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日蓮大聖人・池田大作

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冬季オリンピックに想う  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  雪と氷の若人の祭典、札幌冬季オリンピックが華やかに終わった。
 なかでも、日本選手が金・銀・銅メダルを独占した七十メートル級ジャンプは圧巻だった。久しぶりの、明るいニュースといってよい。
 私もテレビで観戦したが、有望な日本選手の出場となると、やはり力が入る。とくに、その選手と知り合いでもないし、国内の大会ではことさら応援するわけでもないのだが──国際競技の桧舞台に立つと、なにか身内のように感じられて、ぜひ勝たせたいという思いにかられる。おそらく、日本中のだれもが同じ心境であったことだろう。
 こうした感情は、各国共通のようだ。たとえば、札幌五輪の台風の目となったアマチュア資格の問題で、失格とされた選手に対するその国の人たちの声援は、たいへんなものであったという。
 つい先日の新聞には、そのオーストリアのスキー選手がひとり帰国したとき、空港には、文部大臣が出迎え、首相官邸までパレードが行われたと報じられていた。しかも、官邸前には、霧雨にもかかわらず、約一万人の市民が集まり、保守系野党のなかには、彼の犠牲的行為に対し、勲章を授けるべきだとの声さえあったそうだ。その姿は、まるで「勝利の凱旋」である。
 こうした、一種特異な熱い感情は、いったいどこからくるのであろうか。言うまでもなく、同じ日本人である、オーストリア人である──という同族意識、国を同じくする共同体意識が、そうした感情を沸きたたせるにちがいない。とすると、人類は、人種、民族の相違を超えて、すべて同胞だ、とはいっても、そこにはおのずから親族の意識があり、差別感があることも認めざるをえない。
 これがいいか、悪いかは、さまざまな見方が成り立つであろう。事実、国の威信と名誉をかけて相争うような現在のオリンピックは、よくないという意見もみられる。たとえば、国旗や国歌はやめて、国家と国家が競争するような体制は改めるべきだ、との声も、ちらほら聞こえてくる。
 しかし、国の期待を一身に集めて戦い、その活躍に熱狂的な声援を送っていることに、そんなに神経をとがらせる必要もあるまい。それは、学校の運動会で、わが子の活躍に目を細める親の気持ちと、さほど変わらないからである。
2  人間の情とは、面白いもので、いかにすぐれたことであったとしても、自分からほど遠いと思われることには、あまり関心がもてない。それで、自分に直接かかわりをもつものに、いきおい愛着を感ずるようになる。まず他人より自己、自己の家庭、自分の郷土、自分の国家といったものが、身近に実感できるものと映ってくる。庶民のもっているナショナリズムには、一種のそうした人間の感情の摂理というものが働いているようだ。
 だからといって、その庶民の感情の母体となるナショナリズムを、上から必要以上に鼓吹することは、断じて戒めるべきであろう。過熱したナショナリズムが、どのような惨禍と不幸をもたらしたか、私自身、戦争で肉親を失い、家を失っただけに、肌身に感ずるものがある。また今日、世界の平和的連帯を妨げている非情な壁の最大のものの一つが、偏狭なナショナリズムであることは常識となっている。
 だが、現代の若者たちをみると、ナショナリズムといっても、一昔前ほどには、強い規制力をもっていないようだ。「国のため」という国家意識が非常に稀薄になっているからである。
 これは、既成の価値を認めない、若い世代の、一種の体制不信のあらわれであろうが、この方向は、きわめて健全なものと私は思う。
 オリンピックなどで国の意識が出てくるのは、ごく自然のものであって、決して暗いナショナリズムなどではなかろう。たまたま、世界的規模において、各国の代表が出場してくるため、人間一人一人に、本然的に持ち合わせている身内の意識が生まれているだけである。
 その証拠に、なんでも自国選手ばかりに声援を送るのでなく、外国選手であっても、素晴らしい競技に対しては、おのずから賛嘆や声援が出てくるのである。だから、これをもって、世界の平和的連帯への前途に対し、悲観的になる必要もないだろう。
3  人間が、その関係性によって価値観をつくるのは当たり前のことといえる。国内競技では、全部が日本人であるがゆえに、国の意識は生まれない。それよりも、個人の親しさの度合いが声援の動機となる。
 ところが、それが国際試合となると、国の意識が表に出てくるというのは、それをなによりも示している。
 したがって、今、大事なことは、人間の持ち合わせている、身内の感情そのものを否定することではなく、その身内の感情を、いかに正しい価値観のもとに、方向づけるかということではあるまいか。
 言い換えれば、偏狭なナショナリズムに陥らず、世界平和の連帯を築くために、いかなる関係をつくっていくかである。その関係というものは、一人一人に、民族よりも、まず人類ということが、より身内の意識に実感できる状況をつくることであろう。
 しかし、冷静に考えてみるならば、現代文明のおかれている状況は、一人一人の人間が、人類全体に対し、身内の感情をもたなければならないような事態を、数多く生んでいる。核、公害、精神の荒廃……。要するに、これらの一つ一つの難問を通し、互いが、いかに粘り強く、人類ということを真に自分のものとする意識の変革、価値観の変革を行うかにかかっているであろう。
 かつては、体制の変革、とくに社会主義革命が、そうした民族意識の超克を可能にするものと信じられ、期待もされてきた。しかし、最近の中ソ対立などをみると、そうした社会主義革命を成就した社会にあっても、民族の断絶を埋めることはできないかのようである。
 ここには、理論やイデオロギー、さらには、ユートピアの設定等では、支配することのできない、人間の感情という問題がある。これを無視しては、いかに高邁な理論も、机上の空論と化すほかはあるまい。
 人間の本能としてそなわっている同族意識を、いかに、全人類という、全体観に立ったところへ変革し止揚するか──それには、理性や理論以外の何ものか、つまり生命という次元からの変革と、それにもとづいた価値観の樹立が必要であることだけは、どうやら確かなようである。

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