Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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日本の心  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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3  ところで、西洋人のものした日本人論の名著として、ルース・ベネディクトの『菊と刀』がある。私も、まだ青年時代に、この、女史が鋭く抉り出してみせた日本人の体質、日本文化の類型に、一種の恥じらいと、ある種の抵抗感をもって通読したことがある。
 当時はまだ若かったのであろうか。なんとか、女史の冷静な論理に落ち込まないよう努力しつつも、結果的には承認せざるをえないような、複雑な気持ちになったことを思い出す。
 ベネディクトはここで、日本文化と西洋文化を対比し、日本文化は「恥の文化」、西洋文化は「罪の文化」であると、巧みな表現で論を展開している。つまり、日本人が最も社会的に支配されている観念、倫理観は「恥」である。
 「世間さまに顔向けができない」という「恥の意識」が、善かれ悪しかれ、日本人の生活姿勢の根底の基準になっているということである。
 それに対し西洋の場合は「罪」であるというのである。なにか悪いことをした場合、たとえば息子が悪事を働いた場合、母が心にかけるのは、まず自己の良心である。社会、世間という観念は第二義にすぎない。その意味で西洋人は、伝統として、自己の良心のうえから善悪観を感じている。それに比べ日本人は、そこに自己の良心という内面の葛藤は稀薄で、むしろ対社会という面での恥意識が中心になっている。
 このような日本人の心の構造を取り出してみせて女史が言わんとしたことは、結局、日本人は、自己の内面、理性の峻別から生まれる厳格な合理性、真理観というものは樹立できない。ゆえに、そこに近代化の遅れている要因があることを強調したかったのであろう。
 この「恥の文化」「罪の文化」という判別類型は、以後、陰に陽に、日本人を語るさいの分析のタテ糸となっていった感がある。現に日本の知識人が、戦後の民主主義の建設期に、女史の展開した論を種々変容させ、西洋流の自我の確立、理性的精神の高揚などを盛んに啓蒙した時代があった。
 『菊と刀』の分析のなかには、日本人として傾聴しなければならない点も多い。しかし今、冷静に振り返ってみるとき、そのことによって、なにも日本人の考え方のすべてが全面的に否定されねばならないということではない。
 自己の内面の規範、峻厳な理性の培養には努めなければならない。しかし人間が生きる以上、理性の識別がもたらす論理の範疇のみではすべてを律しきることはできない。
 もしあえてそれを強行しようとすれば、結局、人間は「論理」の鎖に繋がれた存在にすぎなくなるであろう。西洋ではたしかに、この絶対神の発動のままに、神、イデオロギー、あるいは科学という論理が人間に先行し、かえって、それが人間を疎外した苦い経験を積んでいる。
 真偽の峻別、善悪の判断、そこには妥協があってはなるまい。それを曖昧さで包んでしまうことは悪である。しかし現実に庶民が一個の人間として生きるとき、ほのかな曖昧さと、自己を謙虚にみつめたうえでの「恥意識」は、人生の調味料として、豊かでふくよかな味を醸し出すこともあるにちがいない。
 あるかなきかの化粧をつけた、淡い可憐な日本の花──その花との交流の世界で、日本的こころの繊細がとらえた美しさは、今、私の胸のなかをめぐっている。

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