Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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自己完結の美  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
4  声聞も縁覚も、たしかにすぐれた高い境界を悟っている。しかしそれは、厳しくいえば、現実世界を捨象し、人生のさまざまな営み──芥川の言う「人生の瑣事」であるかもしれないが──から離脱して、内面世界に沈潜することによって得られたものである。彼らが人里離れた「空閑処」に居して思索し、観念したといわれるのも、ひたすら、その自己完成を求めてであったと考えられる。
 仏典では、こうした境界に達し、そしてそこに陥ってしまった声聞、縁覚を、徹底的に弾呵している。それは何故かといえば、彼らは真実の人生の生きがいの一歩手前のところで安住し、低い悟りで満足しているとされたからでもあった。結局、自己がいかに生きるか、いかに自己を完成するかということは、いかにして不幸の民衆を救うかの実践によって初めて全うされる問題であったのである。いわゆる菩薩の道とは、内面の自己完成と民衆救済の実践とを、同時に究めるという生き方を志向するものにほかならなかった。
 内部世界と外部世界がいかに相渉り発展していくかということは、学問、芸術にとっても究極の課題にちがいない。もとより学問、芸術が、それ自体の自律性をもっていることは言うまでもない。そのため、その独自の世界で自己完結させることに美を感ずる生き方もあろう。だが、真実の意味の自己完結は、外界のなかへ開かれていったところにあらわれるものだと思う。
 庭先から吹き抜ける薫風が快い。心身爽やかな今朝──ふと、このような、とりとめない想いが生じたのも、川端康成氏の自殺に触発されたからであろうか。

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