Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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末法の闇を照らす「人間宗」の開幕  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
2  立宗直前の御思索
 斎藤 まず、立宗前の御行動の面から追っていきますが、日蓮大聖人が立宗を決意されるにあたって、深い思索と熟慮を重ねられたことは御書にも明確です。
 池田 「開目抄」や「報恩抄」に、その御思索の内容が記されているね。
 斎藤 はい。「開目抄」の御文を拝読します。
 「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟しゆいするに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり、我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙ごうしゃの経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ
 〈通解〉――日本国でこのこと(仏教の諸宗は、人々を悪道に堕とす正法誹謗の教えを説いており、謗法の悪縁が国に満ちていること)を知っている者は、ただ日蓮一人である。
 このことを一言でも言い出すならば、父母・兄弟・師匠からの難、さらには国主による難が必ずおそってくるであろう。言わなければ、慈悲がないのに等しい。
 このように考えていたが、言うか言わないかの二つについて法華経・涅槃経等に照らして検討してみると、言わないならば、今世には何事もなくても、来世は必ず無間地獄に堕ちる、言うならば、三障四魔が必ず競い起こる、ということがわかった。
 この両者のなかでは、言うほうをとるべきである。それでも、国主による難などが起きた時に退転するくらいなら、最初から思いとどまるべきだと、少しの間思いめぐらしていたところ、宝塔品の六難九易とはまさにこのことであった。
 「我々のような力のない者が須弥山を投げることができたとしても、我々のような通力のない者が枯れ草を背負って、劫火の中で焼けることはなかったとしても、また、我々のような無知の者がガンジス川の砂の数ほどもある諸経を読み覚えることができたとしても、たとえ一句一偈であっても末法において法華経を持つことは難しい」と説かれているのは、このことに違いない。私は、今度こそ、強き求道心をおこして、断じて退転するまい、と誓願したのである――。
 立宗に当たっての、大聖人の深い御胸中がうかがえる御文です。
3  池田 ここに語られているのは、宇宙に瀰漫する魔との壮絶な戦いです。仏法におけるもっとも本源的な精神闘争とも拝される。
 この戦いを勝ち越えて、はじめて仏法は弘められるのです。釈尊においても、そうであった。言い出せば大難、言わなければ無慈悲――。経典の仏語に照らせば、言い出して人々を救わなければならないのは明らかである。そこで、誓願を立てられたのです。
 一度、語り出したならば、どんな大難が起きても断じて退くまい、と。
 いうなれば、嵐のなかに、たった一艘の船で飛び出していくようなものです。しかし、行かなければならない。今、嵐のなかで難破している目の前の人々を救うために!
 ゆえに、誓願という「大船」が必要なのです。魔性との戦いに打ち勝っていく出発には、誓願があるのです。
 斎藤 大聖人は、法華経宝塔品の「六難九易」を思い起こして、誓願を立てられています。
 池田 釈尊は、どんなに大難があっても、仏の大願を受け継ぎ、実現していくように、菩薩たちに「六難九易」を説きました。
 これは、いわば「大難を覚悟して仏の大願を実現せよ」という釈尊の遺命です。
 いずれにせよ、日蓮大聖人が、決然と妙法を説き始めてくださったからこそ仏法がある。世界中の人々が幸福になる大道が開かれたのです。
 広宣流布を開く根源の一歩が、ここにあります。その大聖人の御心を深く銘記していくために、この御文をさらに詳しく拝していきましょう。
 まず、「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」の「此れ」とは何かを知らなければなりません。
 斎藤 「開目抄」は「教の重」と言われるように、五重の相対を通して、寿量品の文底に秘沈されている一念三千こそが、末法の衆生の成仏の要法であることを明かされています。
 しかし、実際には、大半の人が、この成仏の法である法華経への信を悪縁によって失い、悪道に堕ちてしまうとされています。
 池田 その悪縁とは、御聖訓には「悪魔の身に入りたる」僧侶たちだと喝破されているね。
 斎藤 彼等が巧みに法華経の修行を妨げるので、それにだまされて、皆、権経に堕ち、権経から小乗経に堕ち、外典・外道に堕ちてしまう。それで最後は悪道に堕ちてしまっているのだと、仰せです。
 池田 要するに、善知識であるべき僧侶が逆に悪知識となって、人々の善の生命を破壊しているという逆説的な事態を、厳然と指摘なされている。
 その悪僧たちに惑わされて、多くの人が法華経から退転してしまうという構図です。
 この仏法における根本の転倒を、日本国で、日蓮大聖人ただお一人だけが御存じであられた。ゆえに大聖人は、仏法と民衆を支配する魔性との戦いに、ただお一人、立ち上がられた。
 まさに、「但日蓮一人なり」との仰せには、こうした御心が込められているのではないだろうか。
4  斎藤 次に、このことを言うべきか、言わざるべきかを、経文に照らして検討されています。
 池田 「言う」というのは魔性と戦うこと、「言わない」というのは魔性との戦いから逃げることです。言論こそが、大聖人の戦いの力です。
 経文に照らして、当然、言うべきであるという結論です。
 斎藤 はい。このことをひとたび語り出すならば、父母や兄弟、師匠も巻き込んで、国主からの大難が競い起こる。
 言わなければ無慈悲となる。法華経・涅槃経に照らせば、言わなければ現世は安穏でも、後生は地獄です。反対に、言えば大難が起こることは経文に明確に説かれている。すなわち、一切衆生の成仏への軌道が開かれる、ということです。
 ならば、経文に照らして、必ず言うべきであると結論を出されます。
 池田 「二辺の中には・いうべし」――経文に基づく判断は明瞭です。経文は仏の言葉です。仏の心を知るための鏡です。私たちで言えば「御書」です。
 大聖人は、法華経に照らして判断されたと述べられている。表面的な地位や安逸ではなく、生命の究極部分で無慈悲の無間地獄に堕ちるか、大難を莞爾と受け止めながら万人を慈悲で包み込む苦難の道を選びとるか。当然、後者が経文に照らして正しい。
 しかし、魔性との戦いは生やさしいものではない。大聖人は、さらにもう一重、深い誓願を促されていく。
 現実に仏法を弘めていくことは、そんなたやすいことではない。中途半端な気持ちなら、最初からやらないほうがいい。大聖人は、そうした御心境を綴られております。
 斎藤 はい。王難などが起こり、それで結局、退転してしまうくらいなら、今、立宗に踏み出すことは思いとどまったほうがよい、と。それでしばらく、思索を停止されるほどでした。
 池田 その時、大聖人の御胸中に、法華経の「六難九易」が思い浮かんだと仰せだね。己心の魔を最終的に打ち破られた瞬間です。
 斎藤 九易のなかから「我等程の小力の者」「我等程の無通の者」「我等程の無智の者」と、たたみかけるように仰せです。須弥山を投げるなどの、大力、神通力、智慧を発揮するのは、普通の人間には、およそ不可能なことです。八桁しかない電卓で、ロケットの軌道計算をするようなものです。(笑い)
 そんな不可能なことを可能にすることよりも、もっと困難なことがある。それが六難です。要するに、末法に法華経を一句一偈であっても持ち続けることこそ困難である、というのです。
 池田 この悪世において、法華経への信を持ち続けることは、何よりも至難です。そしてさらに、法華経を弘めることは、至難中の至難であるということだね。
 確かに、この五濁の時代に、「皆が仏である」「皆を仏にする」という高貴な精神性を維持し、さらに拡大しゆくことは、最高に困難な偉業であるに違いない。
 ある意味では、「九易」のほうは不可能なようでも、科学が発達するなど、何らかの条件が整えば何とか可能にすることができる。しかし、どんなに科学が発達しても、人間の心を変革していくことほど、大変な難事はないからです。
 斎藤 その至難な末法弘教の戦いを、大聖人がただお一人から始められたということですね。
5  池田 だからこそ、大聖人は、末法の御本仏であられるのです。
 その尊極の道に、具体的な行動において続いているのが、広宣流布のために活躍している私たち創価学会員と自負すべきです。
 だからこそ、尊き仏と等しき活動をしている学会の方々を見れば、仏を見るように敬わなければならない。荒れ狂う現実社会の真っ直中で、「民衆こそ仏なり」という思想を掲げ、来る日も来る日も実践し、そして人々に弘めている。これ以上、尊いことはない。
 斎藤 要するに「六難九易」には、濁悪の世に法華経を持つことがどれだけ困難なことか。持つ行為がどれほどの偉業か。持つ人がどれだけ尊貴なのかが指し示されているのですね。
 池田 その通りです。そして、仏が滅後の法華経の受持・弘教を強く勧めているのです。困難を示したうえで、あえて弘教を勧められているのですから、そこに甚深の意義を拝することができる。
 大聖人は、その仏の心、仏自身がもつ大願の心に深く触れて、己心の魔を完全に打ち破り、末法の全人類の救済に立ち上がられたと記されています。
 言い換えれば、仏界の生命を涌現させて己心の魔を打破し、広宣流布の大願に立たれたとの仰せです。
 そのことを「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」と述べられている。これは、魔を打ち破った面から、立宗時の誓願を表現なされています。
 これに対して、有名な「開目抄」の「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ」との一節は、立宗時の誓願を示されていると拝されるとともに、実現される誓願自体を示されています。
 大聖人の誓願は、御年三十二歳の時から佐渡流罪を経て、御入滅のその日まで、終始一貫しています。何も変わりません。
 誓願は貫き通してこそ、誓願です。戦い続けてこそ、生きた真の仏法です。
 譬えて言えば、弓を的に向かって射る。射た瞬間に、矢は真一文字に的に当たるまでの軌道を飛び続ける。最初から軌道を外れたり、射る力が弱ければ、失速してしまい、的に当たるはずはない。
 反対に言えば、深い決意で立ち上がった人は、もう、だれにも止められないということです。
 斎藤 「御義口伝」には、こうあります。
 「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなりあに今者已満足こんじゃいまんぞくに非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり
 〈通解〉――今、日蓮が唱えるところの南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生まで成仏させるのである。(法華経方便品には、釈尊が衆生を自分と等しくしようと願った所願が今は已に満足したと説かれているが)これこそ、「今はすでに満足した」ということではないか。
 「すでに」とは建長五年四月二十八日に初めて唱え出したところの題目を指して「すでに(満足した)」と心得るべきである――。
 大聖人が、立宗の日に唱え始めた南無妙法蓮華経こそ、万年の民衆を成仏させる大法である。
 言い換えれば、立宗の日にすでに仏としての大願成就がなされたということです。
6  魔性と戦う「人間宗」の宣言
 池田 遠き末法万年、全人類に響けとばかりに放たれた立宗の師子吼の第一声。
 そこに込められた大聖人の誓願は、間違いなく永遠に人類を、赫々と照らし続けていくということです。
 「終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」とも仰せです。
 人類の闇を永遠に照らし続ける確かなる広宣の炎。その着火が立宗です。
 「闇を照らす光明」にふさわしく、また大聖人の御名の「日=太陽」にふさわしく、大聖人の立宗は正午(午の時)に行われた。
 斎藤 はい。建長五年(一二五三年)四月二十八日正午、清澄寺の諸仏坊の持仏堂の南面の部屋で、大聖人は、浄円房という僧侶や清澄寺の平僧たちを中心とした少数の聴衆を前に、念仏宗を破折する説法をされます。
 池田 大聖人の立宗とは、即、誤った宗教への烈々たる破折から始まりました。僧侶も在家もこぞって信仰する念仏です。それを真っ向から批判するのです。大聖人はその当時の御心境を後に綴られていますね。
 斎藤 「をもひ切りて申し始め」、「をもひ切つて申し出しぬ」、「我が身こそ何様にも・ならめと思いて云い出せしかば」等と仰せです。
 当時は、万人が念仏を唱えていたわけですから。
 池田 そこで問題なのは、大聖人が立宗で何を宣言されたかです。
 当然、南無妙法蓮華経を唱え出されたことは疑いようがない。そのことを指し示す多くの文証があります。
 また、大聖人は、それまでの「是聖房蓮長」という名を捨てられ、自ら「日蓮」と名乗られている。
 前にも述べたが、日蓮とは「日月」と「蓮華」です。この御名乗りは「自解仏乗」であると仰せです。日月のように衆生の闇を照らし、蓮華のように清らかに妙法の花を社会に咲かせていく使命を自ら悟られたからです。
 斎藤 大聖人は「明かなる事・日月にすぎんや浄き事・蓮華にまさるべきや、法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名く、日蓮又日月と蓮華との如くなり」と仰せです。
 池田 「日蓮」という御名前にも、「万年のため」「全人類のため」にという、大聖人の大慈大悲の誓願が込められていると拝されます。
 この立宗の日を出発として、南無妙法蓮華経を弘めていかれた。
 南無妙法蓮華経は末法の衆生が仏性を涌現する根源の道です。その道を立てたという意味では、「南無妙法蓮華経」宗を立てられたともいえます。
 しかし、日蓮仏法は、一宗一派の小さな次元を超えて、あらゆる人々、あらゆる国々に開かれたものです。いわば「人類宗教」の開幕と拝すべきでしょう。
 斎藤 日淳上人もかつて、大聖人の仏法は「単なる一宗旨であるばかりでなく一切衆生の宗旨」であると述べていましたね。
 池田 その意義から考え通してみれば、日蓮仏法は、「人間宗」であり、「世界宗」であると言える。
 立宗宣言は、「人間生命に潜む根源の悪」「生命に内在する魔性」「一切の元品の無明」との大闘争宣言であったとも拝されるのではないだろうか。
 大聖人御自身が、立宗の日以来、「第六天の魔王」という生命の魔性との精神闘争の連続であったと述懐されているからです。
 斎藤 はい。「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土どうこえどを・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」と仰せです。
7  「四箇の格言」の意義
 池田 この点から拝察すれば、大聖人の闘争は、決して特定の宗派の人間を攻撃したり、自派を拡大するためではない。
 どこまでも、民衆を蔑視する権威・権力の魔性との闘争が、日蓮大聖人の実践の真髄だからです。その根本は、万人の成仏の道をふさごうとする魔性との闘争です。
 万人の成仏という最大の人間尊敬の道を開く「戦う人間主義」の宣言が、立宗宣言であったのではないでしょうか。
 斎藤 魔性との闘争が根本で、宗派的排他性はないということですね。
 大聖人は、その魔性との戦いを推し進めるなかで、念仏、禅、真言、律の諸宗を厳しく批判しました。そして、その批判は「念仏無間」「禅天魔」「真言亡国」「律国賊」の四箇の格言として要約されていきます。
 このように諸宗を厳しく批判することで、かえって大聖人の仏法が独善的で排他的であると言われるようになりました。
 池田 四箇の格言は、末法の民衆を救うため魔性との闘争のなかで、次第に結実していったものです。大聖人の慈悲と智慧の結晶です。
 決して、独善的でも、排他的でもなく、むしろ理性的な批判です。
 四箇の格言について、特定の宗派を攻撃したものと捉えては、大聖人の御本意を損なうことになる。独善的な排他主義や宗派主義が大聖人にあられたわけではない。
 斎藤 清澄寺での立宗の説法は、念仏宗に対しての批判が中心であったようですが。
 池田 当時、諸宗が民衆の念仏信仰を易行として認めていたことに加え、専修念仏を説く法然門下たちによって弘められたことで、念仏が大流行していた。
 もちろん、その背景には末法思想に基づく厭世主義があったことは、ご存じの通りです。
8  斎藤 大聖人が最初に念仏宗を批判された理由を拝察しますと、次の諸点にまとめられると思います。
 第一に、他土への往生を救いとする念仏信仰の考えには、現実世界での万人成仏を説く法華経に背く傾向があること。
 第二に、実際に法然の専修念仏は極楽浄土への往生のみが末法での救いであると説いて、法華誹謗の説を明言していること。
 第三に、法然の弟子や孫弟子たちが東国に下ってきて、教義を妥協的に改変して鎌倉幕府の権力者たちに取り入っていること。また、それにもかかわらず専修念仏の独善性は捨てていないこと。
 第四に、このような念仏信仰が多くの人々の心を支配し、厭世主義がはびこっていること――などです。
 池田 大聖人が真っ先に念仏を破折された背景は、ほかにも種々、考えられます。
 斎藤 当時の何人かの有名な念仏僧が、悪瘡を生じて狂乱悶絶の死を遂げたことも、関係があると思われます。
 池田 最初の説法の地である清澄寺が、もともと念仏信仰が盛んだったこと、また、特に地頭の東条景信が熱心な念仏信仰者であったことも関係していたかもしれない。
 斎藤 景信は、念仏信仰を僧侶に強いるくらい、熱心であったようです。
 池田 むしろ、権力と結託した当時の念仏宗のほうが、独善的で排他的だったようだね。大聖人は、さまざまな意味で、民衆を毒するもっとも強い魔性を、当時における念仏信仰の在り方の総体のなかに見て取られていたのではないだろうか。
 どんな宗教も、必ず何らかの絶対性を主張します。だからこそ、人々を狂わす魔性を持ちやすいのです。どのような絶対性を主張するかで、その悪影響も変わってきます。
 大聖人は、具体的な状況の変化に応じて、魔性を強くしてきている諸宗を、順次、破折していかれたのです。
 斎藤 はい。まず立宗の時は「念仏宗」を、また、ほぼ同時に「禅宗」を破折されます。伊豆流罪から戻られた後には「真言宗(東密)」と「律宗」を、そして最後に身延入山のころに「天台密教」と、順に破折されていきました。
 池田 詳しい破折の内容は別の機会に譲るとして、総じて言えば、大聖人の諸宗破折は医者の診断にも譬えられるかもしれない。
 末法の時代に潜む生命の根源の病理を、症状に応じて診断したのが諸宗批判です。そのうえで、表面の症状から根源の病巣に至る順で、治療されたと言ってもよいでしょう。
9  斎藤 当然、病を治す良薬は南無妙法蓮華経ですね。
 池田 そうです。仏界涌現という最高の大良薬です。
 ともあれ、このように諸宗の病状に診断を下しているのは、何よりも苦しみ悩む民衆の病を治してあげたいという大聖人の慈悲が、根本です。そして、さらに末法という時代全体を救う大使命のために、そのような順で、当時の代表的な宗教の持つ魔性に対して、厳しく、かつ具体的に診断を下していかれたのだと推察されます。
 斎藤 四箇の格言は、大聖人の御在世当時における各宗の具体的状況を踏まえて表現された病名といえるかもしれませんね。
 池田 いうなれば、病理の本質と具体的な病状の診断と治療の方向を一語に凝縮した巧みな病名です。
 斎藤 それを、時代が大きく異なる今日において、そのまま主張することは的外れになる恐れがあると考えます。
 池田 その通りです。南無妙法蓮華経の良薬は不変であるとしても、ほかは時代によって変わります。
 病気にしても、旧来の呼び名では、病気の本質を表せなくなる場合がある。
 斎藤 では、大聖人がどのようにして四箇の格言の表現を創られたかを拝察してみます。まず「念仏無間」です。先ほどお話があったように、念仏宗は「念仏によってのみ極楽往生できる」という排他的主張で民衆の間に教勢を伸ばしてきました。
 これに対して、大聖人は「極楽往生」を「無間地獄」に差し替えて、その排他性や、排他的主張で結果的に法華経を否定している謗法性を、端的に破折されています。
 池田 法華経に、法華誹謗の者は無間地獄に堕ちると説かれているので、そう言われているのです。あくまでも、本質を洞察し、経文に基づいて批判されているのです。
 斎藤 「禅天魔」は、悟りを得たとして聖人のように振る舞い、武士などから尊敬されている禅僧に対する破折です。建長寺道隆など禅僧が、当時、鎌倉で幕府の権力者から重く用いられていました。
 池田 道隆は、北条時頼に用いられている。
 御書では、この禅僧を、大聖人迫害の元凶の一人に挙げられています。
 斎藤 「教外別伝」と言って経典を否定したり、未だ悟っていないのに悟っているように振る舞っている「増上慢」の面を、端的に「天魔」と破折されたものです。
 「真言亡国」は、鎮護国家の祈祷を売り物にしている真言宗が、蒙古襲来の危機意識を背景に朝廷・幕府などに大いに用いられたのに対して、「護国」を「亡国」に差し替えて、その空理性・呪術性を破折されたものです。
 池田 空理性・呪術性というのは、裏づけとしての「一念三千の理」がない、形式のみの祈祷を行っていることだね。
 一念三千の法理がないということは、人間生命をいかに捉え、いかに変革していくかという、普遍性・哲学性がないということです。
 それなのに、祈祷・呪術の形式だけが発達して、何かありそうに人々に思わせた。その破綻の象徴が承久の乱における混迷です。
 斎藤 「律国賊」は、持戒を装って生き仏とか国宝と崇められた極楽寺良観などの律僧・持斎を破折したもので、「国宝」を「国賊」に差し替えて、その欺瞞性をあらわしたものです。
 以上のように、四箇の格言の批判の対象になった諸宗は、当時の日本の国家権力や民衆に、かなりの影響力を持った宗派です。また、四箇の格言の表現は、各宗の当時における売り物を端的に批判することで、各宗の本質を見事にえぐり、破折しています。
 当時においては相当な批判力・浸透力があったと考えられます。しかし、それだけに、当時の状況を無視して、今の時代に、表現だけを独り歩きさせて用いるのは、かえってこちらが独善性の誹りを受けることにもなりかねない危険性があると思います。
10  池田 そうだね。四箇の格言の本質は、当時の各宗の独善性と、その独善性を宗教的権威で隠す欺瞞性を見破り、厳格に指摘された大聖人の「智慧」の発現だということです。
 また、その根底に、民衆を守る「慈悲」が漲っていたことは言うまでもありません。
 つまり、各時代において、民衆の幸福を妨げる思想・宗教を見破っていく智慧を発揮していくことが、四箇の格言の「継承」になるといっていいでしょう。
 斎藤 今日においては、日顕宗の本質をえぐり、破折していくことが、それに当たると思います。
 池田 四箇の格言を、大聖人が唱えられたものだからと言って、人々の心を無視し、時代の変化を無視して、ただ繰り返して唱えても、かえって大聖人の御心に背くことになりかねない。それでは、ドグマ(教条)になってしまう。宗教の魔性は、そういうところに現れてくるからです。大事なのは人間であり、心です。
 四箇の格言は、民衆を惑わす魔性とは断固として戦うという、大聖人の確固たる信念の現れです。
 その点を見失い、四箇の格言を表面的・教条的に捉えて、大聖人の仏法は排他的であり、非寛容であるというのは、あまりにも浅薄な批判です。
 斎藤 オックスフォード大学のウィルソン博士は、先生との対談集『社会と宗教』のなかで「意識的・積極的に宗教的寛容を奨励することと、多神教的ないし混淆主義的な伝統の中での宗教的無関心との間には、違いがある」と指摘しています。
 少し難しいですが、日本的な宗教土壌では、宗教的無関心が寛容であると勘違いされやすいということですね。そのような所では、確固たる宗教的信念が、排他的とか非寛容であると誤解されやすいと言えます。
 池田 四箇の格言は、排他主義でも非寛容でもありません。その本質は、大聖人の妙法の智慧に照らされた理性的な宗教批判だからです。すなわち、一次元からいえば、この四宗は偏った宗教の四つの類型を示しているのではないだろうか。
 この四宗への批判によって、大聖人の考えられている円満な宗教が浮き彫りにされてくると見ることができます。それは、本来あるべき宗教の特色を、偏頗なく調和的に含んでいる円教です。一言で言えば「人間のための宗教」です。
 四宗によって示される四つの類型とは、以下の通りです。
 ① 絶対者の他力による救済を説く宗教(念仏)
 ② 自力のみによる悟りの獲得と悟りへの安住を説く宗教(禅)
 ③ 呪術による現世利益を説く宗教(真言)
 ④ 戒律・規範による外からのコントロールを説く宗教(律)
 円教とは、この四つのいずれにも偏ることなく、「自力と他力の一致を説き、その力に基づく人間変革と現実変革を説く宗教」と言えるでしょう。
 「自力と他力の一致」とは、自分を超える力(他力)を自分のなかに見ることです。つまり、少々、難しい表現になりますが、大聖人の仏法で説かれる「仏界の内在と涌現」が、それに当たります。これは、まさに日蓮仏法の真髄にほかなりません。
 斎藤 我が己心に仏界を涌現するための「観心の本尊」は、まさにこの円満な宗教の要ですね。
11  池田 この本尊論については、また別の機会に論じよう。
 四つの類型は、日蓮仏法にあっては、一人の人間の変革を支える次のような力と現れ、積極的な意味を持つように活かされます。
 ① どんなに疲れ病む衆生をも、仏界の生命力で包み、絶対の安心感を与える。
 ② 自分のなかに自分を変革する力があることを信じ、それを実際に実感していける。
 ③ 現実の変革に勇気をもって邁進していける。
 ④ 内なる智慧の力で煩悩を制御し、悪を滅していくことができる。
 四箇の格言の現代的意義は、単なる日本の宗派の破折という次元にとどまるのではなく、円満なる人間の生命の力の開花にあると言えるのではないだろうか。これが「妙法蓮華」であり、無限なる「価値創造」なのです。この大聖人の円教を立て、初めて社会に宣言したのが立宗宣言です。それは「人間宗」の開幕です。大聖人は、そこに、永遠かつ根本的な人類救済の大道を示してくださったのです。

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