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日蓮大聖人・池田大作

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一ジャーナリス卜の死  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  戦後、米中関係の悪化にともない、ジャーナリストの入国が困難になったときも、スノーは例外的な存在であった。中国にとっても、アメリカの新聞記者を歓迎するわけにはいかない、という建て前があった。周恩来はスノーに、例外を認めた理由として、記者としてではなく、著作家、歴史家として迎えたのだと語った。これに対してスノーは『今日の中国∧上∨――もう一つの世界』(松岡洋子訳、筑摩書房)のなかで「歴史家であろうと、著作家であろうと、特派員であろうと、それはどうでもよい。要は、見聞し、それを書くことである」と述べている。 見聞し、それを書くこと──当然といえば、これほど当然なことはない。だが、このわかりきったような、あたりまえのことが、実際にはきわめてむずかしいことなのである。
 観察ということは、事実をありのままにみるということである。それは、目さえあれば、だれにでも同じくみられることではないかと、一応はいえる。その、ありのままにみるということが、なかなか困難なのだ。自然現象の観察でさえ、それは容易でない。いわんや複雑な社会現象になると、そこには、観察の眼を曇らせたり歪めたりする要素が、あまりにも多く錯綜している場合が多い。 イデオロギーや党派的立場、あるいは国家の論理──観察者自体がそれを意識することもあろう。また、無意識のうちに、その見方に縛られていることも多いだろう。その場合には、観察者が既成の枠や先入観にとらわれているのだから、正しい観察というもの自体が存在しえないことになる。かつて中国革命の胎動期に中国にいたジャーナリストは、なにもスノーたちだけではなかった。多くの報道が行われていたはずである。彼らは先入観に拘束されて、事態の混沌を見通すことができなかったのであろう。
 しかしさらに、一歩掘り下げて考えてみたい。先入観なしの冷静な眼だけでは、真実の把握の消極的な条件を満たすにすぎないと、私には思われてならないのだ。矛盾した言い方になるかもしれないが、やはりそこには、浅薄な先入観とは違うが、より高次元の、一種の史観ともいうようなものが不可欠ではないだろうか。歴史を巨視的にみる活眼は、このような史観から生まれるように思える。
 私は、ことさらむずかしいことを言うつもりはない。史観について、哲学的な分析を試みる必要もないと思う。私は、ここでただ、それは深い人間としての共感から出発するものであることを、指摘しておきたいのである。スノーの場合も、中共軍を暴虐な「匪賊」とする風説に反して、真実探究に駆り立てたものは、素朴な人間としての共通性、同質性に立った疑問であった。そのうえで、どこが異質であるかを見極めているところに、対象への理解が成立しているようだ。
 現在の社会では過剰なくらいの観察、見聞が行われている。しかし反面、一つの対象にじっくり取り組み、持続的にみるということが、少なくなってはいないだろうか。一つのことに、かまけてはいられないほど、事件も話題も次々と移ろっていくからなのだろうか。それとも、透徹してみつづけるエネルギーが、もはや枯渇してしまっているのであろうか。 スノーの死──それは、時代の混沌期を不屈に凝視し、真実を求めつづけた人間の死であった、といったら誇張だろうか。

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