Nichiren・Ikeda
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師も弟子もともに不二の師子吼を
講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)
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13 「作師子吼」と師弟不二
森中 「御義口伝に云く師子吼とは仏の説なり説法とは法華別しては南無妙法蓮華経なり、師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり」
〈通解〉――(法華経勧持品で説かれる「仏の前に於いて、師子吼を作して、誓言を発さく」〔法華経417㌻〕の「師子吼」についての)「御義口伝」に云く、「師子吼」とは仏の説である。仏の「説法」の本義とは法華経二十八品であり、別しては南無妙法蓮華経である。
(「作師子吼」の)「師」とは「師匠が授ける所の妙法」、「子」とは「弟子が受ける所の妙法」である。「吼」とは「師と弟子が共に唱える所の音声」であり、「作」とは、おこすと読むのである。"師子吼をおこす"とは、末法において、南無妙法蓮華経をおこすのである。
池田 「師弟不二」です。
「おこす」とは能動です。受け身ではなく、積極的に立ち上がってこそ「おこす」ことになる。
どこまでも弟子の自覚、決意の如何である、ということです。
実際に、「法華経勧持品」では、釈尊は菩薩たちに呼び掛ける。自分が師子吼したように、皆も師子吼するのか、今、ここでその誓いの言葉を出しなさい、と。
言い換えれば、「弟子」といっても、この仏法では、いわゆる「弟子入り」があるわけではない。今、現実に師子吼して戦っている人が「弟子」です。反対に、弟子の顔をしていても、実際に師子吼していない人は、真の弟子ではない。大事なのは行動です。
斎藤 師子吼といっても、例えば何かの国際会議場で叫ぶような特別なことではありませんね。今、目の前の一人の生命に直接呼び掛ける師子吼の対話があるかどうかです。
池田 胸中の「師子王の心」を呼び覚まし、顕に出すために、私たちは「師子吼」していくのです。
師匠が師子吼した。次に弟子が師子吼する。そして目覚めた民衆が次々と師子吼の大音声を唱える。その師子吼の包囲が一切の野干の魔性を破っていくのです。
戸田先生は言われた。
「(大聖人の「開目抄」の誓願は)われ三徳具備の仏として、日本民衆を苦悩の底より救いいださんとのご決意であられる。われらは、この大師子吼の跡を紹継した良き大聖人の弟子なれば、また共に国士と任じて、現今の大苦悩に沈む民衆を救わなくてはならぬ」(『戸田城聖全集』第一巻)
この戸田先生の師子吼に、私も立ち上がりました。当時の青年部も次々と立ち上がった。そして今の創価学会ができたのです。
次は、二十一世紀の青年が師子吼する番です。今度は世界中の青年たちが希望の師子吼のスクラムで立ち上がれば、二十一世紀の創価学会は盤石です。それが二十一世紀の世界の希望です。