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日蓮大聖人・池田大作

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米中対話の教訓  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  もちろん、これで米中の和解が成立したわけでは決してない。正常な国交が開かれたわけでもなく、米軍が、台湾や中国を取り巻くアジアから撤兵してしまったわけでもない。そうした難題解決への端緒に、やっとついたところである。むしろ、困難はこれからであり、むやみに過大に評価することは慎まねばならないだろう。
 しかし、それにしても、ベトナム和平のパリ会談と比較して、なんという違いであろうか。パリ会談は、回を重ねること百数十回。その果ては、現在では暗礁に乗り上げたも同然のようだ。それは、現実に戦争継続中であるという特殊事情、さらに数カ国の複雑な絡み合いといった、問題の性質にもよるのであろうが、最高首脳同士が話し合った場合とでは、その違いは歴然だ。
 あれほど課題とされていた、米中会談が実現してみれば、パリ会談にも最高首脳が出向いたら、というのは、素人の浅はかな知恵であろうか。
 それはともかく、米中会談はまさしく世紀の対話であったにちがいないが、対話そのものを取り出してみれば、われわれの周囲で日常行われているそれと、少しも異なるところはない。とすれば、米中会談は、生活の貴重な教訓をも示しているように思えるのである。
3  平凡なことではあるが、およそ対話を抜きにして人間生活は考えられない。否、今日のような殺伐とした時代にあっては、対話こそが、人間の人間に対する不信感を、信頼感に一変させ、あらゆる隔絶を埋める、救いの手段といってよい。
 その対話の不毛を、最近よく耳にする。家庭における家族間の問題から、地域社会、さらには国際社会におけるものまで、話し合いはもたれても、実を結ばないことがよくあるようだ。対話の場さえないときは──浅間山荘の連合赤軍のようになるのだろうが、そこまでいかなくとも、話が、空転を重ねていけば、結局は力で解決を、ということになりかねない。成田空港の建設などにみられた、あの不幸も同様である。
 その点、米中会談は、たしかに成功であった。その原因は何であったか。せんずるところ、両国首脳の、国家の代表としての責任感であり、何億という国民の生命を預かる指導者としての、共通感情ではなかったかと、私は思う。この会談を失敗に終わらせれば、ともに大きな悔いを後世に残すことになる──この責任感が、互いの共通感情になって、新たな希望の時代の幕を開いたとはいえないだろうか。時代の流れとはいえ、それが部分的な利害の対立を乗り越えさせたといえるだろう。
 利害、あるいは感情の対立はよくあることだ。そしてそれが、しばしば対話を決裂させる。それは結局、自己の立場に固執するところからくる破綻にほかならない。親子の断絶も、親は親、子は子として対峙しているかぎり、容易に乗り越えられるものではない。
 しかし、両方が、ひとたびともに家庭を構成する一員であるとの共通感情に立つならば、事態は意外にたやすく好転するはずである。その共通感情が、崇高なものであればあるほど、自分と異なる、さまざまな生き方を包容することができ、対話が実り多いものになることは言うまでもないだろう。
4  有名な話は、江戸城明け渡しのときの、官軍の西郷と、幕軍の勝との会談である。この対話も見事成功した。
 この話には、後世に美化された点もあるにちがいないが、それでも、西郷、勝会談は歴史に残る名対話であることは疑いない。二人の胸中に、巷間いわれているような、江戸市民の生命と生活を守る共通感情が、どの程度あったかは確言できない。しかし、少なくとも当時としては進歩的な、官軍、幕軍を超えた、同じ日本人という共通の意識があり、その観点からこの問題を解決しなければならないという自覚があったことだけは確かであろう。そして、その意識が、劇的な結果を生んだのであろう。
 してみると、今日における家庭の問題にしろ、国際問題にしろ、互いに、一段次元の高い共通感情に立つとき、対話の歯車は、豊かな結実に向かって回転を始めるのであろう。その共通感情を、どこまで高めうるか、人間生命という至尊の高みに達したとき、どれほど人間味あふれた潤いが、この社会にもたらされるであろうか。
 対話ということを、たんなる、言葉の交換に終わらせないための努力を、惜しんではなるまい。

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