、二十一世紀の青年たちであることも、私は固く信じています。

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