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日蓮大聖人・池田大作

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冬季オリンピックに想う  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
3  人間が、その関係性によって価値観をつくるのは当たり前のことといえる。国内競技では、全部が日本人であるがゆえに、国の意識は生まれない。それよりも、個人の親しさの度合いが声援の動機となる。
 ところが、それが国際試合となると、国の意識が表に出てくるというのは、それをなによりも示している。
 したがって、今、大事なことは、人間の持ち合わせている、身内の感情そのものを否定することではなく、その身内の感情を、いかに正しい価値観のもとに、方向づけるかということではあるまいか。
 言い換えれば、偏狭なナショナリズムに陥らず、世界平和の連帯を築くために、いかなる関係をつくっていくかである。その関係というものは、一人一人に、民族よりも、まず人類ということが、より身内の意識に実感できる状況をつくることであろう。
 しかし、冷静に考えてみるならば、現代文明のおかれている状況は、一人一人の人間が、人類全体に対し、身内の感情をもたなければならないような事態を、数多く生んでいる。核、公害、精神の荒廃……。要するに、これらの一つ一つの難問を通し、互いが、いかに粘り強く、人類ということを真に自分のものとする意識の変革、価値観の変革を行うかにかかっているであろう。
 かつては、体制の変革、とくに社会主義革命が、そうした民族意識の超克を可能にするものと信じられ、期待もされてきた。しかし、最近の中ソ対立などをみると、そうした社会主義革命を成就した社会にあっても、民族の断絶を埋めることはできないかのようである。
 ここには、理論やイデオロギー、さらには、ユートピアの設定等では、支配することのできない、人間の感情という問題がある。これを無視しては、いかに高邁な理論も、机上の空論と化すほかはあるまい。
 人間の本能としてそなわっている同族意識を、いかに、全人類という、全体観に立ったところへ変革し止揚するか──それには、理性や理論以外の何ものか、つまり生命という次元からの変革と、それにもとづいた価値観の樹立が必要であることだけは、どうやら確かなようである。

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