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日蓮大聖人・池田大作

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「強き信心」で「大いなる希望」に生きぬ…  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
2  宗教とは「人生に対する態度」
 斎藤 トインビー博士は、先生との対話のなかで、「宗教とは何か」について語っています。
 「私のいう宗教とは、人生に対する態度という意味で、人々が人間として生きるむずかしさに対処せしめてくれるもののことです。すなわち、宇宙の神秘さと人間のそこでの役割のむずかしさに関する根本問題に、精神的に満足のいく解答を示すことによって、また、この宇宙の中で生きていくうえでの実際的な教戒を与えることによって、人生の困難に対処せしめるもののことです」(「二十一世紀への対話」『池田大作全集』第三巻)
 池田 確かに宗教は「人生に対する態度」を教えるものでなければならない。
 「人間らしく生きる」。これは本当に難しいことです。人生は変化、変化の連続である。諸行無常です。生老病死は誰人もまぬかれられない永遠の課題です。
 文豪ユゴーは、「人間の生活には、最も多幸なものでも、その真底には常に喜びよりも多くの悲みがある」(本間武彦訳、『ユゴー全集』第十一巻)と言っています。確かに、それが人生の実相かもしれない。その厳しき現実のなかで、「人間らしく生きたい」「よりよく生きたい」と、心の奥底で願い、行動しているのが人間です。その「人間の祈り」への答えが宗教です。祈りが先にあって宗教が生まれたのです。
 この人間の祈りに対する日蓮大聖人の答えは何か。人生に対するいかなる態度を教えられているか。それこそが、一言で言えば「一生成仏」です。
 森中 「一生成仏」とは、この一生のうちに必ず仏になれるということですね。
 池田 そう。大聖人は、稲に早稲と晩稲の違いがあっても一年のうちに必ず収穫できるように、どんな人も本来、如来であり、早い遅いの違いはあっても、一生のうちに必ず仏界の生命を現すことができると仰せです。
 言い換えれば、今の自分の一生は、仏になるためにあるということです。
 斎藤 一生成仏は、私たち一人ひとりが、この一生のうちに現実に成仏できるという思想ですが、実に衝撃力がある教えです。わが人生の重みが一段と増すように感じられます。そして、にわかに「成仏とは何か」「具体的にどのような姿、生き方になるのか」という問いが切実なものとして迫ってきます。
 森中 現代人にとって、「仏に成る」と言っても、どこか"遠いお話"に聞こえるのではないでしょうか。日本ではまだ、仏様=死人、という考え方も根強いですから、生きている人が「仏に成る」なんて言われると、キョトンとされるか、怒られるかどちらかです(笑い)。
 池田 確かに「但仏界計り現じ難し」です。現代人に説明するのは至難の業かもしれない。しかし、どう現代人に理解させていくか、挑戦しなければ広宣流布は進まない。皆が分かり、語っていける言葉が生まれれば、広布の加速度はさらに増していく。それが教学の重要な使命の一つでもある。
 斎藤 幸い、学会には、「仏とは生命なり」という戸田先生の悟達に基づく、教学の現代的展開の伝統があります。また、数知れない学会員の研鑽・実践・実証の積み重ねがあります。その思想的財産を生かしていくこともできると思います。
 まず、私たち学会員にとって、成仏の手本は、いうまでもなく大聖人のお振る舞いのなかにあります。あの竜の口の法難の際のお姿や、佐渡でのお姿こそ、最高の成仏の実証ではないかと思います。
3  池田 そのことについては、戸田先生も語られたことがあります。
 大聖人は「開目抄」で、「当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」と仰せです。また、「諸法実相抄」では「流人なれども喜悦はかりなし」とも仰せであられる。
 流人という社会的境遇にあり、自然環境、生活環境なども最悪の状況にあって、命も危ないというような時に、日本で一番に富める者だと宣言されている。これは重大なことです。
 森中 かつて先生が、創価大学の講演で流刑について語られたことがあります(「歴史と人物を考察――迫害と人生」一九八一年十月三十一日。本全集第1巻収録)。私は、学生としてこの講演を聞きました。
 先生は冒頭、オーストリアの作家・ツヴァイクの次の言葉を紹介されました。
 「だれか、かつて流罪をたたえる歌をうたったものがいるだろうか? 嵐のなかで人間を高め、きびしく強制された孤独のうちにあって、疲れた魂の力をさらに新たな秩序のなかで集中させる、すなわち運命を創りだす力であるこの流罪を、うたったものがいるだろうか?(中略)だが自然のリズムは、こういう強制的な切れ目を欲する。それというのも、奈落の底を知るものだけが生のすべてを認識するのであるから。つきはなされてみて初めて、人にはその全突進力があたえられるのだ」(山下肇訳、『ジョゼフ・フーシェ』)
 斎藤 簡単に言うと「流罪という奈落の底を体験した人は、かえって人間生命の底力を知ることがある。そのとき、その人は流罪をも讃嘆して歌うことができる」という意味ですね。
 池田 このツヴァイクの言葉は、大聖人の先ほどの「開目抄」などの一節に通じていくと思う。
 大聖人は、現実には、幕府から迫害された流人です。しかも、大聖人の正義の声は、幕府だけでなく日本中の人々も理解できなかった。門下も多くは退転し、残った者はごく一部です。さらに言えば、その残った門下も、ひたぶるな思いで大聖人に付きしたがっているが、どこまで大聖人の真実を正しく理解していたか、心もとないものがあったのではないだろうか。
 斎藤 普通だったら、悔恨や挫折、あるいは社会への恨み、自分が理解されないことへの嘆きなどが出てくるものだと思います。
 命を賭した二十年にわたる闘争とは一体何だったのか。何を残したのか。何人を救うことができたのか。現実の日本を変えられたのか。自身の根底を崩していくような問いかけをして、絶望と不信の淵に沈んでもおかしくない厳しい状況にあられたのではないでしょうか。
4  永遠普遍の世界に生きる歓喜
 池田 ところが、御書のどこを拝しても、そういう記述は全くありません。大聖人の御境涯は遙かに超えられていたと拝せる。
 「顕仏未来記」には、こう仰せです。
 「天台云く「雨の猛きを見て竜の大なるを知り華の盛なるを見て池の深きを知る」等云云、妙楽の云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、日蓮此の道理を存して既に二十一年なり、日来ひごろの災・月来つきごろの難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり、世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え、幸なるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことを悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊につかえ奉らんことよ、願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん、我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん、我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん、但し今夢の如く宝塔品の心を得たり
 〈通解〉――天台は述べている。「雨が盛んであることを見て竜が大きいことを知り、蓮の華が盛んな様を見て池が深いことを知るのである」と。妙楽は述べている。「智慧ある人は物事の起こりを知り、蛇は自ら蛇の習性を知る」と。
 日蓮は(天変地異が、末法に大法が弘まることの予兆であるという)この道理を知って(大法を弘め始めて)から、すでに二十一年になる。日々に災いが競い、月々に難が起こったが、この二、三年の間にはすでに死罪に及ぼうとした。今年、今月にも、万が一にも死を免れようのない身命である。世間の人よ、(日蓮の言葉に)疑いがあるならば、詳しいことは私の弟子に聞きなさい。
 なんと幸いなことか。一生の内に無始以来の謗法の罪を消滅できるとは。なんと喜ばしいことか。いまだお会いしていない教主釈尊にお仕えすることは。願わくは、私を迫害する国主たちをまず最初に導こう。私を助ける弟子たちのことを釈尊に報告しよう。私を生んだ父母たちには、亡くなる前にこの大善(功徳)を差し上げよう。ただし今、夢のようではあるが、宝塔品の心を得たのである。
 ここに綴られているのは、歓喜であり、感謝であり、慈悲です。全部、仏界の現れです。佐渡流罪という最大の苦境を耐え忍ぶこと自体、偉大な境涯の現れです。しかし、大聖人は、そのなかで御自身のことよりも、わが門下のことを案じられた。また、自身を迫害した為政者が幸福になるように願われた。一切を包みこんでいかれた。
 これは、難を忍ぶという次元を遙かに超え、かくも人間は偉大であることを御自身の振る舞いで教えられたものと拝したい。
 斎藤 佐渡における大聖人は、暗闇に誘うような問いかけを完全に払拭されています。脆弱な煩悶や、己を美化するだけの自己満足の欺瞞などを一切、押し流されている。晴天の正午の太陽の光が燦々と降り注ぎ、狐疑の氷がすべて溶け、蒸発するかのように、明るく清々しく堂々と苦難を乗り越えておられます。
 池田 一点の悩みも迷いもない大境涯。それが大聖人の佐渡流罪の時の御心境ではないでしょうか。
 それが仏界の生命です。決して単なる心の持ちようなどではない。厳しい現実を真正面から見詰められながらの「如実知見(ありのままの真実を見る)」の智慧です。
 森中 現実の大難とがっぷり取り組み、一歩も退いておられない。強敵と組み合う大力士ですね。
5  池田 さらに偉大なことは、この佐渡で大聖人が「人本尊開顕の書」である「開目抄」と、「法本尊開顕の書」である「観心本尊抄」を、悠然と残されたことです。
 大聖人は、流刑の地・佐渡で、末法万年にわたる全人類救済の方途を明確に示してくださったのです。全民衆の成仏の道を厳然と開かれた。その境地から振り返れば、どれほど難が押し寄せようと、迷いや嘆きが生じる余地など全く考えられません。また、どんな権力者が迫害を加えても、仏としての偉大な境涯に傷一つ付けることもできない。
 宇宙大の妙法と完全に融合し、さらには、その広大無辺な世界の喜びを、全民衆に伝えていく確かな軌道を確立された。これ自体、どんな充足感も及ばない大歓喜のお姿と拝せます。
 そして大聖人は、私たちにも同じように生きる道を教えてくださったのです。
 戸田先生は、このような大聖人の御境地を「希望」という言葉で分かりやすく教えてくださっている。
 「過去の偉人をみるのに、人生の苦難、人生の怒濤にも負けずに、凡人よりみれば夢としか思えぬ希望を守りつづけてきているのである。いな、その希望に生ききって、けっして屈しないのである。
 その理由は、希望それじたいが、自己の欲望や利己的なものでなくて、人類の幸福ということが基本的なものになっており、それがひじょうな確信に満ちていたからではなかろうか。
 われらが御本仏日蓮大聖人は、御年十六歳にして人類救済の大願に目覚められ、かつまた宇宙の哲理をお悟りあそばされて以来、三十二の御年まで、その信念の確証を研鑽あそばされて後、御年六十一歳の御涅槃の日まで、若きときの希望、若きときの夢の一つも離すことなく、生活に打ちたてられたことは、じつにすさまじい大殿堂を見るがごときものではないか」(『戸田城聖全集』第三巻)
 大聖人が、若き日より御入滅の日まで「大いなる希望」を貫かれたことこそ、真の仏のお姿なのです。
 この戸田先生の言葉は、昭和三十二年、つまり先生が逝去される前年の「年頭のことば」です。大願に貫かれた大聖人の御生涯について述べられていますが、先生御自身の後半生もまた、大いなる希望に貫かれていたのです。
 森中 この年に、戸田先生は、願業である七十五万世帯の折伏を達成されています。
6  池田 戸田先生はさらに、「希望に生き抜く生命力」は御本尊を拝することにあると述べられて、同志が同じく大いなる希望に生きることを勧められています。
 「吾人が同志にのぞむものは、老いたるにもせよ、若きにもせよ、生活に確信ある希望をもち、その希望のなかに生きぬいてもらわなければならないことである。いうまでもなく、その希望に生きぬく生命力は、御本仏日蓮大聖人の御生命である人法一箇の御本尊にあることを銘記すべきであろう。
 おのれも大地に足を踏みしめ、はなやかな希望に生きるとともに、世の人たちをも同じく大地に足を踏みしめさせて、人生に晴れやかな希望をもたせようではないか」(『戸田城聖全集』第三巻)
 斎藤 戸田先生は、人生の真髄を大変に分かりやすく教えてくださったのですね。
 池田 戸田先生は、七十五万世帯の願業を達成された直後に有名な「創価学会の永遠の三指針」を示してくださった。これも同志に希望を貫く人生であってほしいと願って、一人ひとりに対して人生と信仰の勝利の指標を示してくださったのです。
 森中 「一家和楽の信心」「各人が幸福をつかむ信心」「難を乗り越える信心」の三つですね。池田先生も「この三指針にどこまでも信心の目的がある」と繰り返し教えてくださっています。
 池田 この三指針を、一人ひとりが現実のものとしていく。一家の和楽を、人生の幸福を、そして、いかなる苦難にも負けない自己自身を築き上げていく。これこそ、私たちの信心の目的です。
 そこに「人間革命」があり、「一生成仏」があるといえる。
 この一人ひとりの信心と人生の勝利があってこそ、「立正安国」も「広宣流布」も実現できるのです。
7  「わが生命は妙法なり」との確信
 斎藤 大聖人は、全人類の希望の未来のために、一生成仏の大法を残してくださったわけですね。
 池田 その通りです。「一生成仏抄」を拝しておきたい。
 同抄の冒頭では、大聖人の仏法が、一生成仏のための仏法であることを、宣言されています。
 「夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり
 〈通解〉――そもそも、無限に繰り返す生死流転の苦悩をとどめて、この人生においてこそ必ず仏の最高の悟りを得ようと思うならば、あらゆる生命に本来具わっている妙なる真理を観じなければならない。あらゆる生命に本来具わる妙なる真理とは、妙法蓮華経である。それ故、妙法蓮華経と唱えることが、あらゆる生命に本来具わる妙なる真理を観じることになるのである。
 大聖人はまず結論を明確に示されています。
 生死流転の苦悩から脱出するには、「衆生本有の妙理を観ぜよ」。こう仰せです。
 わが生命に具わる妙法の無限の力用を開くのです。常楽我浄の崩れない絶対的幸福境涯の確立です。そのカギは、妙法に対する揺るがぬ信です。
 斎藤 「衆生本有の妙理」とは、「あらゆる生命に本来具わる妙なる真理」という意味ですね。
 池田 万物を支える宇宙根源の法です。仏は、自らの生命の根本がこの法にあることを悟って成仏したのです。つまり、仏を仏たらしめている仏種が、この妙理なのです。
 その素晴らしい妙法が、あらゆる生命に本来、具わっている。そのことを説き切っているのは、膨大な諸経のなかでも唯一、法華経だけです。その法華経の精髄が「妙法蓮華経」です。
 根本法である妙法蓮華経の説明は難しいが、大聖人は妙法蓮華経の意義を、例えば「妙の三義」として分かりやすく示されています。
 斎藤 「法華経題目抄」で大聖人が仰せの「具足円満」「開く」「蘇生」の三義ですね。
 池田 そう。「具足円満」の義とは、法華経の題目は万物の根源であり、この宇宙に現れる、あらゆる価値、あらゆる功徳が完全に収まっている、ということです。
 「開く」義とは、その妙法の蔵から、条件に応じて実際に新しい価値が開かれてくるということです。そして、蔵を開くカギが題目を唱えることです。
 そして「蘇生」の義とは、その功徳によって、行き詰まって停滞していた者を蘇らせることです。例えば、法華経以前の経典では成仏できないとされていた二乗や悪人や女人も、法華経では成仏することができる、と説かれます。不可能をも可能にする、ということです。
 仏の生命とは、こうした妙法の力用によって開かれた最高の人格的価値なのです。
 斎藤 すなわち「妙法蓮華」ですね。古代インドでは、蓮華は、最高の人を譬えたとも言われています。
8  万物は妙法から開花した蓮華
 池田 仏法の原点は、釈尊が内なる法に目覚めたことです。菩提樹の下で内面への深い探求を続けた釈尊は法(ダルマ)をありありと覚知したのです。
 仏の原語は、サンスクリットの「ブッダ」です。これは「(真理に)目覚めた人」という意味です。当時の諸宗教でも用いられたが、釈尊が登場した後、やがて専ら釈尊を指して用いられるようになりました。
 それと同時に、「ブッダ」の原語には、「開花する」という意味合いがある。人格の薫り高く爛漫と花を咲かせ、福徳の果実をたわわに実らせる人が、ブッダです。「法」の功徳を体現し、福徳あふれる人格として輝く人です。
 森中 仏の別名の一つに「世雄」とあります。仏とは、現実社会の勝利者です。結果の人、実証の人です。
 池田 また、万物も、実は、妙法から開かれる価値であり、開花した蓮華なのです。その意味では、森羅万象が「妙法蓮華」であると言えます。
 森中 「諸法実相抄」では「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・ことごとく一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」と仰せです。
 池田 そう。自身の生命を妙法蓮華と知見した仏は、同時に、全生命が妙法蓮華であるとも知見します。あらゆる衆生が本来、妙法蓮華の当体である。ゆえに仏は、すべての衆生にわが子に対するような「慈しみ」の心を起こすのです。
 自分が妙法蓮華であることを、まだ知らない衆生は種々に苦悩を感じている。その衆生の苦悩も、仏はわが子の苦しみのように、ひしひしと分かる。「悲しみ」の心、「同苦」の心を起こします。
 仏とは、「慈悲の人」です。
 戸田先生はこう述べられている。
 「慈悲というものは、修行ではない。行動のなかに、心のはたらきのなかに、無意識に自然に発現すべきものであって、仏は生きていること自体が慈悲の状態に生きる以外に道を知らないものである。
 『慈』とは、他に楽しみを与えることであり、『悲』とは、他の苦しみを抜くことをいうのである。この行動は仏の自然の行動であって、むりに修行しつつあるものではない。ものを言い、手をあげ、法を説くなど、みな慈悲の行業のためであって、この境地に達せられた方を仏と称し、尊信したてまつるのである」(『戸田城聖全集』第三巻)
 慈悲が仏の本質なのです。法華経の肝要・寿量品の最後には、仏の「永遠の一念」「久遠の大願」が記されているね。
 斎藤 はい。大聖人が「毎自作是念の悲願」と呼ばれている一節です。
 「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」(法華経493㌻)とあります。
 意味はこうです。「私(釈尊)はつねにこのことを念じている。すなわち、どのようにすれば、衆生を、無上の道に入らせ、速やかに仏身を成就させることができるだろうか、と」。
 池田 この「一念」、この「願い」こそ、寿量品で説かれる"永遠の仏"の実体です。
 大聖人はまた、この「毎自作是念」の「念」について、「生仏本有の一念」と仰せです。衆生も仏も等しく本来、具えている一念なのです。「すべての人と共に幸せになりたい」――これこそ、万人にとって久遠の清らかな願いであり、生命の根底にはたらく「本来の心」なのです。この心に目覚め、この心に生き抜く人が仏なのです。大聖人は、この願い、この理想、この希望に、生き抜かれたのです。
9  森中 紀元二世紀のころのインドの詩人・マートリチェータは、釈尊を讃えてこう謳っています。
  「自分の責任で
   あろうがなかろうが
   あなたは
   迷いわずらう心から
   解放されたにもかかわらず
   あえて自分から進んで
   このはかない世に
   出現した
   人に親切にするには
   動機などいらない
   人を愛するのに
   理由などいらない
   あなたは
   友なき人の友となり
   家族なき人の家族となった」
 斎藤 内から湧き上がる慈悲のままに、あの人を励まし、この人を奮い立たせた釈尊の姿が髣髴とします。
 池田 仏とは、内なる崇高な魂の叫びに素直に耳を傾け、その声を導き手として、生涯、困難と戦い抜いて、理想の実現に邁進し続け、皆に希望と勇気を与える人を言うのではないだろうか。
 日蓮大聖人こそ、慈悲の当体であられる。
 戸田先生はこう語られたことがある。
 「慈悲こそ仏の本領であり、大聖人様は慈悲そのものであらせられる。日本国の諸人を愛すればこそ、仏教の真髄を説いて一歩も退かず、伊東へ、佐渡へ、首の座に、いくどの大難をものともせず、三類の強敵を真っ向から引きうけられた艱難辛苦そのもののご一生であらせられたのである。
 これを思えば、われわれ大聖人の弟子をもって自称する者は、たとえ身は貧しくとも、学問はなくとも、身分は低くとも、いかなる地獄の世界に生きようとも、大聖人様の百万分の一のご慈悲たりとも身につけんと、朝な夕なに唱題に励まなくてはならない。それには、大聖人のご生命のこもった題目を日に日に身に染めこませ、心にきざみ、生命に染めて、一日の行業をみな慈悲のすがたに変わるよう、信心を励まなくてはならないのである」(『戸田城聖全集』第三巻)
10  「自分が変われば世界が変わる」
 池田 大聖人は、「一生成仏抄」で、「衆生本有の妙理」とは「一心法界の理」であると言い換え、「心」を強調されています。
 一心とは、私たち一人ひとりの今この瞬間の心、一念のことです。法界とは、森羅万象であり、それをすべて含む大宇宙のことです。
 宇宙のあらゆるものが一粒の塵も残さず、すべて、わが一念に納まっている。また、このわが一念が、宇宙の果てまで行きわたっている。この真実を明かしたのが、「一心法界の理」です。
 斎藤 私たち一人ひとりの心に、自身を取り巻く全世界が具わっている――それが一心法界の理ですね。一念三千と通じあう法理です。
 池田 「自分が変われば、世界が変わる」という根本原理です。「人間革命」、「立正安国」へと連なる原理です。
 すべては自分自身です。誰のせいでもない。すべては自分自身のためです。誰のためでもない。
 このことが分からなければ、妙法ではないのです。
 森中 したがって、大聖人は「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法そほうなり」と仰せです。「成仏の直道」ではないと断言されています。
 そして、「妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」(同)と述べられて、正しい信心の姿勢を示されています。
11  池田 「我、妙法蓮華経なり」――そう決めよ、ということです。
 「妙法」は、万人の苦悩を除く大良薬です。また、万人の幸福を実現する大宝蔵です。その妙法を根本に、そして妙法に徹して、生き切るのです。自身の生命を妙法に染めあげるのです。自身の生命を妙法で固めるのです。
 「妙法」は永遠です。万物の根源です。その妙法と一体の生命を覚知すれば、自身も永遠となり、無限の力が湧き出す。何があっても壊れない。何が起ころうと自在である。それが成仏の境涯です。そこに妙法蓮華経と唱える題目の深い意義があります。
 妙法を信じ、妙法と一体となれば、無常の自身が永遠の存在となるのです。この有限の自身に無限の力が湧き上がるのです。ゆえに、いかなる行き詰まりも打破していける。そのための信心です。
 また、その姿が「蓮華」です。苦悩の泥沼から生じながらも、汚れに染まらず、すがすがしい姿とふくよかな香りをもって、凜然と咲き薫るのです。「人華」と咲き誇るのです。
 戸田先生は、成仏について、こう指導されています。
 「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来に向かって仏であると覚悟することである」(『戸田城聖全集』第三巻)
 斎藤 「すなおに信じる」――これが最も大事だと思います。しかし、最も難事です。どうしても、ちっぽけな「我」が出てきてしまいます。
 池田 その自身の小さなカラを打ち破っていくのです。三世永遠の生命奥底の一念に心を定めるのです。それが、妙法への信です。
 結局は「覚悟」です。"自身が妙法だ!"と目覚めるのです。三世永遠に妙法に生き抜くと覚悟を定めるのです。
 戸田先生は、このようにもおっしゃっています。
 「われわれが、ただの凡夫でいるということは秘妙方便であり、真実は仏なのであります。われわれの胸にも御本尊はかかっているのであります。すなわち御仏壇にある御本尊即私たちと信ずるところに、この信心の奥底があります」(『戸田城聖全集』第五巻)
 次から次へと悩みがある。困難が襲ってくる。それが私たちの現実です。しかし、すべてに敢然と立ち向かい乗り越えていく力が、一人ひとりに具わっているのです。そのことを信じて、実際にその力を開き顕すことができるかどうか。そこが勝利のカギです。
 森中 そのカギが妙法に対する「信」なのですね。
 池田 凡夫として苦悩の現実と立ち向かい、乗り越えるからこそ、妙法の偉大さが証明できる。凡夫であることは、その使命を実現するための方便なのです。
 苦悩に負けてグチを言っているうちは、宿命に束縛された姿です。困難と真っ向から取り組んで戦えば、使命と転じる。すべて自身の一念で決まる。
 内なる仏、内なる妙法に目覚めるか、否か――そこが信心の要です。仏法の根本です。
12  森中 「一生成仏抄」では、心が「迷っているか、悟るか」で、世界も「浄土か、穢土か」が決まり、自分も「衆生か、仏か」が決まると仰せです。
 「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、たとえば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性ほっしょう真如しんにょの明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
 〈通解〉――衆生の心が穢れれば国土も穢れ、心が清ければ国土も清いと浄名経に説かれているように、浄土というも穢土というのも国土に二種の区別があるのではなく、我らの心の善悪によると見られるのである。衆生といっても仏といってもまたこれと同じである。迷っている時は衆生と名づけ、悟った時には仏と名づけるのである。譬えていうと、映りの悪い鏡も磨けば玉のように輝いて見えるようなものである。この今の瞬間でも、生命の真実に暗い迷いの心は映りの悪い鏡のようなものである。これを磨けば、必ず悟りの真実を映し出す明鏡となるのである。深く信心を発して、日夜、朝暮に決して怠ることなく磨きなさい。どのようにして磨けばよいのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えることを磨くというのである。
 池田 有名な御文です。
 妙法蓮華経が自分の生命を律する根本法であり、成仏の種子であると信じて、南無妙法蓮華経と唱え続ける信心と実践がある人が、即ち仏であると仰せです。凡夫も仏も、人間として本質的な違いはない。心の違いです。行動の違いです。
 心すべきことは、自分の生命が妙法蓮華経の当体であると信ぜよという大聖人の勧めです。また、自分の生命のほかに求めたら、もはや妙法ではなく◎法(=劣悪な法)になってしまうという戒めです。その「確固たる信」にこそ、妙法蓮華の功徳が開花するのです。
 妙法蓮華経への信の「一心」こそ、仏界の生命と現れるのです。妙法蓮華経への信の「持続」こそ、そのまま成仏の姿です。
 森中 「妙法蓮華経への信の持続」という因行が、そのまま成仏の姿なのですね。
13  池田 受持即観心です。果徳は、さまざまな姿を現すことが可能です。
 一つの言葉や像では表せません。当然のことながら、経典や仏像で描かれている色相荘厳の姿になるわけでもない。
 しかし、精神の面で、あえて言うなら、戸田先生が示された「大いなる希望」がそれに当たるでしょう。自らの内から起こってくる自身の成仏への確信と人生の意味の把握、また万人の成仏への確信が、その大いなる希望の内実です。
 森中 これまで論じられてきた「広宣流布の大願」や「自他共の幸福を願う心」が、それに当たりますね。
 池田 何があっても崩れない絶対的幸福ともいえます。
 斎藤 御本尊は、妙法蓮華経への信を一人ひとりが生涯、貫いていくために顕されたと拝せます。
 池田 一人の人の受持のためであるとともに、広宣流布のためでもあると拝せます。「法華弘通のはたじるし」と大聖人は仰せです。
 大聖人は、個人がこの妙法蓮華経の一法の受持を生涯貫いて、一生成仏していけるために、また、この信を一人から一人へと弘めて国土の成仏、平和を実現していくために、御本尊を顕してくださったのです。
 御本尊については、別の機会に改めて、詳しく拝していきたいが、この御本尊を明鏡として、私たちは受持即観心、信即成仏を実現していくことができるのです。

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