Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

生きる  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  本誌に随想を書かせていただくようになってから、もう半年が過ぎてしまった。
 書きはじめたころは、紅葉が鮮やかな色彩で、川面を染めぬいていた。それもいつか落葉し、冬将軍の到来となった。やがて凍てついた地表も、水ぬるみ、土筆が剽軽な顔を出して春の序幕を告げ、春の王者のように、桜が爛漫と咲き誇った。今はその桜も散り、豊かな葉桜となっている。
 草木は、みずからの季節を迎えると、短い乱舞の時を精いっぱい生きて、次の草花にバトンを渡す。人間どもが、日々の煩瑣な葛藤に明け暮れていても、自然は左右されることなく、みずからの時のリズムを形成しつつ、軌道を踏みはずさない。
 人間も、この「時」という王者の前には自然草木となんら変わるところがない。いかに万物の霊長と驕り、他の生きとし生けるものを配下にしようが、時の流れとともに生々流転していく運命は逃れられない。些事に冷静の眼を失って憎悪し、殺戮し、欺瞞しあうことの、いかに無意味で儚いことか。
 生物学の観点でみれば、地球が誕生してから現代までを、仮に一日とすれば、人間の歴史は、たかだか二分ぐらいであるという。まだ、類人猿に近い時代から、道具を使い始めた時代、エジプトやインドに文化が発生した時代、そしてギリシャ、ローマ、中世、近代、現代と、すべての時代を含めてである。
 さらに、天文学的に考えれば、人類のこうして営々と築いた歴史も、ほんの一瞬のようなものになってしまうだろう。
 ある学者が言った。
 巨視の眼でみれば、人間など地表にへばりついて生きている、虫の集団のようなものだ、と。また、いかに高尚な論議を交わし、文化を築いても、分子の無意味なブラウン運動のようなものだ、とも。
 一面から考えれば、それも真実であろう。機械的な唯物論の思考法では、そう思えるのも無理はない。しかし、だからこそ、どう生きれば人間が人間としての「証」を得ることができるかを、考えねばなるまい。
 ある意味では、宇宙自然の巨大なリズムのなかでの人生は、決まっているといってよい。行動の自由も、その能力は厳しく限られている。そのなかで、どのようにして、無限の価値を創造していくかに、人生の鍵があるように思える。
 一点の、虫のごとき存在でありながら、人間の思考は、全宇宙を包み込むことができる。一瞬の、はかない人生でありながら、無限の過去と未来を、人間の思索は駆けめぐる。ならば、わが生涯も、無尽の宏さと、長久さをあらわしえていいはずである。人間、何のために生きるのかと考え、求めることは、人間にとって、みずからを最大に生かす権利であり、義務であるといえよう。
2   人間五十年 下天の内を較ぶれば 夢まぼろしの如くなり ひと度 生をうけて 滅せぬもののあるべきか
 信長の愛誦した一節である。
 戦国乱世に生をうけた彼は、華麗な劇を演ずるかのように、波乱の人生は四十九にして散っていった。
 現代は、この信長のころから比べて、平均寿命は大きく伸び、さしずめ人生七十年というべきかもしれない。しかし、過去、現在、未来と進みゆく、時の流れからみれば、夢まぼろしのように、儚く、短いことには変わりないだろう。 この短い生──これは、よく花の生命にたとえられるが──を、いかに人間として悔いなく送るか、ここに、その人の生き方が決まるといってよい。
 ところで、一般の人が自分の人生、生について考えるとき、一番むずかしい障壁は、いくら頭のなかで思索してみても、どうも根本の問題が解決されないゆえに、放棄せざるをえないということである。
 根本の問題とは、言うまでもなく、人間の生死の問題である。人間は、少なくとも表面的には、みずからの意思で生まれてきたという、たしかな手応えがない。その意味では、実存哲学者の言うように「人間は、ゆえもなく、この世に放り投げられた孤独な存在」ともいえよう。
 また、その生は、一面からいえば、死という生の否定をめざしての、絶えまない行進である。人間は、生まれた以上、このみずからの終着点である、死に向かって歩みつづけていく。しかも人間自身は、死について意識はしても、また自殺などのように、己の生命を絶つことはあっても、大半の場合、死を自分の手で選択する自由も与えられていない。
 生も死も、人間の自由な意思から、はるか彼方の次元で、厳然と行われていて、人間は、ただ、その生死の河のなかで、浮遊しているのだ。
 このような人間存在の状況を、きわめてシビアにとらえて、厭世観をいだいた人も少なくない。
 また逆に、そういうことを、いくら考えてもラチがあかないと思う人は、結局、短い人生を、思う存分楽しめば、それでよいという快楽的人生観をもつようになる。
3  私はここで、そのどちらがいいかを論ずるつもりはない。また、それについて、こうあるべきだと押しつける資格もないが、ただ、人間として、人生を生きる以上、やはり、この自己の存在というものに目を向けないかぎり、人生の意味も、真実も、つかみえないのではないかと思うのである。
 ある人が、革命とは、自分自身が、何ものか得体の知れぬものに飼育されているという自覚が生まれたとき、生ずるものだと述べていた。もちろん、生活上の不満や矛盾が直接の強い動機になっていようが、たしかに、そうした、主体者であるべき人間が、自分ではない他のものに束縛されているという実感、苛立ち……これが、革命の人間的動機であるかもしれない。
 その束縛しているもの、飼育している要因が、社会機構のなかにあるとみたのが、マルクスであろう。しかし、それだけでは、まだ人間が、ゆえもない生と死という、得体の知れないものによって束縛されているという問題は解決されえないのではないだろうか。
4  そうすると、どうしても、この生死の縛に分析の鉾先を向けざるをえない。そこに解決の光を当てた哲学を得たときに初めて、人間の、最も奥深い座からの解放があるように思われる。
 そして人類が、このきわめてラジカルな視点から、己を新たに構築しようとしたときに、人間疎外なる問題に対しても、一つの明確な曙光が見いだせよう。現代の文明の状況は、人間に、それを課しているように、私には思えてならない。

1
1