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日蓮大聖人・池田大作

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全民衆を救う誓願の結晶  

講義「御書の世界」(上)(池田大作全集第32巻)

前後
1  斉藤克司教学部長 本年(二〇〇二年)は、創価学会版の『新編日蓮大聖人御書全集』が発刊されてから五十周年の佳節を刻みます。
 その意義も込めて、この新年号から、「御書の世界」と題して、池田先生に語っていただくことになりました。
 教学部員をはじめ全会員にとって、何よりの喜びです。
 御書にしたためられている日蓮大聖人の教えや御事跡をめぐり、幅広く展開していただきたいと思います。何とぞ、よろしくお願いいたします。
 池田大作名誉会長 こちらこそ、よろしく。
 日蓮大聖人の教義とお人柄については、まだまだ正しく知られていないことが多いと思う。御事跡についても、明確になっていないことが多々ある。
 立正安国、一閻浮提広宣流布の御文も、学会によって、初めて正しく実践され、正確に拝することができるようになったといっても過言ではない。その基盤のうえに立って、新時代にふさわしい展開が必要になっている面もあります。
 さらに、学問的に見ても、鎌倉時代の歴史研究や御書の文献的研究の面での新しい成果もあるでしょう。
 これらを視野に入れながら、ある時は大空から俯瞰するように、ある時は顕微鏡で精査するように、御書の仰せを根本に、学び、考察していきたい。
2  御書は大聖人の激闘の記録
 斎藤 まず、「御書」について、総論的にお話をうかがいたいと思います。
 池田 御書は「末法の経典」です。
 大集経に「闘諍言訟・白法隠没」とあるように、末法は、釈尊の仏法のなかで混乱が極まり、民衆を救う力が失せる時代であるとされています。
 また、仏法の混乱とあいまって、社会においても、争いが絶えない時代になるとも説かれている。
 要するに、仏法も社会も行き詰まり、このままでは混乱と破局に陥りかねない危機的な時代が末法です。
 日蓮大聖人は、まさに御自身が生きる当時の日本こそ、「闘諍言訟・白法隠没」という末法の様相そのものを呈していると捉えられました。
 そして、このような時代に生きる人々をどうすれば根本的に救っていけるのか、また、どうすれば時代を変革していけるのかを探究されたのです。それは、現代の時代相にそのまま通じます。
 斎藤 探究といっても、単なる机上の作業にとどまるものではないですね。
 池田 もちろん、それは全人格的な戦いにならざるをえない。
 大聖人の御生涯は末法の民衆救済の闘争の連続であられた。御書には「日蓮一人」という言葉が多く記されていますが、これも、御自身が一切を担って立たれた深き御心の一端が表れていると拝することができます。
 また、「末法の初め」という言葉も枚挙に暇がないほど多く見ることができるね。これも、末法という時代の先頭に立って、万年にわたる救済の大法を顕し、弘め始めるという責任感の表れと拝せます。
 斎藤 確かに「一人」「初め」という言葉には、末法救済の戦いを始める主体者としての御決意を感じます。
 池田 私たちがよく知っている教学上のいろいろな概念も、大聖人の民衆救済の戦いのなかから生まれてきたものだね。
 例えば、「文証」「理証」「現証」の三証です。
 これについて「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」と仰せです。
 この「仏法をこころみる」とは、末法救済の法は何であるべきかを大聖人が検証されて、弘めることであると拝することができる。それを三証のあらゆる次元でなされたということです。
 斎藤 「証文(文証)」は経文・文献上の探究、「道理(理証)」は理論上の検討、「現証」は実践的検証です。このすべてを行われたということですね。
 池田 つまり、全人格的な思索と行動によって末法救済の法を顕されたのです。
 また、いわゆる五綱(教・機・時・国・教法流布の先後)も、大聖人の忍難弘通の戦いのなかから生まれてきました。
 五綱について、大聖人は「行者仏法を弘むる用心」であると言われている。
 五綱は、行者すなわち実践者が「用心」つまり、もっとも心すべきことなのだね。だれよりも大聖人御自身がその行者として心労を尽くされたのです。
 大聖人は、あらゆる角度から「心を用いて」末法の人々を救う仏法を弘めようとされた。この五綱として整理された規範もその一つです。
 要するに大聖人の御生涯の激闘の記録が御書です。
 末法の人類の救済のために大難を忍ばれ、大法を残してくださった。その御心と行動と指南を尽くされた結晶が御書なのです
 それゆえに御書は「末法の経典」と拝すべきなのです。
3  日蓮仏法の人間主義
 斎藤 「末法の経典」である「御書」は、「諸経の王」といわれる「法華経」と切り離すことのできない関係にありますね。
 池田 そう。経文という客観性、普遍性の次元を尊重されたからです。また、大聖人は末法を救う法を法華経に求められた。そして、その答えを見いだされた。
 その答えとは、法華経で「万人が成仏できる」と説いている点にあります。
 しかも、それは遠い未来にいずれ成仏できるというものではない。法華経迹門では、一応、未来世の成仏にとどまっていますが、本門寿量品の所説になると、「今」、「この世界」で、「現実に生きている人間」に成仏の可能性があることを示されています。
 社会も宗教も混乱の極みにある末法において、人々を救い、時代を変革していくためには、万人が具える成仏の可能性を開く教え以外にない。つまり、人間の偉大な可能性を開発する以外に、末法の救済はない。
 人間が境涯を広げる以外に、本質的な解決はないのです。
 法華経の救済観を委細に求めると、そういう根本的な「人間主義」ともいうべきものを見ることができる。
 大聖人は、末法という時代の本質を鋭く感じ取られ、法華経の人間主義を展開されたのです。
 斎藤 人間から出発するしかないという点と、その人間の生命に偉大な可能性を発見した点において、人間主義と名づけるわけですね。
 人間主義というと、「理性的存在」とか「神の似姿」といった人間観を根拠にした西洋の人間主義を思い浮かべる人が多いと思います。このような西洋的な人間主義と仏法の人間主義の違いについては、どう考えたらよいでしょうか。
 池田 仏法の人間主義は、理性とか神の似姿というような固定的な根拠に基づく人間主義ではなく、「仏性」の開発による人間革命の可能性を根拠にしたものです。
 その「仏性」というのも、人間の心が妙法に開かれていることをいいます。したがって、人間だけに何か特別なものが具わっているというものではありません。
 斎藤 人間だけに何か特別なものが具わっているから人間が尊いという"固定的な人間主義"は、ともすると「人間だけが尊い」といって、他の生命をおろそかにする人間中心主義に陥る恐れがあります。
 池田 あらゆる生命は妙法の当体であり、生命としては平等です。その意味では、あらゆる生命は妙法に開かれており、仏性が具わっていると言える。それを表現したのが、十界のいかなる生命も仏界を具えているという十界互具の法理です。
 そのなかで人間は、仏界の力を人格と生活のうえに現すことができる。そのために重要になるのが「心」です。
 したがって、御書では仏道修行における「心」の大切さが大いに強調されています。「信」「勇気」などの仏界を開く心の力と働きを教えられるとともに、反対に「不信」「臆病」などの仏界を閉ざす心の働きを戒める。
 心についての教えが御書であるといっても過言ではありません。
4  斎藤 「ただ心こそ大切なれ」との仰せをはじめとして、大聖人の教えにおける心の重要性を大きく示してくださったのは池田先生が初めてだと思います。
 池田 御書の通りの実践が根本です。いずれにしても、仏法の人間主義はどこまでも人間自身の生命の「変革の実践」を前提にしたものです。
 斎藤 実践的人間主義、あるいは人間革命主義と言えますね。
 池田 どう名づけるかはともかく、自他の変革を促す「実践」を伴ったものでなければなりません。仏法は「行」なのです。
 その意味で、法華経に説かれる不軽菩薩の実践は、まさに法華経の人間主義の模範であるといえるでしょう。
 斎藤 不軽菩薩は、会う人ごとに「私は深くあなた方を敬います。決して軽んじません。なぜならば、あなた方は皆、菩薩の修行をして成仏することができるからです」と言って、すべての人を礼拝して歩きました。
 確かに、不軽菩薩は、自分も信念を弘める実践をし、かつ、相手にも菩薩の修行を促しています。
 池田 大聖人は、この不軽菩薩の「人を敬う」実践こそが「法華経の修行の肝心」であり、「釈尊の出世の本懐」であると仰せです。
 仏法の要が「人を敬う実践」にあるとの御指摘です。実に重要なポイントです。
 不軽菩薩は、自分自身は軽蔑され、迫害されましたが、人を敬う実践をどこまでも貫きました。
 大聖人は、御自分が不軽菩薩の実践を継ぐ者だと言われている。末法の救済は、自他の仏性を開発していく実践以外にない、というのが大聖人の結論だったのです。
 そして、自他の仏性への礼拝を南無妙法蓮華経として顕されたわけです。
 「末法万年尽未来際」と言われます。ゆえに、大聖人の時代から七百年を経た現代においても、大聖人が捉えられた「末法」という時代性の本質は、変わっていないといってよい。
 端的に言えば、末法とは「争いの時代」です。あらゆるものが争いへと流されていく時代です。その激流に抗する力は、「自他の仏性を信ずる」という強い信念です。そして、その信念の実践化としての「人を敬う」行動以外にありません。
 この信念と行動の拡大が「広宣流布」にほかならない。
 「争いの時代」の激流を押し返す、「広宣流布」の流れをつくられたのが、大聖人なのです。
 「根ふかければ枝しげし源遠ければ流ながし」です。大聖人は、御自身の戦いが末法万年の広宣流布の根源であり、源流であると言われています。
 生命に具わる仏性の開発という、もっとも根源の次元から、広宣流布の流れを起こされたからです。
 争いと対立の根である「無明」を、妙法への強き「信」によって打ち砕く戦いに勝ってこそ、その広宣流布の流れは起こってくる。
 この源流をつくるために、大聖人が御書の随所において強調されているのが「広宣流布の大願」なのです。
5  御書の核心――広宣流布の大願
 斎藤 今のお話から、この連載の最初のテーマも自ずと定まってきました。御書における「広宣流布の大願」について、さらに語っていただければと思います。
 池田 「広宣流布の大願」は御書の核心です。
 また、大聖人の御生涯を貫く骨格です。
 「大願」とは、仏の悟りの生命から発する「広大な願い」です。
 万法を包む一法である妙法を自身の当体と悟った仏の心において発現する「生命本来の願い」です。
 「悟る」ということは、この生命本来の願いを「思い起こす」ことだと言っても過言ではない。
 いずれにしても、仏界の生命と広宣流布の大願は一体です。だから、広宣流布の大願に生きる人には、仏界の生命が涌現するのです。
 仏界といっても、仏性といっても、大願を起こし、広布に生き抜いていく、「一念に億劫の辛労を尽くす」戦いを離れてはありえない。
 その 「瞬間の生命」こそが仏であり、如来なのです。
 事実として仏の生命を教えるのが、大聖人の「事」の仏法です。そのために大願に生き抜きなさいと大聖人はおっしゃっておられる。
 仏の大願をわが願いとし、不退転の行動で大願を達成せんと願い、誓い、向かっていく人は、知らずしらずのうちに、仏の心と冥合し、仏界の生命を涌現していけるからです。
 斎藤 大願を持つことは即、成仏の道を歩むことだといえますね。
 池田 広宣流布の戦いのなかにしか、成仏の道はないのです。大聖人が「撰時抄」で明示されている通りです。
 さきほども言った通り、仏法は「行」です。行とは、自分が「決意」して、どんな困難があっても「実践」し抜いていくことです。自分で切り開いていく努力でなければ行とは言えません。
 仏と同じ決意をして、その実行のためにどこまでも努力していく。そこにしか成仏の道はありません。
 斎藤 それゆえに、大聖人は弟子たちに、「大願を起こせ」「大願に生きよ」と呼びかけておられるのですね。
 池田 私がいつも心して拝してきた一節に「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」と仰せです。この限りある人生を仏と同じ大願に生きなさい、と教えられている。
 斎藤 悟りそのものは、いくら言葉を尽くしても、伝えきれるものではありません。しかし、願いは伝えやすいし、習うこともできます。
 池田 大願は、仏界の生命の人格的な現れです。ですから、私たちは一個の人格として学ぶことができるのです。
 大聖人は「願くは我が弟子等・大願ををこせ、去年去去年のやくびやう疫病に死にし人人の・かずにも入らず、又当時・蒙古のめに・まぬかるべしともみへず、とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじ当時のごとし、をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」と仰せです。
 わが身は「つゆ」のようにはかなく、「ちり」のように取るに足りない身かもしれない。その身も「大願」を起こすことで、法華経の大海と一体化して永遠に失われない身となる。また、妙法の大地となって、永遠に朽ちることがない。大願を起こせば仏の大境涯に連なるのだ、とのお約束です。
6  仏の誓願を明かす経典・法華経
 斎藤 この御文では、大願を起こせば法華経と一体の生命になると教えられています。
 池田 法華経は、「仏の願い」と、その願いを実現するための「仏の実践」を描いた経典だと言えます。法華経の前半・迹門の中心は方便品第二です。方便品では「一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめん」(法華経130㌻)という釈尊の誓願が明かされます。
 「すべての衆生を、自分(釈尊)と同じ仏にして異なることがないようにしたい」という願いです。また、必ずそれを実現していくという誓いであり、決意でもあります。
 この釈尊の誓願を受けて、迹門の後半では、菩薩や二乗が誓願を立てていきます。
 斎藤 はい。見宝塔品第十一で釈尊が菩薩たちに向かって滅後弘通の誓いを要請します。それを受けて勧持品第十三では、八十万億那由佗という多くの菩薩たちが、いわゆる勧持品の二十行の偈(韻を踏んだ詩文)を説いて滅後の弘通を誓います。この二十行の偈に、あの「三類の強敵」が説かれます。
 池田 また、後半・本門の中心は如来寿量品第十六です。この品では、五百塵点劫というはるかな昔に成仏して以来、その長い期間をひたすら衆生救済のために娑婆世界で活躍している仏が説かれている。この久遠の昔に成仏した仏こそが、釈尊の本来の境地です。その仏を「久遠実成の釈尊」と呼ぶのです。
 寿量品の末尾には、この仏が瞬間瞬間、ひたすら万人の成仏を願っていることを明かしている。
 「毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得しめんと」(法華経493㌻)
 〈通解〉――久遠実成の釈尊は常に自分のなかでこう願っている。「どうすれば成仏という無上の道に衆生を入らせ、速やかに仏の身を成就させることができるであろうか」と。
 久遠実成の釈尊は、久遠以来、さまざまな姿をとって現実世界に現れては法を説き、また入滅の姿を示しては衆生を教化します。しかし、どのような姿をとっていても、心の思いは一人ひとりの衆生を速やかに成仏させるにはどうしたらよいだろうか、という慈悲の心だけだということです。
 このように法華経は、まさしく「一切衆生の成仏」を実現しゆく如来の誓願を明らかにした宣誓書なのです。
 斎藤 久遠実成の釈尊は、成仏してからの計り知れない期間を、ひたすら誓願を実践することに使っているのですね。
 池田 法華経本門の仏は、悟ってからも常に現実世界で法を説き、衆生を救い続ける仏なのだね。その期間は計り知れないほど長遠です。これは諸経の仏とは決定的に異なります。諸経の仏は、悟ったあとに現実世界から去って、もう現れなかったり、全くの別世界に安住する仏です。
 法華経は誓願によって娑婆世界に生きる永遠の仏を説いています。現実世界のなかで「万人の成仏」という「願い」に生き続ける仏です。
 これは、厳しき現実社会のなかで誓願に生き抜く人の姿にこそ、永遠なる如来の生命が輝いているとの教えと拝することができます。
 斎藤 人格のなかに輝く永遠性ですね。
7  「詮ずるところは天もすて給え」
 池田 そういう「永遠の仏」を説くのが法華経であるとすれば、まさに如来の誓願に生きる人こそが真の法華経の行者と言わざるを得ない。
 「開目抄」はまさに、大聖人こそ真の法華経の行者であり、即ち末法の御本仏であられることを明かされた書です。
 大聖人の御生命に広宣流布の大願が脈打っていることを明かした大慈大悲の書です。
 その核心は「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」で始まるあの一節です。
 斎藤 はい。拝読してみます。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」と。
 〈通解〉――(次々と大難に遭う大聖人が本当に法華経の行者であるのか、法華経の行者であるならば何故に諸天の加護がないのか、という人々の疑問について経文と道理に照らして種々、検討してきたが)結局のところは、天が私を捨てるのであれば捨てるがよい。多くの難に遭わなければならないのであれば遭ってもかまわない。身命をなげうって戦うのみである。
 舎利弗が過去世に六十劫の菩薩行を積み重ねたのに途中で退転してしまったのは、眼を乞うバラモンの責めを堪えられなかったからである。
 久遠の昔に下種を受けた者、あるいは大通智勝仏の昔に法華経に結縁した者が、退転して無間地獄に堕ち、五百塵点劫、三千塵点劫という長遠の時間を経なければならなかったのも、悪知識に会って惑わされたからである。善につけ、悪につけ、法華経を捨てるのは地獄に堕ちる業なのである。
 「大願を立てよう。『法華経を捨てて観無量寿経を信じて後生を期するのならば、日本国の王位を譲ろう』『念仏を称えなければ父母の首をはねるぞ』などの種々の大難が起こってこようとも、智者に私の正義が破られるのでないかぎり、そのような言い分に決して動かされることはない。その他のどんな大難も風の前の塵のように吹き払ってしまおう。私は日本の柱になろう。私は日本の眼目になろう。私は日本の大船になろう」と誓った誓願を決して破るまい。
8  池田 大聖人の不惜身命、死身弘法の「戦う心」を示された御文です。そして、その「戦う心」を支える根本として、御自身の「大願」を確認されています。
 この「戦う心」と「大願」こそ法華経の真髄の魂であり、日蓮仏法の根幹です。
 斎藤 「開目抄」では、この御文に至るまでに、法華経の経文に照らして大聖人が法華経の行者かどうかを検証されています。法華経の行者であるならば、どうして法華経に説かれているとおりに諸天の加護がないのか、という人々の疑問を晴らすためです。
 池田 また、法華経の行者の本質を明かすためでもあるね。
 斎藤 はい。その検証の結果、確かに大聖人は、「三類の強敵」による迫害を受けるなど、法華経に説かれているとおりの法華経の行者であることは間違いないことが確認されます。
 しかし、法華経の行者であるのなら、何故、現世安穏ではないのか。現世安穏でなければ信仰する意味がないではないか、という疑問が残ります。
 法華経の行者であるにもかかわらず、ともかくも難に遭って苦しまなければならないのはなぜか、また、迫害者に現罰がないのはなぜか。その理由が述べられていきます。
 池田 仏法の極致の御省察が続いていきます。そして、旭日が豁然と輝きわたるかのように、「詮ずるところは天もすて給え……」という一節が始まるのだね。
 「開目抄」の「開目」とは、「目を開け」という意味と拝します。
 この一節を拝する者は、まさに、ここに述べられている大聖人の大願に眼を開かざるをえません。
 「日蓮の大願に目を開け」というのが「開目抄」の根本趣旨なのです。
 末法の世に仏と同じ大願を生きる人こそが末法の法華経の行者なのであり、諸天に守られるかどうかは二義的な問題なのです。
 斎藤 「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ」の一節が大聖人の大願の中心的な内容となっています。
 池田 先に述べたように、「大願」とは法華経に説かれた仏の広大な誓願です。万人を成仏させようという仏の願いです。
 それを実現していくために大法を弘めようという大聖人の大願です。
 「我日本の柱とならむ」等の誓いは、まさに仏の誓願に通ずるのです。
 斎藤 日本だけを特別視していると解釈する人もいますが、そうではありませんね。
 池田 「日本の」と言われているのは、大聖人が日本を特別視しているからではない。「一閻浮提」というように、日蓮仏法による救済は日本のみに限定しているものではないからです。
 大聖人が仰せの「日本」とは、一つには、「典型的な末法の国土」としての日本であり、その救済を言われているのです。
 つまり、ここで言われている日本の救済とは、結局、末法全体の救済を意味するのです。また、どこまでも具体的な現実世界の救済を目指されているからこそ、「日本の」と言われているのです。ここに「事」の仏法としての日蓮仏法の特質があるといってよい。
 法華経に示された仏の大願は全衆生の成仏を願うものです。それを前提としつつ、具体的に「今」「ここ」における民衆の救済を誓われているのです。
 斎藤 大聖人が目指したのは、日本という国家の安定であるとし、大聖人の仏法を国家主義的なものとして解釈する人もまだいるようです。
 池田 大聖人が目指された根本は「民衆の安穏」です。それは「民衆の幸福」のことです。「民衆の平和」のことです。故に、その民衆の命運を左右する権力や国家の在り方を問題にされたのは当然のことと思う。人類の安穏のために国家の安定も望まれていたでしょう。ここに、大聖人の画期的な民衆観、国家観がある。
 仰せの「日本」とは何よりも民衆が生きる国土であり、生活する社会であって、権力者が支配するものとしての国家が第一義ではないのです。
9  ガンジーの決意
 斎藤 伝統的には「日本の柱」は主の徳、「日本の眼目」は師の徳、「日本の大船」は親の徳に配されます。
 池田 仏の三徳だね。「万人成仏」という仏の誓願に通ずる大願ですから、当然、仏の徳に通じます。
 ここで大聖人は、自分が仏だと誇っているわけではありません。御自身の大願を明かして、弟子たちに勝利の道を教えているのです。
 大願は、強き自分をつくるからです。
 大切なことは、誓願とは弱き自分を捨て、強き自分を何があっても貫き通すための支えであるということです。
 斎藤 ガンジーの誓いの話があります。
 ガンジーが若き法律家として南アフリカで活躍していたとき、インド人差別の法律が制定されることになりました。そのときに、インド人たちは、反対運動に立ち上がる集会を行った。そこでガンジーが強調したことは、この場で誓いを立てるのであれば、一人になっても最後の勝利をもぎ取るほどの強い誓いでなければならないということでした。
 中途半端な気持ちであれば、ここで誓約すべきでない、とまでガンジーは言ったそうです。
 「もしただ一人になったとき断固として立つ気持ちも、力も、持ち合わせていないのであれば、その人は誓約しないだけでなく、決議に対して反対の意志を表明すべきであります。(中略)各人は他人がどうあろうとも、たとえ死に至ることがあろうとも、誓約には忠実であらねばなりません」(ルイス・フィッシャー著、古賀勝郎訳、『ガンジー』、紀伊國屋書店)
 これが、ガンジーが生涯貫いた非暴力運動の出発点になりました。
 池田 何事であれ、偉大なことを成し遂げる根本には誓願があります。いかなる理由があっても、途中で諦めたり、退転するのでは、誓願とは言えません。中途半端な願望では、誓いの意味をなしません。
 「いかなる大難も風の前の塵のように吹き払おう」と大聖人は言われています。
 強い自分にこそ、真の安穏があるのです。
 誓願によって「強き自分」を確立したときに、本当の現世安穏が開かれるのです。
 反対に、「善につけても、悪につけても、法華経を捨てるのは地獄の業である」と厳しく言われておられる。魔性に負けて、自己自身に負けて、途中で挫折する「弱い自分」は地獄に通ずる。どこまでも人生は勝負。ゆえに仏法もまた勝負です。勝つことが正義であり、幸福であるからだ。
 斎藤 「開目抄」では、この後、日蓮仏法の根本である広宣流布の大願に生き抜く功徳を明かしていきます。その功徳とは転重軽受と一生成仏です。
 池田 あの「我並びに我が弟子……」の一節を挙げて、大願に生き抜けば、求めずとも一生成仏が達成されると明言されています。
 誓願は「人間性の真髄」です。
 仏の大願という最高の願いに生き抜けば、いかなる大難にあっても真実の人間性の柱が厳護され、そこにこそ生命の魂が輝いていくのです。ゆえに悪世、そして五濁の末法に、人間が人間として生き抜くには、誓願の力が大切なのです。

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