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日蓮大聖人・池田大作

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文学と自由  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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3  ソルジェニーツィン自身、あるインタビューのなかで、次のように言っている。
 「作品が余りにもアクチュアルで、作者が〈永遠の相の下に〉(sub specie aetenitatis)という点を見失う時、その作品はやがて死滅します。その反対に、永遠ということに多く
 の注意を向け、アクチュアリティをないがしろにすると、その作品は色彩、力、雰囲気といったものを失います。作者は常にスキュラとカリュブディスのあいだに立っていて、どちらか一方を忘れるということは許されないのです」(『新しいソビエトの文学』6――ソルジェニツィンとの一日、栗栖継訳、勁草書房)
 これは文学の特質について語った言葉であろう。文学というものは、人間の永遠の問題を、具体的な状況のなかに描くものであり、また逆に、特殊な状況の奥から、永遠の課題をとらえて浮き彫りにするものである──とソルジェニーツィンは主張しているのであると思われる。
 よく、現代文学は「不安の文学」であるといわれる。機械化され、極度に合理化された現代文明のなかで、人間は、互いに孤立し、生きる意味を失い、絶望している。現代的な状況を描く文学が、不安と絶望と頽廃を色濃く反映しているのは当然である──そういう主張がある。
 たしかに、現実の人生は、混沌としてみえる。しかし、それをそのまま直接に投射することだけが、文学の目的ではないだろうと私は思う。私たちが読んで感動をおぼえる文学作品というのは、どんな絶望的な内容を扱っていても、また、どれほど人生の虚妄や無意味さについて苛烈に告発していても、その底流からは、生きる意味を求め、発見しようとする希望が、切実に鳴り響いているものである。
 狭い考え方であるかもしれない。しかし私には、文学は、生への希望を語るものではないかという気がするのである。いや、文学や芸術にかぎったことではない。人間のあらゆる営み、生きるということ、生活それ自体が、現実のカオスに身を投じながら、そこにみずからの主体的な軌跡を切り拓いていく、価値創造の過程なのではあるまいか──。
 ソルジェニーツィンは、次のようにも言う。
 「社会が作家に不当な態度をとっても、わたしは大した間違いだとは思いませんね。それは作家にとっては試練になります。(中略)それは作家という職業の持つリスクなのです。作家の運命が楽なものになる時代は永久に来ないでしょう」(前出)
 ここには、自己の真実に向かって、またそのイメージをいだいて戦う作家の心がある。
 現在の社会主義諸国が作家、文化人に対してとっている政策の非は当然としても、人間性の核心から創造された真実の文学は、そのゆえに、絶えず現在の秩序と接触し、時には摩擦を起こし、抵抗を生じざるをえないであろう。してみれば、ソルジェニーツィンの生き方は、それ自体が一つのドラマであり、文学のもつ根源的な意味を担っているといえまいか。

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