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日蓮大聖人・池田大作

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難来るを以て安楽と意得可きなり  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
2  池田 一次元からのとらえ方ではあるが、的確な指摘と思う。大聖人が迫害を受けられたのは、法華経こそが末法の人々を救う法であると強く主張したからです。世間の咎があるわけではなかった。命をかけて、強く正義を主張したので、他の宗教者たちは震撼し、旧来の宗教的習慣に慣れた人々は不快感を抱いたのです。それが瞋恚、怨嫉として噴出した。
 大聖人は御自身の難を「法華経の故」であると言われている。命を捨てて法華経を弘めたが故に受けられた難であるということです。
 森中 強い宗教的信念に対して起こる迫害。それが内村鑑三の言う「真の意味での宗教的迫害」に当たりますね。
 池田 「万人の成仏」を説いたのが法華経です。しかも、それを法理として説くだけではない。それを実現することを願う仏の大慈悲と実践を説き、更に、仏の滅後に仏の大願を受け継いで戦う菩薩の使命を説くのが法華経です。
 このように法華経で説き尽くしている「万人の成仏」という教えが、実は難信難解なのです。
 なぜならば、まず、それを可能にする法、すなわち妙法が難解難入です。仏の甚深無量の智慧によってのみ知ることができるのが妙法です。また、成仏という尊極の価値観は凡智には分からない。
 例えば、自分が苦難に直面しているときは、その苦しさから自身の成仏などは、到底、信じられなくなる。あるいは、逆に、自分が一時的な安楽に浸っている時は、もう成仏なんかは必要ないと思ってしまいがちです。苦につけ、楽につけて、自分の成仏への信を失っていってしまうのです。まして、他の人の成仏、万人の成仏は、何か別世界のことと感じてしまう。
 さらに法華経では、「猶多怨嫉・況滅度後」と説き、法華経の難信難解を強調しています。
 斎藤 法師品第十の経文ですね。「猶多怨嫉」(なお怨嫉多し)とは、法華経は難信難解なので、仏の在世ですら法華経を説くと怨嫉が多く起こる、という意味です。「況滅度後」(況や滅度の後をや)とは、仏の滅後に法華経を弘めると、在世よりも更に多くの怨嫉が起こる、という意味になります。
 池田 大聖人が大難を受けられたのは、法華経が難信難解だからであるという「法」の次元の理由も、当然、あります。更に、それに加えて、仏の滅後、特に末法という悪世において法華経を弘めるから、更に大きな難が起こるのです。つまり、「時」の問題があるのです。
 末法は、「闘諍堅固・白法隠没」といって、仏法の中で方便として説かれた部分的な教えが宗派に分かれて互いに争うようになり、成仏という最も高い価値観を説く法華経が正法であることが分からなくなる時代です。
 森中 この時代に法華経を弘めると、釈尊が説いた種々の教えが、法華経の実践を妨げ、成仏を阻む魔性の働きを起こすようになりますね。
 池田 末法の大難の根はここにあります。根が深いだけに、執拗な迫害が起こる。その滅後の大難を、法華経では「三類の強敵」として説いているのです。
 大聖人は、この魔性との激闘を覚悟で、末法の法華弘通の戦いを起こされました。激闘を貫けば貫くほど、魔性は競い起こってきます。そして、ついに、法華経に説かれるとおり、三類の強敵のすべてを呼び起こし、その大難に耐え抜いていかれたのです。
 「開目抄」には、難が大聖人に次々と襲いかかる様が記されています。
 「在世猶をしかり乃至像末辺土をや、山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし
 〈通解〉――釈尊の在世でさえ、なお怨嫉が多かった。まして像法・末法において、また日本という辺鄙国土においてはなおさらである。山に山を重ね、波に波を畳み掛けるように、難に難を加え、非に非を増すにちがいない。
 まさにこの仰せのとおり、大聖人は、立宗直後から数々の難に遭われています。その中で、大難は4度であると大聖人御自身が仰せです。
3  三類の強敵との闘争で令法久住の基盤を確立
 斎藤 はい。「開目抄」には、こう述べられています。
 「既に二十余年が間・此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ、今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反むほんなんどの者のごとし
 〈通解〉――(建長5年に立宗宣言して以来)すでに20余年間、この法華経の法門を申してきたが、日日、月月、年年に難が重なっている。
 少々の難は数知らず、大きな難が4度あった。そのうち2度は、しばらくおいておく。国の権力者による迫害はすでに2度に及んでいる。特にこのたびの迫害は、私の命に及ぶものであった。
 そのうえ、弟子といい、檀那といい、わずかに法門を聴いただけの在家の人まで、重い罪に処せられた。まるで謀反などを起こした者のようであった。
 森中 この「大事の難・四度」とは、①松葉ガ谷の法難②伊豆流罪③小松原の法難④竜の口の頸の座から佐渡流罪と続く法難のことです。
 「王難二度」とは、国主である幕府による二度の迫害、すなわち②伊豆流罪と④竜の口の法難・佐渡流罪を指します。
 「今度」とは、まさに「開目抄」御執筆当時の佐渡流罪のことです。
 大聖人は、これらの大難を越えていくことにより、御自身が「法華経の行者」であるとの御確信を深められていきます。
 池田 大聖人は、とりわけ勧持品の二十行の偈で示される「三類の強敵」に注目されています。
 三類の強敵をすべて現し出して、妙法を永遠ならしめようとされた。即ち、正法破壊の悪をすべて打ち破り、「令法久住」の基盤を確立して下さったと拝したい。
 三類の強敵の中でも、とりわけ、第三類の僭聖増上慢は最強の敵です。「転識り難し」と言われるように、聖なる仮面で皆を欺いていて、分かりにくいのです。だからこそ、正体を民衆に暴くことが大事なのです。一部の人が目覚めただけにとどまっては、社会は変わりません。
 だから、目覚めた一人が、自ら率先して行動を起こし僭聖増上慢をあぶり出すしかないのです。
 最大の魔性と戦い、勝ってこそ、末法の成仏の道を開くことができるからです。
 斎藤 煎じ詰めれば、その社会の人々が、法華経の行者を捨てるか、僭聖増上慢を捨てるかではないでしょうか。
 池田 法華経の行者を捨てた社会は、僭聖増上慢に操られたまま、結局は亡国の道をたどっていかざるをえない。「三類の強敵との戦い」は即「立正安国の戦い」なのです。
 そして、最も手ごわい第三類をも打ち破ってこそ、令法久住が可能になる。末法万年の永遠の繁栄の基盤が確立するのです。
 戸田先生はこうおっしゃっていた。
 「(第二類の道門増上慢でも)責めようがなくなると、次に現れるのが第三類の強敵であり、これはこわい。これがでると、私もうれしいと思うが、みなさんもうれしいと思ってもらいたい。そのときこそ、敢然と戦おうではないか。
 一国を救うため、生活を豊かにするため、信心を励まし、霊鷲山で、日蓮大聖人様に、「学会員なになに、広宣流布をやり遂げてまいりました」といおうではありませんか」(同第4巻)
 これこそ、広宣流布のため、末法の全民衆の幸福のために、魔性との激闘に勇んで挑戦していかれた大聖人に直結する心です。
4  立宗宣言直後の清澄寺追放
 斎藤 大聖人の法難を大きく括ってみると、実際に第一類、第二類、第三類という順に呼びだされたように見えます。
 立宗宣言から安国論の提出までは、表立っての迫害者は、主として第一類の俗衆増上慢、在家の人々です。
 立宗宣言後、「はじめは日蓮がただ一人、南無妙法蓮華経を唱えていたが、見る人、会う人、聞く人は、耳をふさぎ、眼をいからし、口をひそめ、手をにぎり、歯をかみ、父母・兄弟・師匠・善友が敵となった。後には、安房の地の地頭や領家が敵となった」(中興入道消息、1332㌻)等と仰せのように、迫害は大きく広がっていきます。
 池田 「開目抄」で、「これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし」と思索された通りです。
 森中 実際に、御両親や師匠の道善房からも、冷たい仕打ちがあったようです。もっともそれは、御両親や道善房が、地頭の東条景信に脅されていたためで、心の底から敵対したものではなかったようですが。
 池田 立宗当初の迫害者の中心は、地頭の東条景信です。その怒りは激しかった。尋常ではなかった。正午からの説法で立宗宣言し、念仏を破折されたが、景信はそれを聞きつけて、その日のうちに大聖人を清澄寺から追放させたようだ。
 まさに、法華経勧持品の「諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん……数数擯出せられ塔寺を遠離せん」(法華経441-443㌻)を身読されたのです。
 森中 当時の清澄寺では、住職と思しき円智房が東条景信の意向を汲み、その下にいた実成房とともに、道善房に上から下から圧力を加えました。
 道善房は、それに屈して、師匠として守るべき立場を放棄し、外向けとはいえ、ともに迫害する側に回ったのです。
 師の道善房でさえそのような状態ですから、道善房の兄の道義房、いのもりの円頓房、清澄の西堯房、片海の実智房ら念仏を奉じていた実力者が大勢いた清澄寺では、大聖人は四面楚歌であったことでしょう。
 池田 その中にあって、大聖人に幼少の時に学問の手ほどきをした兄弟子の浄顕房と義浄房は、義憤を感じ、いったんは大聖人とともに寺を出る。
 万人が敵対する中で二人が大聖人の正義を覚り勇敢に行動を共にしたことを、後に大聖人は「法華経の御奉公」と称えられています。
 斎藤 多数の念仏者が清澄寺にいたのは、景信が念仏の熱心な信奉者であり、清澄寺の諸房の法師を念仏者にしようとしていたことの反映であると考えられます。そこに、事もあろうに大聖人がその念仏を無間地獄の道と破折し、景信の野望の前に大きく立ちはだかってきたのです。
 森中 たった一人での敵前上陸、正面突破の大闘争ですね。そして、確実に敵陣の一角を崩し、味方にされています。
 清澄寺を出られた大聖人は、東条を離れ、隣接する西条の花房に赴いたとされます。花房にあった僧坊には、立宗宣言の法座に立ち会った浄円房がいたと思われます。これ以降、ここを安房弘教の拠点として使われたと推測できます。
5  池田 緒戦で確固たる橋頭堡を築かれたのだね。戦いは、どんなに大変でも、一歩一歩の確実な前進を勝ち取っていかなければならない。
 斎藤 また、景信は、清澄・二間の両寺の支配権をめぐって、大聖人が若き日に両親ともどもお世話になった恩人である領家の尼と争っていました。
 森中 景信は、鎌倉にいる幕府の実力者・北条重時や念仏僧らにけしかけられて、領家の尼に対する訴訟を度々、起こしていたようです。
 池田 重時は、第3代執権・北条泰時の3男で、第5代執権の北条時頼の正妻の父です。連署として時頼とともに幕府の中核をなす存在でした。
 国主の一人たる重時、地頭の景信、多くの念仏信者たちによる迫害という構図が、すでにあったようだ。
 その訴訟に、大聖人は、領家の尼への恩返しのためにも関わられた。そして、大聖人が味方して一年もたたないうちに、領家の尼の勝利で決着した。
 森中 幕府の有力者を後ろ盾にし、自分からしかけた訴訟での敗訴。自滅です。
 景信は、どれほど怒り、どんなに悔しがったことでしょう。景信はこれを逆恨みします。
 重時の威光を借る者が、不当にも、大聖人を東条の地域に入ることを禁じます。その結果、数年間、大聖人は故郷に帰ることができませんでした。
 後に、重時が狂い死にし、大聖人が伊豆流罪を赦免された後、文永元年(1264年)に、父の墓参と母の見舞いに帰省されます。その折、景信らは大聖人を大勢で襲撃したのです。
 池田 小松原の法難だね。これについては、後ほど詳しく見ていこう。
 その後、大聖人は、一説には、しばらく安房に滞在したとされます。また、一時期、下総国八幡荘(千葉県市川市)の富木常忍のもとに身を寄せられたとも考えられている。
 いずれにせよ、大聖人は、ほどなく東国の中心・鎌倉へ進出し、名越の松葉ケ谷に草庵を結び、本格的に弘教を始められます。
6  松葉ケ谷の法難――第二類・念仏僧の襲撃
 森中 名越は、鎌倉南東部の出入り口ですね。名越切通を経て三浦半島の東京湾側へ出ます。そこから、船で房総方面と繋がります。名越切通は、三浦一族の反乱を恐れたためか「切岸(きりぎし)」と称する人工の断崖絶壁が迫るところがあります。
 また名越周辺には、「やぐら」という、死者を埋葬する山腹の横穴が一帯に設けられていました。
 当時、鎌倉は、正嘉の大地震をはじめ洪水・大火など災害が頻繁に起こり、多数の死者が出ていました。大聖人は、その惨状を日々、痛烈に実感されていたことでしょう。
 池田 罪のない民衆の不幸を目の当たりにされ、その根本の解決法を再度、思索された。その結論として著されたのが「立正安国論」です。
 斎藤 はい。その「安国論」を文応元年7月16日に北条時頼に提出されます。
 そして、1か月余り後の8月23日に起こったのが、「松葉ケ谷の法難」です。
 その悪逆の中心は「念仏者」、念仏の出家者です。その多くは、受戒・得度し仏教の教育を受けた正式な僧侶ではなく、自由に出家した者です。
 池田 「開目抄」には、第二類の道門増上慢、すなわち正法誹謗の出家者として「法然ほうねん等の無戒・邪見の者」を挙げられている。「無戒・邪見」とは、まさに端的に当時の念仏者を示すものといえるものではないだろうか。
 斎藤 当時、念仏の隆盛はすさまじく、「立正安国論」にもその様子が描かれています。その中で、法然の専修念仏の信奉者たちは、来世の往生への保証をいいことに宗教者として堕落した行動に走り、風俗紊乱・治安破壊をもたらしていたようです。
 森中 当時の人々の念仏信仰への傾倒ぶりは、同時代の書物からもうかがえます。
 弘安年間に書かれた説話集「沙石集」には、このような話が出ています。
 ――少し以前に念仏が盛んだった時、阿弥陀仏以外の仏、浄土経典以外の経は不要なものとされ、法華経を河に流したり、地蔵の頭で蓼をすっていたという。
 さらに、こんな狂信的な話さえあります。
 ――法華経全編を千度、読誦した人がいた。ある念仏者がその人に「念仏に入門しながら法華経を読むものは地獄に行く。雑行にあたるからだ」と脅した。その人は経典を読んで念仏をしなかったことを悔やみ気がふれて、悔しい悔しいといって舌も唇も食いきり、血みどろになって死んだ。念仏を進めた僧は言った。「法華経を読んだ罪は懺悔できた。その報いとして舌も唇も食いきり、罪が消えた。きっと極楽へ往生できる」
7  池田 まったくの転倒です。「人間のための宗教」とは正反対の、「宗教のための人間」に陥っている。大聖人が戦われたのは、このように民衆を苦しめ、狂わす宗教の魔性です。
 このような信仰では、一時の慰めにもならない。この魔性の姿こそ、大聖人が「無戒・邪見」といわれた理由の一つではないだろうか。
 森中 大聖人のご幼少の頃に、朝廷や幕府が念仏停止の命令を出し、法然をはじめ主要な弟子は流罪にされました。そこで、弟子たちは、その説を曲げて他宗に迎合して念仏を弘めていきました。
 法然の念仏はほんのわずかの間に勢力を拡大し、大聖人が鎌倉や京都で修学された時には、すでに多くの民衆が信仰し、やがて朝廷や幕府の要人まで巻き込んでいったのです。
 池田 その中で大聖人は、念仏を真っ向から否定された。それに対する反発はすさまじいものだった。その一端は「破良観等御書」に伺えるね。
 念仏者たちは、たかをくくって大聖人に論争を挑むが、あえなく負けていく者が続出する。ついに大聖人に顔をあわせる念仏者がいなくなったと記されている。
 森中 それでも在家の者が諸宗の僧らを援軍として、大聖人に挑戦して、大聖人の住処に押し寄せたり、呼びつけたりしますが、大聖人の鋭い舌鋒を浴びて絶句してしまいます。
 どうしようもなくなって、名ばかり立派で道理を知らない侍や、先後をも弁えない在家の有力者まで動員してきます。その者たちは、リンチ(私刑)を加えてきたり、大聖人の門下を攻撃したり、住居を追い出したり、領地を奪ったり、勘当をしたりと、あらゆる手段に訴えてきたのです。
 斎藤 さらには、幕府に訴えもしています。しかし、「人の主なる人」、おそらく時頼のことですが、彼は、よく事態を見るべきだとして、大聖人に対する軽率な処断はしませんでした。
 池田 それでは、念仏者たちは、一層、悩乱していった。そこで、「きりもの権臣ども・よりあひてまちうど町人等をかたらひて数万人の者をもつて夜中にをしよせ失わん」とした。
 つまり、幕府の権力者、町の有力者らと画策して、大集団での暴動を起こした。それが松葉ケ谷の法難の様相だね。
 また「両国の吏・心をあわせたる事」とも仰せです。「両国の吏」とは、執権・長時と連署・政村のことだね。
 森中 ええ、幕府のナンバー・ワンとナンバー・ツーが、からんでいました。さらにその背後には、長時の父・重時がいました。息子の長時は、時頼の病気を機に、北条時宗が成長するまでの間、職を預けられ第6代執権となっていたのです。
 池田 本来なら、このような暴動を鎮圧し、治安を守るべき立場の者が、裏で画策していた。万人の幸福を願い、万人の安全に責任をもつべき者が、私怨で行動していた。恐るべきことだ。
 斎藤 騒動を起こした者には何ら処罰もなく、御書には「大事の政道を破る」ものと厳しく糾弾されています。
8  池田 いよいよ道門増上慢が牙をむいてきたのです。宗教者が言論ではなく、武力・暴力をもって批判者を亡き者にしようというのだから、狂気というほかない。
 しかし、それが末法の宗教家の実態なのです。
 その誤った言動が、本来、人間にとって大切な宗教そのものへの反感を生み出してしまう。そして、宗教の正邪が問われることすらなく、宗教そのものが害あるものとして否定されてしまう。その罪は極めて重い。
 だからこそ、正しい宗教を持つものの責任は重大である。いよいよ心強く、悪を打ち破り、正義を宣揚していかなければならない。さもなければ、正義は埋没し、忘れ去られて、民衆は苦悩の深い闇へさらに沈んでしまうからです。
 森中 伝承によると、この松葉ケ谷の法難の時、能登房と進士太郎が怪我をしたといいます。XXX
 大聖人は、辛くもこの窮地を脱することができました。
 なぜ、脱することができたか。白い猿が大聖人の衣の袖を引いて、安全な場所に案内したという、荒唐無稽な伝説もありますが。(笑い)
 斎藤 日顕宗の坊主も、「猿が騒いで大聖人に危険を知らせた」などと、平然と言っていたそうだ。これが宗門の狂学なんだ(大笑い)。
 森中 脱出のきっかけについて先生は、かつて「十羅刹の御計らいにてやありけん日蓮其の難を脱れしかば」との一節を拝しながら、騒動を事前に察知した女性の知らせではないかと指摘されました。
 池田 松葉ケ谷法難の危機を脱せられたのも、何か神秘的な前兆があったのでも、不可思議な自然界の報せがあったのでもないだろう。
 今となっては推察するほかないが、日常的に大聖人に接していた門下か、あるいは念仏者らの暴力に嫌悪感を抱いていた市井の庶民から情報が入ったことも考えられる。
 そしてまた、"十羅刹女の御計らい"とあるように、女性の門下が何らかの役割を果たして、大聖人を危機からお守りしたことも、十分、拝察されるのではないだろうか。
 これは、戸田先生が私に語られた見方です。
 ともあれ、四条金吾に与えられた御書の一節には、「前前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故」との御教示がある。また、「必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し」との妙楽の釈は、御書に何度も引用されている。
 心して拝していくべき御文と思う。
9  「法華経の行者」との確信に立たれた伊豆流罪
 斎藤 松葉ケ谷の法難後、念仏者らエセ宗教家の横暴は、一段と高まっていました。
 翌弘長元年(1261年)2月29日、幕府は、関東諸国の僧徒を戒め、念仏者の変な行動を抑制する命令を出しています。そのような状況のなか、大聖人は早くも、鎌倉に戻られます。
 大聖人は常に活動的で、鎌倉にお住まいになってからも、頻繁に故郷の安房や下総など各地と行き来されていたのではないでしょうか。
 そして、この時期、当時の念仏の中心者で新善光寺にいた道教(道阿弥陀仏)、長安寺の能安らと法論をされています。
 池田 仏の戦いは「未曾暫廃」(開結500㌻)です。間断なき闘争です。魔は「すこしもたゆむ心」あれば便りを得て忍び寄ってくる。「軍やむ事なし」です。
 そこに苦悩する人がいる限り、不幸の人がある限り、仏の軍勢は戦うのです。一人も不幸のまま、放置していくことはできない。
 御書には、仏の大慈大悲について「病子に於ては心則ち偏に重きがごとし」と説かれています。父母の愛情が、どの子にも平等であるが、特に病気の子に格別に重いように、仏の慈悲も苦しんでいる人々により強く注がれるというのです。
 仏は、万人の幸福を願って、不幸な人たちのためにこそ、戦い続けるのです。これが仏の心であり、広宣流布の闘争です。
 万人の幸福という理念を唱えることは簡単です。しかし、現実に一人の人間を救っていくことは難事中の難事です。私たちは、生身(なまみ)の人間です。疲れることも病気や怪我をすることもあります。それでも、学会員のお一人お一人は、あの人のために、この人のためにと、疲れをも吹き飛ばして、連日連夜、戦われている。御本仏の御心と直結する最高に尊貴な姿です。
 斎藤 本当に頭が下がります。
 池田 さて、鎌倉の念仏者の首領・道教のいた新善光寺は、松葉ヶ谷と同じく名越の地にあり、名越氏が建立した寺だね。
 松葉ケ谷の法難に遭われた大聖人は厳然と戻ってこられた。道教は、念仏の主領としての面子にかけてもと気負って、法論を仕掛けてきたのではないだろうか。
 森中 もしかすると、道教は、松葉ケ谷の法難にもかかわっていたのかも知れませんね。
 斎藤 ところが、道教らはたわいもない。二口、三口も語ることもないまま、大聖人の一言、二言で打ち破られ退散しています。そして、蔭に回って、悪口を人々に吹き込んで、大聖人と門下に対して昼夜に門下の家を襲い、暴行を加えるなど様々な迫害を加えさせたのです。さらには、各地の地頭らにはたらきかけ、また権力者に「日蓮らは、謗法者である。邪見者、悪口者、犯罪者だ」などと讒言したのです。
 讒言を受けて、執権・長時は「日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」と、ついに大聖人を5月12日、伊豆流罪に処します。
 池田 世間から尊敬を受けながら、裏で画策し、権力者まで動かす道教の行動は、第3類の僭聖増上慢のはしりといえるのではないだろうか。
 伊豆流罪についても首謀者は、北条重時・長時親子だね。
 森中 はい。大聖人は、「長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」と仰せです。
 池田 「理不尽」といわれるのは、何の罪もない大聖人を、法を捻じ曲げてまで、流罪に処したからです。
 森中 伊豆流罪には、御成敗式目の第12条の悪口の咎を適用したのではないかと言われます。悪口の咎は、争いによる殺人の基とされ、重い者は流罪、軽い者は禁固刑です。
 斎藤 大聖人は宗教的な批判をされただけです。それを悪口の咎にするのは、まさに非道ですね。
 森中 このほか、第10条の「当座の諍論による刃傷」、第13条の「人を殴る咎」もあわせて適用されたのではないか、と推測する学者もいます。
 「人を殴る咎」では、所領のないものは流罪に処すとされます。
 さらに、第9条の謀反人の事には、具体的規定がないので、これを恣意的に適応したのではないかという説もあります。
 斎藤 大聖人が自ら刃傷沙汰に及んだり暴力をふるうことなどありえません。あるいは、門下の血気盛んな人が、他宗の者が挑発的に攻撃してくるのに対して、正当防衛したことを捻じ曲げたのかもしれません。しかし、弟子の責任をとらされたとすれば、実行犯の弟子が流罪・死罪などに処せられているはずですが、そういう話は見当たりません。
10  池田 広く弟子にも難が及んだのは、竜の口の法難の時がはじめてだね。
 いずれにせよ、仮にそのような法律の適用があったとしても、そもそもきちんと当時の裁判にルールに則って処分が行われた形跡が全く見当たらない。
 森中 また、本来あるはずの弁明の機会が、大聖人に与えられていないようです。
 池田 竜の口の法難の際は、行敏による訴訟において、大聖人の弁明書が残されています。また、形式的であるにせよ、平左衛門尉が取り調べをしています。
 ともあれ、伊豆流罪という不当な弾圧が法律を捻じ曲げて、加えたことは、明らかです。
 池田 まったく理不尽なやり口です。この悪業によって重時・長時の一門が滅びたと、大聖人は、はっきり指摘されてる。
 斎藤 事実、父・重時は、大聖人を流罪して半月後の6月1日、厠で物の怪を見て気が触れ、その後も度々発作が起き、ついに11月3日に亡くなります。息子の長時も流罪から4年後の文永元年に、わずか35歳の若さで没しています。
 池田 まさに勝負は明らかです。
 斎藤 「教機時国抄」など、伊豆流罪の渦中に認められた諸御抄を拝すると、御自身が「法華経の行者」であるとの御自覚をいっそう深められていたことがうかがえます。
 池田 それは、三類の強敵を御自身が呼び起こしているとの御確信を持たれたからであると拝される。
 「教機時国抄」には「日蓮・仏語の実否をかんがうるに三類の敵人之有り之を隠さば法華経の行者に非ず之を顕さば身命定めて喪わんか」、「三類の敵人を顕さずんば法華経の行者に非ず之を顕すは法華経の行者なり」と仰せです。
 伊豆流罪に第三類出現の端緒を見られ、三類の強敵と戦う御自身こそが末法の人々を救う「法華経の行者」である、との御確信をいやまして深められたと拝察します。
 斎藤 また、法華経を身読した喜びを、こう語られています。
 「留難に値うべしと仏記しをかれ・まいらせて候事のうれしさ申し尽くし難く候
 「人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき
 池田 法華経ゆえに王難を受けることを、無上の喜びとされる大境涯です。
 かえって、世間の法律ではまったく罪のない大聖人をただ法華経のゆえに迫害を加えた国主に対して、「生死を離るべき国主」と呼び、成仏のための修行をさせてくれた「恩深き人」であると感謝さえされています。不撓不屈であられ、究極の人間主義であられます。
 難にあうごとに、いよいよ力を増し、勢いを増されている。それは、正法のために命をかけて難と戦われている御自身の内に「如来の生命力」を現されているからです。
 大聖人は、四条金吾に対するお手紙で、大難を乗り越える法華経の行者は「久遠長寿の如来」であると仰せです。
11  森中 拝読します。
 「火にたきぎを加える時はさかんなり、大風吹けば求羅は倍増するなり、松は万年のよはひを持つ故に枝を・まげらる、法華経の行者は火と求羅との如し薪と風とは大難の如し、法華経の行者は久遠長寿の如来なり、修行の枝をきられ・まげられん事疑なかるべし、此れより後は此経難持の四字を暫時もわすれず案じ給うべし
 〈通解〉――火に薪を加える時は火は盛んになる。大風が吹けば求羅という虫はますます大きくなる。松は万年の樹齢をもつものであるから、枝を曲げられる。法華経の行者は、火と求羅とのようなものである。薪と風とは、大難のようなものである。法華経の行者は、久遠長寿の如来である。修行の枝を切られたり、曲げられたりすることは、疑いない。これより後は、(宝塔品に説かれる)「此経難持(この経は持ちがたい)」の四字を暫くたりとも忘れず心に留めていきなさい。
 池田 この手紙をいただいた当時、四条金吾が主君から勘当を受けて苦境に陥っていた。そして、"信心していても現世安穏にはならない"と、つい、グチを漏らしてしまった。そのことを大聖人が伝え聞き、心配して叱咤・激励されたお手紙です。
 法華経の実践に難は必然だ。しかし、難に耐え、難を乗り越えていく人は、我が生命本来の「久遠長寿の如来」を現していけるのである。
 その意味で、難こそ自身を最も深い意味で鍛え磨くための成長の糧である。そう教えられています。
 困難から逃げ、鍛えを避けるところには、決して向上も成長もない。これは、まさに大聖人の御自身の体験に基づく大確信であり、成仏の修行の永遠の真実です。
 私と友情の絆を結ぶ世界の指導者たちの中には、獄中1万日の、南アフリカのマンデラ前大統領はじめ、投獄を経験された方が数多くおられます。
 その方々は、投獄の体験をむしろ喜びとしておられた。誇りとしておられた。
 斎藤 マンデラ氏のほかにも、ナイジェリアのオバサンジョ大統領、ノーベル文学賞を受けたショインカ氏、アルゼンチンのエスキベル博士、ローマクラブのペッチェイ博士、チェコのハヴェル大統領などが、厳しい獄中闘争を耐え抜いてこられた方々です。
 だからこそ、三代にわたる会長が投獄に屈しなかった創価学会を深く強く信頼されていますね。
 池田 異口同音に「投獄されたことによって、自分自身の信念を鍛え上げることができた」と語られていた。経験していない人間には、想像もできないかもしれないが、私には、よくわかります。
 例えば、ショインカ氏はこう言っています。
 「失ったものは「時間」です。得たものは「信念」です。投獄以前よりも、私の信念は強くなりました」
 オバサンジョ大統領は、「牢獄では体は弱ります。しかし、私の精神は揺るぎませんでした。絶望もしませんでした。人類に尽くす戦いを、やめるつもりはありませんでした」
 と語っておられた。
 エスキベル博士も言われていた。
 「牢獄で私は学びました。極限状態にあっても生き抜く力、抵抗する力を。その力とは、精神の力であり、魂の力です。牢の中では、体の自由はききません。しかし、心は自由なのです。心は縛られないのです」
 ペッチェイ博士は、「入獄体験は私の幸運でした」「まったく、ひどい目にあいましたが、痛手を受けた分だけ、私の信念は鍛えられました。絶対に裏切らない友情も結べました」と語っておられた。
12  念仏者の危害から守った船守弥三郎夫妻
 森中 ところで、伊豆流罪といえば、船守弥三郎が有名です。
 川奈の港に着いて、陸に上がった時、大聖人はなんらかの原因で大変に苦しんでおられました。激しい時化による船酔いという説がありますが、よくわかりません。
 いずれにせよ、移送した者は大聖人をそのまま放置したようです。
 そこに行き会ったのが船守弥三郎です。弥三郎は、自宅に連れ帰り、懇ろに手当てをしたようです。弥三郎の妻も、突然の来客を拒みもせず、洗足・手水の用意など、かいがいしくお世話しました。
 池田 伊豆は、北条氏の出身地です。幕府の意向を汲む人も多かったでしょう。大聖人を取り巻く状況は厳しいものでした。
 「地頭・万民・日蓮をにくみねだむ事・鎌倉よりもぎたり、るものは目をひき・く人はあだ」と記されているとおりだ。
 斎藤 大聖人の現存最古の伝記には、地元の念仏者が御供養と称して毒キノコを食べさせたが事なきを得た、という伝承が記されています。実際、このような迫害が陰に陽にあったのでしょう。
 池田 その中にあって、弥三郎夫妻は「三十日あまり」も大聖人をかくまい、お守り申し上げたのです。そして、内々に妙法を信じるようになりました。
 念仏の敵と思われていた人を守ろうとするのだから、弥三郎夫妻の苦労はどれほどであったろうか。
 大聖人は「夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか」とまで、万感の感謝の言葉を綴られています。
 教主大覚世尊が生まれ変わったというのは、大難を越えながら「仏界の生命」を現されていく大聖人の「強き心」が、弥三郎夫妻の守護の働きを呼び起こしたとも拝することができます。内薫外護です。
 森中 また、伊豆流罪については、伊東の地頭・伊東八郎左衛門祐光の病気平癒のご祈祷についても伝えられています。
 大聖人は、病気平癒の祈祷の条件として、法華経信仰に帰すことを条件として出されます。
 祈祷の結果、祐光は回復。大聖人の弟子の明性房に「念仏者等にはならない」という誓状を出しています。翌年には再び幕府に出仕しています
 斎藤 この時、祐光は、病気平癒の謝礼として海中から拾い上げた釈迦立像を御供養します。大聖人は、随身仏として終生もたれ、滅後は身延の墓所に安置するよう遺言されています。
 池田 この釈迦立像も大聖人の「難即成仏」の実証を示す象徴です。末法の凡夫でも、法華経のために受けた難に耐え抜けば、必ず成仏できる。その凡夫成仏の証として釈迦立像を大切にされたのです。
 しかし、それはあくまでも象徴であって、末法のすべての凡夫のための本尊とされたわけではない。本尊は、あくまでも妙法であり、また、妙法と一体となって成就された大聖人の仏界の御生命を顕された御本尊以外にありません。
 それを明確にしたのが日興上人だね。
 斎藤 はい。大聖人の墓所に安置された釈迦立像は、五老僧の一人・日朗が勝手に鎌倉へ持ち去ってしまいます。
 そこで、日向が地頭の波木井実長に代わりの像を造らせようとするのですが、日興上人は釈迦像を作ることは本尊を見誤らせ、大聖人が図顕された曼荼羅を本尊とすることこそ大聖人の正意であることを示し、厳しく批判されました。
 森中 さて、病気平癒の祈祷の要請の際に、大聖人は伊東に移られ、地頭の屋敷近くで過ごされました。ここには、先ほどの明性房などの弟子もやってきて給仕します。
 もちろん、日興上人も来られました。日興上人は、近隣の人々に弘教し門下を拡大されたと伝えられています。
 池田 大聖人は、どんな困難の中でも、事態を切り拓いていかれた。決して退かれない。前進、前進、また前進です。
 そして、その心を我が心とする真の弟子はその戦いをさらに展開された。
 頑迷な敵対者ばかりのところに切り込んで、一人また一人と折伏され、現実に広宣流布を進められたのです。
 その戦いがあったればこそ、大聖人は日興上人を深く信頼され、後に一切を託されたのではないだろうか。
 森中 一方、大聖人の祈祷で九死に一生を得た伊東祐光ですが、後に大聖人との誓いを守りきれず、退転して念仏を行い真言の祈祷を行うようになり、建治2年以前に、苦悩の中で亡くなったことがうかがえます。
 斎藤 そして、弘長3年2月22日、大聖人はついに赦免となり、鎌倉へ戻られます。
 赦免に当たっては、大聖人には罪がないと元々、判断していた北条時頼の意向が働いたようです。
 森中 しかし、その時頼も、この弘長3年11月に病死します。また翌文永元年(1264年)5月には、幕政を担う引付衆の筆頭であった北条朝直が、8月には、執権・長時まで35歳の若さで亡くなります。そして、長老の政村が執権に、まだ14歳の時宗が連署となります。
 その直前、7月5日は、大彗星が現れ、なんらかの大事の前兆として、人々を驚かせました。大聖人が、「正嘉の大地震」とともにしばしば言及される「文永の大彗星」です。
 政治も世相も慌しく変動していった時期でした。
13  戦う中で真の安穏を築く
 斎藤 ここまで、大聖人の法難のうち、立宗時の清澄寺追放、松葉ケ谷法難、そして伊豆流罪について、現在において分かる事実を中心に、詳しく追ってきました。
 最初は俗衆増上慢、松葉ケ谷法難の時には道門増上慢が現れ、そして、伊豆流罪の時は僭聖増上慢のはしりとも言うべき動きがあったことが確認できたと思います。
 小松原法難、および竜の口の法難・佐渡流罪については、次号で論じていただくことにしますが、いよいよ「本格的な僭聖増上慢」が現れてきます。極楽寺良観です。また、生命に及ぶ「刀の難」に遭われます。
 池田 ますます迫害が激しくなっていった。しかし、大聖人は、あらゆる大難敵、大難関を堂々と超えていかれるのです。
 このように大聖人の受けた大難を詳しくたどっていくと、「開目抄」の「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし」との一節が、ますます実感をもって胸に迫ってきます。
 森中 建治元年御述作の「単衣抄」には、立宗宣言以来の諸難を振り返られた上で、「二十余年が間・一時片時も心安き事なし、頼朝の七年の合戦もひまやありけん、頼義が十二年の闘諍もいかでか是にはすぐべき」と仰せられています。先生がかつて「どんな合戦よりも激しい「精神革命の大闘争」」と言われた所以です。
 池田 このような大難の連続の中にありながら、大聖人の心はいつも太陽の如く晴れ晴れとしておられた。広大な大海原のような大境界です。どんな激浪にも海そのものは泰然としている。微動だにしません。
 それは、万人成仏の真理への深い深い確信と末法救済の大願、そして、あらゆる魔性を恐れぬ師子王の心によって成就された、広大な御境地です。
 佐渡流罪の渦中に著された「如説修行抄」を拝すると、大聖人は末法の闘争、すなわち魔との攻防戦を、あたかも楽しんでおらっれるかのように振り返られています。
 森中 「かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ」で始まる一節ですね。
 では、そのあとを続けて拝読してみます。
 「法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起し忍辱の鎧を著て妙教の剣を提げ一部八巻の肝心・妙法五字の旗を指上て未顕真実の弓をはり正直捨権の箭をはげて大白牛車に打乗つて権門をかつぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或はにげ或はひきしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる、或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし、法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨つちくれを砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり
 〈通解〉――このような悪世末法の時に、日蓮は仏意仏勅を受けて日本国に生まれてきたのは、時の不運である。だが法王たる釈尊の命令に背くわけにはいかないので、一身を経文に任せて権教と実教との戦いを起こし、どんな難にも耐える忍辱の鎧を着て、南無妙法蓮華経の利剣を提げ、法華経一部八巻の肝心たる妙法蓮華経の旗を掲げ、未顕真実の弓を張り、正直捨権の矢をつがえて、大白牛車に打ち乗って、権門をかっぱと破り、あちらへ押しかけこちらに押しよせ、念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の謗法の敵人を攻め立てたところ、ある者は逃げ、ある者は引き退き、あるいは日蓮に生け取られた者は、我が弟子となった。このように何度も攻め返したり、攻め落としたりはしたが、権教の敵は多勢である。法王の一人は無勢であるから、今にいたるまで戦いはやむことがない。
 しかし「法華折伏・破権門理」の金言であるから、最後には、権教権門を信じている者を、一人も残さず折伏して、法王の家人となし、天下万民、すべての人々が一仏乗に帰して三大秘法の南無妙法蓮華経が独り繁昌するようになった時、すべての人々が一同に南無妙法蓮華経と唱えていくならば、吹く風は穏やかに枝を鳴らすことなく、降る雨も壌を砕かないで、しかも世は羲農の世のような理想社会となり、今生には不祥の災難を払い、人々は長生きできる方法を得る。人も法もともに、不老不死であるという道理が実現するその時をご覧なさい。その時こそ「現世安穏」という証文が事実となって現れることに、いささかの疑いもないのである。
 池田 「戦う心」の躍動が、ひしひしと感じられる御文です。あらゆる魔との戦い、そしてそれに打ち勝つところにしか真の「安穏」がないことを大聖人は確信されていた。そのことを御自身の戦いを通して実証されたのです。だから、そこにあるのは大いなる喜びなのです。
 大聖人は、民衆を救うために、末法の時代にはびこる魔性を打ち破る戦いを起こされた。それが「権実二教のいくさ」です。実教に至る準備段階であるべき権教が、邪法の僧によって実教を妨げる邪法と化してしまっている。それを正す法戦です。
 大聖人は、ただ難を受けたのではなく、この「いくさ」を起こしたと仰せです。法華経の肝心である「妙法五字の旗」を掲げての宗教革命です。広宣流布の戦いです。そして「今に至るまで軍やむ事なし」とあるように、二十余年にわたって続いている。戦い続ける人が仏です。民衆を守るために、民衆の幸福を築くために、仏は戦い続けるのです。
 斎藤 大聖人は末法という悪世に生まれ合わせたことを「時の不祥なれ」と言われていますが、これはもちろん嘆きとは無縁の言葉と拝されます。末法広布という偉大な使命に生き抜くことを断固として決めた以上、時代の悪と進んで戦い、必ず乗り越えてみせるという決意に満ちた言葉にほかなりません。
 池田 その通りです。末法という「悪世」の真ん中で戦っていくことを、むしろ喜びとされている。なぜならば、その戦う生命にこそ「現世安穏」があり、永遠の成仏の道があるからです。
 戦う人が内証において現世安穏を成就しているからこそ、その戦いを最後まで押し進めれば、必ず「吹く風枝をならさず雨壌を砕かず」という、誰の目にも明らかな現世安穏の世界が現出すると仰せです。しかも、その世界は、かつてない不老不死が実現する世界です。すなわち、永遠の妙法の力が人間にも社会にも躍動し、老いの苦しみや死の苦しみに左右されない真の幸福と平和の世界が現れるのです。
 平穏無事に生きることが「安穏」なのではない。何があっても揺るがない境涯を築くことです。そうすれば、いつも「安穏」です。信心の強き一念で戦えば、だれでもその大境涯を自分自身のものにできる。
 だから、「難来たるを以て安楽と心得可きなり」と仰せです。難が来た時こそ、成仏のチャンスなのです。
14  「人間とはかくも偉大なり」の証明
 斎藤 このように大聖人が留められた範を、そのまま現代に体現してこられたのが、牧口先生、戸田先生、そして池田先生の三代会長です。があって、私たちも、この三代の精神に続いて「成仏の道」を確信をもって歩むことができます。これほど、ありがたいことはありません。
 池田 大聖人はどこまでも凡夫として振る舞われ、凡夫として大難と戦い、そこに成仏の厳たる軌道があることを示してくださった。ゆえに、幾多の難を勝ち抜かれた御姿は、「人間とはかくも偉大なり」との証明にほかならない。
 大難に耐え抜いて、「難即成仏」の大道を身をもって切り開かれた。凡夫成仏、人間勝利の真髄を示されたのです。
 であればこそ、「例せば日蓮が如し」、「日蓮さきがけしたり」、「日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」、そして「わたうども和党共二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし、わづかの小島のぬしら主等をど威嚇さんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき」と、後は弟子が続くよう促されています。
 「勇気を奮い起こして私と同じ道を歩みなさい。そうすれば必ず成仏できます」との御本仏の御断言なのです。

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