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日蓮大聖人・池田大作

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自己完結の美  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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1   世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(大伴旅人)
 これは、太宰府にあった旅人が、妻の大伴郎女を亡くしたときに、京からきた弔問に応えた歌であるといわれる。そういう現実体験を踏まえてみれば、この歌の悲傷感は、さらに深く理解されるにちがいない。斎藤茂吉の解説によれば、無常について歌った思想的抒情詩としては、当時において先駆的な新しさをもったものであろう、と考えられる。 仏教──というと、すぐに幽玄とか無常観とかいう概念に結びつけて考えられる傾向があるようだ。それは多分に、審美的に偏向した見方のように私には思えてならない。仏教はあくまで、人生いかに生きるか──という現実の問題から、瞬時も離れることはない。であればこそ、その前提として、人生の真実相を仮借なく見極めているのである。
2  たとえば、釈尊の出家の動機について、四門遊観という説話が伝えられている。釈尊が王宮にあったとき、城から遊びに出ようとした。東門から出たとき、釈尊は老人を見た。南門では病人を見、西門には死人を見た。ところが北門では出家した者の姿を見、それに心を打たれて、みずからも出家を決意したという。
 これは、いかにも興味深いエピソードであると思う。なぜなら、たとえ伝説であるにもせよ、それは仏教の出発点を象徴的に示しているからである。そこには、いわゆる四苦──生老病死という、人間存在の最も根源にある苦悩を見据え、いかにそれを克服するか、を透徹した眼で追究していく仏教の本義が明らかにされているように思われる。
 人生といい人間の幸、不幸といっても、しょせんは、生命の瞬間瞬間の起伏であり、その感受する哀楽にほかならない。この生命の方向性をいかにリードするかは、じつに時代を超えた、人間存在の奥底にある問題だとはいえまいか。
 その解決の法を悟った釈尊の目前にあったのは、苦しみ悩む民衆の姿であったろう。しかし民衆は、ただ苦悩の淵に沈むのみで、人生の根本問題に思いを馳せようとしない。一方では、現世の享楽を飽くなく求め耽るような快楽主義的な風潮も濃く浸透していたであろうし、また、実際に日々の生活を生きねばならぬ民衆にとっては、永遠の問題など日常の思念の外にあるものだったことは、むしろ当然のこととも考えられる。
3  現在ではほとんど耳遠いものとなった六道輪廻という仏教用語も、その臭みを除いて、それがもつ本来の意味から生活のなかでとらえるなら、日常性への埋没という現代語に置き換えることができると思う。
 人間性には時代にかかわらぬ共通性があるにちがいない。その意味で、私はあえて想像を逞しくしてみたいと思うのだ。──ひとたびはこの日常性から離れてみなければならぬ。それによって初めて、人生の意義に眼を開かしむることになるのだ。ひらたくいえば、そのように釈尊は考えたのではないだろうか。そして無常を強調することは、じつはその無常のなかにいかに常住の自己を確立するかという目的のための一階梯であったと、私は考えたい。
 ところで仏教には、縁覚という一つの境界が説かれている。むずかしく説明すると、独覚ともいい、飛花落葉等を見て苦・空・無常・無我を観じ、独りみずから悟る者をいうのだが、これもあえて現代的に表現すれば、哲学的または芸術的な求道者、悟達者といってもよいと思う。
 これと並んで、声聞と呼ばれる境界がある。仏の説法の声を聞いて悟る者のことであり、どちらかというと学理的、知的な求道者であろう。
 いずれも、まさに日常性から脱却した反省的自我の一つの究極の到達点を示すものにほかならない。
 彼らはそこにみずからの完成された内部世界を構築する。その小さく自己完結した世界では、いかに内面を研ぎすましていくかが最大の関心事とならざるをえない。その涯にあらわれるのが、灰身滅智という観念であった。完璧な内部世界をたもちつづけるには、あまりに煩悩の多い自分の存在自体が重大な妨げとなってくる。そこでみずからの肉身を灰と化し、心智を滅失することが理想とされるわけである。
 これは、生の追求から出発してついには死にいたる、典型的な道程である。言わば死の美学でもある。その死は、逆説的にいえば、やはり生への賛歌なのであろうが、日常性からはるかに飛翔しきった世界の極限である。前にも少しふれたことがあるが、芥川龍之介の「末期の眼」がとらえた美というのも、こうした内面世界の光景なのであろう。
 しかし内部世界を確立するのは、本来あくまで生きるためである。日常性の状態が外部世界への埋没であるとするならば、そこから一度離れてみるべきなのは当然である。しかし、それは、またふたたび現実の日常性に還らねばならない。よりよく生きるということは、このような内部世界と外部世界の不断の往復運動の過程であるといえるのではあるまいか。
4  声聞も縁覚も、たしかにすぐれた高い境界を悟っている。しかしそれは、厳しくいえば、現実世界を捨象し、人生のさまざまな営み──芥川の言う「人生の瑣事」であるかもしれないが──から離脱して、内面世界に沈潜することによって得られたものである。彼らが人里離れた「空閑処」に居して思索し、観念したといわれるのも、ひたすら、その自己完成を求めてであったと考えられる。
 仏典では、こうした境界に達し、そしてそこに陥ってしまった声聞、縁覚を、徹底的に弾呵している。それは何故かといえば、彼らは真実の人生の生きがいの一歩手前のところで安住し、低い悟りで満足しているとされたからでもあった。結局、自己がいかに生きるか、いかに自己を完成するかということは、いかにして不幸の民衆を救うかの実践によって初めて全うされる問題であったのである。いわゆる菩薩の道とは、内面の自己完成と民衆救済の実践とを、同時に究めるという生き方を志向するものにほかならなかった。
 内部世界と外部世界がいかに相渉り発展していくかということは、学問、芸術にとっても究極の課題にちがいない。もとより学問、芸術が、それ自体の自律性をもっていることは言うまでもない。そのため、その独自の世界で自己完結させることに美を感ずる生き方もあろう。だが、真実の意味の自己完結は、外界のなかへ開かれていったところにあらわれるものだと思う。
 庭先から吹き抜ける薫風が快い。心身爽やかな今朝──ふと、このような、とりとめない想いが生じたのも、川端康成氏の自殺に触発されたからであろうか。

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