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日蓮大聖人・池田大作

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生の躍動  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  モスクワから伝えられたそのニュースは、新聞では、ほんの片隅の、小さく二段にたたまれた三十行ほどの記事として紹介されていたもので、古生代最後の二畳紀の海に繁殖した微生物が、長い間、カリ鉱石の結晶の中に閉じこめられ休眠していたが、試験管の中でふたたび活力を取り戻したというのである。
 二畳紀といえば、二億年以上も前だとされている。三葉虫や紡錘虫が大海を泳ぎ、陸地ではようやく爬虫類、両棲類が出現しはじめて、あの有名な恐竜時代の前ぶれとなった時代である。もちろん、人間はおろか、その祖先の類人猿の片影すら見られぬ太古の世代であることは言うまでもない。
 そのころ、おそらく現在のウラル山脈が海中にあったあたりに生息していた微生物が、ふとしたことから鉱石の中に閉じこめられ、そのまま二億年という長久の時を、静かな眠りのうちに過ごしたのであろう。
 かすかな赤い斑点のような、その小さき生命は、数知れぬ生命の盛衰、葛藤の歴史を超えて、今、眠りからさめたごとく、試験管の中で、旺盛な活力で増殖しつづけているという。
 私はその素朴な生命力の強靱さに驚嘆せざるをえなかった。鉱石の中の世界は、微生物にとっては、空気、熱、水、栄養など、生命をはぐくむいっさいの恩恵から遮断された非情の世界である。そこでは無生の存在のごとく眠りに入らざるをえなかったであろう。そして非情の鉱石は、この小さな生命の眠りを守る、恰好の安息所となったわけだ。もし現代の科学が試験管に取り出すようなことをしなければ、これから幾万幾億年、いや幾十億年と眠りつづけたかもしれない。しかし、その眠りは、ひとたび条件さえととのえば、溌剌と生気を漲らせ、確かな呼吸を開始する、発動性を内に秘めながらの安らぎであった。
 二十年前、二千年を経た芽から見事に花を咲かせた「大賀ハス」は、今、各地の研究室に分けられ、生長をつづけているという。これは植物の種子が強い発芽力を保ちつづける証拠として世界を賑せたニュースだったが、ハスの種子といい微生物といい、一見、生の輝きをまったく隠した無生の存在のようでありながら、生への強力な発条をもっているとは、一つの驚きであった。──生命の不思議について、こんな断片的な思いをめぐらせているうちに、あたりを包む夜の静寂さえ、なにか密かに息吹いているように感じられてならなかった。
3  ある学説によると、この広い大宇宙には、地球と同じような条件の星は数十億もあろうといわれる。したがって、地球人のような構造の生物も、存在するかもしれないと想像されている。
 そうした天体のなかに、人類と同程度あるいはそれ以上の知能をもった生物がいるであろうことも、現代天文学の進んだ眼は推察しているようだ。ただ、あまりにも離れすぎているために、互いの接触がないのであろう。そこでは、彼らも同じように生死の苦の深淵に悩み、また同族相食む闘争を繰り返しているのであろうか。それとも、生命の尊さにめざめ、緑したたる楽園を築いているであろうか。
 それはともかくとして、地球以上の過酷な環境のなかでも生命が発生する可能性さえ、科学者は予測している。たとえば、摂氏零下五十度ぐらいの低温の世界でも、アンモニアを水がわりにして生命活動を営むことがありうるとし、数百度の高温の世界でも、硫黄を水のかわりにして、シリコンのようなものが生命体を形成する可能性もあるというのである。
 シリコンといえば、岩石をつくる成分である。それが生命体をつくるとなると、もはやどのような頭脳の働きを示すものなのか、想像さえつかないが、われわれからみれば、とうてい生存不可能と思える、酷寒、灼熱の天体でも、強靭に生命を形成することが考えられているとすれば、生命の不可思議さに、あらためて脱帽せざるをえなくなる気持ちである。
 一昨年、果てしなき宇宙空間から飛来した隕石からは、地球のものとは明らかに異なるアミノ酸が発見されたという。地球以外にも生命のもととなるものが存在することを示した最初の証拠と注目された。真空に近い宇宙空間を、内に生への起動力をたたえたアミノ酸がただよっていることを想像すると、宇宙自体が、生命の萌芽をいたるところにいだいた、偉大な母胎であるような気さえしてくる。
4  フランスの哲学者ベルクソンはその著『創造的進化』で、全宇宙を進化の過程としてとらえる壮大な形而上学を打ち立てた。十代の終わりごろ、ベルクソンの哲学に惹かれた私の脳裏には、今も「エラン・ビタール(生の躍動)」という言葉がこびりついている。宇宙、生命の神秘を垣間見たベルクソンの魂の叫びであったろう。
 彼は『創造的進化』を書き終えたときの心境を、次のように述べている。
 「それまでは、数学と物理学に非常な興味をいだいていた。物質もまた一大神秘だと言いかねなかったことだろう。それ以後は違う。生命に注意を集中したとき、わたしは生命が大神秘であることが分かった」
 「生の哲学者」ベルクソンのこの感動を、現代人は謙虚に分かちもつ必要があると私は思う。生命、宇宙の神秘さに心を傾けることなく、いたずらに生を浪費することは、みずからに対する、また宇宙自然に対する叛逆ともなろう。
 宇宙人へのメッセージを積んだ木星探査機パイオニア10号が飛んでいるという。それがたとえ何百万年先のことであろうと、夢があっていい。天空を飾る星座は、それぞれの軌道を無表情に運動しているかのようでありながら、生々のリズムを刻んでいる。その宇宙と夜ごと対話し、生命の不可思議さ、その本源の深慮さを謙虚にみつめ思索する、余裕のある人生の姿勢をもちたい。そこに人間らしさというものを支える、見えない基盤があるのではあるまいか。

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