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日蓮大聖人・池田大作

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孤独の二十八年  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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2  現代のロビンソン・クルーソーともいうべき横井さんにとってこの二十八年は、どのような時間の流れであったのか。──それは、目まぐるしい情報社会に生きる人々には想像を絶するものである。もちろん、見方によってはそうした極限状況というものも、現実には平穏な、また充実した日々でありえたかもしれない。喧騒に囲まれた現代人の眼に、その自然の生活がかえってなにかユートピア的なものに映るのも、あながち理由のないことではないようだ。しかしこれは、脱文明、脱都会の夢を託した想像の物語ではない。あらゆる憶測、忖度を超え厳存する事実である。
 このニュースがひきおこした異常な衝撃は、なによりも一人の人間が、生存の極限的な状況を、まさに日常的現実として生きたという事実そのものから発する、ある隔絶感によるものであると思える。
 しかし、さらに考えてみれば、状況の違いこそあれ、孤絶を強いられた生存の例は、現代の文明社会のなかにも、決してないわけではない。無実の罪のために忌まわしい被告の座に立たされ、半生、時には一生を空しく費やしてしまった人もあれば、不治の難病のゆえに楽しかるべき青春を奪われ、生涯を廃人同様に病床に拘束されて過ごさねばならなかった人も少なくはない。また、生存と利害の葛藤の激しい社会からはじきだされたり、温かな人間的感触の手応えのない、冷たい人間関係のなかで、生きる支えを失い、みずから死を選ぶ人もある。
 孤絶は、かならずしも原始自然のなかばかりではない。否、文明のなかの孤独地獄は、周囲の繁栄と対比して、いっそう深刻であるともいえるのではあるまいか。そうした状況のなかで生きる人にとって、現在の社会は、恐るべきジャングルとも映じるであろう。それを、悲しい宿命とか現代文明の必然とかいって、すましておくことはできないのだ。
 年に四万人もの日本人が訪れるグアム島──そこに孤絶の二十八年を生きた横井さんは、楽園に憧れる若者たちと交差しながら、今、祖国へ帰還しようとしている。そこで何を見、何を感ずることになるであろうか。長い孤絶から抜け出して、またもう一つの孤絶を見いだすというようなことがあっては、断じてならない。
 世間の好奇心やマスコミなどは移ろいやすいものである。いたずらに騒ぎたてることは慎みたい。ただ、すでに老境に近い横井さんの、残された生涯の時間が、少しでも意義ある、充実したものであることを、私は心から祈らずにはいられない。

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