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日蓮大聖人・池田大作

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文学と自由  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  つい最近の新聞報道によれば、ソ連やチェコ等の東欧社会主義国では知識人の受難が相次いでいるという。なかでも、一時開花した「自由化路線」を引き締めたチェコでは、その路線に関係した著名な知識人、作家、文化人の逮捕者が、ここ数カ月の間に、数百人に達したといわれる。
 これに対し、グレアム・グリーン、ギュンター・グラスなど、世界の作家、詩人の有志十八人がグループを結成して、その釈放のために運動する決議をしたもようである。
 政治と文学、政治と文化の関係のむずかしさをあらためて知らされた事件である。現代の直面する人間の課題と苦悩といったものが、その陰鬱な顔をのぞかせているといっても、過言ではあるまい。
 政治と文学といえば、現代において、その悲劇的な頂点に立つ作家に、ソ連のソルジェニーツィンがあげられよう。
 「眠りにおちるとき、シューホフはすっかり満足していた。一日の間に今日はたくさんいいことがあった。営倉にはいれられなかったし、班は『社・主団地』へやられなかったし、昼めしのときにカーシャを一杯せしめたし、班長は作業パーセント計算をうまく〆たし、シューホフは壁を楽しく積んだし、検査で鋸をみつけられなかったし、夕方はツェーザリでひと儲けしたし、タバコを買ったし。それから、病気にならずに直ってしまった。
 一日がすぎた。暗い影のちっともない、さいわいといっていい一日だった。
2  こんな日が彼の刑期の鐘から鐘まで三千六百五十三日あった。 閏年のお蔭で──三日おまけがついたのだ……」 言うまでもなくこれは、彼の傑作『イワン・デニーソヴィチの一日』(染谷茂訳、岩波書店)の、結末の一節である。彼はこの処女作で、スターリン支配下のソビエトの強制収容所での生活を、抑制された筆致でリアルに描き出した。それが読者の心を強くとらえて離さないのは、たんに、収容所の実態が生々しく描かれ、暴露されていたということではない。皮相な諷刺とか、政治的告発とかいう次元で、書かれているからでもない。むしろ、そういう特殊な環境を舞台に設定していながら、あくまで人間の──とりわけ現代人の普遍的な状況を、根源的に抉り出していたからにほかならない。
 以後、ソルジェニーツィンは『ガン病棟』『煉獄のなかで』等の作品を発表してきた。いずれも、現代という時代の問題を、深く内部から告発したものであった。しかし、これに対して、ソビエト政府は絶えざる抑圧をつづけているようである。作品の多くは国内での発表を禁止されたし、一九六九年にはソ連作家同盟を除名されている。
 昨年夏、パリの出版社から刊行された最新の大作『一九一四年八月』についても、ソ連側からは「反ソ的」であるとして非難されていると聞く。また最近の報道によれば、イスラエル移住をまえにしたソ連の知識人たちが、英紙「ザ・タイムズ」に共同で投書し、ソルジェニーツィン等に対する弾圧が、一段と強まっている事実を明らかにしたいという。
 これらの作品の主題や内容を、ごく表面的に受け取れば、それが「反ソ的」であるという批判も、まったく理由のないことではあるまい。だがそれは、あまりに偏狭な政治的な見方であると言わざるをえない。たとえ、あからさまに反ソ的、反国家的であったとしても、文学を権力で弾圧することは明らかに誤りである。それはかえって政府の威信をみずから落とすようなものでさえある。
 しかも、文学作品の主題や意図は、もっと突きつめたところで理解されるべきものである。
3  ソルジェニーツィン自身、あるインタビューのなかで、次のように言っている。
 「作品が余りにもアクチュアルで、作者が〈永遠の相の下に〉(sub specie aetenitatis)という点を見失う時、その作品はやがて死滅します。その反対に、永遠ということに多く
 の注意を向け、アクチュアリティをないがしろにすると、その作品は色彩、力、雰囲気といったものを失います。作者は常にスキュラとカリュブディスのあいだに立っていて、どちらか一方を忘れるということは許されないのです」(『新しいソビエトの文学』6――ソルジェニツィンとの一日、栗栖継訳、勁草書房)
 これは文学の特質について語った言葉であろう。文学というものは、人間の永遠の問題を、具体的な状況のなかに描くものであり、また逆に、特殊な状況の奥から、永遠の課題をとらえて浮き彫りにするものである──とソルジェニーツィンは主張しているのであると思われる。
 よく、現代文学は「不安の文学」であるといわれる。機械化され、極度に合理化された現代文明のなかで、人間は、互いに孤立し、生きる意味を失い、絶望している。現代的な状況を描く文学が、不安と絶望と頽廃を色濃く反映しているのは当然である──そういう主張がある。
 たしかに、現実の人生は、混沌としてみえる。しかし、それをそのまま直接に投射することだけが、文学の目的ではないだろうと私は思う。私たちが読んで感動をおぼえる文学作品というのは、どんな絶望的な内容を扱っていても、また、どれほど人生の虚妄や無意味さについて苛烈に告発していても、その底流からは、生きる意味を求め、発見しようとする希望が、切実に鳴り響いているものである。
 狭い考え方であるかもしれない。しかし私には、文学は、生への希望を語るものではないかという気がするのである。いや、文学や芸術にかぎったことではない。人間のあらゆる営み、生きるということ、生活それ自体が、現実のカオスに身を投じながら、そこにみずからの主体的な軌跡を切り拓いていく、価値創造の過程なのではあるまいか──。
 ソルジェニーツィンは、次のようにも言う。
 「社会が作家に不当な態度をとっても、わたしは大した間違いだとは思いませんね。それは作家にとっては試練になります。(中略)それは作家という職業の持つリスクなのです。作家の運命が楽なものになる時代は永久に来ないでしょう」(前出)
 ここには、自己の真実に向かって、またそのイメージをいだいて戦う作家の心がある。
 現在の社会主義諸国が作家、文化人に対してとっている政策の非は当然としても、人間性の核心から創造された真実の文学は、そのゆえに、絶えず現在の秩序と接触し、時には摩擦を起こし、抵抗を生じざるをえないであろう。してみれば、ソルジェニーツィンの生き方は、それ自体が一つのドラマであり、文学のもつ根源的な意味を担っているといえまいか。

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