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日蓮大聖人・池田大作

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誓願に貫かれた大聖人の御生涯  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
1  民衆仏法を決定づけた若き日の誓願
 斎藤 前章は、御書の核心として「広宣流布の大願」について、総論的に語っていただきました。本章では、具体的に「誓願」を一つのテーマとして、日蓮大聖人の御生涯の大綱を拝察していきたいと思います。
 池田 真の宗教は、人間のなかにある。
 民衆仏法こそ、大聖人の仏法です。民衆の「平和」と「幸福」のためにこそ、真実の仏法はある。御書を拝すると、大聖人は、その御生涯において、少なくとも二度、大きな誓願を立てられたことが記されています。
 第一は、御年十二歳のときに、有名な「日本第一の智者となし給へ」という誓願を立てられました。
 二度目は、三十二歳の時、立宗直前に立てられた誓願です。
 「開目抄」によれば、いかなる大難をも覚悟で法華誹謗を破折し、民衆救済のために正法を弘めていくことを誓っておられます。
 大聖人の御生涯は、まさに、この「誓願」に貫かれています。
 斎藤 御幼少の時の最初の誓願は、「求道」の出発点といえますね。
 二度目は、法華経の行者として立ち上がられた時の誓願です。前章でテーマとなった「我日本の柱とならむ」等の大願は、この時の誓願を表現された仰せとも拝されます。
 池田 まず、十二歳の時の誓願についてですが、これは安房の清澄寺に入った時に立てられた誓願です。
 数え年で十二歳といえば、今でいえば小学校の六年生の年代です。この年齢で清澄寺に入られたのは、おそらく出家というより、その準備段階として、読み書きなどの、いわば初等教育を受けるためであったと言っていいでしょう。
 斎藤 はい。当時は、各地の寺院が教育機関の役割も担っていたと考えられます。大聖人の正式な出家得度は、四年後の十六歳の時になります。
 池田 正式の出家は十六歳であったとしても、真の出家の内実である「求道の心」は、十二歳の時に既に胸中に横溢されていたのではないか。
 大聖人の「求道の活動」は、実質的にこの時から始まっていたと拝される。
 斎藤 大聖人は、御自身の出家の年について述べられる場合、「十二・十六」と併記されています。
 池田 その表現に、「日本第一の智者に」との誓願が、いかに深く大きな意義を持っていたかがうかがえるね。
2  斎藤 この誓願について大聖人は「其の所願に子細あり」と述べられています。「子細」があるとは、さらに詳しく述べるべき内容があるということですね。
 池田 御書に基づいて、何点か挙げるならば、ひとつは、父母をはじめとして、民衆を救う道を切実に求める誓願であられた。
 大聖人は、「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり」と仰せです。これは、一般論のような表現になっていますが、御自身のことにも通ずる。また、後に御自身の出家を回想されて「仏教を習う者が父母、師匠、国の大恩に報いるには、必ず仏法を究めて智者とならなければならない」(御書293㌻、趣旨)とも記されています。
 これらの仰せから、「日本第一の智者に」と誓願されているのは、父母等の恩に報いるためであり、「民衆を真に救い得る智慧者」を目指されたことが拝察できます。
 斎藤 父母と言われているのは、「民衆」の代表としての父母ですね。
 池田 そう。そこが重要です。
 大聖人は、諸抄で仰せのように、漁業で生計を立てていた庶民の生まれでした。
 当然、大聖人は幼年のころから、力を合わせて懸命に働く、御両親と地域の人々との姿をつぶさに御覧になっていたでしょう。
 もっとも御両親は、その地域の土地を領有する領家との繋がりがあったとされることから、地域の人たちのまとめ役のような、リーダー的存在にあったとも推察されています。
 いずれにしても、大聖人が庶民のなかで成長されたことは間違いない。
 その恩に報いるために、智者となって民衆を救いたいというのが、「日本第一の智者となし給へ」との誓願がもつ一つの意義です。
 斎藤 「日本第一の智者」とは、決して民衆の上に立つエリートを目指されたわけではない、ということですね。
 池田 大聖人の仏法は、民衆が主役の、民衆による民衆のための仏法です。若き大聖人の誓願は、まさしく、この民衆仏法としての方向性を決定づけたものと拝察すべきでしょう。
3  斎藤 なぜ、父母等の恩に報いるために「智者」にならなければならないのでしょうか。
 池田 御書を拝すると、明瞭です。
 父母を本当に救うためには、生死の苦しみから救わなければならない。そして、そのためには、生死を超える仏法の真の智慧を持たなければならないからです。
 大聖人は御幼少のときに仏法を学び、「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」という願を立てたと言われています。
 また、「日蓮はわかきより今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり」とも言われている。仏になるとは、何よりも「生死の苦」を超えることです。
 これらの仰せから、生死の問題が、大聖人の誓願における重要な要素をなしていたことは間違いないでしょう。
 苦労して自分を育ててくれた御両親に、そして御両親と一緒に働く人々に、真の幸福への大道を――。その深き御真情から、大聖人は、仏法の根底を究め、生死に関する究極の真理への到達を誓願されたと拝される。
 斎藤 民衆を真に安穏にするために、生死の苦を超える智慧を得たいという誓願を立てられた。それが、「所願に子細あり」と言われていることの一つのポイントですね。
 池田 御両親の漁師の仕事には、死と隣り合わせの面がある。大聖人は、幼き日から、死の問題を解決することが、人間の幸福に深く関係していくと感じられたのではないでしょうか。
4  「承久の乱」以後の時代状況――力による支配
 池田 また、若き大聖人の誓願のもう一つのポイントは、時代状況との関連です。
 大聖人が少年期を過ごされた当時の社会には、父母や民衆の幸福を祈らずにはいられない状況があったのではないだろうか。
 斎藤 大聖人が聖誕されたのは、一二二二年(貞応元年)。朝廷が鎌倉幕府と覇権を争って敗北した「承久の乱」の翌年です。
 池田 承久の乱は、東国に限られていた幕府の権力が事実上、全国に及んでいく契機になった大きな戦乱だね。若き日の大聖人が、強く民衆救済を意識された背景には、いわば「戦乱後の変動期」というべき時代状況があった。
 武士が覇権を確立し、武家社会が固まっていくことは、その限りでは安定期に入ったと言えます。
 しかし、鋭敏な眼から見れば、必ずしも、真の安定とは、映じなかったのではないだろうか。
 というのは、武家社会が確立したということは、本格的な「武力による支配」の時代がきたということにほかならないからです。
 それは、「争いの時代」の到来を意味していた。
 斎藤 第1章で論じていただいたように、「争い」こそ末法の時代の本質ですね。
 池田 大聖人は、それを鋭く感じ取られていたのではないだろうか。あるいは、そのことを痛感せざるを得ない、何らかの出来事があったとも推察される。
 斎藤 例えば、一つの推測ですが、承久の乱の武家の勝利に乗じて地頭が傲慢になり、その横暴が何かと人々を苦しめていたのかもしれません。
 池田 たしかに、大聖人は後に、古くからの地域の領主である「領家」と、武家政権をバックに地域を支配するようになった「地頭」の争いにおいて、領家を助けておられる。
 地頭の側に何らかの理不尽な行状があったことは事実でしょう。その時の地頭が、後の小松原の法難の首謀者・東条景信です。
 いずれにしても、「承久の乱」の帰趨を、少年時代の大聖人が深く受け止められたことは、明らかです。
 斎藤 後鳥羽上皇を中心とする朝廷方は、真言密教によって、当時では最高度とされていた祈祷を行いました。人々が、祈祷に兵力と同様の現実的な力があると考えていた時代です。
 加えて朝廷には伝統の権威があり、それを重視する世でもありました。朝廷方が勝利を収めて当然と考えられていたのです。家臣であり、さほどの祈祷を行ったわけでもない幕府方の勝利に終わるとは、人々は考えもしなかったようです。
 池田 当時の既成観念を覆す事態がなぜ起きたのかを、大聖人は鋭く思索しておられた。
 承久の乱の結果は、伝統的権威に基づく従来の朝廷・貴族が世を治める力を失うとともに、その社会のなかに組み込まれていた既成仏教が無力化したことをも意味していました。それは、従来の祈祷仏教の無力化を如実に示していたのです。
 大聖人は、父母をはじめとして恩ある人々の苦悩を救うための求道のなかで、このような問題を意識するようになったと拝したい。
 片や、欲望と力がものをいう末法の時代が進行している。片や、従来の仏教では民衆を救えないことがはっきりしてきた。
 そのなかにあって、民衆救済と時代変革の力を持つ新しい仏教への希求はいよいよ高まり、「日本第一の智者に」との熱願は、いよいよ深まっていかれたに違いない。
5  「智慧の宝珠」の体験、御修学、そして立宗
 斎藤 誓願を立てた若き大聖人は、必死に祈り、研鑽されました。
 そして、十六歳で正式に出家してから程ないころ、清澄寺の本尊の虚空蔵菩薩像に祈願し、その虚空蔵菩薩から明星のような「智慧の宝珠」を得られたと、御書にあります。その智慧によって、当時の八宗・十宗の教義の大綱を把握できたと仰せです。
 池田 諸宗、諸経の肝要を知る智慧とは、仏法の根本にかかわる智慧です。
 要するに、妙法の智慧を開かれたのです。
 民衆を根本から救いたいとの大誓願を持ち、必死に求道され、開覚されたのです。
 斎藤 仏の悟りを開いたと拝察していいのでしょうか。
 池田 わが身の法性を、豁然と開覚されたと拝することができます。
 凡夫の身に仏性を開かれたのです。
 斎藤 弱冠十六歳の若さで、悟りが得られるものでしょうか。
 池田 どうすれば民衆を救えるかという深く真剣な祈りのゆえに、智慧の宝珠を得られたと拝される。
 大事なことは、大聖人が、それを到達点とされたのではなく、この悟りを出発点として、さらなる求道の道に入っていかれたことです。
 斎藤 三十二歳の立宗まで、鎌倉や比叡山などで修学されます。
 池田 大聖人の誓願は、恩ある人々を救うために日本第一の智者になりたいということです。
 その誓願を、御遊学を通して、末法全体を救済したいという誓願に深められていった。そして、広宣流布の大願として確立され、立宗宣言に至る。
 自分だけ悟りに安住するのは、ある意味では簡単です。大聖人の場合は、常に民衆を救い、末法の時代を現実に転換するための智慧を求めておられる。自分に悟りがあったからといって、それで終わりではない。
 常に「誓願」があって「悟り」がある。立宗後も、大難を越えられながら誓願を貫くことによって、悟りを深められ、ついには発迹顕本されて、末法の御本仏の御境地を顕されていくのです。
6  斎藤 非常に重要なお話だと思います。「誓願」と「悟り」の関連を、もう少し詳しくうかがいたいと思います。
 池田 最初は、清澄寺での祈願で大聖人の求道が始まり、その帰結として「智慧の宝珠」の体験をなされます。
 これまで既に述べてきたように、これは「誓願から悟りへ」という内実をもっています。
 次に、御自身の悟りをもとに仏典を求め、鎌倉や比叡山などで修学されます。そして、その帰結として広宣流布の大願を立てられ、立宗宣言に至ります。いうなれば「悟りに基づく大願の確立」です。
 そして、立宗以後、広宣流布の大願に立ち上がられた法華経の行者として大難を乗り越えられ、その死身弘法の実践によって、凡夫の身に元初の仏界を開く発迹顕本を遂げていかれます。
 斎藤 まず、御修学についてですが、御自身の悟りが仏法のなかでどういう位置にあるかを探究する意味があったと拝せますね。
 池田 末法救済の法を、御自身の悟りに照らして、奥深く求めていかれたと拝察できる。
 その結果、法華経が一切経のなかでは第一であり、末法を救済する法は法華経である。御自身に開かれた智慧は、釈尊の教えのなかでは、法華経の妙法にあたり、この妙法以外に、末法の人々を生死の苦から解放し、欲望と争いの末法の時代を変革していく法はないと結論されたと拝されます。
 斎藤 この御修学の帰結として立宗宣言がなされます。これは、大難を覚悟で「法華経の行者」として生き抜く大決意のもとになされたと思われます。
 第1章で論じていただきましたが、法華経の行者とは、要するに、末法広宣流布の大願に生き抜く人のことですね。
 池田 御修学の結論として、広宣流布の大願を立てられたのです。
 それは、御幼少の時の誓願につながるとともに、法華経に説かれる仏の大願を受け継いでいくという明確な御自覚が伴っていた。
 斎藤 その御自覚のなかには、地涌の菩薩の棟梁・上行菩薩の使命を担っていくということも含まれているのではないでしょうか。
 池田 そのことは御書には示されてはいませんが、立宗の時に「日蓮」と名乗られたこと自体が、それを強く示唆しています。
 日蓮とは、「日月」と「蓮華」です。法華経では、上行菩薩は衆生の闇を照らす日月であると説かれています。
 また地涌の菩薩は、泥沼に清らかな花を開く蓮華に譬えられます。
 さらに、蓮華は、五濁の悪世において、九界の凡夫の当体に仏界を開く因果倶時の妙法を譬えているといってもいいでしょう。
7  立宗から発迹顕本へ
 斎藤 三十二歳の立宗から五十三歳で身延に入山するまでの二十一年間は、四度の大難をはじめとして、難が相次いで押し寄せてきます。
 池田 すべての大難を忍ばれながら、未来永遠の一切衆生のために、大法を留め残してくださったのです。「難来るを以て安楽と意得可きなり」です。
 心に広宣流布の大願が屹立していれば、いかなる大難も風の前の塵のようなものである。むしろ「難即悟達」です。
 忍難弘通の戦いによって、仏界の生命は輝きわたっていく。そこに最極の人間性の錬磨がある。それこそが、即身成仏の直道であり、一生成仏の無上道です。
 その極理を、末法のはじめに先駆を切って、身をもって実証された方が、日蓮大聖人です。ゆえに、私たちは、大聖人を末法の御本仏と信奉するのです。
 一つ一つの法難の歴史については、いずれ詳しく論じ合いましょう。
 斎藤 大聖人は、竜の口の法難の時に発迹顕本され、御本仏としての境地を顕されていきます。
 池田 大聖人は「開目抄」で、この御本仏の御生命を「魂魄」と言われています。
 斎藤 拝読します。
 「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず
 〈通解〉――日蓮という凡夫は去年の九月十二日の子丑の時(午後十一時~午前三時)に首をはねられたのである。
 今ここにいるのは日蓮の魂魄が佐渡の国に至って、翌年の二月に雪の中でこの「開目抄」を書き、有縁の弟子に送っているのである。したがって、これから述べる勧持品の三類の強敵がいかに恐ろしい迫害者であろうとも、魂魄そのものである日蓮にとっては何も恐ろしくないのである。
8  池田 大願を貫かれながら、幾多の大難を越えてこられた大聖人は、竜の口の法難という、生命に及ぶ最大の迫害をも勝ち越えられました。
 ここで仰せの大聖人の「魂魄」とは、万人に具わる元初の仏界の生命です。その生命を、大聖人という一個の御人格の真髄として成就されたがゆえに、「魂魄」と言われているのです。
 その生命は、自由自在であり、晴れ晴れと開かれています。生きとし生けるものへの慈しみに満ち、苦悩する存在への同苦が漲っている。
 また、決して枯れることない智慧と精神力が迸り、尽きない生命力と福徳が涌き出ている。さらに、自他の悪と戦う勇気が燃え、何ものにも恐れることはない。
 そういう仏界の生命を、味わい、楽しみ切っていくことが、人生の至高の意義です。人間が「心」を持っているのは、苦しむためでなく、仏界の常楽我浄の大境涯を味わい尽くすためです。
 これ以上の楽しみはない。ゆえに、法華経の寿量品では、この現実世界を「衆生所遊楽」(法華経491㌻)と説かれているのです。
 末法の根本的な救済と変革は、これを教えるしかない。日蓮大聖人は、この希望の光源を顕し、末法の闇を照らしてくださった。ゆえに「日月」なのです。
 そして、五濁の世、恐怖の悪世に耐えて、元初の仏界の生命を開花させてくださった。それは、泥沼でも清浄な花を咲かせる白蓮華のようです。ゆえに「蓮華」です。
 そして、この元初の生命を万人に教えるために、大聖人は御自身の魂魄を御本尊として顕されたのです。
 斎藤 御書には「日蓮が魂しひ」を図顕されたのが御本尊であると仰せです。
 池田 万人が元初の仏界を成就するための「明鏡」として顕されたのです。御本尊には、法華経に説かれた「万人の成仏」という仏の大願が込められています。御本仏の大慈大悲の結晶であり、全衆生の求道すべき根本尊敬の当体なのです。
 したがって、大聖人は、御本尊を「法華弘通のはたじるし」であるとも仰せです。
 斎藤 日顕宗のような広宣流布の大願も実践もない者たち、それどころか広宣流布を破壊しようとした者たちには、所詮、正しい御本尊を弘めることは絶対にできない。現代の提婆達多としての魔性の正体は、明々白々です。
 池田 「開目抄」には、「仏と提婆とは身と影とのごとし」と、仰せである。
 学会こそ、広宣流布の大願が脈動する真実の大聖人の教団である。だから、破和合僧の提婆が嫉妬し、憎悪し、襲いかかってきた。
 学会は、本物のなかの本物です。ゆえに、極悪を打ち破り、いやまして威光勢力を増しながら、「一閻浮提広宣流布」を成し遂げています。
9  悟りと誓願
 斎藤 今までの考察を整理させていただきます。
 誓願を中心に大聖人の御生涯を拝すると、出家から発迹顕本までは「若き日の誓願」→「智慧の宝珠」→「修学」→「立宗時の誓願」→「法華経の行者の実践・大難」→「発迹顕本」となります。
 池田 発迹顕本以後は、末法万年の広宣流布に向けて、流通の法体の確立に力が注がれていきます。
 大聖人は、それによって、御自身の誓願と悟りを全世界の民衆に伝えようとされたのです。
 斎藤 これをさらに簡潔にまとめれば、大聖人の御一代は「誓願→悟り→誓願の深化→悟りの深化」というリズムになっていると拝察できます。
 池田 そこに一貫して貫かれているのは、民衆救済の実践です。
 仏とは、決して静的な絶対者ではありません。苦悩する民衆に会えば同苦し、時代の行き詰まりを感じては、時代変革のために心を砕く。
 そして、民衆救済、時代変革のために戦おうという誓願を起こす。悟りは、その誓願の力によって、豊穣な智慧へと成熟する。
 釈尊が悟ったとき、最初はそのまま悟りの安楽な世界に安住してしまおうと考えたが、梵天の願いに促されて、法を説いて人々を救っていこうと決意します。
 これが、いわゆる「梵天勧請」です。
 斎藤 梵天は、現実世界の主とされるインドの神ですね。
 池田 その梵天が、釈尊が法を説くのをやめて、悟りの安楽に浸ったまま涅槃に入ってしまおうかと迷っていたときに、「それでは世界が滅びてしまう」と叫んで、釈尊に説法を勧めたと言われる。そこで釈尊は、説法を決意する。
 この梵天勧請は、釈尊己心の生命のドラマであり、釈尊が現実世界に生きる民衆の声を聞いたことを意味すると解釈できます。
 とすれば、梵天の勧めと釈尊の決意は、釈尊の「悟りの後の誓願」ととることができるでしょう。「悟り」が「誓願」と一体化して、人々を救い、時代を変革する智慧になったとき、真の仏の悟りと言えるのです。
 法華経方便品にも、梵天勧請にあたるものが説かれているね。
 斎藤 はい。すべての諸天善神による勧請になっています。また、十方の諸仏によって悟りの力を衆生を救う智慧として発揮するよう勧められています(法華経104~143㌻)。
10  池田 天台大師の悟りも、大蘇山での開悟と、天台山華頂峰で老僧から慈悲の実践を勧められる体験の二つがあったと言われている。
 斎藤 ええ。後者の体験があって後に、『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』の天台三大部の講義が行われたとされます。
 悟りといっても、まず、妙法に対して生命が開かれ始めた段階がある。そして妙法が、その人の生命に浸透し、完全に一体化して、その力が人間的な智慧や人格・行動として現れてくる段階があるのですね。
 池田 これは、二つの方向があるともいえる。
 「不変真如の理」に帰することと、「随縁真如の智」に命くことです。
 大聖人は南無妙法蓮華経の「南無」には、この二つの方向が、具わっていると説かれます。
 また、「如去」(真如に去る)は前者、「如来」(真如から来る)は後者です。
 斎藤 二段階と言えば、戸田先生の獄中の悟達にも、二つの段階があると思います。
 池田 そう。法難の獄中にあって、戸田先生は「法華経」を身読され、「仏とは生命なり」と開覚されました。
 平明な現代語で、仏法の真髄を現代に蘇らせた卓越した言葉です。これは、仏法の究極の真理に心眼が開かれた段階です。
 また事実として、わが如来の生命の力を発揮する菩薩が「地涌の菩薩」です。だからこそ、釈尊から滅後の弘教を託されたのです。
 戸田先生は、「仏とは生命」との真理を開覚した後に、法華経涌出品を読誦するなかで、地涌の菩薩の法華経の広宣流布の使命をわが使命として自覚されました。
 これは、戸田先生の生命が、妙法と一体化して、まさに事実として「仏とはわが生命」と自覚されたのです。
 その象徴が、自らが法華経の虚空会に参列しているとの独房での体験です。
 地涌の菩薩は、常に妙法を修行し、瞬間瞬間、永遠の生命を呼吸している菩薩です。
 修行する姿は菩薩でも、内面の境涯は仏です。
 地涌の菩薩として虚空会の儀式に参列されていたという戸田先生のご境涯は、永遠の生命の世界、本仏の真如の世界に確かに入られたということではないだろうか。
11  創価学会の誓願
 斎藤 この獄中の悟達が、戦後の大前進の原点になったのですね。
 池田 そうです。この「地涌の使命の自覚」から、戸田先生は第二代会長の推戴を受けられた。そして、七十五万世帯の折伏という歴史に残る学会の大誓願を師子吼したのです。
 斎藤 戸田先生の第二代会長就任式(一九五一年五月三日)の講演内容は、小説『人間革命』では、次のように描かれています。
 「現代において、仏と等しい境涯に立ち、この世界を心から愛する道に徹するならば、ただ折伏以外の方法は、すべてなにものもないのであります。
 これこそ各人の幸福への最高手段であり、世界平和への最短距離であり、一国隆昌の一大秘訣なのであります。故に、私は折伏行こそ、仏法の修行中、最高のものであるというのです。
 折伏行は人類の幸福のためであり、仏法でいう衆生済度の問題であるので、仏の境涯と一致するのであります。
 したがって、折伏をなすものは慈悲の境涯にあることを忘れてはなりませぬ。宗門論争でもなく、宗門の拡張のためでも決してない。
 御本仏・日蓮大聖人の慈悲を行ずるのであり、仏にかわって仏の事を行ずるのであることを、夢にも忘れてはなりませんぞ。この一念に立って、私は、いよいよ大折伏を果敢に実践せんとするものであります。
 時はすでに熟しきっている。日蓮大聖人立宗宣言あって七百年――その日を明年にひかえて考うるに、創価学会のごとき団体の出現が、過去七百年間に、いったいどこに、どの時代にあったでありましょうか。大いに誇りをもっていただきたいのであります。
 私の自覚にまかせて言うならば、私は広宣流布のために、この身を捨てます!
 私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は私の手でいたします。願わくは、それまでに宗門におかせられても、七十五万だけやっていただきたいものである。
 もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい! よろしいか!」
 池田 御書に仰せ通りの「仏と等しい境涯」に立っての大宣言です。
 こうして、大聖人の誓願は現代に蘇ったのです。
12  斎藤 七十五万世帯という途方もない数字に、実にいろいろな反応があったとお聞きしています。
 池田 当時の学会の全世帯数は数千だから、まさか七年で成し遂げるとは、誰も考えていなかったでしょう。ある人は「七万五千」の間違いではないか。ある人は、戸田先生は更賜寿命で、途方もなく長生きをされるのでは、と考えた。
 ある人は戸田先生を品川沖に流すことなど、とてもできないと本気で嘆いた。なにしろ、その時の聖教新聞の報道にすら、「七十五万」という数字は一回も出てこなかったくらいです。品川沖どころか、師の誓願を葬り去ろうとした幹部がいたのかもしれない。
 私自身は、これから広宣流布の真剣勝負が始まるのだなと心が引き締まる思いだった。
 とにかく戸田先生の切実な思いは皆に伝わってきた。それで、皆、立ち上がったのです。私も戸田先生の弟子として、師匠の願業を実現するために、青年部の先頭に立って、折伏・弘教の大前進を開始しました。
 斎藤 七十五万達成の突破口となった、若き池田先生の蒲田での「二月闘争」から、この二月(二〇〇二年)で満五十年になります。
 池田 一切の原点は「師弟」です。
 戸田先生の獄中の悟達も、牧口先生と師弟不二の心で、死身弘法の信心に奮い立たれたことに起因する。
 牧口先生は、大聖人の仏法が、僧侶に拝んでもらう宗教なのではなく、自他共の幸福を目指す大善生活を実現できる宗教であるとの本質を見抜かれていた。だから、僧侶に拝んでもらうだけの単なる信者であっては絶対にならないと叫ばれた。
 斎藤 はい。こう述べられています。
 「信者と行者を区別しなければならない。信ずるだけでも御願いをすれば、御利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである。即ち親心になって他人に施すのが真の信者であり、かつ行者である。が、さてそうすると必ず魔が競い起こる」「自分一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起こらない。之れに反して菩薩行という大善生活をやれば必ず魔が起こる。起こることを以って行者と知るべきである」(『牧口常三郎全集』第十巻)
 池田 障魔が起こっても菩薩行という大善生活を貫け! と呼びかけておられる。
 まさに、大聖人が一生涯、貫かれた広宣流布の大願に直結する行動です。
 斎藤 学会は牧口先生から三代にわたって広宣流布の大願を確かに受け継ぎ、また大きく広げてきたのですね。
 戸田先生が池田先生に語った「一千万」の実現の願いは、まさに象徴的です。
 池田 広宣流布の大願をもって拝してこそ、大聖人が一閻浮提総与の大御本尊を建立された御心に適う。御本仏の仏界の生命が感応してくる。
 だから学会の信心には、無量無辺の大功徳がある。
13  万年の外、
 池田 最後に、「報恩抄」の御文を拝しておきたい。大聖人の勝利宣言、末法万年の広宣流布宣言とも言うべき一節です。
 斎藤 謹んで拝読します。
 「」(三二九㌻)
 〈通解〉――日蓮の慈悲が曠大であれば南無妙法蓮華経は万年のほか、未来までも流布するであろう。日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄の道をふさいだのである。この功徳は伝教・天台にも超過し、竜樹・迦葉にもすぐれている。
 極楽百年の修行は、穢土の一日の修行の功徳に及ばない。正法・像法二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るであろう。
 これは、ひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではなく、時がそうさせるのである。春には花が咲き、秋には果実がなる。夏は暖かく、冬は冷たい。これも時がそうさせることではないか。
 池田 これは、大聖人の未来に向けての誓願であり、未来の法華経の行者に呼びかける御遺命の文とも拝することができる。
 「日蓮が慈悲曠大」とは――大聖人が末法の衆生を根底から救う法戦をしてくださったこと。大難に耐え抜いて、そして、その戦いのなかから万人を救う仏種である南無妙法蓮華経を顕してくださったことです。
 その功徳は、末法万年を超えて尽未来際まで及ぶと仰せです。
 広宣流布の源流における大聖人のこの戦いを受け継ぎ、断じて絶やしてはならない。そして、その無限の功徳を、一人でも多くの人に受けさせていきなさい。そこにこそ、人類の「平和」と「幸福」の光道がある――。
 そのように、私たちに呼びかけてくださっているのです。
 末法万年から見れば、まだまだ草創期です。
 初めて広宣流布が世界に拡大したのが、現代です。その時代を担う自覚も新たに、勇み進んでいきましょう。

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