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日蓮大聖人・池田大作

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一ジャーナリス卜の死  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  『中国の赤い星』(松岡洋子訳、筑摩書房)などのすぐれたルポルタージュで著名なジャーナリスト、エドガー・スノーが死んだ。六十六歳であった。ニクソン訪中にさいして随行する予定であったが、ほとんどそれを目前にして逝ったのである。スノー個人にとってはもとより、アメリカのためにも、中国のためにも、惜しまれてならない。
 彼はアグネス・スメドレーなどと同じく、数少ない、しかし強力な中国理解者であったと思う。彼がルポルタージュのなかで洞察し予見したことは、今では世界の常識になっているが、当時においては異端の少数意見であったにちがいない。しかし彼は中国に賭け、その報道に生涯を賭けた。ジャーナリストとしては稀有の、充実した仕事に恵まれた一生であったといっていいだろう。
 彼が初めて中国に入ったのは、一九二八年、二十二歳の時であった。以来、新聞の特派員として滞在した。一九三五年の暮れ、燕京大学の学生が北京で街頭デモを行い、それは全国的な抗日運動の端緒になった。『目ざめへの旅』(松岡洋子訳、筑摩書房)での回想によれば、そのデモの計画が練られたのは、スノーの家の応接間であったという。そのとき、彼は妻に語った。──「愛している女性が凌辱されるのを黙って見ているわけにはいかないからね。そして北京はじつに好ましい老齢の女性だからな」。
 おそらくスノーにとって生涯の決定的瞬間であったにちがいない。たんなる一事件記者の制約を踏み越えて深く中国にかかわり、その生涯を賭ける契機になったのだった。そして一九三六年、彼は辛酸の旅路を重ねながら延安へ到着し、そこで毛沢東、周恩来、朱徳ら中国共産党の指導者たちと会った。外国人として最初のソビエト区入りであった。
 その旅の出発にあたり、未来に横たわるものに激しく興奮していた彼は、自分がルビコンを渡ったことを意識した、と記している。当時、ソビエト地区は謎に包まれていた。宣伝と逆宣伝とが入り乱れ、諸説は紛々としていた。中国ソビエトは「紅匪」と呼ばれてさえいたのである。スノーはそこに「相争う二者間に展開された武装闘争」を見たが、しかし、それ以上に、絶対悪といったものとは考えなかった。彼は、事実をその眼で知りたいと考えた。
 この旅には危険があった。だが、真相を知ろうとするやむにやまれぬ情熱を妨げることはできなかった。彼は述べている。──国共戦争の数年間に数千の生命が犠牲に供されたのだ。この真相を発見しようとする努力は、一外人の首を賭けるに足るものではないだろうか。問題の首には執着があったのだが、真相を知るために、それだけの値段を払っても高くはないと結論した。「この芝居がかった気持ちのうちに私は出発した」と彼は書いている。
 これはそのまま、彼の偽らざる実感であったと受け取ってよいと思う。こうして書かれた『中国の赤い星』は文字どおり世界中の関心を呼び起こした。彼自身は共産主義者ではなかった。しかし一人の人間としての率直な共感が、このルポルタージュには隅々にまで漲っているように思われる。彼が、あくまで客観的な事件報道者としての眼を保ちながら、同時に、表面的な観察眼によっては歪んでしまう恐れのある対象を、生きいきと描き出せた理由も、そこにあったにちがいない。
2  戦後、米中関係の悪化にともない、ジャーナリストの入国が困難になったときも、スノーは例外的な存在であった。中国にとっても、アメリカの新聞記者を歓迎するわけにはいかない、という建て前があった。周恩来はスノーに、例外を認めた理由として、記者としてではなく、著作家、歴史家として迎えたのだと語った。これに対してスノーは『今日の中国∧上∨――もう一つの世界』(松岡洋子訳、筑摩書房)のなかで「歴史家であろうと、著作家であろうと、特派員であろうと、それはどうでもよい。要は、見聞し、それを書くことである」と述べている。 見聞し、それを書くこと──当然といえば、これほど当然なことはない。だが、このわかりきったような、あたりまえのことが、実際にはきわめてむずかしいことなのである。
 観察ということは、事実をありのままにみるということである。それは、目さえあれば、だれにでも同じくみられることではないかと、一応はいえる。その、ありのままにみるということが、なかなか困難なのだ。自然現象の観察でさえ、それは容易でない。いわんや複雑な社会現象になると、そこには、観察の眼を曇らせたり歪めたりする要素が、あまりにも多く錯綜している場合が多い。 イデオロギーや党派的立場、あるいは国家の論理──観察者自体がそれを意識することもあろう。また、無意識のうちに、その見方に縛られていることも多いだろう。その場合には、観察者が既成の枠や先入観にとらわれているのだから、正しい観察というもの自体が存在しえないことになる。かつて中国革命の胎動期に中国にいたジャーナリストは、なにもスノーたちだけではなかった。多くの報道が行われていたはずである。彼らは先入観に拘束されて、事態の混沌を見通すことができなかったのであろう。
 しかしさらに、一歩掘り下げて考えてみたい。先入観なしの冷静な眼だけでは、真実の把握の消極的な条件を満たすにすぎないと、私には思われてならないのだ。矛盾した言い方になるかもしれないが、やはりそこには、浅薄な先入観とは違うが、より高次元の、一種の史観ともいうようなものが不可欠ではないだろうか。歴史を巨視的にみる活眼は、このような史観から生まれるように思える。
 私は、ことさらむずかしいことを言うつもりはない。史観について、哲学的な分析を試みる必要もないと思う。私は、ここでただ、それは深い人間としての共感から出発するものであることを、指摘しておきたいのである。スノーの場合も、中共軍を暴虐な「匪賊」とする風説に反して、真実探究に駆り立てたものは、素朴な人間としての共通性、同質性に立った疑問であった。そのうえで、どこが異質であるかを見極めているところに、対象への理解が成立しているようだ。
 現在の社会では過剰なくらいの観察、見聞が行われている。しかし反面、一つの対象にじっくり取り組み、持続的にみるということが、少なくなってはいないだろうか。一つのことに、かまけてはいられないほど、事件も話題も次々と移ろっていくからなのだろうか。それとも、透徹してみつづけるエネルギーが、もはや枯渇してしまっているのであろうか。 スノーの死──それは、時代の混沌期を不屈に凝視し、真実を求めつづけた人間の死であった、といったら誇張だろうか。

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