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日蓮大聖人・池田大作

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師も弟子もともに不二の師子吼を  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

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1  日蓮仏法は師子王の宗教
 斎藤 今年(二〇〇二年)の八月二十四日は、池田先生の入信五十五周年の佳節となります。
 この五十五年間、会員のため、広布のため、世界の平和のために、まさに激闘に次ぐ激闘の連続で、日本の、そして世界の広宣流布の盤石なる基盤をつくっていただきました。どれほど感謝してもしきれません。
 森中 そして、今、いよいよ「青年の時代」が到来しました。師の心を真一文字に受け継いで広布の指導者として戦っていく後継の弟子が陸続と誕生しゆくことを、世界中の同志、そして各界の識者が待っています。
 そうした意味で、今月は御書における「師弟」「広布の指導者」について語っていただければ幸いです。
 池田 わかりました。ただ、師弟論といい、指導者論といっても、論ずべきことがあまりにも多い。そこで、本章は、御書における師弟論の核心である「師子王の心」について拝察したい。
 「師子王」であられる大聖人の心を真っ直ぐに受け継いでいくのが師弟不二です。そのとき、私たちは「師子王の子」といえるのです。また、「師子王の心」は仏法における指導者の根本条件でもあります。
 斎藤 師子王の心とは、法を守るためには、どんなに恐ろしい強敵も恐れずに戦っていく勇気ですね。
 池田 「勇気」です。勇気であるとともに、勇気を起こした生命に現れ出てくる「本源的生命力」です。わかりやすく言えば「生命の底力」です。
 勇気をもって法を守る戦いをすれば、その勇気の力で、心を覆う無明(根源の迷い)のベールが破れ、法の無限の力がわが生命から現れ出てくるのです。妙法と一体の仏界の生命です。勇気によって、本源的な生命力と自分が結びつくのです。
 それはまた、いかなる絶望的な状況にあっても、決してくじけない「生命本源の希望」です。「生き抜く力」です。
 人は、死、運命、迫害、苦難、病、破綻、破壊などの影が忍び寄ってきたときに、恐れ、おののき、臆病、嘆き、不安、疑い、瞋りなどに支配される。このような陰影を晴らすのが「内発的な希望」の力です。
 「一人立つ」とは、この内発的な希望を現して、揺るがぬ自分になることです。それが指導者の根本条件です。自分のなかにこんこんと希望の泉が湧き起こっているからこそ、共に働き、共に戦う人々に希望を与え続けていくことができる。希望を与えることが指導者の根本的な使命です。
2  森中 「心こそ大切なれ」ですね。
 池田 そうです。ナポレオンは「リーダーとは『希望を配る人』のことだ」と言った。大いなる希望を呼び覚ましてこそ、大いなる事業を成し遂げることができるのです。
 皆の「心」を変えることこそ、リーダーの役目です。単に人が集まっているだけでは、「心」はバラバラの方向を向いている。カオス(混沌)の状態です。その「心」を一つの方向に向けて、団結させ、前進させていく。いがみ合う「心」を結び合わせ、臆病にとらわれた「心」を奮い立たせ、無力感にさいなまれた「心」に確信の炎を点す。そうした「心」のリーダーシップが求められているのです。
 ガンジーの非暴力の人権闘争を継承し、アメリカの公民権運動を指導したキング博士は、こう訴えました。
 「前途の日々は困難である。だが私は希望を失ってはいない。これだけが私を今前進させ続けている」(ジェイムズ・H・コーン著、梶原寿訳、『夢か悪夢か・キング牧師とマルコムX』、日本基督教団出版局)
 わが生命のなかに、不屈の行動の源泉があるのです。この内なる源泉は何ものも奪い去ることはできない。「内発の力」によるなら、決して負けることはない。反対に、見せかけ、かりもの、おしきせであれば、容易に化けの皮がひきはがされる。
 「虎の威を借る狐」は臆病です。「一人立つ師子」は不屈です。
 斎藤 私たちで言えば、広宣流布という大願に生きることですね。大願に目覚めれば、どんな宿命の苦悩も、使命を果たす歓喜に変えていくことができる。
 池田 法理的に言えば、「師子王の心」とは、「信心」で生命奥底の「元品の無明」を打ち破って、「元品の法性」の力を現した生命のことです。
 「強い信心」によって無明を破ったときに涌現する「仏界の生命」であると言ってもよいでしょう。ゆえに、仏の生命に現れる智慧や慈悲も具わっています。
 信心は原因であり、仏界の生命は結果です。因果が一念に収まっているのです。
3  斎藤 因果倶時ですね。
 池田 そうです。したがって、この「師子王の心」こそ、本因妙の仏法である日蓮仏法の真髄と言ってよい。
 森中 御書を開くと、大聖人が師子王について述べられている個所は、本当に多いことが分かります。有名な御書でも、「佐渡御書」「聖人御難事」「経王殿御返事」「閻浮提中御書」などがあります。
 斎藤 いずれも大聖人御自身の御本仏としての御生命を、皆にわかりやすく教えるために、師子王に譬えられたと拝察できます。
 池田 まさに、日蓮仏法は「師子王の宗教」です。なぜ御自身を師子王になぞらえているのかといえば、根本的には、御自身の生命に仏界が涌現しているからであると拝察できます。仏典を見ても、師子王は仏の象徴とされているね。
 森中 はい。仏の座は「師子座」、仏の説法は「師子吼」と呼ばれることがあります。
 池田 師子(獅子)=ライオンを象徴にしているのは、何らかの共通のイメージをもっているからです。そこで、ライオンというと、どのようなイメージが浮かぶか考えてみよう。
 森中 まずは「王者」のイメージです。ライオンは、古来、一般にも、「百獣の王」とされています。大聖人も「千日尼御前御返事」で、「地走る者の王」と仰せです。
 ライオンはネコ科の猛獣ですが、そのなかでも最も大きく、特にオスには見事な"たてがみ"があります。
 斎藤 昔は、相当広い地域で生息していたようです。二千年前には、ヨーロッパのイベリア半島や北ギリシャにも野生のライオンがいたとも言われます。
 池田 古代では、不老不死の象徴ともされていた。
 森中 はい。メソポタミアでは、ライオンの毛皮と脂には不老不死の威力があり、それを身につけると不老不死になると信じられていました。
 池田 ギリシャ神話の英雄・ヘラクレスもライオンの毛皮を身にまとい、ライオンの頭を兜にしているね。
 インドに遠征したアレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)も、師のアリストテレスから「ライオンのようになれ」と励まされている。それで、ライオンの目を鎧に描き、ライオンの兜をかぶったとも言われています。
 斎藤 また、ライオンの黄金のたてがみが「太陽」と見なされていたこともあったようです。
 森中 ライオンの目は、「見張り」の象徴ともされていました。また、ひと睨みで敵をすくませ、石のようにしてしまうと信じられていました。そこから城門の守護神とされ、インドのサーンチーの仏塔の門でもライオンが刻まれています。
 池田 星座にも、獅子座があるね。最近では、昨年(二〇〇一年)の十一月十八日前後に見事な流星群のショーを見せてくれている。
 斎藤 先生と対談したブルガリアのジュロヴァ博士は、ライオンは「ロゴス(言論)の力」「悪に対する勝利」「善行への報い」「不死の希望」などの象徴である、と語っています。
 池田 まさしく師子は「善なる力」の象徴なのです。経典には釈尊のことを「聖主師子」と説かれている。また、アショーカ王が遺した王柱の柱頭にライオンが刻まれているのは有名だ。
 森中 釈尊の初転法輪の地・鹿野苑の遺跡のあるサールナートにあるアショーカ王柱の柱頭にも、四面に向いたライオンと法輪が刻まれています。
4  「師子の子」は必ず「師子」に
 池田 師子は勇猛果敢で、威力がある。また、百獣を圧する威厳に満ちています。大聖人は師子王の威厳や威力に着目されているね。例えば、法華経の「師子奮迅之力」(法華経463㌻)を引かれている。
 また、仏は一人、外道は多勢だったけれども、仏は師子王のごとく外道を責めて勝った、とも言われています。
 森中 法華経と諸経の格の違いを「師子王と狐兎との捔力すもうなり」と言われているのは面白いですね。
 池田 何も恐れずに、悠然と振る舞う姿にも注目されている。
 斎藤 有名な一節です。「いかなる処にて遊びたはふるとも・つつがあるべからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし」と仰せです。御本尊を信ずる人の功徳を表しています。
 池田 百獣を圧倒する師子の威力にも、多く言及されている。
 さらに、どんな敵もあなどらず、常に全力を出し切って立ち向かう師子王の特質にも言及されています。つまり、前三後一です。
 何よりも、師子王とは、仏なかんずく日蓮大聖人御自身のこととして用いられている。
 「法華経の行者は日輪と師子との如し」、あるいは「日蓮程の師子王」とも仰せです。
 斎藤諸経中の王である法華経についても、師子王になぞらえられています。
 池田 一番重要なことは、「師弟不二」です。
 「師子の子」もまた、「師子」となる。師匠と同じ心で戦うことを教えられている。
 「師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし
 「牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師子王となる・いまだ人王・天王等とならず
 「師子の子」は師子になります。広宣流布に戦う仏子は、凡夫であっても必ず仏になる。それであってこそ仏法です。
 人間と隔絶した"仏"がいて、凡夫は永久に仏に導かれる存在でしかない、というのでは真の仏法ではない。皆を自分と同じ境涯にしようとして、万人が仏であることを教えたのが法華経です。
 斎藤 はい。一切経には釈尊や他土の仏の素晴らしさは説かれても、万人が必ず仏になれるという意味で人間の素晴らしさは説かれていません。法華経だけが「人間尊敬の思想」を余すところなく示しています。
 池田 また、弟子である衆生の側から見れば、仏をただ遠くに仰ぎ見ているような傍観者では失格です。
 仏と地涌の菩薩が久遠から一体で戦ってきたように、師匠と同じ民衆救済の大闘争を開始しなければ、「師子の子」ではありません。ましてや野干や群狐に笑われるような「師子の子」であれば、師子王の後継者として失格です。
 どこまでも師子王の心をわが心として、一体となって戦っていくなかにしか、師弟不二の経典である法華経の継承はありません。
 もちろん、最初から自分は力があると思っている人はいません。しかし、師匠から勇気をもらったら、戦う力は湧きあがってくる。本当は、それだけの力がもともと自分にあるのです。師子王の妙法を持っているのだから。
 「たとえば一の師子に百子あり・彼の百子・諸の禽獣に犯さるるに・一の師子王吼れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分に」と仰せです。
 師匠の師子吼に力を得て、諸の禽獣を破るのは、弟子である「百子」の実践です。
 斎藤 いつまでも師匠に魔を破ってもらうのではなく、今度は弟子が自ら魔と闘い勝利しなければ、魂の継承などできるわけがない、ということですね。
5  身命を捨てて強敵の科を顕す
 池田 「日蓮がごとく」、「日蓮と同じく」です。師匠に何かしてもらおうというのであれば、爾前経の弟子です。師匠と同じように戦ってこそ、法華経の真の仏弟子です。
 「閻浮提中御書」には、弟子の実践が示されている。
 すなわち 「願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ」と仰せです。「日蓮がごとく身命をすてて強敵のとがを顕せ・師子は値いがたかるべし」です。
 〈通解〉――「願わくは日蓮の弟子らは師子王の子となって、群狐に笑われることがあってはならない」「日蓮のように、身命を捨てて強敵の罪悪を顕せ、そのような真の師子には会い難い」
 私は、この仰せの通り実践してきました。その立場から、学会を受け継いでいく青年部の皆さんに、この御聖訓を贈りたい。
 広宣流布は魔との戦いです。生半可な決意では戦うことはできない。
 大聖人も流罪、死罪の大難が幾度もあった。熱原の法難では、門下が斬首です。
 勇気を奮い起こし、また、疲れたら再び奮い起こして、戦い続けるなかに、仏界が涌現してくるのです。仏界の力でなければ、強敵に勝利することはできない。
 不惜身命でなければ、民衆を守ることはできない。
 特に「身命をすてて強敵の科を顕せ」の一文を心に刻みたい。魔と闘い、「強敵の科」を責め出さなければ、真の勝利は断じてない。牧口先生は、魔を駆り出していくことを教えられた。
 森中 ともすると、"何もわざわざ、魔を駆り出さなくても"と思いがちです。
 池田 師子王の境涯の人は、そこが根本的に違う。魔は見えないからといって、いなくなったのではありません。隠れているだけです。だから今、あえて駆り出して、「強敵の科」を顕さなければ、結局は民衆が魔軍にたぶらかされてしまう。
 戸田先生も、晩年、早く三類の強敵が出現するように願われていた。
 森中 わかりました。確かに、大将軍が臆病で、びくびくしながら"敵が攻めてきたらどうしよう"などと思っていたら、戦に勝てません。"さあ、こい"と迎え撃ち、反転攻勢に出てこそ名将です。
 池田 まして、私たちは壮絶な精神闘争の闘士です。
 だから師子王の如き悠然たる境涯で遊行する。師子王が動くことで魔は退散する。そして、仏法を守るべき時には、猛然と魔軍を駆り出していかなければならない。油断は絶対に禁物です。どんな敵にも全力で戦う。それでこそ師子です。
6  斎藤 大聖人は、「兵者を打つ刻に弱兵を先んずれば強敵倍力を得るが如し」と仰せです。相手をみくびって緒戦で敗れたら、敵の勢いが強くなってくる、ということですね。
 池田 そうだ。真剣勝負ゆえに、師子王は、周囲が"ここまで"と思うぐらいに、一つ一つに全魂を込めて取り組むのです。
 "守り"でなく、"攻め"です。大聖人は、師子王として自ら「謗法の根源」「一凶」を強く責め立てていかれた。
 個人にあっても原理は同じです。宿命が襲いかかってきたとき、信心で強盛に立ち向かえず、腹が据わらず逃げたり、策や要領で避けようと思ったら、かえって事態は複雑になる。
 森中 私たちは、それで、苦い経験をしたことがあります(笑い)。
 池田 「勇気」と「強い信心」は一体です。反対に、「臆病」と「不信」は、底流部で通じあっている。
 佐渡流罪の時、師匠の大聖人に対して"柔らかく弘めれば、難が起きないのに……"と批判した門下がいた。難が起きたことで師匠に不信を抱き、恨んだのです。
 斎藤 ところが師匠は、難を当然の覚悟で戦っている。
 池田 もちろん、非常識や道理に反したことで周囲から反発されるようなことがあってはならない。しかし、正法を正しく弘めれば、必ず難が起きるのです。否、難が起きなければ正法ではない。
 皆、そのことを原理として知っていても、いざ起きると、信心がなければ退転してしまう。大聖人から見れば、"せっかく強敵の科を現したのに、この大事な時になぜ逃げるのか"という御心境だったのでしょう。「螢火ほたるびが日月をわらひ蟻塚ありづか華山かざんを下し井江が河海をあなづり烏鵲かささぎ鸞鳳らんほうをわらふなるべしわらふなるべし」です。
 拙い者に対しては、理屈を言うよりも、境涯の大きさを眼前に示して、その広大な世界に触れさせる以外に目覚めさせることはできません。
 大空のような、また、大海のような師子王の大境涯でなければ、広宣流布の指揮をとることはできないのです。
 斎藤 「聖人御難事」を拝しても、熱原の法難という極限状態のなかで、門下を慈しむゆえに厳しい仰せをされていますが、同時に、一人も退転させてなるものかとの熱い御心を感じます。
 師匠というものは、ここまで弟子の身を案じられるのかと、拝読するたびに胸が強く打たれます。
 池田 厳しいのも魔を破るためです。弟子が可愛くない師匠はいません。
 実は、私たち一人ひとりの戦いにおいても原理は同じです。自分が師子王となって、我が地域の会員に魔を一歩も寄せ付けないという決意が大事です。その戦いにしか自身の成仏の道はない。ゆえに、大聖人は、「願くは我が弟子等は師子王の子となりて」と呼びかけておられるのです。
7  悪僧と悪王の結託
 斎藤 「佐渡御書」の前半で、まさに、大聖人御自身のお姿を通して、師子王の御心境を述べられているのも、同じ意味ですね。
 池田 強敵に恐れず、師子王の心で戦った者は必ず仏になると仰せだね。
 斎藤 はい。「例せば日蓮が如し」と仰せです。
 池田 御自分が率先して実践され、門下に範を示されているのです。何度、大難に遭っても退かず、魔性と戦い抜くことによって発迹顕本され、御本仏の御境地を顕された。その日蓮と同じように戦って成仏していきなさいと、弟子たちに勧めているのです。
 森中 拝読します。
 「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣ゆしんと申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅しゅらのおごり帝釈たいしゃくめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し
 〈通解〉――畜生の心は、弱い者を脅し、強い者を恐れるものである。今の世の僧らは、畜生のようである。智者が弱いとみて侮蔑し、世間の権力者が邪悪であるのに恐れて従っている。こびへつらう悪い臣下というのは、このことである。強敵を降伏させてはじめて、力ある者であると分かるものである。悪しき権力者が正法を破滅させようとするのに対して、邪法を奉ずる僧らが味方をして、真実の智者を亡き者にしようとする時には、師子王のような心をもっている者が必ず仏に成るのである。例を挙げれば、日蓮のようなものである。これ(大聖人が師子王の心で強く戦ってきたこと)は、傲り高ぶっているからではない。正法を惜しむ心が強盛だからである。傲り高ぶる者は強敵にあうと必ず恐れる心が生じる。例えば阿修羅は傲り高ぶっていたが帝釈に責められて無熱池の蓮の中に小さな身となって隠れてしまったようなものである。
 池田 悪王と邪法の僧が結託して、正法の人を迫害する。釈尊の時代には阿闍世王と提婆達多です。大聖人の御在世は平左衛門尉頼綱と極楽寺良観だった。
 「悪王」と「邪法の僧」の結託。これほどの強敵はない。なぜならば、悪王は物理的・社会的な権力を持っている。背けば身を滅ぼし、生命を失うこともある。
 また、邪法の僧は、人々の心を支配する宗教的権威を持っている。
 この両者が結託して迫害を加えてきても、敢然と正義を貫ける人こそ、真実の智慧者です。真理を確かにつかんでいる人といえる。
 「師子王の心」とは、真理をつかんでいるがゆえの勇気です。
 また、正法を尊ぶがゆえの勇気です。正法を信ずるがゆえの勇気です。
 だからこそ、どんな強敵をも恐れないのです。
 斎藤 本来、仏教の出家僧は、民衆のため、国のため、仏法のために身を捧げるべき立場です。ところが、良観や道隆など、当時の鎌倉の宗教的権威者たちは、大聖人の言われることを、真偽や正邪を基準に判断せず、目先の利害や保身を判断基準にして、権力者におもねり、大聖人への弾圧の元凶になりました。
 池田 目先のことで愚かな判断をするのは畜生界です。だから、大聖人は彼らの心を「畜生の心」と言われているのです。「師子王の心」と全く対照的です。
 森中 彼らは、仏教を持ちながら、全く言論戦に応じようとしませんでした。要は、真剣に「法」を探究しない。求めるべきことがあれば大聖人に教えを乞うか、直接、法論すればいいのに、それもしない。臆病です。
 良観は、大聖人が鎌倉にいない時は、"いつでも法論をやろう"と吹聴して人気を集めるが、大聖人が鎌倉におられる時は、仮病で人前に出ない。そういう卑劣なことを平気でやるのも魔性の現れです。
 斎藤 一方で、権力も「非道」に走る。大聖人への迫害は、いずれも強権を発動したものです。封建時代とはいえ、手続きを無視し政道に反したものでした。
 池田 詳しくは別の機会に改めて論じたいが、大聖人は「大事の政道を破る」、「御式目をも破らるるか」など、御自身への弾圧の構図は、一貫して「理不尽な政道」であると告発されています。どんなに正当化しようと、その理不尽さは隠しようがない。
 斎藤 しかし、彼らは、それでもいいのですね。自分たちの時代にだけ通用すれば、それでいい。
 森中 「未来」を見据えない政治など、本来、政治の名に値しない野蛮な遊戯にしかすぎないと思います。そこに利権に群がる要素が生まれる……。
 池田 ここが急所です。
 共通するのは、いずれも、「真理・正義を重んじない」姿といえる。本来、政治も宗教も高度な精神性が不可欠である。ところが、正義の人を迫害する人間に共通するのは、真理や正義を根本的に信じていない姿にほかならない。
 斎藤 日顕がその典型ですね。三世永遠の「法」が存在していることをかりそめにも信じていたならば、仏子を弾圧することなど絶対にできるわけがない。これこそ、仏法を利用している証拠ではないでしょうか。
8  ガンジーの非暴力とサティヤーグラハ
 池田 先ほどの「佐渡御書」に戻ると、大聖人が「師子王の心」で強く戦われたのは、傲りのゆえではない。それは「正法を惜む心」が強盛だからであると仰せです。ここが重要な点です。
 正法を何よりも惜しむ心が強ければ、「身を惜しむ心」「死を恐れる心」から解放され、勇気の戦いができる。
 「佐渡御書」の冒頭では、雪山童子や楽法梵志のことが説かれています。いずれも「法」のために命を捨てる姿です。
 「正法を惜む心」とは信心です。法を重んじて、よりよく生きていこうという真摯な心です。
 真理を求めていこうという真摯さを持った人は謙虚であり、他人への慈愛に満ちている。私がお会いした世界の一流の人たちにも共通しています。
 斎藤 人類が「永遠の真理」への探究を忘れてしまえば、地球は間違いなく修羅と貪欲の惑星になってしまいます。それは世界戦争や滅亡への近道になってしまいます。
 池田 だからこそ、広宣流布していかなければならない。それは、真実の精神の復権の旗を掲げての戦いといってもいいでしょう。
 大聖人はそのために南無妙法蓮華経を顕し、弘めてくださったのです。南無妙法蓮華経が末法万年尽未来際に広まれば「無間地獄への道をふさぐことができる」と仰せです。
 永遠の真理といっても、どこかに静かに横たわっているわけではない。
 妙法は無明・法性一体であると大聖人は仰せです。先ほども述べたように、無明と戦い、無明を打ち破るところに、法性の力が現れる。そして、法性を深く信ずるからこそ、無明と戦えるのです。また、無明と戦ってこそ、法性が価値創造の力となって現れてくる。その限りない戦いのなかにしか、妙法はありません。
 斎藤 マハトマ・ガンジーの非暴力の闘争も、「サティヤーグラハ」すなわち「真理の把握」が根底にあったことはよく知られています。
 森中 「サティヤ」とは、もともとは「~であること」、また「あるべきすがた」という意味で、つまり真理のことです。「グラハ」というのは、「把握」すなわち「しっかり握って放さないこと」です。
 池田 ガンジーは、「非暴力」と「サティヤーグラハ」とは、一枚のコイン(硬貨)の裏表のようなものであると言った。そして、「非暴力」はどこまでも手段であり、「サティヤ(真理)」こそが目的であるとも語っている。
 間違いなくガンジーは、権力者の"強さ"といっても、それは、暴力と憎悪に基づいているかぎり「畜生の力」であると見抜いていたのでしょう。それに対抗するためとはいえ、こちらまで動物的な暴力の衝動に身をまかせてしまえば、どうして根本的な解決があるだろうか、と思ったのでしょう。
 崇高な「真理と人間愛の力」で一人ひとりが武装せよ、と教えたのです。
 もちろん、これには「非現実的だ」とする批判者もいます。ただ、明確に言えることは、ガンジーは、それでも頑固なまでに行動に移したという事実です。その事実は歴史に厳然と刻まれた。そして、将来、世界中で「精神の力」が称えられる時代が到来したら、その行動は永遠に輝く。
 ガンジーは弟子たちに、こう訴えています。
 「たとえ一人になろうとも、全世界に立ち向かい給え! 世界から血走った眼で睨まれようとも、君は真っ向から世界を見すえるのだ」
 まさに、仏法で説く「一人立つ」精神と、あい通じるものがある。
 斎藤 仏法にも不軽菩薩の例があります。「皆が仏」という「最高の真理」と、礼拝という最高の「人間尊敬」の「人間愛の力」をもって闘い抜いたドラマが説かれています。
 不軽菩薩も、一人立ち上がった、ひたむきな行動者として描かれています。
9  一心欲見仏・不自惜身命
 池田 「一頭の獅子に率いられた百頭の羊の群れは、一頭の羊に率いられた百頭の獅子の群れに勝つ」ということわざがある〈ヨーロッパ等のことわざ〉。
 ナポレオンが好んだ言葉です。
 すべては偉大な精神の力を持つ「一頭の獅子」で決まるのです。
 そして焦点は、「真理の探究」と言っても、観念論ではないということです。「不惜身命」(身命を惜しまず)が「成仏への道」になる。不惜身命の人であってこそ、永遠の真理を覚知することができるのです。
 また、逆に、永遠の真理を覚知すればこそ、不惜身命の実践を貫き通せるのです。
 「義浄房御書」に、不惜身命こそが仏界涌現の道であると示されているね。
 森中 はい。拝読します。
 「寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し、叡山の大師・渡唐して此の文の点を相伝し給う処なり、一とは一道清浄の義心とは諸法なり、されば天台大師心の字を釈して云く「一月三星・心果清浄」云云、日蓮云く一とは妙なり心とは法なり欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり、一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり、無作の三身の仏果を成就せん事は恐くは天台伝教にも越へ竜樹・迦葉かしょうにも勝れたり、相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり、法華経の御為に身をも捨て命をも惜まざれと強盛に申せしは是なり
 〈通解〉――寿量品の自我偈に云く「一心に仏を拝見しようとして、自ら身命を惜しまない(一心欲見仏不自惜身命)」とある。日蓮の己心の仏界を、この経文によって顕すのである。その理由は、寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就しているのが、この経文だからである。このことは秘しておきなさい。(中略)日蓮が言うには、「一」とは妙であり、「心」とは法であり、「欲」とは蓮であり、「見」とは華であり、「仏」とは経である。この妙法蓮華経の五字を弘通しようとするためには身命を惜しまないというのが「不自惜身命」である。(「一心欲見仏」とは)「一心に仏を見る」「心を一にして仏を見る」「一心を見れば仏である」ということである。無作の三身という仏果を成就するということは、おそらくは天台・伝教にも越え、竜樹・迦葉にも勝れているのである。心の師とはなっても、心を師としてはならない、と釈尊が経文に記されていることを深く心得なさい。法華経の御ためには身をも捨て、命をも惜しまないようにと強盛に言ってきたのは、このことである。
 池田 凡夫の心は微妙です。時に従って移り、縁に従って動く。揺れ動く心を「師」としては、確固たる前進の軌道に乗ることは困難です。
 依るべきものは「法」です。「法」を「師」とする。あるいは、「法」の正しき実践者を自分の「基準」としていく。
 凡夫の側から見れば、一心に法を求める、一心に仏を見ようとする、そのなかにしか、成仏の軌道はありません。
 大聖人は、この「義浄房御書」で、大聖人御自身が「一心欲見仏不自惜身命」(法華経490㌻)の経文によって「日蓮が己心の仏界」を顕し、三大秘法を成就したと仰せです。その際、「一心」について、こう掘り下げられている。「一心に仏を見る」「心を一にして仏を見る」「一心を見れば仏である」と仰せです。
 斎藤 通常は、「一心欲見仏」の経文は「一心に仏を見る」、すなわち、必死に仏を求める求道心です。つまり、衆生の側の信心です。大聖人は、この"仏を求める信心の一心"に注目され、最後は、「一心を見れば仏なり」と読み替えられています。
 池田 そうです。"仏を求める凡夫の一心"が、そのまま"仏の一心"となって現れることを示されている。そして、大聖人は、この一心の成仏を「無作の三身の仏果の成就」であると仰せられています。
 そして、大聖人が不惜身命の戦いで胸中に顕された「仏の一心」「無作の三身の仏果」を、末法の一切衆生のために顕されたのが御本尊です。人類の平和と幸福への根本的な解決の方途を確立したのですから、天台・伝教や竜樹・迦葉を遙かに超えた偉業です。
 私たちもまた、御本尊を信受しながら広宣流布へ「一心欲見仏不自惜身命」の実践を貫く時、「仏の一心」「無作の三身の仏果」を得られるのです。
 五濁悪世で仏に成る道は、これしかありません。
10  不死の境地
 森中 仏界の生命と、法を守る勇気の戦いは、密接な関係にありますね。
 池田 釈尊は仏法の真理を悟って「不死の境地」を得たと言っています。
 これは"死なない"ということではなくて、死の苦しみ、死への恐れから解放されたということです。
 死への恐れは、あらゆる恐れの源です。それすらも乗り越えたのであるから、他の何物をも恐れるはずがありません。これが仏の心です。
 釈尊はこのように語っています。
 「不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている」(中村元訳、『ブッダの真理のことば感興のことば』、岩波書店)
 「最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている」(同)
 斎藤 「不死の境地」と「最上の真理」とは同じことですね。
 池田 また、このようにも言われています。
 「つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである」(同)
 仏の悟りといっても、魔との壮絶な闘争に他ならないからです。
 釈尊が悟りを得た時、日没の時と、真夜中と、夜明けに三つの詩が釈尊の口から発せられます。それを読むと、熱心な修行と悟りは一体であることが分かります。
 斎藤 三つのうち、夜明けの詩を読んでみます。
 「実にダンマが、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を輝かすがごとくである」(玉城康四郎著、『仏教の根底にあるもの』、講談社)
 「ダンマ(ダルマ)」とは「法」のことです。
 池田 太陽が大空の彼方まで照らしゆく大境涯。それが悟達の境涯です。それは魔との戦いと不可分です。魔を打ち下して、太陽の大境涯である「不死の境地」を得た聖者にとって、恐れるものは何もないのです。永遠の法と一体になっているからです。
 そして、釈尊は、「不死の門は開かれた!」「不死は得られた」と、全民衆を幸福にする大遠征に出発します。
 "自分のため"ではありません。"皆を幸福にするため"に、大宇宙に瀰漫する魔軍との闘争を開始したのです。常にその原点に戻れば、ひるむ心が生じるわけがありません。
11  斎藤 日蓮大聖人は、この「不死の境地」を万人に開くために「一心欲見仏不自惜身命」で己心の仏界を開かれたわけですね。
 池田 そうです。そして、大聖人によって開かれた仏界涌現の道――釈尊で言えば「ダンマを顕わにする」道を継ぐのが、私たちです。
 私たちが「師子王の心」で立ち上がった時、胸中に妙法が横溢し、一切の障魔に立ち向かっていく仏の生命力が涌現してくるのです。
 言い換えれば、太陽のごとく万人を照らそうとする実践、師子王のごとく百獣の障魔を破ろうとする実践のなかに成仏の道がある。それゆえに「日蓮がごとくにせよ」と仰せなのです。
 大聖人と同じ民衆救済の闘争に立ち上がるなかにしか、絶対に成仏はありません。
 森中 広宣流布の戦いこそは、その師弟不二の道ですね。
 池田 そうです。不自惜身命といっても、雪山童子のように身を投げることではありません。「肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし」です。仏法は「時に適った」仏道修行が大切です。
 そのうえで、立ち上がるべき時には立ち上がらなければならない。
 日本の戦前がそうでした。愚かな指導者が出て、民衆は悲惨にあえいでいた。その時、牧口先生は、決然と立ち上がられた。逮捕される前の年のことです。
 当時の東条首相の「協同一致」演説を痛烈に批判され、「宗教に無知の指導階級の罪悪」こそ、社会の混迷の根源である、と断じられていたのです。
 もちろん、現代とは事情が違う面があります。だから、仏法は「時」の大切さを説いている。
 森中 「時に適った修行」という観点がなければ、玉砕の宗教になってしまいかねませんね。
 池田 「白米一俵御書」では、雪山童子と異なって、命を捨てるのではなく、凡夫の成仏の道は「志ざし」であると断言されています。
 斎藤 「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心て仏になり候なり」と仰せです。
 池田 「志ざし」を置き換えれば、「信心」であり、「求道心」であり、「誓願」であり、そして「師子王の心」とも言える。
 「師子王の心」で広宣流布に生き切ること。妙法流布の生涯を貫くこと。それが、私たちの「一心欲見仏不自惜身命」です。
 濁世末法のなかで法を持ち続けることが、どれだけの難事か。娑婆世界、堪忍世界のなかで、弘通しているのです。創価学会は、言わば、平穏無事な環境での信仰を求めたのではなく、嵐のなかで立ち上がったのです。皆を救うために、皆を守るために。
 斎藤 譬えて言えば、普通だったら、嵐の日に外に出るのはナンセンスです。家のなかにいたほうがよい。
 しかし、自他共の幸福を願う妙法の指導者ならば、嵐の日は、決壊した場所、土砂崩れが起きた所へ、いち早く向かう、ということですね。
 池田 その譬えで言えば、仏とは、先頭に立って嵐のなかを疾駆する人です。その後ろを門下たちがついてくる。師匠は振り向いて言うでしょう。"師子の子よ! 断じて嵐に負けるな!!"と。
 そして、共に戦う門下に最高の幸福境涯を満喫させたい。その思いが込められているのが、「聖人御難事」の師子王の一節と拝したい。
12  勇気こそが信心の極意
 森中 はい。拝読します。
 「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり
 〈通解〉――日蓮門下の一人ひとりは、師子王の心を取り出して、どんなに人が脅してもひるむことがあってはならない。師子王は百獣を恐れない。師子王の子もまた同じである。彼らは狐などが吠えているようなものである。日蓮の一門は師子が吼えているのである。
 池田 「聖人御難事」は、先ほどもあったように、熱原の法難という門下の最大の法難の渦中に、全門下あてに認められた御書です。
 公家でも武家でも僧でもなく、農民信徒という民衆の基底部にいる無名の門下たちが、幕府の権力をかさにきた横暴な武士たちや悪僧たちの弾圧に一歩も退かなかった事件です。どんな権力者も、彼らの信仰をやめさせることはできなかった。
 本来であれば、日本の民衆史に燦然と輝く人権闘争の珠玉の歴史です。
 どんな難にもびくともしなかった彼らの姿に、大聖人が時の到来を感じられて大御本尊を建立されたことは、どこまでも意義深いことです。
 その時、門下全員に、大聖人が強く呼び掛けられたのが、今拝読した一節です。
 本抄で、「師子王の心」とは、どんな弾圧にも敢然と戦う「勇気」の異名といえる。
 信心とは「勇気」です。難が来ようと、諸天が動くまいと、どんな苦難に直面しても、絶対にこの信仰だけは貫いてみせる、という「勇気」こそが、幸福への直道です。
 大聖人は、先ほどの「佐渡御書」でもそうでしたが、自ら「勇気」の範を示された後に、皆も、同じ「勇気」で立ち上がれば、仏になれるのだと力強く仰せです。自分は戦った。そのようにあなたも戦いなさい――それが、仏法の指導者です。
 自分ができないことを人に強制する。それが独裁者です。
 また、自分だけでなく、大勢の人に、同じ境涯の高さに引き上げようとして、共に戦うことを呼び掛ける。
 仏法の指導者は、真のすぐれた人間教育者でもあります。
 日蓮仏法には、真の人間教育の模範があり、また、真に民衆を守る社会の指導者としての側面も、当然あります。
 そして、一人ひとりを慈しむ姿は、まさに親の慈愛と同じです。
 森中 それが主師親の三徳ですね。
 池田 そうです。一切衆生を守り支える側面。それが「主の徳」です。一切衆生を導く側面。それが「師の徳」です。そして、一切衆生を慈しむ側面。それが「親の徳」です。
 斎藤 現代人にとって、「師匠」という言葉がわかりづらい面がある。しかし、「指導者」であり「教育者」「保護者」であると示せば理解が深まるようです。
 池田 その三徳をすべて併せ持っているから仏なのです。末法において主師親の三徳を具備しておられるのは日蓮大聖人です。ですから、日蓮大聖人を末法の御本仏と拝するのです。その根底には、民衆を慈しみ、民衆を仏の境涯に引き上げようとされる大慈大悲があられる。
 森中 現代の社会の指導者に一番欠けている点ですね。しかし、心ある識者は、民衆に奉仕する指導者こそ真の指導者であると見始めています。教育の分野でも、各界でも、そうした動きがあります。
 池田 そこで、「聖人御難事」の一節に戻るが、重要な仰せは「各各師子王の心を取り出して」とあるように、「取り出す」ことです。
 誰にでも「師子王の心」があります。それを「取り出す」ことが幸福への直道です。自身の胸中の「師子王の心」を取り出す方途は、「日蓮が一門は師子の吼るなり」(同)と仰せのように、師子吼です。師匠と同じように正義の師子吼をしていきなさい。それが、弟子が師匠と一体となり、師子の子が師子王になる道である――その原理を「御義口伝」に仰せです。
13  「作師子吼」と師弟不二
 森中 「御義口伝に云く師子吼とは仏の説なり説法とは法華別しては南無妙法蓮華経なり、師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経をおこすなり
 〈通解〉――(法華経勧持品で説かれる「仏の前に於いて、師子吼を作して、誓言を発さく」〔法華経417㌻〕の「師子吼」についての)「御義口伝」に云く、「師子吼」とは仏の説である。仏の「説法」の本義とは法華経二十八品であり、別しては南無妙法蓮華経である。
 (「作師子吼」の)「師」とは「師匠が授ける所の妙法」、「子」とは「弟子が受ける所の妙法」である。「吼」とは「師と弟子が共に唱える所の音声」であり、「作」とは、おこすと読むのである。"師子吼をおこす"とは、末法において、南無妙法蓮華経をおこすのである。
 池田 「師弟不二」です。
 「おこす」とは能動です。受け身ではなく、積極的に立ち上がってこそ「おこす」ことになる。
 どこまでも弟子の自覚、決意の如何である、ということです。
 実際に、「法華経勧持品」では、釈尊は菩薩たちに呼び掛ける。自分が師子吼したように、皆も師子吼するのか、今、ここでその誓いの言葉を出しなさい、と。
 言い換えれば、「弟子」といっても、この仏法では、いわゆる「弟子入り」があるわけではない。今、現実に師子吼して戦っている人が「弟子」です。反対に、弟子の顔をしていても、実際に師子吼していない人は、真の弟子ではない。大事なのは行動です。
 斎藤 師子吼といっても、例えば何かの国際会議場で叫ぶような特別なことではありませんね。今、目の前の一人の生命に直接呼び掛ける師子吼の対話があるかどうかです。
 池田 胸中の「師子王の心」を呼び覚まし、顕に出すために、私たちは「師子吼」していくのです。
 師匠が師子吼した。次に弟子が師子吼する。そして目覚めた民衆が次々と師子吼の大音声を唱える。その師子吼の包囲が一切の野干の魔性を破っていくのです。
 戸田先生は言われた。
 「(大聖人の「開目抄」の誓願は)われ三徳具備の仏として、日本民衆を苦悩の底より救いいださんとのご決意であられる。われらは、この大師子吼の跡を紹継した良き大聖人の弟子なれば、また共に国士と任じて、現今の大苦悩に沈む民衆を救わなくてはならぬ」(『戸田城聖全集』第一巻)
 この戸田先生の師子吼に、私も立ち上がりました。当時の青年部も次々と立ち上がった。そして今の創価学会ができたのです。
 次は、二十一世紀の青年が師子吼する番です。今度は世界中の青年たちが希望の師子吼のスクラムで立ち上がれば、二十一世紀の創価学会は盤石です。それが二十一世紀の世界の希望です。

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