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日蓮大聖人・池田大作

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民衆本位・人間主義の「安国」観  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
1  安国とは「民衆の安穏」
 斎藤 引き続き、「立正安国論」を巡ってお話を伺いたいと思います。
 前節は「立正」(正法を立てる)を中心に語っていただきましたので、本節は「安国」(国を安んずる)を中心にお願いいたします。
 池田 はじめに前節の復習も兼ねて「立正」と「安国」の関係を簡潔に述べると、「立正」は「安国の根本条件」であり、「安国」は「立正の根本目的」であると言えるでしょう。
 日蓮大聖人が「立正安国論」で言われる正法とは「実乗の一善」、すなわち、すべての民衆が仏性という根源の力を開いて成仏できると説く法華経の法理にほかなりません。この法華経への強い信を立てることが、「個人における立正」です。言い換えれば、一人ひとりが自他共の成仏をめざしていくことである。
 また、実際に、末法の凡夫が仏界を涌現していける法である「三大秘法の南無妙法蓮華経」を受持することが、「立正」の根本の実践です。
 さらに、法華経から帰結される「人間への尊敬」「生命の尊厳」の理念が、社会の万般を支える哲学として確立されることが、「社会の次元における立正」です。
 次に、「立正」の目的である「安国」とは、民衆が幸福に安穏に暮らし、自身の人間性を最大に開いていける平和な社会を実現することです。
 要するに、「民衆の安穏」「民衆の平和」こそ、大聖人が言われる「安国」の本質です。当然のことながら権力者や特権階級だけの安泰をいうのではありません。
 森中 「国を安んずる」といっても、その「国」の中身をどう捉えるかで、その意義は大きく変わるということですね。民衆中心の国か、権力者中心の国か。この点こそ、多くの人が「立正安国論」を読み誤ったもっとも大きな理由であると考えられます。
 斎藤 日本の仏教は、伝来以来、鎮護国家といって、要するに「支配者の安泰」を第一に祈る仏教でした。この場合の国とは、支配者中心の権力構造としての国家のことです。
 大聖人の「立正安国」を、この旧来の鎮護国家と同様のものと考えてしまう人が多いようです。しかし、大聖人の時代には、そういう旧来の国家仏教は、権力者たちと同等の権益を持って権勢を誇っていたものの、宗教的には破綻していました。
 その国家仏教の破綻を象徴するのが、大聖人が聖誕される前年に起こった承久の乱でした。盛んに祈祷を行った朝廷側があっけなく負けてしまったからです。
 大聖人は、御幼少のころから、このような祈祷仏教あるいは国家仏教というべき在り方に疑問を持たれていました。そして、それを超えたのが大聖人の「立正安国」であると思います。
 池田 そうだね。大聖人は、民衆に根源から活力を与えることを説く法華経、そして、その真髄である南無妙法蓮華経を末法の正法として弘め、民衆の安穏と平和を実現しようとされたのです。
 この「民衆中心の安国」の考え方を映し出しているのが、「安国論」の冒頭で、客と主人が民衆の悲惨と宗教の無力を嘆く最初の問答です。
2  全世界から悲惨の二字をなくしたい
 森中 はい。その「安国論」冒頭の客の言葉の一部を拝読いたします。
 「旅客りょきゃく来りてなげいて曰く近年より近日に至るまで天変地夭てんぺんちよう飢饉疫癘ききんえきれいあまねく天下に満ち広く地上にはびこる牛馬ちまたたお骸骨がいこつみちてり死を招くのともがら既に大半にかなしまざるのやからあえて一人も無し
 〈通解〉――旅人が訪れて嘆いて語る。数年前から近日に至るまで、天変地夭が天下の至るところで起こり、飢饉・疫病が広く地上を覆っている。牛馬が巷に行き倒れ、骸骨が道にあふれている。死を招いた者が大半を超え、悲しまない者など一人もいない。
 また、こうも仰せです。
 「弥飢疫に逼られ乞客目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍を観と為し並べる尸を橋と作す」(同)
 〈通解〉――ますます飢饉・疫病が広がり、物乞いをしてさすらうものが目に溢れ、死人が眼を満たす。屍が積み重なって物見台となり、横に並べられて橋となるほどである。
 池田 簡潔な御文ですが、想像を絶する悲惨さです。牛馬まで巷に倒れたとあっては、どれほど時代の生命力が弱っていたかがわかります。どれほど民衆は苦しんでいたことか。
 森中 特に正嘉元年(一二五七年)から、「安国論」を提出した文応元年(一二六〇年)に至る四年間に、深刻な大災害が続いています。正嘉元年の八月には鎌倉に大地震、翌年には大風、洪水などがあり、その翌年には全国的な大飢饉と大疫病が起こって、次の年まで続き、民衆は完全に打ちのめされていました。
 池田 客の言葉に答えて主人は「独り此の事をうれいて胸臆くおく憤悱ふんぴ」と述べています。
 「胸臆に憤悱する」というのは、悲しみを通り越して憤りがどうにも収まらないことです。これは、大聖人の御心を、そのまま述べられたものと拝することができます。
 まさに「同苦」の心です。
 斎藤 大聖人は、当時の民衆の塗炭の苦しみを直視し、その実態を客の嘆きとして、赤裸々に語られています。困苦の極み、悲惨の極致にあえいでいた民衆を、大聖人は、何としても救おうとされたのですね。
 池田 この懊悩する民衆への「同苦」こそ、「安国論」の根本です。
 これは単なる感傷でもなければ、単なる同情でもない。民衆を幸福にすることが仏の使命です。民衆を不幸にする根本の魔性を打ち破る戦いがなければなりません。そのために実態を直視されているのです。
 救うべきは苦悩にあえぐ民衆であり、戦うべき相手は、民衆を苦悩の底に突き落とした魔性です。
 戸田先生は、昭和三十二年の「大白蓮華」新年号に、こう記されていた。
 「願わくは、吾人と志を同じくする同志は、世界にも、国家にも、個人にも、『悲惨』という文字が使われないようにありたいものと考えて、望み多き年頭をむかえようではないか」(『戸田城聖全集』第三巻)
 悲惨の二字を世界からなくしたい――。
 そのために民衆を苦しめる魔性とは、どこまでも戦っていく。それが仏の心です。また、丈夫の心です。この心に立脚せずして、広宣流布の指揮はとれません。
 いずれにしても、「安国論」の冒頭には「安国論」御執筆の動機が記されているが、その根本は「民衆への同苦」です。とすれば、目指すべき「安国」とは、何よりも「民衆の安穏」であることは明らかです。
 森中 その傍証として、既に幾度も指摘されていますが、大聖人が「立正安国論」の御真筆で用いられている「くに」の漢字が、重要な示唆を与えています。
 安国論では「国」「國」そして「囗民」の三種の字が用いられています。
 「国」は「王」が領土の中にいることを示す字です。「國」の字の中には「戈」という武器が記されています。武器で領土を守る姿を示したものとされます。
 しかし、安国論では約八割が「囗民」という字を用いられています。
 池田 「民衆が生活する場」としての国を意味する字だね。民衆の幸福を根本とした国のあり方を示唆されているといえるのではないだろうか。
 また、大聖人は、国主と民衆の関係について「王は民を親とし」と仰せです。政権は民の支えを得ていなければ、倒されてしまいます。民衆こそ王を生み、育む親です。
 斎藤 権力者は「万民の手足」であるとも仰せです。親ともいうべき民衆を守り、その手足となって奉仕してこそ、王は人間として尊敬されるものといえます。
3  民衆本位の立場から権力者に直言
 池田 大聖人の民衆本位の思想は明らかだね。
 「立正安国論」の前年に著された「守護国家論」の冒頭では、「民衆の歎き」を知らざる国主は三悪道に堕ちると明言されています。
 大聖人は、諫暁の書「立正安国論」を、当時の最高実力者である北条時頼にあてて提出しました。
 諫暁は、絶対的な権威・権力への異議申し立てです。命に及ぶ大難への壮絶な覚悟がなければ、成し遂げることはできない。それでもあえて、大聖人は諫暁されたのです。
 それは、当然、民衆救済の思いが止み難かったからです。とともに、時頼という人物にも一分の希望を持たれていたと拝される。確か、時頼が執権だったころ、民衆のために種々の政策を行っているでしょう。
 森中 はい。宝治二年(一二四八年)閏十二月二十三日には「(百姓らに)田地ならびにその身を安堵せしむることこそ、地頭の進止(=行動規範)たるべし」(「吾妻鏡」『新訂増補国史大系』第三十三巻、吉川弘文館)と、民衆に対する武士の横暴を戒めています。
 また建長三年(一二五一年)六月五日には、幕府高官の贅沢が民衆を苦しめていることを戒める命令も出しています。
 池田 質実剛健の気風だったのだろう。『徒然草』などにも、時頼が、かわらけ(素焼の陶器)に残った味噌を肴として満足して酒を飲んだ逸話が記されているね。
 また、時頼は、唐の発展の基盤を確立した太宗の言行録『貞観政要』を重要視していました。同書では、名君の条件として、「我が身を正すこと」と「臣下の諫言を聞き入れること」を一貫して述べています。
 斎藤 ですから、時頼が意見を聞く姿勢を重んじる人であったので、大聖人は宿屋入道を通じて「立正安国論」を届けられたのではないでしょうか。
 池田 「撰時抄」によると、その際に、「安国論」で書かれた念仏破折だけではなく、時頼が傾倒していた禅宗の破折も宿屋入道を通して伝えられているね。
4  斎藤 はい。さらに御真筆の断簡によると、どうも「安国論」提出に先立って、大聖人は、時頼に会われていたようです。その折にも禅宗を破折されています。
 時頼の禅への傾倒は著しかったようです。それは、時頼個人の資質に適っていたということもありますが、社会的な点からいうと、朝廷のある京都への対抗意識があったのではないでしょうか。京都に負けない文化を確立しようとしていたのだと思います。
 田舎町から実質的な政治の中心となったとはいえ、鎌倉はまだまだ未成熟な都市でした。それゆえ、伝統を誇る旧来の仏教ではなく、新たに中国から伝わった禅に注目したのだと思います。
 森中 それに、仏教を離れて世俗的な利益も大きかったようですが。
 池田 そうです。当時の中国は、技術の大発展期です。羅針盤による航海術、活字による印刷術、火薬などが発明されました。それらは後に西洋の近代化をももたらしたものです。
 日本は、平安時代の長い対外的閉鎖状態を越えて、世界の最先端をいく中国の高度な技術・文化に競ってふれようとしていた時代です。
 森中 北条氏一族も船を仕立てて貿易に励んでいました。通訳には僧侶がしばしば当たっています。
 池田 承久の乱で、武力によって政治の実権を掌握したが、まだ、その精神的機軸も、人材も、制度も整っていなかった。その空白を埋めようと焦る心があった。その心の隙間に深く入り込んだのが、禅宗であった。
 大聖人は、その点を鋭く見抜かれ、本当に心の支え、社会の柱とすべき思想は、禅宗ではなく、法華経であることを訴えられたと拝察される。
 斎藤 当時の宋は、農業・工業・商業で目覚ましい発展を遂げていたものの、国家の財政は乱費と戦争によって危機に陥っていました。蒙古(後の元)をはじめとして北方の異民族の力は強く、国家滅亡の危機に直面していました。僧侶は国家への奉仕を要請され、皇帝のため、国家のための祈祷を率先して行っていました。
 したがって、宋から日本にやってきた禅僧には護国意識が強く、後に元からの国書がやってきた時も強硬路線を唱えます。その弟子には、敵国降伏を率先して祈願するものが現れました。
 森中 日本の禅僧もそれに倣いました。臨済宗の栄西は、一一九八年(建久九年)に既に「興禅護国論」を書いています。そのなかで、禅を興すことによって鎮護国家が可能になるという主張を行っています。その栄西の孫弟子に、御書に僭聖増上慢と指摘されている円爾弁円(聖一)がいます。
 また、時頼が建て、禅僧の蘭渓道隆が開山となった建長寺は、正式には「建長興国禅寺」という名称です。
 「上は皇帝の万歳、将軍家および重臣の千秋、天下の泰平を祈り、下は源氏の将軍三代、二位家(=源頼朝夫人の北条政子)ならびに北条一門過去数輩の没後を弔うため」(高木豊編、『論集日本仏教史』第四巻、雄山閣出版)に建立されたものです。一握りの権力者にばかり目がいって、最も多く、最も大切な民衆は、まったく眼中になかったようです。
5  池田 大聖人の場合は、どこまでも民衆の幸福が根本です。万人の成仏を説く法華経に基づくならば、必然的に民衆根本になるのです。
 戸田先生は、かつてこのように語っておられた。
 「政体とか政権とかいったものは、大きくみれば、民衆の意思によって、その時代時代で変わっていくものだ。そんな移ろい易いものに眼を奪われ、民衆自身に光をあてなければ、この厄介な社会を寂光土化する広宣流布の仕事は決してできない」
 鋭い洞察です。常に民衆に目を向け、光を当てていかなければ、広宣流布は進まない。人類は永遠に闇に包まれ、不幸の流転に陥ってしまう。このことを、私たちはどこまでも深く銘記しなければならない。ゆえに、広布の活動は、一人から一人へと法を伝えていく着実な戦いが基本です。
 私どもは、日々、どれほど壮大な、確かなる歴史を綴りゆく偉業に、邁進していることか。
 今は、たとえどんなに目立たなくとも、また人々から誤解され、正しく評価されなくとも、まったく気にすることはない。永遠の生命観、歴史観からみれば、それらは一瞬の出来事にすぎないし、取るに足らないことです。
 見る人は見ています。声をあげて賛同する識者も年々増えてきている。また、学会は世界が味方です。そういう時代に入った。いずれにしても、私どもの足跡を、大聖人が、さらに十方の仏・菩薩が最大に賛嘆されているに違いない。
 斎藤 世界各国・各界からの先生に対する数多くの顕彰が、その偉業を証明しています。私たちにとって、最大の誇りです。
 池田 すべて、「世界の平和」「民衆の幸福」が目的です。それが広宣流布です。
 私が開いた道を後継の青年が受け継ぎ、さらに広げ延ばしてもらいたい。そして、世界のすみずみまで、幸福の使者となって駆け巡っていただきたい。それが私の願いです。
 「民衆本位」が大聖人の安国観の根本であり、出発点であるとすれば、「世界平和」は大聖人の安国観の結論です。「安国」、すなわち、「国を安んずる」とは、結論的に言えば「平和を実現すること」だからです。
 「立正安国論」では、自界叛逆、他国侵逼の両難が起こることを警告しています。これは、戦争の危機に警鐘を鳴らされたものです。
 戦争は、その結果が残酷かつ悲惨で、醜悪なばかりではなく、人間生命の最も醜く残忍な働きの現れです。人間としての崇高さ、尊厳性をはぎとり、人間を人間でなくしてしまう魔の行為です。生命の尊厳を守り、仏界という人間として最も崇高な境涯に万人を導こうとする仏法が、戦争の阻止に、真っ向から取り組むのは、当然の使命です。
 争いへ、争いへと激流のように流されていくのが、末法の人間です。それを阻止する根本は、人間それ自身の仏性を開発する以外にありません。ですから、仏界涌現こそ、最も本源的な平和の道なのです。それを確かな永遠の軌道にしていくことこそ、大聖人の戦いであられた。私たちは、その戦いを継承しているのです。
6  国家主義的解釈の誤り
 斎藤 「民衆本位」と「世界平和」が、大聖人の安国観の本質であることが分かりました。ところが、近代の日本にあっては、大聖人が偏狭な国家主義の思想を説いているかのような、全く逆のイメージが持たれてきました。
 森中 その元凶は、田中智学や本多日生といった、戦前のいわゆる日蓮主義者たちです。ちなみに、日蓮主義とは彼ら自身による呼称です。彼らは、明治、大正、昭和と仏教界の先頭に立って、国家主義の論調を引っ張ってきました。
 彼らは、日蓮仏法を利用して戦争への道を準備していきました。そして、アジア侵略を推し進めた軍人や暗殺テロの首謀者にも影響を与えました。
 斎藤 日蓮主義者たちは、大聖人の教えを、徹底して国家主義的にねじ曲げて"改釈"してきました。
 彼らの解釈は、まず国家主義や国家神道の考えが根にあって、それに適合するように大聖人の言葉を解釈していく手法です。それが、当時の国家主義的な風潮のなかで日蓮仏法の正しい解釈だと思われるようになってしまいました。
 池田 大聖人には、具体的に民衆が生きていく場としての「国」を大切にするお考えがあります。それを国家主義的に歪めて解釈し、悪用することは絶対に許されない。
 総じて言うと、同じ「国」という言葉でも、"権力者中心の国"か"民衆中心の国"かという基準で見ていけば、いわゆる日蓮主義者たちの根本的狂いは明白でしょう。
 斎藤 はい、そう思います。彼らは、「立正安国論」も国家主義的解釈のために利用しました。代表的な一例を挙げると、「立正安国論」第七問答に、「先ず国家を祈りてすべからく仏法を立つべし」とあります。
 彼らは、この部分だけを切り離して、日蓮大聖人が、あたかも宗教よりも国家を優先させる国家主義者であったかのように論じました。
 森中 しかし、これは、北条時頼を想定した客の側の言葉であって、大聖人御自身に当たる主人の言葉ではありませんね。
 池田 そうです。客はこの時、主人の教えをようやく理解した段階にあります。その段階での発言であることに留意すべきなのです。
 主人はこれまで、民衆を苦しめる大災害の根本原因は法華誹謗の教えを説いて多くの民衆を惑わしている念仏宗であり、災難を止めて国を安穏にするには、念仏の一凶を禁ずるべきであると主張してきました。
 このような災難の原因があることを理解した客が、何が正しい仏法なのかを探究するのは後にして、まずは国の安泰を祈って、どうすれば災難を止められるかを主人に尋ねているのが「先ず国家を祈りて……」という言葉です。
 斎藤 つまり、客の「先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし」(同)という言葉の意味は、「まず国の安泰を祈って災難を止めて、その後に、何が正しい教えなのかを詳しく求めていきたい」という意味ですね。
 ここからどうして、宗教よりも国家を優先させるというのが大聖人のお考えであると言えるのでしょうか。
 池田 その通りです。「安国論」の結論部分では、主人が客に「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方はことごとく宝土なり宝土何ぞ壊れんや」と述べています。大聖人は、あくまでも「立正」を根本の大前提として「安国」を考えられていました。
 断じて、「立正による安国」という真の平和を実現していかねばならない。しかし、当時、民衆の間に広く広まっている念仏の教えが来世や他土への逃避を説いて、現実世界に平和を実現するという法華経の行き方を妨げていたのです。
 森中 念仏で極楽に往生する以外に末法の人々の救いはないという法然の排他的な教えは、特に大きな妨げになっていました。
7  池田 そう。だからこそ、大聖人は法然の教えを一凶と断じているのです。
 そして、その法然一派の高僧たちに寺院を寄進して、擁護していたのが、鎌倉幕府の高官たちです。大聖人が「念仏の一凶を禁ぜよ」と言われているのは、具体的には高僧たちへの「布施を止める」こと、つまり権力者と高僧たちの癒着関係を断ち切るべきであると進言されているのです。
 いずれにしても、いわゆる日蓮主義者たちが、この御文を読み違えたのは、国家主義的な考えが先にあって、その先入観のもとで、「先ず国家を祈りて」という言葉を大聖人の国家主義の表明だと錯覚してしまったのでしょう。
 重要なことは、大聖人の民衆本位の安国観が分からないと、大聖人の平和主義が分からないことになるという点です。
 斎藤 民衆本位が分からず、国家主義を前提にしていたため、大聖人の教えが、結局、侵略主義を正当化するものとして誤用されてしまいました。「八紘一宇」という言葉を、日本の侵略主義の合言葉として用い始めたのも日蓮主義者です。
 池田 トインビー博士は、国家主義を「人間の集団の力を信仰の対象とする宗教である」と位置付けておられた。日蓮主義者たちは、法華経や日蓮大聖人の御書の言葉を用いながら、その正体は、国家を偶像として崇拝する「国家宗教」だったのです。まさに「雖学仏教・還同外見(=仏教を学すといえども、かえって外見に同ず)」、「日蓮を用いぬるともあしうやまはば国亡ぶべし」というほかない。
 この点、国家主義的な解釈が誤っていることを指摘し、批判する識者もいたね。
 森中 はい。例えば、高山樗牛は、こう述べています。
 「日蓮は真理の為に国家を認む、国家の為に真理を認めたるに非ず。彼れにとりては真理は常に国家よりも大也」(「日蓮上人と日本国」『樗牛全集』第四巻、博文館)
 また、矢内原忠雄も同じ趣旨のことを言っています。
 「日蓮は国を法によって愛したのであって、法を国によって愛したのではありません(中略)立正が安国の因でありまして、安国によりて立正を得ようとするは、本末顛倒であります。日蓮の目的としたものは国家主義の宗教ではありません」(『余の尊敬する人物』、岩波書店)
8  池田 しかし、日本は、狂った国家主義へ突き進んでしまった。
 その真っ直中にあって、真っ向から闘争を挑んでいかれたのが、牧口先生です。全体主義の暴風が吹きすさぶなかで、「我々は国家を大善に導かねばならない。敵前上陸も同じである」と言われ、宗教改革の旗を高らかに掲げられたのです。
 宗門から神札を受けるように言われても、厳然と拒否された。
 「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諫暁の時ではないか。なにを恐れているのか」(『戸田城聖全集』第三巻)――これが初代会長の精神です。
 斎藤 その牧口先生に対して「自らの宗教信条に基づいて神札を拒否しただけで、国家主義の立場から戦争に賛成していた」という見当違いの批判をする学者がいます。時代状況を全くわかっていない。
 池田 創価教育学会の活動が本格化したのは、国を挙げて国家主義に雪崩を打っていった時代です。
 息の詰まるような厳しい言論統制が行われていた。会合で、少しでも政府を批判するようなことを口にすると、特高刑事から「中止! 中止!」と妨害が入った。機関紙にも、陰湿な検閲の目が光っていた。周りを見渡しても、敵、敵、敵。まさに「敵前上陸」です。そのなかにあって、牧口先生は言論を唯一の武器としながら、不撓不屈の闘争を展開していかれた。
 どうすれば、国家神道に精神を侵された人々を目覚めさせることができるか、「不惜身命」「死身弘法」を貫かれたのです。
 森中 時には、軍国主義のスローガンまでうまく使い、逆手にとりながら、巧みに、政府に対する批判を行いました。
 牧口先生の肉声は、今となっては聞くすべはありませんが、特高警察に捕らえられたときの「訊問調書」でも、厳然と国家主義と戦われています。そこには、例えば、大日本帝国憲法と法華経の大法の関係について、こう述べておられます。
 「法華経の法は宇宙根本の大法でありまして過去・現在・未来の三世を通じて絶対不変万古不易の大法であります(中略)此の大法に悖る事は、人類としても将又国家としても許されない事で反すれば直に法罰を受けるのであります」(『牧口常三郎全集』第十巻)
 仏法は、国家の上に立つと厳然と主張されているのです。
 斎藤 時には、御書を開いて「立正安国論」を示されながら、当時行われていた戦争は、「聖戦」ではなくて「国難」であると断じられています。
 「現在の日支事変や大東亜戦争等にしても其の原因は矢張り謗法国である処から起きて居ると思います」(『牧口常三郎全集』第十巻)
 当時の侵略戦争に、鮮明に反対の論陣を張られています。
9  池田 牧口先生は、当時の時代を「末法の悪・国家悪時代」と断言しておられた。
 権力の暴走に一国がこぞって押し流されていた時に、牧口先生は巌のごとく揺るぎなく立っておられた。いかなる弾圧にも屈することなく、正義を主張なされた。そして、殉教されたのです。
 斎藤 いわゆる日蓮主義者は、人間を、国家の繁栄のための手段とした。国家権力に奉仕する宗教観であった。それに対して、牧口先生は、国家を、人間の幸福のための手段とした。ここに決定的な違いがあったと思います。
 森中 牧口先生と日蓮主義者の違いは、教育にも顕著に現れています。
 「教育勅語」のもとでの教育は、皇国の臣民を養成する教育でした。
 田中智学は、「教育勅語」を「世界第一の貴重なる経典」と持ち上げています。さらに、小学校、中学校で徹底して軍隊教育することだ、と主張している。
 これに対して、牧口先生は、「教育勅語」は「人間生活の道徳的な最低基準を示されているにすぎない」と断じておられます。
 また、「教育勅語」には「一旦緩急あれば義勇公に奉じ(=危急の場合は、義勇を国に捧げ)」とありmくぁすが、「平和が大事である。平和を考えていきなさい。平和を守れば、『緩急あれば』などということは必要ない」と話されています。
 牧口先生は、子どもたちに「どうすれば将来もっとも幸福な生涯を送らせることができるか」を目指しておられました。
 「牧口先生は、軍国主義の教育は全くされなかった。『平和しかない』と教えた。あの時代の中で、全く驚くべき教育でした」。そう振り返る教え子の声もあります。
 池田 万人の生命に備わる偉大な可能性を、いかに開花させていくか。そこに日蓮仏法、そして創価学会の運動の根本目的があります。だからこそ、牧口先生は、それを阻む権力の魔性とは、徹して戦われたのです。断固として国家諫暁されたのです。
 国家権力の魔性にひれ伏す宗教にあっては、人間は、国家の繁栄のための手段に過ぎない。要するに、日蓮主義者は、国家を超える視点を持ち得なかった。
 日蓮大聖人は、当時の権力者を、宇宙大の妙法の次元から見下ろしながら、同時に、苦悩にあえぐ民衆の真っ直中に入り込んで闘争を展開された。
 牧口先生も、同じ道を歩まれた。日本の狂った国家主義を見下ろしながら、厳然と批判されていた。しかも、単に批判するだけではない。
 牧口先生が偉大なのは、民衆の中に入られて、苦楽を分かち合いながら、徹して対話を続けられたことです。特高警察の厳しい弾圧にもかかわらず、戦時下で二百四十回以上も座談会を開かれていたことが、牧口先生に対する起訴状に記されています(昭和十六年五月から十八年六月まで)。
 これほどまでに、民衆と徹して語り合って、広宣流布を実現しようとした勇者がどこにいたであろうか。日蓮大聖人の立正安国の精神を蘇らせたのは、牧口先生です。まことに不思議なる偉大な先生です。学べば学ぶほど、その思いを深くします。
 斎藤 牧口先生は、戦争が始まってから、友人だった柳田國男氏のところにも折伏に訪れています。柳田氏は仏法を理解せず、時に批判的でしたが、当時の牧口先生の活動について、戦後に回想しています。
 「若い者を用つて熱心に戦争反対論や平和論を唱へるものだから、陸軍に睨まれて意味なしに牢屋に入れられた。妥協を求められたが抵抗しつづけた為め、牢の中か、又は、出されて直ぐかに死んでしまった」(『定本柳田國男集』別巻第三、筑摩書房)
 牧口先生が、青年と共に「平和」を声高らかに唱えていた、一つの証拠です。
 森中 こうした国家主義の流れに一貫して迎合的な態度をとってきたのが、日蓮正宗宗門です。日蓮系の各派が、大聖人に「立正大師号」を宣下するよう政府に請願した際も、一緒になって運動しています。
 軍部の圧力が激しくなると、伊勢神宮の神札も受けました。
 「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」など、大聖人の御金言を十四カ所にわたって御書から削除したほか、御書の刊行まで禁止してしまった。勤行に使う経本の観念文を皇国史観の色濃い内容に改変するなど、保身と権力迎合に終始しています。
 池田 その通りだ。宗門には、人間の尊厳を踏みにじる国家主義と戦う意志など、ひとかけらもなかった。
 タゴールはこう語っています。
 「われわれは人類を代表して起ちあがり、すべての人々に、このナショナリズムというものは恐ろしい悪性の疫病であり、現代の人間世界を侵し続け、その道徳的活力を食いつくしている、と警告しなくてはならない」(蝋山芳郎訳、『タゴール著作集』第八巻)
10  人間の安全保障
 森中 災難にあえぐ民衆への同苦から、大聖人は「立正安国論」を著されました。
 そこで思い出すのは、池田先生が「SGIの日」記念提言等で紹介してこられたアジア人初のノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・セン博士(ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学長)です。アマルティア(不滅・不朽なるもの、という意)というのは、タゴールが付けた名で、博士は、タゴールの学園に学びました。
 セン博士は、九歳のころ、三百万人に及ぶ餓死者を出したベンガル大飢饉を目の当たりにしています。まさに「骸骨がいこつみちてり」の世界です。それが経済学を志す出発点になったといいます。
 博士は、飢餓の問題は、政治や経済の歪みがもたらしたものだと明快に分析しています。天災は人災であったということです。そして、「適切な政策と行動によって除去できる」と断言されています。
 池田 セン博士は、昨年(二〇〇一年)四月、ボストン二十一世紀センターでも講演をしてくださいました。
 自然災害というのは、自然環境と人間社会の関係性の問題です。
 人々が、いがみ合い、憎しみ合って、社会全体に対立が渦巻いていれば、小さな天変地異が起きても、大きな被害が出てしまうでしょう。どんな天災にも人災とみなしうる面があります。一次元から言えば、人間と社会の生命力が、災害の意味を決めるという言い方もできるでしょう。
 「立正安国論」で、最終的に人災の最たるものである戦争への警告に向かっていくのも、大聖人が、そうした視点をもたれていたからと拝されます。
 セン博士は、カントの格言に幾度も言及している。
 「(=カントが言っているように)"人間性は目的自体であり、断じて手段と見なされてはならない"のであって、現在においてさえ、この言葉はその力を失っていない」(大石りら訳、『貧困の克服』、集英社)
 人間を、経済発展のための手段と考える転倒を正し、人間を目的に据えるところに、博士の経済学の核心があるのではないでしょうか。博士は、相互のかかわりあいと啓発を通して人間の開発と深化をめざす仏法の実践にも、深い共感を示されています。
 森中 近年、注目されている「人間の安全保障」という考え方も、セン博士の発想から触発を受けていますね。池田先生も「SGIの日」記念提言や世界の大学講演で、いち早く提唱されてきた理念です。
 池田 それまで安全保障といえば、「国家の安全保障」であった。国家を守ること、領土を守ることが、最優先されてきたのです。
 しかし、国家が守られても、人間一人ひとりの生存と尊厳が脅かされていては、何のための安全かわからない。
 現在、「国家中心」から「人間中心」へ、安全保障観の見直しが進められています。「人間の安全保障」の考え方は、まず「人間」「生命」を守るという基本発想に立っています。こうした発想が生まれた背景には、地域紛争、差別などの人権侵害、貧困の増大、人口爆発、環境破壊など、さまざまな地球的課題が人間の生存を脅かしている状況があることは、いうまでもありません。
 斎藤 「国家」の呪縛が解け始めて、ようやく「人間」が見えてきた。日蓮大聖人の「安国」の内容も、一次元からみれば現代において言われている「人間の安全保障」に、ほぼ対応するものと考えられないでしょうか。
 池田 「三災七難」の脅威から、民衆一人ひとりの安全を図っていくという点では、まさに「人間の安全保障」です。
 人間一人ひとりは、人種や民族や性別にかかわらず、限りない、豊かな可能性をもっている。その可能性を開花させるために、社会が存在するといってもよい。そうした社会を創ることが、「安国」にほかならない。「一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」という「立正安国論」の精神も、そこにある。
 斎藤 日蓮大聖人は、「人間の安全」について、こうも洞察されております。
 「三毒がうじやうなる一国いかでか安穏なるべき、壊劫の時は大の三災をこる、いはゆる火災・水災・風災なり、又減劫の時は小の三災をこる、ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり、飢渇は大貪よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚しんによりをこる
 池田 「立正安国」は、生命の根本的な濁りを浄化して、人間社会全体の安全を実現していく最も根源的な平和哲学です。
 そうした哲学が、日本一国に限定されるはずがない。世界の平和と人類の幸福を実現していくことが、私たちの仏法運動の目的です。「暴力と恐怖の世界」に転落していくのか、「平和と安穏の世界」を構築していくのか、人類は今、重大な岐路に立たされている。
 戦争という人類の宿痾(持病)を乗り越えて、地球規模の「立正安国」を実現しなければならない。そのために、人間それ自身の変革から出発しなければならない。
 「一人の偉大な人間革命から、全人類の宿命転換を実現する」――その壮大なる革命の最前線に、私たちは立っているのです。
 斎藤 ありがとうございました。
 「立正安国論」については、まだまだ語っていただきたいことが多く残っていますが、別の機会に譲りたいと思います。

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