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日蓮大聖人・池田大作

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逃亡者  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」──これは近ごろ、にわかにクローズアップされている、旧日本軍の「戦陣訓」の一節である。
 かつて多くの人々が、一枚の召集令状で戦場に駆りだされていった。
 ある者は戦い死に、ある者は生還した。戦争は終わり、歳月は経過し、世代は移り変わっている。戦争を知らない若者たちは「戦陣訓」など、およそ時代錯誤の理解を絶したものに思われよう。横井さんの奇跡の生還はそのことを、あらためて鮮烈に蘇らせてくれた。
 最近問題になっている「敵前逃亡」の事例も、戦争の刻みつけた深い爪痕の一つを、はからずも露にしたものだといえよう。
2  敗戦後、ブーゲンビル島で軍法会議が開かれ、敵前逃亡の罪名のもとに、六十五人の兵士が有罪判決をうけ、復員後も服役していた事実が明らかになった。さらに、厚生省の公表によれば、同島と同じように戦後の軍法会議で有罪判決をうけたものは、二十年に約千人、二十一年に約五百人いたという。
 これに対する恩赦は、戦後三度にわたって行われ、敵前逃亡など軍刑法犯のほとんどが、大赦または特赦になっている。しかし一度うけた罪名の汚辱は拭われることがない。心の傷は、生涯にわたって痕跡を残したままだ。敵前逃亡のケースを小説化した『軍旗はためく下に』の結城昌治氏によれば、自殺した兵士や、敵前逃亡などの理由で処刑された兵士の遺族にも、年金、弔慰金が出るようになったのは、一昨年の十二月──それも、判決そのものについては不服申し立てをしないことが、年金支給の条件になっているという。
 また、結城氏があげている事例では、ある兵士は、実際には何で死んだか明確な証拠もないのに、ただ部隊が復員するさいに作った名簿に「刑死」と書かれているだけのことから、その遺族は、年金の請求を拒否されつづけてきている場合もあるとのことだ。
 私は、法律については素人である。しかし、これは不合理であると思わざるをえない。なにか大事なものを置き忘れているように思えてならないのだ。たしかに、法律の枠の中で考えるかぎり、この問題の解決はむずかしいかもしれない。結城氏が言うように「問題の根本は法律ではない。国民に対する国家の道義である」という、より根本的な観点からとらえるならば、結論は明確である。政府は、この観点に立って、一日も早くこの不合理な問題に対し、解決の方策を講ずべきであろう。
3  戦争は、時代全体にかかわる、一つの異常な極限状況をつくりだすものであるといってよい。さまざまな犯罪や愚行、蛮行を生む戦場の状態については、多くの記録や文学作品に描かれている。個人としては、善良であったはずの人間が、平然として残虐な行為を重ねる姿には、慄然とせざるをえない。反面では、心の底から「尽忠報国」を信じ、純粋な気持ちで死んでいった若者たちの記録も残されている。それが純粋であるだけに、彼らをそういう極限へ追い詰めた魔性のような力に、やりきれぬ怒りのようなものを感じる。
 また近ごろ明らかにされたような、敵前逃亡の事例や徴兵忌避のケースなどもある。社会全体が異常な状況下での価値観では、それらは絶対的な悪であり、卑怯であるとされやすい。本人も絶えず、出口のない不安な、脅かされた逃避行をつづけねばならない。残された家族には非難の声が集中する。以前、たしかにそういうテーマの小説が評判になったことがあった。それは「徴兵」という、国家の至上命令に逆らって逃げた青年の、戦中と戦後の姿を二重写しに描き、その汚名と心の傷の深さを抉り出すものであった。
 ふたたび、一片の赤紙や、素っ気ない軍刑法の文字で、人間を追い詰めるような事態を招いてはならない。そのためにも、個人の意志を抑圧し、野蛮の谷底に突き落とす戦争悪は、徹底的に清算されるべきである。
4  ところで、過去の戦争は特殊な例外であったとしてもいい。しかし現在の社会、ことに政治の状況にも、人間の尊厳を踏みにじり道義を無視するようなことが絶無であるとは、とうてい言いがたいのではなかろうか。現在の反体制運動や脱組織的な現象などは、そういう社会からの一種の「逃亡」の試みのようにさえ思われる。
 もちろん秩序や組織は、安易に否定されるべきものではあるまい。国家とか、体制とかを、一方的に絶対悪の象徴として糾弾し、否定しようとする考え方は、最近の著しい傾向といえよう。しかし、それは現実的ではないし、少なくとも民主主義にあっては、はなはだ無責任な態度であると思う。
 一面において、社会や体制そのもののなかに、とくに青年たちの期待を裏切り希望を失わせていく要因が、あまりにも多いことは事実である。だが、そのゆえにこそ、その矛盾した現実をいかに変革するかを忘れては、苦悩の解決もありえないのではないか、と私は言いたい。
 “現実”に無批判に埋没せよ、ということではまったくない。その逆に“現実”を批判しつつ、しかもそこから離れず、粘り強い改革をつづける主体性と意志とを持続してほしいと、私は思うのだ。
 先日の新聞紙上で、松田道雄氏が連合赤軍リンチ事件にふれて、革命とか、党とか、粛清とかに関する大人たちの考え方の責任ということを指摘されていたが、私も共感するところが多かった。
 既存の体制を、絶対悪として変革しようとする場合、往々にして、その目的の絶対化から、手段そのものまで絶対化されることがある。至上の目的のためにはいっさいが許されるというのが粛清の思想である。それは、究極的には核兵器の使用につながる危険な思想であると、松田氏は言っている。粛清は、悪であることをはっきり言うべきだというのである。
 ともかくも、革命運動が、最後には陰惨な人間無視、人間抹殺に堕していくほど悲しむべきことはあるまい。主義主張のために殉ずるということが、最も人間の尊厳の実現であるようにみえながら、じつは、最も非人間的な状況に陥る──そういう悲劇を繰り返してはならないのだ。
 私たちは、すべての発想の原点に、しっかりと「人間」の存在を凝視すべきである。その重みを、深く受け止めていけるような価値観を把握すべきである。形式的な論理のつじつまが合っていようと、壮大な体系で飾られていようと、どこかに「人間」を忘れ去っているような思想や運動に対して、私たちは眩惑されない眼をもたなければなるまい。

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