Nichiren・Ikeda
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全民衆を救う誓願の結晶
講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)
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9 ガンジーの決意
斎藤 伝統的には「日本の柱」は主の徳、「日本の眼目」は師の徳、「日本の大船」は親の徳に配されます。
池田 仏の三徳だね。「万人成仏」という仏の誓願に通ずる大願ですから、当然、仏の徳に通じます。
ここで大聖人は、自分が仏だと誇っているわけではありません。御自身の大願を明かして、弟子たちに勝利の道を教えているのです。
大願は、強き自分をつくるからです。
大切なことは、誓願とは弱き自分を捨て、強き自分を何があっても貫き通すための支えであるということです。
斎藤 ガンジーの誓いの話があります。
ガンジーが若き法律家として南アフリカで活躍していたとき、インド人差別の法律が制定されることになりました。そのときに、インド人たちは、反対運動に立ち上がる集会を行った。そこでガンジーが強調したことは、この場で誓いを立てるのであれば、一人になっても最後の勝利をもぎ取るほどの強い誓いでなければならないということでした。
中途半端な気持ちであれば、ここで誓約すべきでない、とまでガンジーは言ったそうです。
「もしただ一人になったとき断固として立つ気持ちも、力も、持ち合わせていないのであれば、その人は誓約しないだけでなく、決議に対して反対の意志を表明すべきであります。(中略)各人は他人がどうあろうとも、たとえ死に至ることがあろうとも、誓約には忠実であらねばなりません」(ルイス・フィッシャー著、古賀勝郎訳、『ガンジー』、紀伊國屋書店)
これが、ガンジーが生涯貫いた非暴力運動の出発点になりました。
池田 何事であれ、偉大なことを成し遂げる根本には誓願があります。いかなる理由があっても、途中で諦めたり、退転するのでは、誓願とは言えません。中途半端な願望では、誓いの意味をなしません。
「いかなる大難も風の前の塵のように吹き払おう」と大聖人は言われています。
強い自分にこそ、真の安穏があるのです。
誓願によって「強き自分」を確立したときに、本当の現世安穏が開かれるのです。
反対に、「善につけても、悪につけても、法華経を捨てるのは地獄の業である」と厳しく言われておられる。魔性に負けて、自己自身に負けて、途中で挫折する「弱い自分」は地獄に通ずる。どこまでも人生は勝負。ゆえに仏法もまた勝負です。勝つことが正義であり、幸福であるからだ。
斎藤 「開目抄」では、この後、日蓮仏法の根本である広宣流布の大願に生き抜く功徳を明かしていきます。その功徳とは転重軽受と一生成仏です。
池田 あの「我並びに我が弟子……」の一節を挙げて、大願に生き抜けば、求めずとも一生成仏が達成されると明言されています。
誓願は「人間性の真髄」です。
仏の大願という最高の願いに生き抜けば、いかなる大難にあっても真実の人間性の柱が厳護され、そこにこそ生命の魂が輝いていくのです。ゆえに悪世、そして五濁の末法に、人間が人間として生き抜くには、誓願の力が大切なのです。